• 締切済み

生きていることの空しさ

  振り返ってみれば、生きていることに喜びを感じられない。人生の大部分のときにおいて、喜びや、生きている意味がないという感じが強いです。 しかし、それは人生が、辛いことや悲しいことばかりであったということではない。そういうことも、あまりなかったような感じです。生きてあることは、空しいというか、価値がなく、不愉快なことや心の苦しみや憂鬱に満たされているという感じです。 ときを経過すると、その感じは、ますます強まり、何をすることもない空しい、憂鬱な、そして心の悔恨と苦しみだけの日々です。 このサイトで、ここ一週間、少し回答してみましたが、感じるのは、不快感が大きいです。元々、このサイトは、色々な矛盾やおかしいことのある場所で、不快感がありましたが、最近、回答してみても、喜びがありません。 もっと色々と回答できればよいのかも知れませんが、あまりにも無知で無学なため、回答できない質問が多すぎ、自分に回答できそうなものだけを、何とか回答していましたが、時間をかけて、間違いのないよう確認しつつ回答を書いても、意味がないとも感じられます。 わたしが愚かで、無能で、他者から蔑まれ疎まれているのだということが事実なのでしょうが、こういう匿名の場で、そういうことになるのかとおもうと、何か意味が分からなくなります。 わたしは賢明さがたりないが故、自殺することを考え続け、そして実行できなかった愚かな存在だとも言えるでしょう。いまでも自殺を考えても、いまさらに、何の意味もないのです。 「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか? わたしの空しさはいかに答えがありますか? カテゴリーを迷いましたが、「死とは何か」という質問がありますから、「人生の空しさとは?」も、ここでよいと考えます。 (回答中に、わたしの名を書かないでください。Jesu, meiner Seelen Wonne)。  

みんなの回答

  • ngc7000
  • ベストアンサー率31% (18/57)
回答No.19

私の回答はまだ後半部分があったのですが、早速返信いただきましてありがとうございました。 それを書く前に、書いておかなければならないと思ったことがあります。 私の質問欄は0となっていますが、実は3件あったのです。 管理者側に一方的に削除されてしまいました。 質問内容の一部に管理者側への批判などが、含まれていたというのです。 わたしはそのようには捉えていません。 gooの掲示板は、他の類似の掲示板に比べ、あまりにも干渉しすぎると 思っています。言論の自由にも抵触する問題であることを 管理者側は認識してほしいと思います。 (掲示板での発言内容が認められ、勝訴したケースもあったはず) このNo.19?の回答も、早々に削除される運命でしょうが 同様な懐疑を持っている者として、あえて書かせていただいた次第です。

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noname#3043
noname#3043
回答No.18

