• 締切済み

生きていることの空しさ

  振り返ってみれば、生きていることに喜びを感じられない。人生の大部分のときにおいて、喜びや、生きている意味がないという感じが強いです。 しかし、それは人生が、辛いことや悲しいことばかりであったということではない。そういうことも、あまりなかったような感じです。生きてあることは、空しいというか、価値がなく、不愉快なことや心の苦しみや憂鬱に満たされているという感じです。 ときを経過すると、その感じは、ますます強まり、何をすることもない空しい、憂鬱な、そして心の悔恨と苦しみだけの日々です。 このサイトで、ここ一週間、少し回答してみましたが、感じるのは、不快感が大きいです。元々、このサイトは、色々な矛盾やおかしいことのある場所で、不快感がありましたが、最近、回答してみても、喜びがありません。 もっと色々と回答できればよいのかも知れませんが、あまりにも無知で無学なため、回答できない質問が多すぎ、自分に回答できそうなものだけを、何とか回答していましたが、時間をかけて、間違いのないよう確認しつつ回答を書いても、意味がないとも感じられます。 わたしが愚かで、無能で、他者から蔑まれ疎まれているのだということが事実なのでしょうが、こういう匿名の場で、そういうことになるのかとおもうと、何か意味が分からなくなります。 わたしは賢明さがたりないが故、自殺することを考え続け、そして実行できなかった愚かな存在だとも言えるでしょう。いまでも自殺を考えても、いまさらに、何の意味もないのです。 「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか? わたしの空しさはいかに答えがありますか? カテゴリーを迷いましたが、「死とは何か」という質問がありますから、「人生の空しさとは?」も、ここでよいと考えます。 (回答中に、わたしの名を書かないでください。Jesu, meiner Seelen Wonne)。  

みんなの回答

  • izumokun
  • ベストアンサー率30% (1129/3679)
回答No.9

 私が申し上げたかったのは、あなたの価値基準がどこにあるのかということです。少しばかり、他者への要求が強いからではないでしょうか。ありのままを受け入れる態度も必要だと思います。  なにゆえ空しさを感じるのか、なにゆえ価値がないと思うのか、なにゆえ不愉快に思うのか、なにゆえ苦しみを感じるのか、なにゆえ憂鬱なのか。判断はあなたがしているのです。そして、価値はどこにも存在しません。あなたの中にあるのです。

すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#3136
noname#3136
回答No.8

私もそういう虚無感におそわれることが多いです。 生きることに意味があるか無いか?という問いに対しては、「生きることに意味などない」という答えしか今のところ出てきません。 答えのない問いに答えを見出そうとするのは、一種の現代病のような気がしています。 「何故人を殺してはいけないか?」という問いが一時期話題になりましたが、「生きる意味は何か?」というのもそれと同じ性質を持っているように思います。 「何故人を殺してはいけないか?」と問うた人(高校生らしいですが)は、人殺しが倫理的に認められないことを知りながら敢えて訊いたのだろうとは思うのですが、このような問いは本来真剣に取り合うべきものではないでしょう。にも拘わらず、多くの大人が、この問いにうろたえ、回答を与えようと努力してみたりもしましたよね。それは社会が病んでいる証拠ではないかと思うのです。このような質問が出ること自体を奇怪しいとも思わず、真摯に向き合ってしまうほど、日本社会は(悪い意味で)成熟し、行き詰まってしまっているのかも知れません。 「生きる意味は何か?」という問いは、「何故人を殺してはいけないか?」という問いとはちょっと性質が違うとは思います(特にそれを問う人の心構えにおいて)。しかし、答えのない問いであるという点では同じだと思うのです。 「生きる意味は何か?」と問うてしまうのは、「生きる意味が感じられない」からであり、「生きる意味が感じられない」のは、「よき生を送っていない」からでしょう。 であるならば、「よりよく生きるにはどうしたらよいか?」を考えることが「生きる意味は何か?」という問いに対して答えを与えてくれるはずです(というよりも、「生きる意味は何か?」と問う必要性を無くしてくれる)。 「生きる意味は何か?」という問いに答えはありませんが、「よりよく生きるにはどうしたらよいか?」と問うことには意味があるでしょう。 とは云え、「よりよく生きるにはどうしたらよいか?」という問いに対する回答とて、簡単に出てくるものではありませんよね。僕は常にここで壁にぶつかってしまいます。 「生きがい」などと簡単に云いますが、大金を稼ぐことも、名声を得ることも、趣味に没頭することも、好きな人と過ごすことも、子供を授かることも、どれも「生きがい」を与えてくれそうにはありません。 自分の虚無感を社会のせいにするのは卑怯ですが、それでもなお、あらゆることに生きがいを見出せないのは、社会が物質的に満たされ、成熟してしまったからなのだろうと思うのです。これが文明が発達した帰結なのかと思うと悲しくなることもあります。 僕は、少なくとも現時点においては、一生懸命仕事をし、今の彼女を裏切ることにならないためにも死ぬことだけは避け、時々楽しく酒でも飲んで刹那的な喜びが得られれば、あとしばらくの間は生きていけそうな気がしています。 もちろん、「どうすればよりよく生きることができるか?」という問いの答えは求め続けたいと思っていますが。 ご質問に対する回答になっていなくて申し訳なく思いますが、何かの参考にでもなれば幸いと思い、書き込みをさせて頂きました。

すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

過去は人生において貴女が思う程、重要なものではありませんからご安心を。 私も、過去を振り返ると恥で真っ赤に染まってるみたいな感じです。思い出すたびに吐き気がします。がんばって意識的に封じ込めてるんですけどね、過去は。 今、生きている事が幸せかと問われたら、あえてイエスとは答えないと思います。 私は、進学校と名高い私立中学に実力で入学して、それなりに偏差値もあります。でも、「生きる」って言う事は、そのとき物理的に恵まれている、って言う事とは違うでしょう。だから、私は現在に不満足です。 現在に価値が無いか、と問われたら、そうでもないと答えます。現在が無ければ未来が無い。私は、小学生の時から自分だけの哲学みたいなものを温めています。でも、周りにはそれを理解してくれる人間がいなくて、孤独です。私は、理解者を得る為に、理解者がいる可能性のありそうなフィールドに堂々と入っていく為に、有名大学へ進学率の高い学校で学んでいます。有名大学には、ありとあらゆる人材が坩堝のように投入されていますから。 また、こうやって「教えて!goo」の哲学カテゴリで貴女のような叫びを上げる人に、私の哲学理論を展開します。ここでしか開けないんです。私の学校とか、そういう世界ではあまりに狭すぎて、もしくは中身が傷つきそうで、怖くて開けられない。 貴女が蔑まれ疎まれている、というのは間違いです。貴女が、ここでうまく理論を展開できないのは、貴女が持っているものとここの環境が合わない所為です。痛むのも分かります。でも、他人と比べて、自分が劣っているとか考えるのは、他人の人も可哀想です。人間のよさを図るベクトルは、無限にあるのですから。 考えてもみてください。例えば、毎朝六時きっかりに目覚めれる、というのは美点だし、その気になればどこでも一分で寝れる、というのも特技のうちです。 生きる喜び、という話もありますが、それは他人が教える事はできないものです。人によって持っているものが違うのですから、それに適応するものも違ってきます。 具体例を示しましょうか。私なら、ケミストリーの歌を毎日ベッドの中で聴ける事。家にいれば好きな時に、好物のラーメンが食べれる事。電車で30分もあれば、とっても大きな図書館に行ける事。日本語で、好きな物語が読める事。パソコンを立ち上げれば、無限の世界が広がっている事。 もっともっといっぱいあります。幸せという定義は、それを感じれる度合いによって決まります。だから、幸せな人は、自分の環境を幸せと感じれる人、と言い換えれます。 悩みなさい。貴女が今、苦しんでいる事は人生にとってマイナスにはならない。 何か、人生にとって大切な何かを知る為には、痛みや苦しみを知らなければなりません。涙もこぼすかもしれない。でも、何かを知る事は、決して不幸だと言う事ではない事……私も、貴女の様に悩み、苦しんだ時代があります。でも、その中で得たものは憎くはないから。 人生の秘訣は、そのとき与えられたモノを最大限に使いこなす事。 貴女の中に湧いた自己否定の気持ちは、自分を考える最大のチャンスです。 とりあえず、何かを生かす事を考えてみてください。何でもいい、冷蔵庫の中の余った野菜を料理するとか、道端に咲いた今にも枯れそうな花を押し花にするとか。 貴女が苦しみを乗り越えた時、ここに書き込んでくれた人々は貴女を祝福してくれますよ。 「お礼を書くのが苦手だ」と言いましたね。私もそう。私は、失礼でも回答に対する第一印象を書き込んでいます。 私に対するお礼は必要ありません。その前に、私は貴女に礼を失した事を謝らなければなりませんから。おそらく年上であろう貴女に、命令口調で言ったりして……偉そうに言って本当にごめんなさい。でも、こんな貧弱な書き込みが、貴女に何かを与える事が出来たらいいな、と心から思っているので。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • eiji156
  • ベストアンサー率20% (19/91)
回答No.6

