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現代の黙示録

ネットの動画で衝撃を受けました。 インドネシアのポソという街での宗教戦争の様子を収めたものです。 動画中でとくに痛ましいのが、残虐に殺戮された幼い子供たちの遺体を親たちが取り囲む凄惨なシーンです。彼らの悲痛な嗚咽や虚ろな表情をもう僕は忘れられそうにはありません。 質問です; (1)宗教が現代もなお神の名の正義のもとに、このような残虐な殺戮をもたらしたことについてみなさまはどうおもわれますか(特に何か信仰されている方)? (2)こうした殺戮をなくすには宗教の何を変えなくてはいけないとおもいますか?

みんなの回答

回答No.8

大切なことをたくさん伝えてる宗教からは学ぶべきこと、学べることはたくさんあるかと思います。 でもむかし、 このことを知ってから私は宗教が組織として機能してきた歴史に疑問を持ちました。 ↓ ある伝統的な宗教の中でのことです。 その組織の一番偉い人達から一般の信者までが読む雑誌にて、 その宗教を非難していた人がかなり残忍な死に方をしているのを見て喜んでいる記事があったのですが …、 いつまでたっても それを訂正したりする人が その何万いや何十万の人たちに一人もでてこなかったのです。   普段慈悲を説く偉い人たちも ???  おなじだったということです? 信仰ということが 自分で感じ自分で考えることをおこがましいとするような そんな世界になってしまっていることは  これは大きな問題だとおもいます。 そこに抽象的な解かりにくい論理の争いでもあれば、もう一般の信者は何も考えずに自分の宗教指導者の考えとかに従ってしまいます。   この盲目状態は 半端でないです。  そしてこれが慈悲を説きながら逆さまの冷たい心に自ら気がつかない状態にさせてしまっているということなのです。 宗教自体には感謝しますが、 この状態はなんとかしなければならないと思います。 すこしでも すこしでも早くです。 (2) すこしでも 哲学できる生物の力を取り戻させることが大事です。 外からです。 この情報化時代には 可能と思っていますが。  それしかないと思います。         そしてそういう人たちが組織に増えれば、    正義は 真の正義となると思います。    (1) 神とは 権威とは逆の存在だというのが哲学の帰結の一つであると私は思っています。  存在しないに等しいとも言えてしまうのです。 でありつつ愛である存在、むしろ泣いているのは 泣き叫んでいるのは神の方なのです。      このことを ほんとうはもっともっと 知的にも表現豊かに哲学は 語るべき時なのではないでしょうか? 神の名のもとに、なんと間逆のことが起こっているのですよね。 権力、権威?     哲学者達は、いつも親たちとともに、うめいてる存在だと思う。 人間なりにですけど。

回答No.7

おはようございます、dzinovskoさん。 “現代の黙示録”ですか? 【1. インドネシアの医療事情】 http://www.id.emb-japan.go.jp/imu_1.html http://idsc.nih.go.jp/disease/avian_influenza/index.html ↑ これによれば、この国の平均寿命は男性 61.5才、女性 65.3才。 平均寿命の値を下げている要因のひとつに乳幼児期の死亡率の高さがあるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 乳児の死亡原因を見ると呼吸器感染症、下痢、破傷風などの感染症が上位を占めています。日本の場合は、先天異常が第一位で、出血性外傷、低酸素血症、敗血症などの順になっています。それだけ当地では感染症が主体をなし、日本であれば死なずにすむ子供の数がいかに多いかがわかります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ↑ “感染症が主体をなし”と、ある。 “現代の黙示録”-感染症-鳥インフルエンザ…etc ネットの動画はみていませんが、宗教戦争で殺戮が起きたのでしょうか?飢餓貧困、劣悪な環境、未整備な医療…そこでうまれてきた“鳥インフルエンザ”。未整備な医療体制のもとにおかれた人。感染によりバタバタと人が亡くなっていく、治療を受けることなく。現状を見れば隔離し手当てを行う場所も人も薬もない。そこで暮らす者はそんな光景を日々目の当たりにする。死と隣り合わせの現実。「次は自分か…」と。死への恐怖が増大してゆく。増大した恐怖心は他者に向けられ感染者排除とばかりに無差別に殺戮が行われる。一見、宗教戦争とみえたものは飢餓貧困、劣悪な環境、未整備な医療からの“SOS”だったのだろうか。

