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関ヶ原の合戦の後始末。
両軍合わせて15万人を超す大軍が狭い盆地で激闘したのですから、もし辺り一帯が耕作地であれば作物も耕地も無残な姿に変貌したでしょう。 そこで質問です。 1.そもそも村(集落)があったのですか。村人はそのときどうしていたのですか。 2.村の損害を誰か補償したのですか。 確か、以前観たテレビでは、村人が武将に補償を請求していました。 3.領主は東軍か西軍、どちら側でしたか。 よろしくお願いします。
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https://sekigaharamap.com/hachiman/ という話が残っていますね。また、近所の山では近隣の農民が避難も兼ねて合戦を見に来ていたという話もあります。もう関ヶ原の頃は兵農分離が進んでいて近所の農民が戦闘員として動員されることはなかったからです。 戦国時代の兵制についてはよく分かってないことも多くあるのですが、私はテレビや映画と違って相当数の非戦闘員が混じっていたと思っているのですけどね。現代でも鉄砲を担いで戦う戦闘員とその戦闘員に補給をする後方勤務の兵士の割合は最低でも1:1で、1:2が理想ともいわれています。1万名くらいの師団で、直接の戦闘員て4000名いるかどうかくらいなんですよ。 その編成は戦国時代も同じくらいか、あるいは全て人力の時代でしたからもっと非戦闘員の割合が多かったのではないかなと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 名前から想像して“原っぱ”だと思っていましたが、大間違いでした。 北国街道の宿場であり、本陣でもあったのですね。 竹中重門の領地となれば家康も放っておけないです。 兵農分離が進んでいて、近隣の住民は「避難も兼ねて合戦を見に来ていたという話」もあるのですね。 テレビドラマでも観ましたが、そのときは疑っていました。