> 生きていることに喜びを感じられない。 > 生きてあることは、空しいというか、価値がなく、不愉快なことや心の苦しみや憂鬱に満たされているという感じです。 私の経験からすると、これは「うつ病」では…?疑った事もありませんか? 私は、病院にいってませんので、自己診断ですが、中学1年の時に発症し20代半ばまで続きました。その間に、宗教、哲学、精神分析、精神療法の本などを読み漁りましたが、解決しませんでした。 ある時に、脳科学の本を読み、即物的に考える事を学びました。つまり、自分が苦しいのは脳内物質(最近これがセロトニンであることが分かってきたそうです)のせいだと、自分に納得させ、そうすると、少しは楽になったのです。それ以後、30歳頃、一時、躁状態なったぐらいで、小康状態です。 とにかく、病院に行ってませんので、自己診断が正しかったのかも、自分のやり方が正しかったのかもわかりませんが、それ以後、そんな風に自分に言い聞かせながら生きてきました。最近うつ病に良い薬<プロザック>が出ているそうですから、もしどうしようもなくなったら、病院へ行くつもりです。 質問の意味から、離れてしまったと思いますが、あなたの文を読んで、「うつ」が頭に浮かんだので、書きました。

すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#3207
noname#3207
回答No.5

ワイの敬愛するaster氏の質問の中にアンタの質問の答えがあるんとちゃいまっか 「わたしは、いかに生きればよいのか」 よかったら見てくだされ

参考URL:
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=252304
maris_stella
質問者

お礼

  回答を有り難うございます。 この質問と回答、質疑については、わたしは先に承知しております。先の「補足」で釈迦牟尼の教えが変化したと述べましたが、釈迦は、最後の旅に出発する前、「世界は美しい」と述べたと言われるのです(『大涅槃経』に出てくるのだとおもいますが、確認した記憶がありません)。 世界は美しいのです。しかし、その美しさを感受できる「魂」の問題もあるのです。彼女(彼)の言い方に似てくるのでしょうが、「ひとは、野のひともとの花にも生きる意味を見出すことができる」とは真理でしょう。 わたしは、単に、孤独を嘆いているだけかも知れません。孤独は喜びでもあるのですが、悲しみでもあり、そして空しさでもあるのです。 回答、再度、有り難うございました。 (2003/0125/1729)  

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • nubewo
  • ベストアンサー率24% (14/57)
回答No.4