 んーと。 こんにちは。 >「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか? >わたしの空しさはいかに答えがありますか?  が、質問の「要」か、と愚考して、私見を書かせて頂こうか、とか考えますが。  よって、エラそうに感じられる部分、があるに違いないと同時に、「釈迦に説法」となる点が当然出てくるに違いないこと、先にお断りをしてやってみようと思います。  ちょっとした幸福論の方向を向いていると同時に、貴方個人の幸福の所在を探る問いを発しておられるのでしょうね。  万人普遍の幸福のあり方を探るとき「学問」が生まれ、 「学問」が存在するとき、その「方法」と「理論」が問われます。  ですが、あなた個人の幸福を探るのであれば、話は、もうちょっと簡単になると思いますよ。(貴方にとってはそちらの方が難問なのだと仰られるかもしれませんが。)  自分が何を求めているのか、を知り、その答えを探る。  人間の欲求は、大小・高低、(段階的にも)さまざまでしょうから、自分が、どんな段階の欲求不満(フラストレーション)を抱えているのか、知ることが、まず問題解決の第一歩になる。(ことが多い。) (まあ、これは案外、自分で 気付く のが難しいものだったりするのでしょうが。 自分の欲望のあり方が全部わかってしまったら、それは、生き方、を楽にすると同時に、とてつもなく、辛いものにもしてしまいそうですしね。)  ご存知のこととは推察しますが、学問(…そして、もっと云えば、思想・哲学・宗教)は、それ自体の厳密性と方法論的な限界から、幸福の獲得を目指して出発しながらも、時としてそこから脱線し、自身の首を絞めてしまうことが、ままあります。 (まあ、そこから脱却しよう、とする姿勢を兼ね備えている点で、私なんかは「哲学」に大いに好感を持っている訳ですが。)  したがって、学問的に真摯・誠実であることと、それに携わる個人が ずぼら であることは、別に矛盾しない。(これもご存じのことではあるのでしょうね。)  寧ろ、一つの手段、方法に誠実になればなるほど、個人の個人としての私生活に 一種の限界が出てきてしまう、なんてこともしばしば見受けられたり。  ここに非を問うか否か、なんてのは、個人の趣味嗜好の問題以外の何ものでもない。  しかし、「だからこそ」そこに非を問う自由と権利があるのだと思いますよ。 >このサイトは、色々な矛盾やおかしいことのある場所で  まあ、確かにそうなんですね。^^;(管理者さま、ごめんなさい。陳謝。)  ですが、また、何か疑問や悩みごとを抱えた人がいて、そしてこのサイトによって「救われ得る」ことも、また一つの 事実 でもあったりするはずで、そこには「矛盾やおかしいこと」が存在するのとはまた次元を異にして、価値が ある。  そこを否定する意見には、私は真っ向から反対の立場をとろうと思いますし、回答者として積極的にここに参加される方の多くもまた賛同してくれるのではないか、と勝手ながら確信しています。 >「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか?  関係 と 交流 と 労働。 作品を Create するのもいいかも、ですね。  先人から智恵を汲み取ろうとするならば、ゲーテをお奨めします。

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  • ngc7000
  • ベストアンサー率31% (18/57)
回答No.17

>このサイトで、ここ一週間、少し回答してみましたが、感じるのは、不快感が大きいです。元々、このサイトは、色々な矛盾やおかしいことのある場所で、不快感がありましたが、最近、回答してみても、喜びがありません。 私はむしろ逆です。いろいろ回答することに充実感さえ感じます。あなたの回答履歴を拝見したところ、天文学や物理学、PC、哲学、文学など、私の回答カテとかぶっているところが多く驚いています。 あなたの回答は私の回答から較べると、実に丁寧で的確に説明されています。しかし、ちょっと感じたのは必要以上に、解説をされているのではないかとも感じました。 あなたはおそらく、完璧主義者なのでしょう。 ですから、これだけ精一杯答えたのに、質問者からの返信は何故この程度なのか?と思っておられるのではないでしょうか? ポイントも私より遥かに多いですし、返信の書き込みも多いほうだと思います。それでも不快感があり、喜びも感じないというのは、必要以上に質問者からの反応を期待しすぎているのだと思います。 なぜ、あなたよりポイントも少ない私が満足し、充実感を感じているのかというと、回答することにより多少なりとも、誰かの役にたっていると自覚しているからです。 私は回答することにより、いわばそこで自己完結しています。あるいは自己満足と言ってもいいでしょう。返信やポイントは、それほど期待はしていません。もちろん 同意の返信があれば嬉しいですが、人それぞれ価値観が違いますから、過度の期待はしていません。 あなたはテストの解答をするような意識で、書き込みをされていませんか?自分は満点だと思っているのに、相手からの評価は、必要以上に低い。これはおかしいのではないかと。 科学などの分野であれば、答えはOかXか明確です。(もちろん厳密には、この分野も微妙ですが) しかし、哲学や人生に関することは、右か左かで明確に 解答が出るものではない、というのはご存知でしょう。解答はいく通りもあるわけです。ですから質問者からの返信が、あなたの期待に反していたとしても不思議ではありません。むしろ一致する方がおかしいと言っても過言ではないでしょう。 そのような認識をもたれていた方が、いいのではないでしょうか?楽になると思いますが。 長くなりましたので、とりあえずこれで回答としておきます。

