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世界を作ったのは私
世界を作ったのは私 この単純な結論に至りながら、なぜそう思うのか今一つピンときません。 鍵穴から世界をのぞいている様なもどかしさがあるので明確に結論を導きたいと思います。 世界を作ったのは私である理由、根拠は何でしょうか。 そんなはずはないという反駁でも結構です。
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- sheep67
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NO16のものです。 やっぱりちょっと補足です。 自覚の例ーー「アメリカに行って、ああ、日本ってこんな欠点があったんだなー、長所があったんだなー、比較するとよう分かるわー」というやつとか カラオケで歌った声をテープに録音して聞いたら、ショックを受けるとか、・・・です。 本当に現実を思い知ります。 世界を作る、について。 作る、というのは意志ですよね。自分の意志、意識、それを作成する自分、人格、という話かなと思います。 となると、意志はなぜ生まれるか、という話、意志の定義、が問題に感じました。 意志と環境は等価です。 一足飛びですが。 なんの環境の要請もないところに意志は生まれないです。意志は明確に自分のものであり、絶対ですが、 同時に環境状況による条件付けがないと、絶対に起こらないものです。そういう意味では相対的です。 環境によって意志は、意思を持つ自我は作られる、といえます。環境と自我は、全く全く別物ですが、でも、相補的です。どちらかなしでは成立しません。 逆に言うと、何かしら要請される環境がある=自分が必ず成立する、といえます。(あえて言い切りますが) これは、いや、言い切れないでしょうか? この関係が成り立ってるのはたしかですが、そこから意志が成立するには、まだ他の要因があるとは感じてます。 他の要因とは、習慣性ーつまり物質を媒介にした脳の記憶ー集中を無意識に維持するのも、記憶そのものですが、 記憶に短期記憶長期記憶などがあるのはご存じと思いますが、その要素はきれいに抜けてます(どこまで考えを手広く広げるかの問題だと思いますが) そのあたりが・・・意志の形成について、あるいは、能動と受動は等価なんだとかいうことについて、それらの2つは、まさに視点の違いそのものであり、直観の違いとも言えると思いますが そのあたりが何か抜けてるような気がしたので書いてみました。 ん~~~~、書いても書いても不完全燃焼~~
- sheep67
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こんにちは。 世界を作ったのが私である理由というより、世界を作ったのが私であることがぴんとこない理由ですよねー。 まともに答えるのはぼくはできないですが、似たようなことはいくらか考えてるので、参考になるかどうか・・・ 以下は持論です。知っておられたら済みませんが。 世界=人格(私)、と言うのは、下の方も書いておられますし、ご存じと思いますが。イコールは、全く同じではなく、質的に同じ、等価、というニュアンスですが。 最近こう思ったのです。「しゃば、この世、現世、というものを僕は感じ取れる。と言うことは、それを捉えるこの僕本体はこの世の存在じゃないなー」と、こう感じました。 もちろんすべての人がですが。 話が飛躍してますが。 ーーーーーーーーーー集中の階層の話 で、それを認識する自分は、強く集中してるときです。 人間は集中の質の変化によって、人格が変化する、ということになります。つまり、自然な集中=人格=世界の階層がある、ということですが。 例えとして、今何か用事をする僕、がいます。これが集中1とします。 役柄を演じる僕(ペルソナ、演技、学生など)ー集中2. 現実の僕ー集中3 悟り、神(理想の自分と世界)ー集中4、 ととりあえず決めます。 とりあえずこの4段階に応じて、それぞれの段階で、人格とそれに対応した主観世界、が成立します。 例えば集中2で、学生をやりながら、教科書を読むのは、集中2の状態で集中1を行えます。 つまり、段階が上の状態では、それより下の集中の段階を同時並行して作業できます。 同様に、現実の自分の中で、役柄の自分を演じて、その中で一つのことに集中できます。 それぞれの段階にはそれぞれ人格と世界が対応します。 自分の基盤になっているところの集中の数字が上がるほど、心、と自分が接近する、と思っています。 ーーーーーーーーー自覚の仕組みの話 ぴんとこないのは、実感がない、という意味だと思うのですが。 わたしが世界を作った+世界が私を作った=「私=世界」と、まとめられると思います。何か般若心経か何かでこういう表現はみた気がします。この2つが実感として同時にそろうことにより、上のステージに行くことができると思います。 この等式は、いわゆる「自覚」のメカニズムです。上のような大げさな場合だけでなく、一般に自覚とは、自己同一性&自他同一の認識ですし。