まず、自分の能力についての吟味ですが、単純にあなたの基礎知識、知的考察能力、日本語能力などを鑑みればかなり高い水準にあるのは確実でしょう。少なくとも僕はあなたより蒙昧です。冷静な判断として、そう考えます。 僕は「人生とは怜悧なものである」と考えています。世の中の真理は人間にひどく冷たい。 例を挙げてみますと、「いじめにあう子には共通の性格が見出せる。したがっていじめにあう子には共通の欠陥があると言える」だとか、「男と言うものは家庭内において女ほど意味や価値をもたない。だから子どもが自立するにつれ、家庭を大事にしなかった男は家庭から大事にしてもらえなくなる。あるいは暴力で家庭に君臨しようとする。」なんてとこですか。 そういう点から僕が自覚的に痛感するのは、人生に対して甘い幻想を持っているな、ってことです。 「明日があるさ」→「あるとは限らない」 「人生は楽しい」→「それほどでもない」 「敬虔に死ねば天国に逝ける」→「死後の世界など証明できないかぎり幻想である。」 まぁ最後のは幻想であるとわかっててもみんな好んでそれを信じるわけですが。 これら2点を集約すると「世界に既存の意味や価値はない」ってことです。 したがって「このくだらない世界でも僕自身が世界を肯定しよう」と言う意志をもって生きること、これが生きる喜びや意味を見出すのに重要かな、と思っています。 ただ僕は日本人ですし中産階級の家の子ですから、それほど人生に不快感を覚えにくい人生だったかもしれません。あなたのアイデンティティにとって、上記の意見がどれほど価値をもつかは、少々疑問も覚えていますが。

maris_stella
質問者

補足

  ここまでで、四人の方に回答をいただきましたので、再度補足させて戴きます。「お礼」を記すのが、たいへん難しいということです。 No.1 の回答の方には、少し失礼な言い方になるかも知れませんが、釈迦の教えがどういうものか、不正確だとはおもいますが、わたしも幾分かは知っています。「無欲であれ」、というよりは、もう少し複雑な教えであり、釈迦牟尼自身の考えも変化したはずです。 ただ、それは「知識」として、わたしが知っているということです。しかし、ある状況において、人の生きるありようのある位相において、知識や言葉が、「なるほど」というような、実存に関与する「意味」を開くことがあるのです。知識として知っているということと、その内容が、ある特定状況で示され、それを読みとるというのは、別のことなのです。 自分自身で幾ら知識をもとに考え続けても、見えてこないものが、他の人が、その言葉を告げることで、その知識の別の姿や意味が見えることがあるのです。もちろん、わたしは、すべてを知っているなどということはありえませんから、知らないことを御教示願うといことも高い価値があります。 すでに知識としては知っていること、また知識としても知らなかったこと、これらは、この場での言葉として受け取ることで、そこに、一回的な意味作用が出てくるのです。 つまり易しく言いますと、わたしが知っていると思うことも、知らないことも、回答される方の回答として提示されるとき、それを判断し、どのように自己の存在のありように読みとるかで、特定の「意味」が出てくるのであり、それは、時間が必要なことだということです。 実は、或る程度、割り切って「お礼」を書かないと、何時までたっても、お礼は書けないというような現実もあるのです。しかし、再度、十分に回答を吟味させていただき、自己の生き方にあてはめて考えてみた上で、そして納得できたとき、はじめて「お礼」は書けるのだということを、御理解願います。 特定の「わたし」に向けて発せられた回答という形のメッセージを拝読させて戴き、それについて考えるということは、ある意味で、「自己の充足」にもなり、それは価値ある経験なのです。 「お礼」は、書いてしまうと、それ以上、書けなくなるので、慎重に考えて記したいということです。 (2003/0125/1707)  

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • Largo_sp
  • ベストアンサー率19% (105/538)
回答No.3