maris_stella
質問者

お礼

  回答をたいへん有り難うございます。 お礼の順序がおかしいですが、お礼を述べさせて戴きます。 わたしは、「完璧主義者」などではありません。人の身の有限と限界にあって、誰が「完璧主義」などでありえるでしょうか。わたしの場合は、むしろ「敗北主義」だとも言えます。人生における「敗北の意識」は、イデアルに対する現実の貧困という位相で考えているのではなく、平均的な人の、普通の水準と比べての、自己の成せたところ、または生きてきたところの内実のあまりな貧困さに起因しています。 このサイトで回答することの「不快感」というのは、質問者の反応が自分が期待したほどのものではないという、自己の要求の水準の充足がないという意味では、必ずしもないのです。このようなことを記してよいのかどうか分かりませんが、わたしは、この一週間で40回答ほどしている訳ですが、「最近回答してみて」というような表現を使っているのは、過去にも回答していたのです。 「質問者の方の評価」というのを、仮にサンクスポイントで考えますと、おそらく、非常に高い水準で、評価を得ているとも言えます。この一週間ほどで40回答と言いましたが、それによるサンクスポイントは360ポイントありました。締め切られていない回答が十五回答ほどありますから、そこからすると、一回答あたり、10ポイントを越えています。 過去に、私たちが、かなりの数の回答を行ったときのサンクスポイントも、これと同じような結果になっています(締め切られていない回答も含め、一回答あたり、10ポイントを少し越えます)。 解説しすぎであるという回答は、こういうスタイルの回答を書き続けていたので、半年以上前までだと、回答数は40回答などという数字ではありません。だから、質問者の方からのポイント発行や、お礼に「不快感」を抱いていたのだとすると、そんな大量の回答はしていません。 >私は回答することにより、いわばそこで自己完結しています。あるいは自己満足と言ってもいいでしょう。返信やポイントは、それほど期待はしていません。もちろん >同意の返信があれば嬉しいですが、人それぞれ価値観が違いますから、過度の期待はしていません。 わたしたちは、ポイント発行や、お礼の言葉についてだと、数字の上からも、圧倒的に、質問者の方たちからは、感謝のポイントや言葉を得てきていますので、「過度の期待」ではないと思います。(「期待」があるとしても、満たされているということになるでしょう。それ以上、期待できない程度のサンクスポイントを得ていますから)。 また、そのような単純な話だと、100回答、200回答、またはそれ以上の回答を持続的に行うことは不可能でしょう。私たちは、一年ほど回答を続けて、疲れ切って(また、別の色々な理由や事情で)、回答はやめたのです。 >あなたはテストの解答をするような意識で、書き込みをされていませんか?自分は満点だと思っているのに、相手からの評価は、必要以上に低い。これはおかしいのではないかと。 仮の話として、そういう意識を持って、例えば、千回答も、回答が持続的にできるでしょうか? 上の話からすると、もし千回答だと、サンクスポイントは、1万ポイントを越えます。 私たちは、「テストの回答」をするような意識で回答をしていたのではなく、ほとんど純粋にヴォランティアの精神というか、自分の持っている知識とか知見で、質問者の役に立ちたいという意識でした。もちろん、そこには、「良質な回答を書くということの自己満足」もあるのですが、私たちの回答は長文が多く、著作権をそのまま奪われるこのようなサイトに投稿することは、知識のバーゲンセールを行っているようなものです。いえ、無料提供であり、報酬は、サンクスポイントとお礼の言葉だけですから、バーゲンにもなっていません。 (私たちの回答に、「価値」があるとした場合の話です。私たちは、価値があったと思っておりますが、専門家の方々や経験者の方々は、あくまで私たちの想像ですが、ただの素人が、屑文章やでたらめを書いていると、嘲けりの視線で冷笑していたことでしょう。実際、それを裏付ける発言や、できごとがあるのです)。 私たちの個人的な経験では、過去、知り合いの学識者に、教えてほしいことがあり、尋ねたことがありますが、アドヴァイスができるはずなのに、話を逸らされて、答えてくれないという経験がありました。暗黙ですが、その方たちは、「知識はただでは提供しない」と言っているのです。 「知識」というのは、実は、非常に高価なのです。本は幾らでもありますが、それを分かるように解説してくれる人の提供する具体的知識は、普通は、無料で手に入らないのです。(そのことも含め、私たちの回答は、かなりに詳細だとも言えるのです)。 質問される方たちは、そういうことを知っておられるのかどうか分かりませんが、おそらく実感としてはご存じないのだと思います。 >そのような認識をもたれていた方が、いいのではないでしょうか? 楽になると思いますが。 折角の御言葉なのですが、そういうことは、理論的にも、実践的にも、実際の経験においても、私たちの方が、おそらく遙かに、明確に、強く認識しているし理解していると思います。 私たちは、何が不愉快かと言いますと、このサイトの管理方針のありようとか、管理者や運営者たちの傲慢さ・独善性が不愉快なのですし、質問者に対してではなく、「他の回答者との関係」で、不愉快さがあるのです。 お礼の言葉になっていませんが、このサイトとの関係について、少し記させて戴きました。 再度、回答をたいへん有り難うございました。 (2003/0128/0522)  