また同時に、心理学でいう「投影」のメカニズムが、自分の内面が世界に映し出されているだけでなく、世界が、自分の脳の中に、自分となって映し出されている、という2つの投影のことを実感することでもある、と思ってます。 一般的な自覚を感じるときにおいても、自分が外部でありながら、外部が自分である、という2つの認識がそろうことによって、自己同一感覚が発生し、それによって、認識の対象だったものが、リアリティー感覚に変化します(現実になるという意味です) 例えどんな小さな自覚でも、それが起きるときは、循環が起こります。 つまり、自分が外部の何かを認識しに行っていたのにー認識のベクトルが、自分から外部に向けて発生していたのに、ふと気付くと、外部の大きな自分が、今ここにいる小さな自分を認識する逆のベクトルが存在することに気付く、 この出て行ったものがぐるっと戻ってきて、2つの認識の矢印がそろうことこそが、リアリティーだと思っています。 2つの矢印がそろうことによって、集中が一段階上がる、それが、対象としての感覚が、自分のリアリティー感覚に変化する瞬間、といえます。 言い換えると、認識の対象が、もう対象ではなく、自分自身になるときです。 (ちょっと言い方変です、自分自身であり、同時に違うものである、という感覚です) それは、言い換えると、自分と他人はちがう、という感覚と、自分と他人は同じだ、という感覚が、全く同時に成立するフィーリング、といえます。 実感がないのは、世界が私を作った、の方が感覚として捉えてないから、かしら? そもそもそういう僕もまだなのですが。 ーーーーーーー肝心の質問に対してです(上の2つをふまえて) 鍵穴からのぞく=想像ではそう思うんだけど、というニュアンスかと思います。 それは、上で言うところの集中の階層を、極端に言えば意識的な集中で、一時的に数字の大きな状態へ移行している、と思います。瞑想もそうですが。 暫定的に、意志の力で自分の人格を引き上げるのと、本当に実感としてより上の段階にいるのとは、ちがうと思います。 その感じが、鍵穴? という言葉に表れてるのかもです。 鍵穴、というのは、小さな穴、という意味です。これは、精神集中を表します。 つまりそれは瞑想などと同じで、一時的なもの、借りの住まいじゃないかなと思います。 自分の意志望みと、まわりの状況に対する解釈の2本がそろったときに、それは想像ではなく、実感になり得る、と自分では思ってます。 あと心理的には、こんな現実なんて嫌いだ、という思いがどっかにあるので、受け入れられない、という下の人も書いてる解釈もわかりますが、 鍵穴の付いている扉、その扉を作っているものは、受容できていない気持ち、嫌い、ということかなと思います。 つまり無意識の拒絶感覚が、自分と世界を分離しますし、そもそも自分と現実を分離することで、自分と現実を作成する制作者だと思ってます。 自分=世界、と思うということは、その嫌なやつとも嫌なこととも自分が一体だ、と感じざるを得ないことになるので、そんなんいやや、と僕は感じてしまいます。無理に想像したらですが。 だから、その世界を作ったのは私、という扉の向こうの状態と、今の自分とを切り離したい、その象徴が扉(壁)になりますし、その扉を作ってるのはそもそも自分です。それは、扉の向こうに行きたくない、と言う気持ちでもあるかなーと思います。 意識では、そう思いたがり、無意識では拒絶する、2律背反の状況だと思います(人類みんなそうですが) 集中3の段階では、世界=「現実(この世、娑婆)」それに対応する人格が、今ここにいる自分、ということになりますが、 自発的な自然な集中度が上がり、集中4になると、客観世界(現実なんてこんなものやん)、というのと、主観世界(理想はこんな世界であるはず、「現実に」この世はこういうもののはずだ)という2つが一致して、それは主観でも客観でもない、2つを内包する完全性に変化する、と考えてます。 その状態では、もちろん世界も私もあるのですが、それは今僕が感じてる世界とはちがうフィーリングのはずですし、僕自身も、今感じてる僕とはちがうフィーリングの僕になってるはず、と想像してます。 世界は、ただの世界から、「僕が居る世界」に変わるし、僕は、ただの僕から、「世界にいる僕」に変わるはず、と思います。相補性と個別性が両立して欲しいと思います。 その自然な集中度の上昇=無意識レベルの集中の上昇は、解釈の変化による、集中の上昇だ、と思っています。自分や世界に対する。 以上は、ぴんとこない理由の解釈ですが、 腑に落ちない点は多々あると思いますが、細かい詰めは、まだ現在やってるところで、言ってる僕もよく分かってません。なので、不完全な説明になります、というより、参考にすらなるかしら? あやしいですが・・ 用語の混乱もあります。論理的にちょっと変です。あとまだ直感に頼りすぎで、いろいろ欠けてますが、ただ上に書いた部分に限ってはまあ問題ない、と思えるので書いてはみました。 これを書きながら自分の考えをまとめてみれて、整理してみました。あしからずですー。
お礼