私は考え方次第で、生きていることは楽しくなったり、空しくなるものだと思っています。 楽しいと思ったら楽しいし、空しいとおもったら空しいですよ。 きっと、高い思想の持ち主なので、すべてが空しく見えるのだとおもいます。 いっそのこと、思考を昨今の「汚ギャル」まで落としてみるとか.... たぶんこの質問を読んで、「ばっかじゃねぇの今楽しいことしてればいいんだよ」 という人たちの気持ちにはなれないからかもしれませんね... 人間は、#2の方もいっているように、「生きる意味」は存在しないのですから 宗教的にいきるか、「愛」にいきるか、何も持たずに生きるか、 おいらは、悩んで解決できるわけがないから悩まないことにしてます

maris_stella
質問者

お礼

  回答、たいへん有り難うございます。 考え方次第で、生きる意味は変化するというのは、一面の真理でもあると思います。 人は幸福である時には、その「幸福」を意識することがなく、幸福を失った時、初めて、「落差」において、自分がかつていかに幸福であったかを実感するという喩え話の意味するところは、かなり普遍的な適用性を持ちます。 家族や夫や妻や、友人や、恋人などが、存在する時、それがいかに貴重なものであったか気づくことが少なく、失ってみて、初めてその価値や貴重さに気づくというのも真理です。 >きっと、高い思想の持ち主なので、すべてが空しく見えるのだとおもいます。 「高い思想」というより、「望み(ambition)」が高すぎたのかも知れません。しかし、このことは、表裏にもあると思うのですが、社会的世俗的成功の有無というのは、或る程度大きな意味を持つのです。 「社会的世俗的成功」というと、貧乏な家に生まれたが、努力と才能で、四十歳で、従業員何百人の会社のオーナーになったとかの社会的成功だけでなく、例えば、もっとささやかなことでも、「成功」と言えるのです。 人は会社に勤め、結婚して子供を持つことは、「ごく普通のこと」だと考えるかも知れません。しかし、メーテルランクの『青い鳥』とは、「幸福=成功」は実は、ごくごく身近にあるという話です。 「恃むことのできる自己」を持する人は、また「成功」を持っているのだとも言えます。「恃むことのできる自己」とは、表現が大げさですが、実は極めて身近なものなのです。メーテルランクの「青い鳥」のようなものです。 しかし、反対の事態もあるのです。「青い鳥」は傍らにいると思っていたが、ふと気づくと、それがいなかったということに気づくことです。 >「ばっかじゃねぇの今楽しいことしてればいいんだよ」 これは、「今楽しいこと」という形の「青い鳥」が傍らにいるのです。しかし、こういう刹那的な生き方をしていて、或る日、ふと気づくと、「今楽しいこと」は実は、少しも楽しいことではなかったと気づくことがあるのです。 人の心は微妙で、明日の瞬間に何が待ち受けるか、不明なのです。 『旧約聖書・伝道の書』でコーヘレトは言うのです。「年老いて、後悔することがないよう、若き日に人生を楽しみなさい」と。そしてまた、その人生の若き日の楽しみが、年老いて後の楽しみにも通じることが重要でしょう。 >おいらは、悩んで解決できるわけがないから悩まないことにしてます 「悩み」とは、愛神エロースのように、「襲って来る」何かなのです。悩んで解決できたので、悩みが消えることもあれば、悩みの末に、宗教に入信したり、宗教を転々としたり、あるいは、結局、人は悩みから解放されないのだと「悟り」、悩みのなかで、自己の心の安定を見出す人もいますし、一生、悩む人もいます。 人様々で、悩みの少ない、または軽い人もいれば、多い、または重い人もいる訳です。 また、例えば、貴方が、一千万円の借金をしていて返済できない場合、自己破産するか、夜逃げでもして姿を消さない限り、「借金をしている事実」は毎日貴方に迫ってきます。返せないので、悩まない・考えないようにしようでは、済まなくなるのです。 悩みにも、色々な種類があり、似たような悩みでも、人によって受け取り方や「意味」が違って来ます。 ある人の小説に、社会的成功を収め、人から尊敬される優れた人物が、海に飛び込んで自殺するというエピソードがあります。 これは、自己の負った「心の傷」に苦しむ主人公を立体的に描くため、対比例として出てくるのですが、他人のうらやむような、何の不満もないような人が何故自殺するのか? 何を悩んでか。他者には、分かりにくいです。 S&Gの歌で、『リチャード・コーリー』という曲がありますが、大金持ちの何不自由ない、コーリーは、何故、頭に銃弾を撃ち込んで自殺したのか? 「工場で働くぼく」は歌います。「ぼくは、リチャード・コーリーになりたい」 悩みに「執着」するので悩みが消えないので、執着を捨てれば、悩みは消えるとは、仏教的な考え方です。これについては、別の方の回答へのお礼か、補足で考えたく思います。 なお、これは貴方の回答に反論しているのでも、わたしの考えを押しつけているのでもなく、貴方の回答と「対話して」、わたしの心に起こる思いを記しているものです。 「空しき人」は多くを考えてしまうのですし、どれが正しいというような確信もまた、曖昧となります。何を言っているのか、意味不明のようで申し訳ありません。 ともあれ、回答、再度、有り難うございました。 (2003/0320/1002)  

