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戦国毛利氏の版図拡大について

いろいろなサイトで調べると、毛利元就の最大版図は100万石程度とされているようですが、毛利輝元の代には175万石~200万石程度になったとされているようです。 毛利隆元は元就より早くに亡くなっているので、元就が亡くなった1571年から織田信長に攻められ和議を結ぶその後の10年ほどの間に、輝元が版図を倍近くに拡大したということでしょうか? 毛利輝元というと優秀なイメージはないのですが、そういう解釈でいいのでしょうか?

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  • tanuki4u
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回答No.1

簡単に言うと、織田=毛利の中間地帯のグレーゾーンが毛利ファミリーに入ったってことね。 宇喜多が60万石程度 因幡の山名氏が20万石程度 播磨で30万石くらい 東からの織田の圧力が出てきて、「どうすんのよ、織田ってきつそう」ということで、毛利ファミリーになりました。 播磨で言えば、秀吉が来た段階で、独立といえば独立勢力だったのが、「やっぱ、弱小勢力じゃだめじゃん、どっちに付こう?」で、もめてますね。 因幡ですと、その辺のグダグダは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E5%9B%BD 戦国期の版図というのは結構いいかげんなもので、村レベルで両方所属なんてのが、ゴロゴロありました。領主レベルでもどっちつかずみたいなのが結構ありまして、結構あるものですから、九州の状況で言えば、龍造寺がでかくなったり大友がでかくなったり島津がでかくなったりしてます。立花宗茂が大友の家来だったのにいつの間にか独立大名になったのは、服属関係がいい加減だったからです。 まぁ歴史は勝者が後付でつけるものですので、たとえば北条家の最大版図は、氏政です。

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質問者

お礼

返事が遅くなり失礼しました。 大変参考になりありがとうございました。

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