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真宗では妙好人は異端
真宗では妙好人は異端とされている節も有るそうですが何故ですか?
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- 馬鹿 禿(@baka-hage)
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また少しお話させていただきます。 >>知的水準の高い人から見れば妙好人の信仰は頼りなく感じたようですね。 私に言わせればそんなことはないんですけどね。親鸞聖人の師である法然上人は 「学生骨になりて、念仏やうしなわんずらん」 と説いて、知識をつけることに重きを置くと人は結局念仏しなくなると厳しく誡められています。浄土教において大切なのは知識を付けることではなくお念仏を称えさせていただくことにあります。 親鸞聖人も『歎異抄』十二条のなかでこのような問題についてずいぶん言及しておられます。その中には、 「一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。」 と説いて、阿弥陀様のお救いは仏教の知識のあるかないかなど関係なく、誰でもできるお念仏にあるからこそ、龍樹菩薩は「易行」と名づけられたと説かれます。ですから、「易行」とは「安易で簡単な行」ということではなく、浄土真宗に限らず日本の浄土教という大きなくくりから見ても「知識のあるなしは関係なく、全ての人に出来て、全ての人を救うことができる行」という意味でとられられます。 私は現在の「近代教学」という真宗教学の内在的問題はここにあると思っています。それに対し、妙好人の方々はお念仏を称えることで確固たる信心を得ていた方々であり、私のような知識かぶれよりも浄土真宗の教えをよく理解している方々であると考えています。 >>真宗とは全てを任せる(頂く)事だと思うのですが、苦が来たら苦を頂く、楽が来たら楽を頂く、そういう心境になれば信仰を得たと成るのだと思うのですが、成らないから困る。 全てを任せるという心境になるのにはどうすればいいのでしょうね? これは、浄土真宗の人間観である「凡夫」ということに関する質問であると思います。親鸞聖人が最晩年に記されたとされる愚禿悲歎述懐の御和讃のなかで 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし」 と述べておられます。阿弥陀様の御本願を信じ浄土の真(まこと)の教えに帰依したとしても、自分のなかに裏表のない真実の心が生まれるわけでもなく、嘘偽りの私の中に煩悩の穢れのない心などはなおの事ありえない、と説かれます。つまり、浄土真宗に帰入したところで、この娑婆においては凡夫が凡夫であることには変わりないということです。しかし、だからこそ阿弥陀様の御本願に身を任せずにはおれないのです。 それは『歎異抄』第九条に親鸞聖人のお心が述べられています。一部を抜粋しますと、 「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。―(中略)―踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。」 とおしゃって、よくよく考えてみますと「往生できる」ことは喜ぶできことですが、喜べないからこそ往生は定まっていると説かれます。その理由としては、自力で煩悩を消すことが出来ない凡夫を救わんがために阿弥陀様は四十八願を起こし浄土を建立してくださったのですから、往生を喜んだり急いで死んで往生したいなんて考えがあるほうが「自分に煩悩がないんじゃないか?」と変に思うでしょうと説かれています。 onoma52maさんの「苦が来たら苦を頂く、楽が来たら楽を頂く、そういう心境になれば信仰を得たと成るのだと思うのですが、成らないから困る。」とうのは、確か私もいつもそれで困ってますねぇ。けれども、それが出来ないからこそ阿弥陀様がいてくださるのです。それが出来たら煩悩がないってことですから変ですね。 「全てを任せるという心境になるのにはどうすればいいのでしょうね?」さてどうすればいいんでしょう?妙好人達が愛した「節談」にはこんなこんなお話があります。 「どうしたらは自力の心じゃ。んじゃ、どうしたらは自力の心ならば、そのどうしたらはどうしたら消えますか?と聞くやつがおる。