(1)日本三景の一つ松島を含む歌枕を探訪する旅であり、敬愛する西行の足跡を尋ねる旅であったこと。
(2)全国に蕉門の弟子が増えて行く中で、この地方を巡って逗留先で俳諧の座を設けていること。全国に広がりつつある蕉門の弟子が逆に芭蕉のスポンサーとなっていたと考えられる。つまり地方の弟子が孫弟子を抱え、その教化の為に芭蕉の来訪を期待していたこと。
(3)曽良に旅の記録を書かせ、紀行文を創作するつもりであったこと。『奥の細道』は曽良の随行記やその創作課程に於いて綿密な計算と物語性を持っていることで、蕉門のテクストとしての効果が考えられる。
(4)不規則な宿泊や時としての強行または記事の偏りなど芭蕉隠密説を唱える邪道の輩があるが、主君蝉吟との交渉やその生い立ちに於いては隠密説は全くのナンセンスで、芭蕉持病の痔疾による不規則性と考えられる。
(5)杉風が蕉門十哲の中でも魚問屋を営む大店の主人で、江戸での芭蕉のスポンサーであった。それが芭蕉の旅に影響しているとも充分考えられる。(2)とも共通かも知れないが、その他江戸との通商をもつ蕉門の弟子達の連絡網、情報網に乗って芭蕉は行動していると言えること。
(6)その中で生業を持たず、若い曽良が芭蕉の伴として適任と江戸のスポンサーでもある蕉門の弟子に認められるての旅であったと思われること。
(7)芭蕉は曽良と共に僧形で旅をしている。これは二つのメリットがあった。一つには路銀が絶えても僧形であれば宿泊も可能であったこと。伊勢参りが神の加護を賜っているとして無銭での旅行も可能であったのと同様である。また、隠居・出家は人別帳から除かれ、旅が容易であったこと。関所等の難もこれによって除かれることになる。それは六部や虚無僧が時として禁じられたりまた隠密として活動していたことの証左である。
以上、嘗て大学で故鈴木亨先生にご教示いただいた一部分です。
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ありがとうございました。