回答No.6

(1)宗教が現代もなお神の名の正義のもとに、このような残虐な殺戮をもたらしたことについてみなさまはどうおもわれますか(特に何か信仰されている方)? こうなるのは当たり前なんでしょうね。なんせ神ですからね。 (2)こうした殺戮をなくすには宗教の何を変えなくてはいけないとおもいますか? なんせ神ですからね。人間が変えなくてはいけないなどいって変わる相手ではありません。 神は人間が創造したものである 神が人間(万物)を創造したのである これは両方とも正しいのですから、宗教の寛容をもって、みそもクソも だぼハゼ的に取りあえず受け入れてしまえば良いのではないでしょうか。善も悪も、矛も盾もありません。 毎年初詣に参拝する仏教徒が、一生に一度の婚姻の誓いを十字架に捧げる。なんとすばらしいことでしょうか。メタボ対策でもいいからラマダンもやったらいいってことです。 核にあるものはそれぞれかもしれません。しかし、相手を、他を、行動として受け入れているってことはリクツなく凄いですね。今の日本人は。

回答No.5

特定の宗教に関わっている者の一人として。  ※ 貴重な動画を見ることが出来たdzinovskoさんと、その機会に感謝します。  さて、私も十数年前、職場の観光としてシンガポール経由でインドネシアに寄ったことがありました。でもその数年後に、この事件があった事は知りませんでした。その後、大きなサッカーの国際試合もインドネシアであったと思います。サッカーは知っているのに、この事件は知らない。ここから幾つかの問いが出てきます。 (1)あの動画は、誰のどのような意図でネット公開されるようになったのか? (2)何故、それが一部であれ削除されたのか? (3)この質問コーナーの動画も削除される事があるのか?(事件後すでに7年位経っているのですが?)  私たちは日本のネット上で、宗教に余り拘らずに見ているし、見る事が出来ます。情報公開が保障されている?(個人情報保護とは違います。社会問題として)その後、この問題は一応2001年12月インドネシア政府の調停で終結したとありました。  更にインドネシアを調べてみると、人口約2億3800万人、1945年に独立宣言以後、ひとつの国として歩んできた。1945年代と言えば日本は、戦後まもない頃。そして今年のサイクロン被害は、10万人にも及ぶ未曾有の大被害だった。これを単なる天災と見るべきか、地球温暖化の影響と見るかによって、その解決は全然違ってきます。災害をグローバルに見る。  日本で起きた宗教戦争は、残念なら余り記憶にありません。内部闘争や分裂は良くあると思います。それは、仏教がベースになっている社会である為か、法秩序や社会性がある程度シッカリしているからか?総合的な結果としてそう言えるでしょう。そうした中で、自殺者が3万人と言われます。このインドネシアの宗教戦争の死者3000人と比較すると、日本人の自殺者が多い事が分かりますが、同レベルで比較する事は出来ません。言いたい事は相対的な視点で見る必要がないのか?と言う点です。確かに、悲惨な惨劇に目を覆いたくなる思いで見ました。私たちの宗教的な視点からは考えられません。自殺する事があっても殺すまでは行かないでしょう。ですから、この事件は宗教プラスアルファの要因で見ないといけない様に思います。逆に、日本の靖国神社をどう思われます?特攻隊としてゼロ戦で戦士した方々。インドネシアでも多くの人が死んだと思います。日本人の心を支えた精神(一部の方かもしれませんが)を宗教心と言う事が出切れば、私たちは太平洋戦争を軽く見ることは許されないのでは?  長くなるので、質問の回答に移ります。 (1)宗教が現代もなお神の名の正義のもとに、このような残虐な殺戮をもたらしたことについてみなさまはどうおもわれますか(特に何か信仰されている方)?  ※確かに神の名の基に行われる戦争は、イラク戦争などで聞きます。でも、戦争を起こしている主導権は、政府や軍ではないでしょうか?宗教家が戦争を起こしている事は私の記憶では余りありません。仮にあるとすれば、戦争を肯定する宗教家と、反対する宗教家が居る事になります。多くの宗教家は戦争を否定していると思います。ナチスのヒットラーは宗教を統制したり弾圧したと思います。その際でも軍の圧力等で従った宗教家も多かったと思います。故に、宗教を同じ枠で捉えるには無理があると言えます。多くの(日本の)キリスト教も戦争を反対しています。多くの歴史が、政権と絡んで戦争になっています。政教分離の原則は本来そこから発生したと言われます。 (2)こうした殺戮をなくすには宗教の何を変えなくてはいけないとおもいますか?  ※私が今週読んだ本があります。「旧約聖書神学要綱」W/ツィンマリと言うドイツの学者が1972年(戦後)に書いたものです。それによると、ユダヤ教と共通する聖書(キリスト教の旧約聖書)に、神の名の基に戦う(聖戦)の事が書かれてあります。その説には、多くの場合武力戦争ではなく、弱者が神の基に強者と戦う戦争として語られています(エジプトとイスラエル人など)。キリスト教でも同じ事をイエスは言っていると思います。そして、これを信じてる人たちが、キリスト教ですね。ユダヤ教もベースは同じですが、解釈までは残念ながら分かりません。(学ぶ必要があるのかもしれません、アメリカではイスラムの増えているとか)  但し、ボソ宗教戦争のようになった場合、宗教を通り越した人権問題にまで発展しているように感じます。そこに、宗教指導者が介在しているならば、神の裁きがあって然るべきと思います。又、信仰は相手を思う(キリストは、敵を愛せと言ってるが)社会活動に展開するように思います。アイルランドのカトリックとプロテスタントの対立もあったと思います。プロテスタントがカトリックに反対したのが、ルターの指摘する(腐敗)だったのですが。その際も戦争があった事は否定できません。アメリカで、イスラエルの神として(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の対話があったとかを、最近耳にしましたが新たな良い時代を期待します。(オバマ次期大統領のような指導者)  参考に閲覧した、ブログを1ヵ所添付します。以上

参考URL:
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/293902cf18d93656ba2bd778ef786ed3
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

宗教のようで、実は生存権をめぐっての争いのようです。 土地に昔から住民がいて、後から新しい人たちが入ってきて住みつき、後から入ってきた人たちが裕福になれば、昔からいた住民は、反感を持つじゃないですか。 アメリカにしろ、オーストラリアにしろ、パレスチナにしろ、日本にしろ、先住民と新住民が土地をめぐって争ってきた。 それと同種のことであって、宗教は枝葉の部分じゃないかと思えます。

回答No.3

んー、回答になってなかったらすいません。 これ、宗教の問題ではなくて、人間の問題じゃあないのですかね。 大雑把な言い方をすれば、武器とかと同じだと思いますね。 なんとかとハサミは使いようってね。 要は、上の人間が悪いんでないんの?極端な話。

