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竹中半兵衛 稲葉山城 大奪取!
昔孔明、今竹中 と、諸葛孔明とも並び称された戦国時代の天才軍師・竹中半兵衛。 彼は主君・斉藤龍興の稲葉山城を、わずか十数名で奪取します。 その後、信長の誘いも断り、主君を諫める、という当初の目的を達したとみるや、龍興に返還し、自らの居城にもどり、隠居生活をします。 ここで疑問なのですが、龍興は、竹中半兵衛に対し、報復攻撃等を行わなかったのでしょうか? 普通、まずそれを考えると思います。 動員兵力を考えれば、おそらく 斉藤家のほうが、上回るはずではないでしょうか? あるいはその意志をもてないほど、半兵衛を恐れていたということでしょうか? よろしくお願いいたします。
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竹中半兵衛の稲葉山城奪取は非常に有名なエピソードですが、それが「真実の話」だったのかというと異論はあるようです。一説には、竹中半兵衛の名前を伝説化するために秀吉が「演出した」話だった、というのもあります。これはいかにも「秀吉がやりそうなこと」ですね。 またもしこの話が真実だったとしたらですが、当時の戦国大名というのは意外に「権力を持たない存在」でした。あの武田信玄は二十四将が有名ですが、彼の家臣団がかくも有名なのは信玄自身に現代の我々が想像するほど権力がなく、家臣団の合議制といえばいいですが実態は家臣団の「許可」がないと方針が決められないというお家事情があったのが真実です。 ですから当時家臣団からも評判が悪かった龍興では、半兵衛の行動に共感する家臣も多く強権が発動できなかったという事情があったかもしれません。どこかの首相のように、ね。
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- a-koshino
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やったのは半兵衛ですが、協力したのは舅である安藤守就、西美濃三人衆の一人です。 三人衆による示威行為と解釈するなら、うかつに半兵衛を処罰できません。実際、後に三人衆の寝返りによって、斎藤が織田に敗れることとなりました。 このときは、うやむやに丸く収めたわけですが、そこまで読んで実行役を引き受けたとすれば、半兵衛は大したものです。
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龍興も、下手に安藤、竹中を追討しようものならほかの三人衆や、不満をもっている美濃国人などが 竹中とも連携し、手向かってきそうな空気も感じていたのかもしれませんね。ありがとうございます。
- Willyt
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報復の必要は全くなかったのではないでしょうか。竹中半兵衛を旗頭に謀反を企てる者が一切なかったということで、彼は人を指揮するカリスマ性に欠けていたのでしょう。討手を差し向けたところで山中に逃げ込んで他国へ脱出することくらいは朝飯前のことでしょうから、最初から諦めていたのでしょう。 龍興は極めて暗愚な性格の持ち主だったので、城へ帰れてまたまた女色と酒池肉林を楽しめればそれで言うことなしだったのでしょう(^_-)所詮滅びる運命にあったのです。 祖父の道三なら軍師に抜擢したでしょうね。
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なるほど、ありがとうございます。龍興はカリスマ性に欠けていそうですね。
お礼
やはり ご指摘のような状況だったのでしょうね。信玄ですら、強権発動が難しいのですから、当時の美濃の斉藤龍興がいくら声をあげても、美濃国人はあまり、動きたがらなかったでしょうね。 ありがとうございます。