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杜子春について!!
レポートをまとめているのですが 著者の芥川龍之介さんは 何を伝えたかったのでしょうか? 個人の考えでもよいので 教えてください
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漫画【天地を喰らう】にも採用されてるアレですね。 前田利家が晩年述懐しているように、 【上り調子の頃は誰でも友達面して自分の所に擦り寄ってくるものだが、 一旦落ち目になると蜘蛛の子を散らすように人は離れていく。 落ち目の時にも付き合いが出来る人間こそ本当の友である】 という人間観の教訓と、 (※:この内容は【花の慶次】に採用されてます。原作の【一夢庵風流記】には無いですが) 【親兄弟の苦境から目を背けてまで我慾を満たすのは人の心を捨てた輩だ】 という倫理観の教訓が盛り込まれていますね。
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中国の原作と比較すると、芥川龍之介氏の意図はより明瞭になると思われます。原作は、No.1 の回答のurlのページに記載されています。 芥川氏の作品は、ほぼ原作に忠実に進みますが、最後がほんのちょっとだけ違います。そしてそのちょっとの違いが、全体の結論を180度違うものにしています。 芥川氏は、この原作を見てどうしてもそう変えたくてたまらなかったのではないかと思います。
- hitoyana
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洛陽にもどった杜子春が鉄冠子に「何よりも人間らしい暮らしがしたと存じます」と語ったかと思います。これがテーマではないかと思います。 そしてここにいたるまでのすべてが人間らしくない暮らしとはどういうものなのかを語っていると言う読み方でどうでしょうか。 人間らしい営みがあってこそ、桃の花も満開になるのだと。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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杜子春は前世においても、今生同様、並みの人間であった。 然(しか)るが故に、前世でも今生と同じく、だらしなくも仙人の道を挫折している。 兄弟子たる鉄冠子は、杜子春の行く末を案じ、一定の予定の筋ドラマを取り運んだ。 常人に過ぎない杜子春の希な邂逅と心と生活の落ち着きの獲得は、兄弟子の思いやりである。 所詮、常人の心と人生の内容とはそんなものであることを、認識させ、常人としての生きる、落ち着きを示している。 仙人の修行の試練としての山頂の事件は、落とす試験であって、兄弟子は決して杜子春をもう一度仙人の修行をさせる積りもまったくなかった。 鉄冠子には杜子春とはそういう人間であることがよくよく理解されていた。 先の、前世での修行において、少しでも資質がある杜子春であれば、兄弟子の筋ドラマは異なるものとなり、杜子春は残してきた仙人の修行を再開していったろう。 こういう話は、インドにもいくつかあります。 20世紀になって、欧米の科学者がインドの雑踏の中で、あるヒマラヤの聖者に遭遇し、ヒマラヤの聖者の実態について知ることができた。 その報告もあります。 19世紀にある聖者(Lahiri Mahasaya)が、この地上に生まれてきて、前世の師、Mavatar Babajiとの邂逅を果たしたことなど。 誰しも多くの方に、この今生で出会っているが、それやこれやのことは、前世のことを根因としていることが多いのである。 そういうことを天才の芥川龍之介が理解していたかどうかは、わからないが、結果として如上のことを叙述する内容となっている。 彼自身は、意識としては、面白い伝承を編集しなおしただけであろう。 多分前世や今生、そして仙人という者の存在さえも本当には考えてはいなかったのではないか。 アグニュの何とかの作品もあるが、彼のアグニュということばは、実は違うものであるが、あぁいう事件の真実性は彼にはわからなくても、天才は、それを作品にして、後世に伝えているのである。
- makosei
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仙人になるには親子の情を断ち切らなくてはならない。 ベムたちは人間になれなかった妖怪人間であるが、 杜子春は仙人になれなかった浪費人間なのだ。
お礼
みなさん 参考になる意見 ありがとうございました!! おかげ様で レポート 期限までに終わりそうです。