  • green1957
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回答No.2

元クリスチャンです。将来的にはまたクリスチャンに戻るかもしれません。 そんな自分にとっても、このポソ紛争のような宗教対立が引き起こす戦争については、悲劇とか無情とかのレベルを越えています。 こんな悲劇を生み出す宗教なんて害悪でしかない、と批判する人達がいるのも当然だと思っています。 しかし、あえて言い訳がましい事を申しますと、宗教を掲げて戦争をする人達は、単に組織を束ね、勢力を維持するための道具として宗教を利用しているに過ぎないと考えています。 敬虔なイスラム教徒やキリスト教徒なら、コーランや聖書の中に他者を傷つける教えを読み取ったりはしません。 とは言え、なぜ、このような対立が無くならないのか。 (イスラム教については不勉強なので、キリスト教を中心に書きます。) 問題は、聖書の教えこそが「唯一の真理」である、という信仰が未だ根強いせいだと思います。 まるで、神の奇跡的な力で、執筆者たちのペンが勝手に動いたかのような信仰です。 しかし、実際の聖書は、その指導的立場にあった人や、その弟子達が書いたものを編集した書物です。(当たり前ですけどね) 乱暴な言い方をすれば、様々な時代の預言者(予言者ではないです)が、当時の社会的価値観の影響下の中で「私はキリスト教をこう信仰すべきと考える」ということを記した手紙や文書の寄せ集めです。 当然、現代の価値観や常識では合わないどころか、障害でしかない箇所もあります。 例えば、聖書には同性愛を否定する記述がありますが、二千年前のキリスト教徒が性同一性障害なんて知るよしもありません。 でも今は違います。心と体の不一致や同性愛に関する、医学的な検証も進められています。 しかし、未だに「聖書こそが唯一の真理」と頑迷に信じる(特に原理主義者の)信者にとっては、同性愛=悪のままです。(素直に考えれば、生まれながらに神に否定される人がいる筈ないんですけどね。) 結局、どんな有益な教えも、受け取る側の勝手で都合の良い解釈次第で、いくらでも危険な教えになってしまうのです。 個人的な意見ですが、いかなる宗教を信じるにせよ、まずは真っ当な常識や知識、知性を身につけることが大事だと思います。 その上で、それぞれの教えとの接し方や、それが自分や他者の幸せにどうつながるのかを考えて欲しいです。 誰かを不幸にしたり傷つけたりするような解釈をしている時点で、その人の信仰は間違っているんじゃないでしょうか。 (ちなみに、現在は同性愛差別を明確に否定する宗派もありますし、同性愛者の牧師もいます。) あと、イスラム教についてですが、もともとキリスト教と同様ユダヤ教から派生した宗教ですから、実はキリスト教と同じ神を異なる形で崇めているだけです。 しかし、両者ともユダヤ教を受け継いでいますから(当然ながら)一神教です。なので他の神を崇めることを罪としています。 そのため、特に(キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教の)原理主義者達は、お互いの宗教を自分の人格や価値観を全否定する存在として敵視しています。 ちょっと意見が違うからと言って、父親と二人の息子が三つ巴のケンカをしているようなものです。 正直、本当にウンザリする人達です。 こんな自分が言うのも変ですが、今のところ、仏教が最も弊害の少ない宗教かなと思っています。

noname#80116
noname#80116
回答No.1

 《絶対》の概念を しっかりと 認識することが いちばん 重要だと考えます。  ○ 《Q3061598:〈絶対〉の概念を日本人は理解していないのですか=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html》  ○ 《Q3738300:〈絶対〉の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3738300.html》  次の二つのようにも 提案しています。  ひとつは いわゆる宗教を その組織化の時点において 悪であると捉え たとえば キリスト教会の自己解体を主張するものです。  ○ 《Q4452570:キリスト教の異端・改革派・異教への弾圧・迫害について=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4452570.html》  ――《丸坊主および二百年の謹慎 つまりは 教会の自己解体を迫る》ものです。質疑応答としては 必ずしも 直接の議論が得られてはいない状態です。  ○ 《Q4279578:ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4279578.html》  ――これは 問いつつ おしえを乞うわけですが ブッディスムが 《絶対》という概念を 捉えていない もしくは 認識していても あやふやなままにしておく そのことに 致命的な欠陥があると主張するものです。  この《絶対》の概念をこなすようになれば 特に日本人は その情感のゆたかな人柄と合わせて 鬼に金棒だと思います。    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z  とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。   ○ 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーションを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。