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  • noone
  • ベストアンサー率42% (3/7)
回答No.16

生きる喜びや、空しさへの答え 自分で考えてみたらどうですか? 死ぬまでの暇つぶしにはなると思います。 絵や音楽をやるとよく考えられるのでは。 自分で死ねないのなら、生きるのみです。 意味や答えは生ききった人にしかわからないもの だと思います。おそらく。 何事も意味が無いと思うのならやりきってみることです。 中途半端では無意味も意味もありません。 最後に、あなたの様な人でも喜びを見出せるものが必ず あります。手当たりしだい色々とやってみて下さい。

maris_stella
質問者

お礼

  回答、たいへん有り難うございます。 (なお、補足でも述べさせて戴きましたが、回答順に「お礼」を記させて戴いている訳ではありません。その点、ご了承願います。どういう順序かというと、明確には決まりませんが、かなりに難しい問題を考えねばならない回答へのお礼は、おそらく遅くなります。あるいは、案外、早くなるかも知れません。 具体的には、_naba_yosh 氏の回答などへのお礼は、相当に遅くなる可能性が高いですし、あるいは、ある展望で、一気に記してしまうかも知れません)。 ところで、_noone 氏へのお礼ですが( _ などを入れているのは、検索にかからないようにするためです。お礼などは、検索にはかからないという話もありますが、確実に知りませんので、このように、文字列を少し変化させています。ご了承願います)。 いささか反論のような形を取るかも知れませんが、決して、反論しているのではありません。一定の考えが先にあり、それに照らし合わせて、回答を裁断しているのではありません。回答の言葉に触発された思いをお礼で記させて戴いています。 >生きる喜びや、空しさへの答え >自分で考えてみたらどうですか? 逆にお尋ねしたくなるのですが、わたしは「自分で考えて」いないように見えるのでしょうか? そう見えるのでしたら、確かに自分で考えねばならない問題だと思います。しかし、わたしは、不十分で未熟であっても、自分なりに考え続けて来たと考えております。 とはいえ、何事も、「自分の問題」は自分で引き受けるという態度も必要なことと考えますので、アドヴァイス有り難うございます。 >絵や音楽をやるとよく考えられるのでは。 これはどういう意味か、よく分からないのですが。絵を描いたり、音楽を作曲したり演奏するには、それなりの才能や技術が必要になり、誰でもそういう才能や技術があるとは限りません。「鑑賞すると良い」ということなら、意味が少し理解できます。 >最後に、あなたの様な人でも喜びを見出せるものが必ず >あります。手当たりしだい色々とやってみて下さい。 反論をするのではありませんが、人は無限の時間を持っているのではありません。例えば、貴方が、いま八十歳だとして、癌になり、あと半年のいのちだとかいう状態だとします。そして人生に空しさを感じているとき、「手当たり次第」に何ができるでしょうか。 これは極端な例ですが、「できることを、ベストに、悔いなく行おう」という態度は、結局、古代からの生き・死ぬときの智慧としてあります。しかし、目的無く、でたらめに何かをしても、何かが得られるかどうか。 人には、「残された時間」を感じるときがあるのです。それは年齢とは、ある程度独立しています。無論、年齢を経過すれば、「残された時間」に思いをはせる機会も増えるかも知れません。 人生は長いようで、短いのですし、短いという人生も、生きてきたことの意味において、軽くも重くもなる何かです。 しかし、また何時のときでも、何かに挑戦するという実存の態度も、そのような姿勢として価値あるものだと思います。ロマン派の基本理念が人間の無限の可能性ですから、「青い鳥」でなく、「青い花」は、永遠に求める何かだとも言えます。 ともあれ、回答、再度、有り難うございました。 (2003/0320/1102)  