maris_stella
質問者

補足

  わたくしの質問に回答してくださった皆様。もう随分と時間が経過しました。2ヶ月は経過しましたが、最初に述べましたように、少しずつでも「お礼」を記して行きたく思います。 尋ねていることが曖昧で(というとり、意図的に、「意識して」、「ある意味モード」で、曖昧にしていますが)、また問題が非常に大きなものなので、お礼や補足を記していますと、わたくしの述べていますことに、矛盾なども出てくるかも知れません。しかし、それは、多様な考え方、感じ方、捉え方があり、それは一人の個人の内部でもそうなのです。 何を、どう考えるのか、わたしは「知識に捕らわれているのか、自己の悩みに執着しているのか」、色々と考え方があり、感じ方の角度・アスペクトがあり、それに応じて、考えや感じ方も変化します。 「お礼」に記している文章は、特定の方の回答へのお礼の形であっても、回答してくださった方々へのお礼の意味も含むのだとお考えください。勿論、主として、それは回答してくださった特定の方への「お礼」の意味がありますが、対話的感想の形でお礼を述べていますので、そこには、他の方の回答内容に対する思いも反響として含まれています。 どこまでかかるのか、また、最後まで続くのか分かりませんが、いま少し、おつきあいをお願い致します。 (2003/0320/1020)  

すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.2

あなたの回答を少し拝見させていただきましたがどれも丁寧でわかりやすく、質問者の役に立ったということが質問者でなくてもわかります。 生きる意味は何かという問題に対して回答を出す手法として宗教と哲学の二つがあります。哲学は厳密さを追求する性格のためにいまだその回答を出せていないといってもいいでしょう。だれにとっても明確な根拠をもつ「生きる意味」は存在しないということが今の時点の答えです。つまりあなたの選択肢は究極的には、宗教的な信念を持つか、回答できないまま生きるかの二つです。それは全ての人が同じです。 宗教的な信念といいましたがそれは日常イメージする宗教とは違うと考えてください。「お金持ちになったら幸せに決まってる」のような根拠のあいまいなもの全て含みます。 一般的により生き生きして力強そうに見えるのは何かしらの信念を持っているほうですが、一方で生きる意味を問い続ける哲学的な態度は必要だと思います。力強くなりたいのであれば信念を持つことです。そうでなければむなしいものです。いい悪いは別にしてですが。 ちなみに私は完全な回答を最初に求めるのをやめました。とりあえず自分の半生をふりかえって仮説を立てて目的を決めるという作業を続けています。この目的はおかしいなと悩んできたらまた別のものをという感じです。行ったりきたりが一生続くかもしれませんがこうするほかなかったという感じです。 生きる意味は何か?の質問の答えではなくて手法についての話ばかりですみません。

