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他力本願と自力本願
檀家のお布施や葬儀そして法要により、生きていく僧呂達、 昔は法律という物が無く、自由に悪い事をしていたが、今 は法律が有り、取り締まる警察がいる。お寺の住職も檀家 への教育さえしない。何故ならスマートホンやダブレット、 パソコンからの知識が得られるからである。NSNでの繋が りも情報交換は出来る。 例:病院の看護師長が若い看護師に教育しても、「いいで すネットで検索し調べます。」と言われ、長年の経験知識、 看護師人生は何だったのかと嘆いていた。 この様に、便利になりすぎて、良い面もあり悪い面も有り ます。特に、高齢者はネットを使えないので、馬鹿みたい に昔の古い仕来りを守り、お寺にご奉仕している。 質問です。他力本願(他の力に頼る)と自力本願(自分で 積み上げ自分を頼る)どちらを好みますか?
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>他力本願(他の力に頼る)と自力本願(自分で積み上げ自分を頼る)どちら 他の宗教は知りませんが、事佛教に限れば基本は<他力本願>でしょう。 でもこの用語は、法然上人や親鸞上人が、自分たちを特別視するために設けた基準です。自分たちは<他力>だけど、あんたたちって<自力>だね。頑張ってね。こういう感じです。これを判釈(ハンジャク)と言います。弘法大師も「密教」・「顕教」と区別しますね。これも判釈です。 よく道元禅師の教えや、日蓮聖人の教えが<自力>に分類されますが、これはあくまでも法然上人や親鸞上人からの区別です。 佛教では「信心」が強調されます。特に日本佛教は、そうです。その信心は、一体どこから来るのか。それは佛から授かるものです。この点は、どこの宗派も一緒です。自分で信心を作る事など出来ません。またそう捉えられる人だけが信者でいられると思います。自分は一個のか弱い存在。だから佛の大慈大悲にすがろう。 そういう事で、信心そのものが「他力」以外の何物でもありません。
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- 薫子(@kao-ruko)
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他力本願を好みます。 他力本願≒他力(周りの人)に感謝すること だと思っています。
お礼
有り難う御座いました。
補足
人とのふれあいで助けられて居る。その通りだと 思いました。自力で生きる事は難しいとも思いま した。
- jack-a3
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補足ついてたのでまた出てきました。そして先ほどの回答には誤字がたくさんありました。推敲が不十分だったことお詫びします。 浄土は「清浄国土」の略で、仏が住んでいる世界です。その名の通り一切の煩悩や穢れがない清浄な世界であるとされています。しかしあくまで仏の下で解脱を目指す世界なので、我々がイメージするいわゆる「天国」とはちょっと違う世界です。 それに対して、いま我々が住んでいる世界は「穢土」で、煩悩で汚れた凡夫が住む世界とされています。 浄土宗の教えでは、阿弥陀の教えを信じて『南無阿弥陀仏』と唱えることで死後に浄土に生まれ変わり、そこで修業することで救済される、という教義になってます。 「南無」は「帰依します」という意味で、帰依とは「すぐれたものを頼みとして、その力にすがること」を指してます。つまり南無阿弥陀仏は「阿弥陀の教え・慈悲を信じてすがります」ということです。 浄土真宗の教えではさらに一歩進んで(あるいは退化して)阿弥陀仏の救いを信じるだけで死後は仏になれる、という教義になっています。 日蓮宗では「法華経」がこの世の真理であると考え、「南無妙法蓮華経」を唱えることで死後に浄土に行けるとしています。 いずれにしても今の世界、人生では救済されないのが仏教です。 仏教は『この世に生きるのは苦行である』と考え、この苦行の輪廻転生から抜け出す=解脱を目指すのが基本理念です。 これくらいは仏教を解説した本に書いてありますし、その辺のお寺の僧侶や住職に聞いても教えてくれるでしょう。彼らは積極的に布教しないですがこちらから訪ねてきたものを無下にすることはないと思いますよ。
お礼
有り難う御座いました。
補足
清浄国土では仏が住んでいて、煩悩や穢れのない世界。 私が思うには、仏だらけだと息がつまるような、欲が 無ければ生きる気力も無い、そんなイメージをしてし まいます。いざこざも喧嘩も無い、ただただ呆然と生 きている抜け殻の様な、恋も無い遊ぶことも無い、つ まらない刺激の無い、そんな世界を思い浮かべてしま います。
- jack-a3
- ベストアンサー率37% (302/797)
ネットで知識を得ることを「自力本願」と言われるのはとっても違和感あります。ネットに落ちてる情報だって誰かの経験やスキルじゃないですか。それに頼るなら、結局は他力本願じゃないですか?むしろ何でもすぐにネット検索して済ませちゃうのは、より他人本願が進んでいると言えなくもないように思います。 阿弥陀如来は「この世に生きる万人に対する無条件での救済」を約束して如来になりました。具体的には阿弥陀如来がいるとされる「浄土」に生まれ変わり、そこで阿弥陀の下で修業することで解脱できる、としています。 そして浄土宗や浄土真宗では「我々のような凡人がいくら修業しても悟りを得ることはできないよね。だから、まずは浄土に生まれ変わることを目指しし、阿弥陀如来の慈悲の力にすがって解脱しましょう」っていう考え方をします。とても奥ゆかしくい考え方て、ある意味で日本人らしいな、と思います。 で、この考え方が出てきた浄土宗は奈良時代にできた宗派です。つまり日本人は1300年も前から「他力本願」な民族です。
お礼
有り難う御座いました。
補足
浄土に生まれ変わる。現世界では浄土は無い、 死んでから生まれ変わると言う事。浄土とは 楽しくて贅沢で苦労も苦痛も無く、のんびり とした世界なのでしょうか?生を受けて73 年、阿弥陀如来から、救済されたことは一度 も有りません。修行して慈悲にすがるには僧 呂に成り人生を捧げる事でしょうか。解脱す ると言う事は、生きる事を辞める事でしょう か。
はい。質問サイトで他人に介護して貰うのが大好きです。
お礼
有り難う御座いました。
補足
他力本願で浄土の路を行く、お任せ介護で極楽へ 旅立ち下さい。
- toka
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他力本願とは自力本願と対立するものではないと考えています。 仕事や家事など、生活の大部分は自力です。ただ、一人の人間には肉体と頭脳というものがあり容量がある以上、動いてできることにも調べて得られる知識にも限界が必ず出てきます。 いくら知識を得ても、それで他人を動かせないのであれば、それもまた自力の限界でしょう。 そういうふうに自力の限界を知った人が、お祈りをすることで他人や社会がいかに自分を助けてくれたかを悟り、それを受け入れるのが他力本願という境地です。 ネットで調べれば十分生きていけるという考えでいるうちは、お寺やお坊さんなど別になくても困らないでしょう。ただ、そのネットに書いてある知識も、誰か他人が付けてくれた知恵だとわかっていればそれでいいのでは。
お礼
有り難う御座いました。
補足
全てを他人任せにするのでは無く、自力で 調べて学び、他人の智慧を自分のものにし ていく、他力本願でも有り、自力本願でも 有り、でしょうか。
お礼
有り難う御座いました。
補足
人間は弱い生き物と解っています。何かに頼ら なければ生きていけない。古来日本は神代の時 代神様を心の寄り所としてきました。そこへ仏 教が日本に渡ってきて、神も仏も頼る様になり ました。令和の現在、NSN等で知人を作り心の 友としています。親友がいれば何時も何処でも 同じ行動を共にしていれば、心強い寄り所に成 っています。何かにすがる、心の寄り所は変化 して居ると、私は思いました。他力本願です。