maris_stella
質問者

補足

  皆様、現時点で、17回答いただきまして、たいへん、有り難うございます。繰り返し読み返せて戴きまして、様々に考えております。 「お礼」につきましては、現時点で書くことのできるものもあるのですが、決断と気力が少し足りません。もう暫くお待ち下さい。 なお、補足で記したいことは、わたしの「質問の趣旨」は、「生きて来て、振り返ってみると、人生に空しさを感じ、喜びがなかったことを感じる。人生の空しさとはどういうことなのでしょうか」ということです。 それは、最後に、質問を要約した文章で、「何の質問」かを記した部分に記しています。 ただ、「人生が空しい」というだけでは具体性に欠けるので、何か具体的なことを、細かい内容は伏せても記さないと、質問の意味が抽象的過ぎますので、このサイトでの回答でも、空しさを感じると、付け加えたものです(個人的な事情は、このような場所では、プライヴァシーの開示は最小限という原則で、記すことが困難なのです)。 「人生の空しさ」という質問のなかに、「このサイトでの回答の空しさ」という質問が、入れ子のようになっています。後の方の質問に回答されておられる方も、それで、回答ではあるのですが、質問の冒頭の提起、そして最後のまとめで、「どういう質問か」については、人生の空しさ、という風に述べています。 何に対しての回答かが識別できるものは、良いのですが、No.1 そして No.9 回答者様の回答につきましては、一体、何に対する回答なのかが不明です。 No.1 の回答のお礼で記しましたが、回答者が、質問の趣旨を理解されるおられるのかどうかも不明です。 もし、この先にも回答を頂ける方がおられましたら、質問の趣旨をよく汲み取っていただきたいということを、質問者としてのお願いをさせていただきます。(このサイトで回答することの空しさというのも、それと分かるように記してくださいましたら、それでも結構です)。 宜しくお願いいたします。 (2003/0127/0722)  

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回答No.15

小学生の頃。今で言う「いじめ」(ぼくらの頃にはこんな便利なことばは存在しませんでした)に遭って、面当て自殺を考えました。でも、死んだら「面当て」が成功したかどうか確かめる手段がない、と思うと、死ねなかった。 中学生の頃は、毎日が「充実している」と感じられていました。 だのに、「死とは何だろうか?」「永遠とは?」と考え続け、結局「死とは無に帰することだ」と結論して、死に対して無上の恐怖を覚えました。 高校生の頃、恋をしました。死に対する恐怖は、この間だけ消えていました。だから、「何のために生きているの?」という思春期にはよくある疑問に対して、「死ぬために」という答えが、平気でできていたのです。(「だから」ではないかも知れない。) 長く浪人をして大学に入って、挫折しました。他人よりは多少知識が多いと自負していた自分が、実は「お山の大将」に過ぎなかったことを思い知らされました。自分の人生には何の意味もないと、その時はじめて絶望しました。自分には智恵も知識もないと。 以来二十年。絶望は絶望のまま、死への恐怖がまた感じられるようになってきました。中学生の頃と同じ切実さで。今は薄汚いおっさんです。 悩んだこと、苦しんだこと、挫折したこと、それらは決して無駄ではない、という言い方が、よくされます。そう思い込まなければ生きていけないのは本当でしょう、でもぼくはそうは思わない。ぼくの人生においては、何の役にも立ってないし何の意味をも持ってはいない。悩みや苦しみはそのまんま残り続けています。挫折は劣等感になっただけ。馬齢を重ねた分、へらへら笑ってその日その日の自分をごまかす術だけは身につけましたが。 「こんなことを考えてると発狂するかも知れない」と思ったこともよくあります。実際、ニーチェなんかは考えすぎて狂ったらしい。オリヴァー・スウィフトも、芥川も。ぼくも狂うだろうと思ってました。でもぼくはかれらほど賢明でも聡明でもなかったので、狂わなかった。そんなにたやすく発狂はしないようです。発狂するのは天才の特権なのかも知れません。 考えてみれば、毎日が虚しい。でも、生活に追われて、虚しいということを確認する時間が取れない分、学生の頃に比べて今のほうが虚しさを実感することが少ないようです。それはいいことなのか? まるで自分のことばであるかのように、あなたの質問を読みました。だから「経験者」。調べたことではなく自分のことを書いたのだから、「自信」は「あり」。ただしぼくの場合、「経験者」ではなくて「現在も経験中」とすべきです。