けれども、墨のついた顔を墨水で洗えば余計黒くなるように、どうしたらをどうしたらで消そうとすれば余計にお救いから遠ざかる」 と説かれます。つまりは、「苦が来たら苦を頂く、楽が来たら楽を頂く、そういう心境になれば信仰を得たと成るのだと思う」そんな心境に慣れるなら、浄土真宗なんていらないし阿弥陀様なんて必要ないです。確かにそんな境地になれればかっこいいですねぇ。けれども、浄土真宗はかっこよくなるための教えではないんです。かっこ悪いまんま阿弥陀様に抱かれていく教えなんです。再び「節談」の言葉を借りますれば、 「苦しまないんじゃない。苦しみながらも、阿弥陀様といつでも二人連れの喜びをもって生かさせていただくのが浄土真宗のみ教えでございます。」 またここからは余談ですが、「苦が来たら苦を頂く」この苦をいただくというのは阿弥陀様の他力ではありません。阿弥陀様は私たちに「苦」を与えることなどない「抜苦与楽」の仏様です。では、なぜ私達は苦を受けるのか?それは仏教全体の大原則である「自業自得」という自分のまいた種が花開いているに過ぎません。このことを伝えるエピソードとしては、法然上人はあるとき風邪をこじらせたことがあるそうです。そのとき法然上人は 「われらが悪業深重なるを滅して極楽に往生する程の大事すら遂げさせ給う。ましてこの世にいか程ならぬ命を延べ、病を助くる力ましまさざらんや。」 とおっしゃって、我々のような悪業をやめられない愚かなものを極楽に往生させる大事をなした阿弥陀様ですから、この世においては自分の罪の深さに自業自得の理からみてもいつ尽きるとも知れない命を永らえさせて、病を軽くしてくださる力をお持ちでしょうと説かれています。つまり、「悪を受ける」のは自分自身のせいであり、阿弥陀様はいつでもそれを軽くしてやろうとがんばってくださっているということです。そんな人がいてくれると思うと、なんか嬉しいですね。 また、余談も長くなってしまいましたが回答になっていたでしょうか。急ごしらえの文章ですので誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
こんにちは。誰がどのようにおっしゃったかということではありませんが、心当たりがあるので少しだけお話させていただきます。 まずは、何を異端とするかですが浄土真宗というより日本浄土教自体も、先に回答されている方もいらっしゃいますが仏教の中では異端と見られることもありますね。 ただ、「菩提心」「仏性」というものを説く仏教が正統な仏教のように見られるけれども、「菩提心があるから人は輪廻する」「仏性があるから人は輪廻する」という主張が生まれてくるように、「菩提心」や「仏性」は仏教が否定すべき「アートマン」と同じような意味で使われてしまっています。それに対して、浄土教においては「仏性」や「菩提心」を必要としない救いが説かれているのは、「アートマン否定」という正統な仏教への回帰ということがいえると、主張される方もいらっしゃいます。 つまり、「何をもって正統と異端と分けるか?」という、物差しが今回の論題かと思います。 >>真宗では妙好人は異端とされている節も有るそうですが何故ですか? こういった考え方は、浄土真宗内において「近代教学」というものがうたわれるようになってからのことかと思います。司馬遼太郎氏は浄土真宗の近代近代教学の基礎を作ったといえる清沢満之(きよさわまんし)氏について、私も記憶は朧で言葉が正確ではありませんが「清沢満之は北陸地方などでお他力様と呼ばれていただけの親鸞を『歎異抄』という書物を世に出すことで現代の哲学者や思想家などが必ず触れる人物にまで育て上げた。」と評しています。この言葉からは妙好人を異端とする立場を上手にあらわしていると思います。 近代教学は西洋哲学的な研究の立場の影響を受けて、「伝承」や「伝説」よりも「教学」というものを重視していきます。それに対して、妙好人たちは確かに「教学」というものも大切にしていきますが、「伝承」や「伝説」というものも大切にしていきます。 有名なお話で「あるとき親鸞聖人がお説教に訪問したお宅で焼いたフナを振舞われたとき、親鸞聖人は涙を流し袈裟を掛けてお念仏なさり放流したところ、フナは生き返って泳ぎだしたという」お話がありますが、これも近代教学においては事実ではないと否定されるでしょうが、妙好人たちにとっては事実かどうかはさておいて親鸞聖人のお慈悲の心とお念仏のありがたさを伝えた物語といただくでしょう。ですから、近代教学のような立場から見れば、妙好人たちの姿は学問を知らない者のよまよいごとと映ったのでしょう。 