賛同します。どちらも、釈尊の教えを、その時代に説いた仏法だと思います。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるに世の人つねに言わく、悪人なを往生す、如何にいはんや善人をやと。
(「歎異抄」岩波文庫1992,45頁)
善人でさえ、往生できる。だから悪人が往生するのは、当然なのだ。
だが、世間は言う。悪人でも往生できるのだから、善人もできる。と。
世間の言う事は、正しそうに見えるが、他力本願の趣旨とは異なる。
なぜなら、自力で善をなす人は、ひたすら他力を頼む心を欠き、阿弥陀如来の本願とは異なるからだ。
だが自力の心をひるがえし、他力を頼めば、真実報土の往生をとげられる。
煩悩具足の我々は、どうしても生死の定めを離れられない。これを阿弥陀如来は、あはれみたまい、願を起こされた。
その本意は、悪人成仏のためなのだ。
これは、『自力を尽くした果てに、自らの内にある悪を嘆く人を、阿弥陀如来は救って下さる』と読めます。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し・・・始めて解脱を得、物とかかわらず、透脱自在なり。
(「臨済録」岩波文庫2001、97頁)
仏にも、祖師にも、羅漢にも、父母にも惑わされるな。逢った者をすぐ殺せ。
自らの心にある、仏性を信じるのだ。(38頁)そうして自らと、一切の清浄を悟った時、それは空であり、それは仏である。(55頁)
般若心経の『色即是空』とは、この事で、
「自らを信じ尽くした果てに、阿弥陀如来と一つになる」と読めます。
浄土真宗も、禅宗も、その時代に釈尊の仏法を、僧が説いたもので、
『篤く三宝を敬え。三宝とは、仏・法・僧なり』と聖徳太子が仰ったのは、これだと思います
お礼
御回答有り難うございます お礼が遅れて申し訳ありません参考になりました。