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「死せる孔明生ける中達を走らす」の意味を教えて下さい
先日「レッドクリフ」という映画で初めて三国志に触れる事となりました。 元々の三国志を知らなかったせいもあるのかもしれませんが 私には大変面白かったです。 主役の一人である軍師の諸葛孔明は「中国史上最も優れた天才軍師」 と説明されており、私も名前は聞いた事があります。 その孔明がいかに優秀な人物であったかを表す為だと思いますが、パンフレットの中に 『「死せる孔明生ける中達を走らす」という諺が生まれたほど』 という記述がありました。 文章から察するに、孔明が死んでもなお、誰かに何かの影響を 与えていた様を表しているのでしょうが、 具体的にはどういう意味なのでしょうか? 「この故事の元になったこういう事が起きた」という事もですが 「つまり、こういう事を意味する」というニュアンスで知りたいのです。 たとえばもし、使うのであればどういった場合に使うのが適切なのか?など・・・ うまく伝わったかどうか心配ですが、 よろしくお願い致します。
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基本的に、「三顧の礼」(劉備が孔明を自軍の軍師として働いてもらいたいと考え、孔明宅を遠い道のりにもかかわらず訪れる。しかし2回も家をするにしていると追い返される。そして3度目にして初めて孔明と対面し口説き落とす。この3回も礼をつくして孔明宅を訪れたという出来事を言う)や「死せる孔明生ける中達を走らす」(レッドクリフにも出てきたと思いますが、曹操という武将がいたと思います。その曹操軍の軍師が司馬躊[しばい]中達です。最終的に三国志の三国は曹操が作った魏によって統一されます。彼は孔明が生きている間、一度も彼に勝つことはできませんでした。しかし、孔明も人です。とうとう死ぬときが来ました。孔明が死んだという知らせを聞き、これで勝ったと中達が劉備軍の蜀を攻め込みます。しかし孔明は、自分の死をしった中達はこのように行動してくるだろうという予言をし、その際にはこのように行動するようにと部下に伝えておりました。そのため、中達は孔明が死しても、孔明の策にはめられてしまいました。この出来事のことです)といったことは、あくまでも出来事でことわざのような意味合いは持ちません。 しいて言えば、孔明は自分の死後のことまで予測し采配を下せる、恐ろしく頭のいい人間であったということでしょう。
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- eito_waka
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孔明は陣中(戦の最中)で病死しましたが、彼は自分の死後の軍の撤退の仕方等の方策を残していました。 そして孔明の病死後、敵(司馬仲達)は孔明の体調が悪いという情報をつかんでいため、孔明軍の様子がおかしい事から孔明が死んだ事を察しました。 そのため仲達は好機とみて孔明軍に総攻撃を仕掛けましたが、孔明軍が退却せずに逆に反撃をしてきたために、 「孔明は死んだと見せかけただけでまだ生きていて、我々を罠に嵌めようとしている。」と警戒し退却をしました。 そのため、「死んだ孔明が生きている仲達を走らす(敗走させる)」という言葉が生まれました。 この言葉は諺というより正確には故事成語ですが、 意味としては「優れた人物は死んだ後も強い影響力を残し、死んだ後でも人々を恐れさせる。」になります。 例えば、徳川家康は豊臣秀頼を大阪の役で倒していますが、 これは家康が秀頼本人を恐れたというより、秀頼の父親の豊臣秀吉の威光を脅威に感じていたためです。
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ご回答頂きましてありがとうございます。 日本史の例えなども入れて頂き、非常にわかりやすかったです。 意味を拝見するとなるほど、こういう人物は歴史上でもあまり いなかったかも知れませんね。
- Domenica
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もし本当に、そのパンフレットの中に「『死せる孔明生ける中達を走らす』という諺が生まれたほど」と書いてあったのならば、パンフレットの制作会社に、「間違い」を指摘するといいですよ。 正確には「仲達」で「中達」ですと、誤字なので。 「仲達」というのは、魏(曹操が起こした国)の武将であり、政治家であった「司馬懿(しば・い。司馬が姓で、懿が諱(いみな)です)」の『字(あざな)』です。 『諱』は軽々しく用いてはいけないこととされていたので、広くは「姓-字」が使われていました。 ましてや「姓-諱-字」という使い方はされません(例えば、孔明の場合、「諸葛亮孔明」とは間違っても言わない)。 『死せる孔明生ける仲達を走らす』という諺は、ことわざ辞典にも載っていますし、インターネットで検索をしてもたくさんヒットしますよ(「死せる孔明生ける中達を走らす」でもヒットはしますけれど、諺としてはヒットしませんね。でも「中達」という表記のサイトはいくつか見かけます)。 実際の五丈原の戦いでは、「司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。」とされていまして、『死せる孔明生ける仲達を走らす』は、#4さんの仰っているとおり『三国演義』のなかの「おハナシ」です。
お礼
ご回答頂きましてありがとうございます。 ごめんなさい、「中達」ではなく「仲達」でした。 制作会社ではなく私の誤字です。 検索の仕方が悪かったのか、あまりヒットしなかったので こちらへ質問させて頂きました。
- hitokotonusi
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三国志演義という物語の話ですが、諸葛亮は蜀の軍を率いて魏・蜀の境界に位置する五丈原に進出しました。そこで司馬懿率いる魏軍と対峙しました。 魏軍はこれまで孔明の用兵に翻弄され続けており、連戦連敗であったために、司馬懿は固く陣を閉ざして持久戦の構えを取り、どれだけ蜀軍から挑発されても決して戦うことはありませんでした。 そうした中、陣中に孔明が没し蜀軍は撤退を始めます。この動きに司馬懿は孔明が死んだものと判断し始めて陣を出て追撃戦に入りますが、このときに生前に孔明が指示して配置していた伏兵が魏軍におそいかかります。これを見た司馬懿は孔明の軍略の才を心底恐れていたため、これは孔明がまだ生きていて自分たちを計略にかけたのだとおもい、ほうほうの体で逃げ帰ります。(走るというのは逃げるという意味です。敗走の走です。)あとで司馬懿はそのときにはすでに孔明が死んでいたことを知りますが、後の祭りで、蜀軍は一兵も失うことなく撤退に成功した、という話です。 これはあくまでお話で「中国史上最も優れた天才軍師」というのも物語の中のお話です。実際の孔明は軍事よりもむしろ内政の人であったようです。
お礼
ご回答頂きましてありがとうございます。 とてもよくわかりました。 軍事面より政治家として手腕が高かったというのは意外ですね。 (私が知らないだけですが・・・)
- cobamax
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NO1です、 訂正 人形は誤り、戦闘中に孔明が死んだため、蜀の軍は引き返し 孔明が死んだ情報を「策略」だと思い魏に帰ってしまった ことを言っています、 失礼しました、 http://www.sanabo.com/kotowaza/arc/2004/01/post_543.html
お礼
ご回答頂きましてありがとうございます。 わざわざ訂正の回答まで頂き ご丁寧にありがとうございました。
- cobamax
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三国志の時代 孔明は死んだのですが、その人形で「影武者」を装い 的の総軍「中達」があわてて走る「準備をした」という 魏 と蜀の戦闘についての有名な言い伝えです ほかに「三顧の礼」「泣いてバショクを切る」などの格言が あります、
お礼
ご回答頂きましてありがとうございます。 大変分かりやすい回答を頂きうれしいです。 グッと興味が湧いたので何か本を読んでみようと思います。