maris_stella
質問者

お礼

  回答、たいへん有り難うございます。 ただ、わたしは奇異に思えるかも知れませんが、「生きる意味は何か?」を尋ねているのではありません。質問は、次のような内容です: >「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか? わたしの空しさはいかに答えがありますか? 先の「生きる喜びや、意味を感じられますか?」という問いは、回答者について、あなたは、どうであることで、生きる喜びや、意味を感じていられますか? と尋ねているので、一般論を問うているのではありません。 >だれにとっても明確な根拠をもつ「生きる意味」は存在しないということが今の時点の答えです。 わたしは、そのようなことは尋ねていません。また、わたしはあなたではありませんから、わたしに代わって、あなたが、「わたしの生きる意味」を提示してほしいと述べているのでもありません。 「わたしの空しさはいかに答えがありますか?」という問いは、「私も空しいので、答えがありません」でも良いのですし、「私は、このように空しさを克服しました。この方法はどうでしょうか?」でも構わないのです。(あるいは、「私は空しさなどとは無縁です」も答えでしょう)。 「人が生きる意味」は、答えはすでにあるのですが、基本的に、社会的存在であることが一つの本質である人間にとっては、「共同体」との関与、その場への参画と交わりが、「生きてある意味」になります。 「共同体」という言葉は抽象的ですが、これは、「人の集まり」であり、ある共通の根拠神話を共有する人々の集団が造る秩序だと言えます。現代的には、会社社会とか、地域社会などが、この共同体でしょう。 「会社の繁栄のため、命を投げ出す」というと、ナンセンスと聞こえるかも知れませんが、これは、現代的な根拠神話に基づく、人の生死の意味付与になるのです。警察官のような職業だと、もっと鮮明になるでしょう。「殉職」した警官は、国民や国家のために尽くしたとされます。 国民の命を救うため、凶漢と闘って負傷し死ぬのは、本望だと思う警官にとっては、これが「生きる意味、死ぬ意味」でしょう。無論、警官は生活のための職業で、死んでは二階級特進しても意味がないと思う警官は、警官の職務で、「人生の生死の意味」が満たされるとは言えないでしょう。しかし、どこかの同族企業の金儲けのためにこきつかわれる社員の仕事よりも、警官の仕事の方が、「より意味ある生き方」だと感じやすいでしょう。 それは、国家や国民がまだ、私企業よりは、共同体として、伝統も、根拠神話も深いものがあるからです。 「生きる意味・死ぬ意味」は、このように、根拠神話を持つ共同体が前提にあれば、それほど難しい問題ではないのです。 哲学や宗教は、「よりよく、いかに生き、死ぬか」の教えであり、探求と言えるでしょう。宗教が生きる意味を与えるのではなく、存在の根拠を開示し、生きる使命を明示するので、意味への充足が成立するのだと言えます。(信念とは、何かの根拠への確信だとも言えます。発達の過程での「基本的自己安定」は、母親つまり文化規範による受容と、自己同一化にあるとも言えるからです)。 太平洋戦争末期、学徒出陣したある人は、無意味な戦いで死ぬことに意味が見いだせず、自己を納得させるため、奇妙な理屈を造ったと言います。この人は、帝国大学の学生だった方ですから、日本の敗戦は、予想がついていたのでしょう。 しかし、大東亜共栄圏建設のための捨て石となるも本望という人もいたでしょう。そういう人には、大東亜戦争は、「生きる意味、死ぬ意味」を提示してくれた機会だと言えるでしょう。 「生きることが空しい」というのは、思想的には、ペシミズムと言います。ペシミズムは、個人的なものもありますが、文明あるいは社会共同体の衰退の時期に、社会的現象となります。これは、共同体の伝統的根拠神話が疑わしく思えて来るからですし、共同体への帰属意識の稀薄化がまたペシミズムをもたらします。 「空の空、空の空、いっさいは空である」というのは、『伝道の書(コーヘレトの言葉)』の冒頭にありますが、これは、「空しい、空しい、すべては空しい」という意味です。本文は、「空しい」という話がいっぱいあります。しかし、コーヘレトは、また「空しさから脱する方法」も書いています。 わたしは、十代のはじめ頃から、この言葉を知っていましたし、心に刻みつけていたはずです(いかにすれば、「空しい人生にならないか」という教訓の言葉も含めてです)。しかし、結果として、「空しい今」に達しているのです。 >この目的はおかしいなと悩んできたらまた別のものをという感じです。行ったりきたりが一生続くかもしれませんがこうするほかなかったという感じです。 僭越かも知れませんが、これが普通の人の生き方ではないでしょうか。何かの道ひとすじ、とか、ある会社に22で就職し、残り40年間を、その会社で働いたという人でも、その内心や、他者から見えない実状では、右に左に試行錯誤というのがおそらく現実だと思います。 なお、以上に述べていることは、あなたの回答に反論しているのではありません。あなたの回答を拝読させていただいて、どういう考えが、わたしのなかで喚起されたか、また、仰っておられることを、わたしなりにパラフレーズすると、どうなるのか、ということです。 つまり、わたしの意見があって、その意見を他の人の意見と比較して優劣を論じると言うような手順をしているのではなく、あなたの言葉に触発されて、わたしの心のなかに起こる思いを、この対応の角度からまとめて眺めているということです。 そのほかにも、色々と思い出すことや、考えることもありますが、あまりにも長くなりますし、個人事情に立ち入った話になってきます。 現代は不透明な時代であり、多くの人が、根拠神話を見失っている、あるいはその存在さえ忘却している時代だとも言えます。 道を求めているうちに、道などないと気づくときが来るでしょうし、そのとき、手元に何が残るかの問題だとも言えます。 五十を過ぎて、リストラされ、次の仕事もなく、家族も親類もなく、ホームレスとなって、道ばたで、段ボールを敷いて、毛布にくるまって寝ている人に、人生は空しかったかどうか尋ねて、どういう答えがあるでしょうか。 わたしは目下、ホームレスではありませんが、軽率かも知れませんが、あまり変わりないような気もします。(無論、現実には、かなり懸隔がありますが)。 ともあれ、回答、再度、有り難うございました。 (2003/0129/0105)  