ご回答ありがとうございます。 少し驚きました。 案外哲学的なことを理屈立てて説明できる人は少ないです。 経典をコピペしたような人や、私のように自分で感じたもの意外は信じないタイプのどちらかが多いです。 回答者さんはその両方の手綱をうまく操っているようです。 哲学を一般化することは案外今の世の中では必要とされていると思いますのでいろいろな意味でよろしくです。 私はこのカテにおいて『答え』は期待していません。 神様でもない限り答えを出せる人はいないでしょうから。 回答に対するお礼を書く段階で自分の考えをまとめたり、考え込んだりすることを目的にしています。 それは回答する人も同じかもしれませんが。 同じ事実(私と世界の関係)を見ているのであればいつか共感しあえるかもしれませんね。
- mmky
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[世界を作ったのは私である理由、根拠は何でしょうか。] 説明はちょっと長くなりますが、その根拠をお話しましょう。 遠い遠い遠い昔に根本仏は念でこの世界を創ったんですね。その後、宇宙のある一点から投網を打つように根本仏の一部である生命の網が放たれました。その生命の網の太い幹(ロープ)の1本が太陽系にも伸びてきたのです。その1本の幹が数十億という年月をへて木のように無数に枝分かれをし、その枝もまた無数に枝分かれをし、その小さな枝は多くの葉をつけました。生命の木といいます。ここでいう葉とは個人個人の霊的主体のことです。個人個人の霊的主体は独立して創られていますが小さな枝には一群の葉がついています。また他の枝には一群の葉がついていますが枝は同じ幹から出ています。太陽系(地球)の生命の網の太い幹(ロープ)は長い年月で巨大な木になっているのですね。数百億の葉をつけ、そのうちの数十億の霊が肉体を持って地上で生活しています。 さて、あなたは今、例えれば地上にある葉の一枚ですが霊的には枝をたどって幹をたどって網を通じていけば根本仏につながっていますから、心の記憶の奥の奥にはこの世界を創ったことの記憶があるはずですね。これは誰しもあるはずですが、あまりに古いことなので皆すっかり忘れているだけですね。数千年に1度、「仏陀=太陽系の生命の幹そのもの一部」が地に現れ、この事実を教えます。現代はそういう時代でもあるので、あなたも感じているのでしょうね。 つまり、根拠は生命の木の末端ですね。それゆえ鍵穴から世界をのぞいている様というのもわかるでしょう。、「仏陀」を探して智恵を磨くとよいでしょうね。もう少し明確になると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私が考えていたより話が大きいのでまだその域の理解には程遠いのですが。 一つ質問しても良いでしょうか。 霊的存在としての葉はなぜ沢山の数があるのでしょうか。つまり数が多い、増えるということは何を意味しているのでしょうか。
- jxamui2665
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ピンとこない理由は、 作り方を知らないか、または、忘れてしまったからではないでしょうか。 世界を創造した存在が全知全能である必然性はないし、 全知全能である存在が世界を創造するとは限らない。 要するに、作り方(のすべて)を知らなくても、作ってしまうことが ありうるということです。 >世界を作ったのは私である理由、根拠 を質問者が知らないのは、何故でしょう? やはり、忘れてしまったからではないでしょうか。 なぜ忘れたのか それは、作ってしまった世界が失敗作だったから。 修復することもできないまま、世界はどんどん拡大いき 完全に制御不能になってしまった。 で、それがトラウマとなり、 世界の作り方とか、どうやって作ったのか、などを 記憶から削除したのです。 だから >鍵穴から世界をのぞいている様な もどかしさを感じているのだろうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 思い出せないというのはあたっています。 夜見た夢を思い出せない、そんな感じです。 こんな質問を読んでも誰もピンと来ないでしょうがこれは事実なのです。 質問者は私ですが、これは誰もが該当することなのです。 これは同時に回答者さんが世界を作ったともいえるのです。 簡単な例で言えば自殺。 他人から見れば自殺するような出来事ではなくても、当人にとっては死ぬほどの事のなのです。 受験に失敗したなど同じ事象のはずが個々人における世界の中では全く違う出来事なのです。 同じ地球上に生きていながら私達は全く違う世界で生きています。 私達は世界を共有することは出来ないのです。 ゆえに古臭い台詞ではありますが世界を変えることが出来るのは私なのです。 この簡単な理屈が分かっていながらピンとこないのはなぜなのかと思うのです。
言葉が抜けてました、 そう、錬金術者とか魔術師の固有結界の能力を持った輩が 地球に指の数か片手の数かいるかも知れないね。 凡人はそれらの輩が生み出された物体に過ぎないかもね。 (あっ、私は誰かに想像されたのかも・・・、ハっ・ハっ・ハーあっ。 代理でカキコしたか・・・。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 そう、全くもって普通の反応です。 地球に指の数か片手の数かいる輩に付き合う必要はないでしょう。