これを踏まえて、さきの司馬遼太郎氏の言葉を考えて見ますと「北陸地方などでお他力様と呼ばれていただけの親鸞」これは妙好人たちのことを言うのでしょう。そして、「親鸞を『歎異抄』という書物を世に出すことで現代の哲学者や思想家などが必ず触れる人物」というのが正統の浄土真宗ということになるのでしょう。司馬遼太郎氏でさえ、「お他力様と呼ばれる親鸞聖人」よりも「哲学者や思想家がリスペクトする親鸞聖人」のほうが上であると評価しているように感じます。 このような近代教学の立場がメジャーになったことで、妙好人たちを異端とする立場が生まれてきのではないかと推察します。 また余談ですが、そういった批判は、妙好人たちを育てたといわれる「節談」という浄土真宗に残る古典のお説教にまで至ります。「節談」とは仏教大学の関山和夫氏によれば「ことばに節(抑揚)をつけ、洗練された美声とゼスチャーをもって演技的表現をとりながら、聴衆の感覚に訴える詩的・劇的な情念の説教をいう」と定義づけられていますが、こういった「一文不知のともがら」に学問の知識ではなく情緒的に心に訴えかけるお説教は、教学理論を説き知識を得させるお説教をよしとする近代教学側から「乞食節」や「腐ったタイにハエがたかっているようなものだ」と批判されました。しかし、近代教学が残した講義形式の現代の布教が「理が勝ちすぎて法義・安心を充分に伝えられていない」とされ、聴聞者の感性に情緒的に訴える「節談」が再び脚光を浴びつつあります。 私は「近代教学」を否定しようというわけではありません。しかし、「近代教学」だけになってしまっても、親鸞聖人が伝えようとして下さったものの半分しか味わっていないような気もします。お釈迦様のお説教も『十二分教』というお経なかで「因縁」「比喩」などを説いて、理論に偏ることなく「物語」をもって仏教をお伝えしておられたと説かれています。つまり、ありきたりな答えですが、両方立場が必要ということですね。 余談が長くなってしまいましたね。急ごしらえの文章ですので誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。参考にしていただければ幸いです。 合掌 南無阿弥陀佛
お礼
御回答有り難うございます。 知的水準の高い人から見れば妙好人の信仰は頼りなく感じたようですね。 baka-hageさん少しお聞きしたいのですが、 真宗とは全てを任せる(頂く)事だと思うのですが、苦が来たら苦を頂く、楽が来たら楽を頂く、そういう心境になれば信仰を得たと成るのだと思うのですが、成らないから困る。 全てを任せるという心境になるのにはどうすればいいのでしょうね? よろしければお答えください。
- mmky
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「真宗では妙好人は異端とされている説も有る。」 そうですか。真宗団自体が仏教では異端のように思えますが、それが更に異端というのですから笑えますね。真宗は浄土三部教が主体ですね。でも親鸞聖人系ではお経は「親鸞聖人の解説」を良く使っていますね。つまり、念仏系に本来お経など必要ないのでしょう。阿弥陀信仰は阿弥陀仏を信じることのみが大切ですから、その一点信仰では誰でも聖人になれるのですね。妙好人もそのような人達ですね。よく似たキリスト教を例に挙げると「聖人=セイント」ですね。イエスに感じ勝手に伝道するのですね。自由の国アメリカにはエバンジェリスト(福音を述べ伝える者)がたくさんいますね。この方々は教会に属さないで一派をなしていますね。元に戻って、妙好人という方たちはそういう方たちに近いですね。つまり真宗という組織からみれば「異端」になる場合があるということですね。念仏で救われという概念自体が仏教では、はっきり言えば異端ですから、異端の芽はどこにでもあるということでしょう。先にできた組織の解釈から外れるようなことを言えば異端になるわけですが、そこは仏教の懐の広さなんですね。ユダヤ教、キリスト教やイスラム教と違い「寛容」ですから、真言も法華も浄土も妙好人も清濁あわせもってガンガーの流れのように滔滔とした流れをかもし出しているのですね。 参考になるかどうか?
お礼
有り難うございます参考になりました。
お礼
お礼が遅れて大変も申し訳ありません 真宗とは簡単そうで難しいですね、難しそうで簡単かもしれませんが、色々勉強させてもらいました、沢山書いて頂いたのに簡単な御礼になりますが、有り難うございました、良いお年を。