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • izumokun
  • ベストアンサー率30% (1129/3679)
回答No.1

 そのことについては、釈迦が答えを出しているのではないでしょうか。空しさと決別するためには、「無欲」になることだと思います。

maris_stella
質問者

お礼

  回答、たいへん有り難うございます。 ただ、この簡潔な回答で、どういうことをアドヴァイスされておられるのでしょうか? あなた様は、次々に多数の色々な質問に素早く回答されているようで、優秀な知能と広い知識をお持ちの方と考えますが、わたしには、どういう意味の回答であるのか、いま一つよく分かりません。 あなた様にとっては、これで十分な回答なのかも知れませんが、質問者であるわたしには、意味がよく分かりません。(わたしの尋ねております質問の意味を、本当に理解されておられるのかどうかも、大いに疑問を感じます)。 とまれ、再度、回答、たいへんありがとうございました。 (2003/0127/0525)  

maris_stella
質問者

補足

  最初に補足させて戴きます。「お礼」は原則として回答してくさった方々にすべてさせて戴く予定ですが、十分に回答を読ませていただき、考えました後で、お礼を書きますので、時間が少しかかることを御理解ください。 また、お礼を書く順番が回答順とはならないと思います。それは、把握できたと思える回答からお礼させていただくためです。十分に考える必要のある回答には、お礼が少し遅くなります。 宜しくお願いいたします。 (2003/0125/1542)  

すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A