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noname#4932
noname#4932
回答No.14

自分自身の人生に於いて、生きる意味を求めることを止めて久しくなります。まして他の方の人生まで私は面倒を見ることが出来ませぬ故、このご質問に回答する資格があるかは解りません。 ただ私自身が生きている喜びを感じた瞬間は多くはありませんが確かに存在しますので、回答させて頂きます。 とはいえ、取るに足らない事です。 自分自身が「無」あるいは「空」になったと感じた時。 いえ、こう感じた瞬間すでにそれらは霧散しております。「無」であり「空」であるその時は、当然喜びなど感じてはおりませんが、夢中になって何かを作り上げようとしているその時そのもの、それが何か形ある物であっても、文章であっても、思考であっても、さらには仕事であっても、雑念の多いこの私が、それ一つの事に集中できたこと。それ以上の喜びを私は知りません。 私にとって、けして日々が愉しいわけではありませんが、悲しい事を悲しいと感じ、不快な事を不快と感じられる事もまた喜びです。 生きる空しさを考え、不愉快と感じる事や心の苦しみ、憂鬱、これら全て人が生存しているからこそ生まれるものだと思います。 孤独もまたしかり。 つまらぬ言葉を綴ってしまいました。どうぞお捨て置き下さい。

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  • mktoolll
  • ベストアンサー率22% (20/88)
回答No.13

哲学という学問そのものにとらわれたとき、人は本当の哲学を築けなくなる。 あなたは学問という分野においての哲学については詳しい感じがします。 しかし、人がそれぞれに思う哲学は、人の数と同じだけ存在しはしないだろうか? 学問によって定義付けられた「人の思考」というものは本来皆生まれながらに備わっているものですから、学問という分野における哲学を説明できなくとも皆本能的に知っている(感じている)。と私は思っているのです。 私は、歌うことで喜びを感じられる。人生に意味など求めてもいない。 このカテゴリーが歴代の哲学者たちの哲学を検証もしくは伝承するためのみの場であるのであれば、一切の矛盾は許されないとも思っていますが、この場は自由度があっても良い場だと私は思っているので、できるだけ哲学者の言葉ではなく私自身の中から湧き出る言葉で書き込むようにしています。あなたにはあなたの哲学があって当然ですし、私には私の哲学がある、決して同じである必要はない。 ギリシャ語で「知恵を愛する」という「哲学」という言葉。あなたがむなしさを覚えるのは、あなた自身が知識にとらわれすぎているからではないだろうか?限りなく架空に近いこのインターネットという世界では、あなたの本質などは想像もつきませんが、文面を拝見してそういう風に感じました。一緒に知恵を愛し楽しもうではありませんか!人生に意味があるかないかではなく、いかに見出すかが重要であると思います。様々な人生がありますから無責任な言葉も簡単には言えませんが、もっと自由にあなたの感じたままの思いを書き込みされれば良いと思いますよ。哲学とは本来自由なものなのですから・・。

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  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.12