世界を作ったと言うのは、現実の世界を脳の中にバーチャル化したに過ぎない。 と、逆もまた真なりか?。 願えば、現実に成るとか。 しかし、60億とか言われる人間がそれぞれ好き勝手念じた世界が、 捩れ縺れてが現実か、 人間以外も念じてるかも。 となれば、ホント何人かリーダ的な輩が世界に脳で描いた世界を現実に反映させる輩がいるかも知れない。 ジェントルメンという登場人物が居る話は参考に成るかもね、 続編の話で、『ジェントルメン復活計画』が参考に成るね。 さて、私とは誰?、ジェントルメン?かな。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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生まれさせられてきている、私の、私を含む(私を含む客体)世界。そういう意味で、見つめ、紡いでいる私の世界ですね。 何層かに亘り、出てきている意識の基底に大いなる意識の大海。光とvibrationと意識の海。ただ唯一。一なる存在。唯一なる存在。 みな同一。個々すべてが。個々すべてが、客体対象たる世界、それぞれが紡ぎ、眺めて、構成、意識している。 その手法、用具がラージャのヨガに詳細です。そこに客体対象体として構成されている、経験の自分、経験客体。用具としての。 削除されますので、WWW.yogananda (Self-Realization Fellowship Official) をご検索され、出版のバガヴァッド・ギータに詳細に述べられています。当該図書は斯世界では権威を与えられてはおります。 信仰するかしないかの問題とは異なります。自分というのはある意識の経験・知覚の結果に過ぎない。 世界はそういう自分を含む紡ぎの世界でしかない。ということです。つまりは。 shift-2007さんはすべてであり、私であり、私はすべてであり、shift-2007である。ということです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私とは何か、やっぱり其処を外す事は出来そうにないですね。 世界は私ですかね。
- 相談 蟻(@soudan-ari)
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ズバリこれです。⇒ 質問番号:4541323 厳密に言えば、作ったけれども、現在進行形ですね。今後どのような展開になるかは不明。実に無責任な質問の類です。 鍵穴⇒パソコンですよ。インターネットに繋ぐ操作。パスワードも必要。 根拠は無し。だって、このコーナー自由参加でしょ。単に、作ってみただけのゲーム感覚ですかね。 そんな答えでは無いとする反駁、大歓迎です。正解者には何が景品は?
お礼
ご回答ありがとうございます。 ??ちょっとご回答の意図が分かりません。 >実に無責任な質問の類です。 質問における責任とは何を指すのですか。
主体的に何かを作る時には原料と道具が必要だと思います。また作ろうとしているものががあらかじめ想定されていなければならないと思います。原料は自分が生まれる前の世界として道具は自分の体だとすれば体の一部である脳の中に描かれた世界が産物ですが、この産物は初めの世界とは異なると思います。世界という同じ単語を使うことが混乱の一因ではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >初めの世界とは異なると思います。 これが自分と他人との違いであり、戦争、争い、犯罪の原因ではないでしょうか。 厳密には私たちは世界を共有することは出来ないのだと思います。
- yayuh
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世界は私であり、私は世界。 がシンプルかと思います。 認識=存在ですから。 「作る」という単語をどう捉えていいのか悩みどころです。 実在のある塊を世界と意味付け、ある塊を私と意味づけているのが真実から観た世界ですから、もし、実在を私と意味つけるなら、「世界を作ったのは私」と言えそうですね。ただし、私は何が作ったんだというと、実在は実在ですから、この場合、「私を作ったのは私」になっちゃいますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「作る」という単語をどう捉えていいのか悩みどころです。 まさにそうですね。 私の作った世界よりも高次の世界があるならそれもいいでしょう。 ただ、私にはそれを認識することは出来ないでしょうから、まずは自分のテリトリーをきっちり認識したいと思います。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >作る、というのは意志ですよね 私が感じるところではそれほど明確な意思は無いように思います。 作っているのは私ですが、作ろうと思っているわけではないといった感じです。 尻尾と頭を別々に考えないで、体という物の一部分、一機能と考えるなら、 意思と環境もなにか大きな本体の一部分かもしれませんね。 世界がなければ私も恐らく存在しないでしょうから、世界と私は表裏一体といえるかもしれません。