お名前を書かないで、というご要望ですので固有の名前を書くことは遠慮いたしますが、同じ質問に回答することが多く、より丁寧な回答をなさるあなたと対話できる機会を得て私は今欣喜雀躍しております。この私のアドバイスの中ではさまざまなことをわざとあいまいなまま書かせていただきます。とまあ、前置きはさておき、少しく人生の先輩としてお話したいこともあります。 正直に申しますと、私はあなたの回答を読ませていただき、常にその丁寧さと正確に答えようとする努力には感心しております。そこまで書く必要はないだろうと私が判断し割愛したものについてもきちんと答える真摯さには、同じく学ぶものとして見習うべきであるとは思います。 しかしながら、その真摯さがあなたの「空しさ」の依ってきたる所以であると思われます。あなたの書かれた回答をきちんと評価できる方がこの「教えてgoo」または「OKweb」には存在しないのではないか、という疑惑が存在しあなたから離れないのではないかと推測いたします。たとえ、それがポイントという形で示されたとしても・・このように言葉にすること自体が無意味でもあるのですが・・ おそらく私とあなたとの相違は、私の方がちゃらんぽらんであることでしょうし、人生経験の長い分(これも推定ですが、同じような段階を私も通ってきましたから)だけさまざまな点での余裕があるのではないかと思います。とは言え、私もここまで「いい加減人間」になるために修行をしましたよ。世間の中で生きていく為にね。 言葉の専門家として、言葉の持つ力もそしてその空虚さもあなたはお判りのことと思います。私があなたの師僧であれば「喝」と一言ですませてぶん殴るところにあなたは今いると思われます。しかしながら理性の徒としてはあくまでもロゴスにたよらざるを得ず、その限界を感じつつも言葉を発せざるを得ません。しかし、それもまた「空しさ」という沼の中に消えて行かざるを得ないのです。とすれば私にできることは、あなたが自分で抜け出せるかどうか見守るだけのことです。 それにしても、こうしたモノローグの機会を与えてくれたことに感謝いたします。ありがとう。

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  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.11

僕はあなたが抱える問題を、自身の中に持っています。 不確かな存在の位置付けであるとか、生きることの意味であるとか… 幾多の人間がその命題に思い迷い、あるものは虚無の深淵に陥り、またあるものは希望の高峰を見出したことでしょう? 「我思う故に我あり」は、徹底的な懐疑の末に見出されたデカルトの解とされています。しかし、この解とて思考する人間存在を位置付けているように見えて、その実、それを「我あり故に我思う」としたとても、この言葉を否定し去るわけには行かないことでしょう。 これではせっかくの至言も意味をなさないように見えますが、思考の意義について思いを巡らすと、別のものが見えてくるように思えます。というのは、思考の価値は、「その人がその人なりの立場でそう考えると、何がもたらされるのか?」によって評価されうると考えられるからです。きっとデカルトは先の言葉により彼が抱えていた命題に見切りをつけることが出来、次のステップに向かうことが出来たのでしょう。 人の営みの中で、思考は行動と同等のものと位置付けるとします。行動は目に見えて分かる事柄ですから、この道を左に曲がると行きつけの飲み屋に辿り着くということは、まぎれもない事実として確認することが出来ます。思考にもそのような面が同じようにあるのだということです。 小林秀雄は、「孤独は妄想である」と述べています。おそらくは深い悔恨の情から孤独感に苛まれていたときに得た、彼なりの解であったと思います。その解は普遍性を持つものだと考えますが、解を得たことは思考における前向きな行動と評価できるでしょう。前向きとは、ある目標に向かう積極的な姿勢ですが、このときの目標は、自身の魂のより健全な存在、とも表現できると思います。 僕は貴方の知性に対し尊敬の念を持っていますが、同時に貴方の思考にたいして目標を見失った危うさも感じています。 あなたに今必要なのは、自身の思考そのものに対する一歩離れた大らかな視点、そしてあなたが持つであろう魂の健全な目標だと思います。 回答にはなっていませんが、何かのヒントにしていただきたいと思いました。 どうぞご自愛のほどを

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noname#3035
noname#3035
回答No.10

インプットばかりになっていませんか。 アウトプットする時期かもしれません。 今の自分の気持ちを何かで表現してみてください。 絵を描いてみる。 映画をつくる。 文章を書く。 ロックを歌ってみる。など、など。。。 魂を放り込めるよう様なものでないとだめです。 自分の魂が形になり、誰か見知らぬ人の心を揺り動かすのです。 生きるとは、そういうことです。たぶん。 えらそうなこと言ってすいません。 見当違いかもしれませんね。 でもあなたの作品みてみたいような気がします。

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