- 締切済み
吉本隆明の思想について
次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。 それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・ では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・ レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。 つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。 だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。 これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。 だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。 まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。 あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・ (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 論点は 次の二点です。 (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。 ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。 なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。 (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。 ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる? 以上よろしくお願いいたします。
- みんなの回答 (25)
- 専門家の回答
みんなの回答
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
「現代の黙示録」へのそちらの回答(No1)も読ませていただきました。 仏教における“「無限の感性」の世界への謙虚さ”についてですが、それしか言葉では語れていないのに、その奥の世界を絶対視している曖昧さの問題は確かにあると私もあらためて理解しました。 しかし、現実に 仏教もキリスト教も教え(道徳)の文化として巨大な師弟システムの内に存在してしまっていることを考えると、 ぶっちゃけた話ですが、 キリスト者と名のる者が 仏教を批判する形の中では、その肝心の《絶対》への正しい理解の前に、感情的な壁が生まれて 其の理解はかえって遅くなるということも 私はですが考えてしまいます。 純粋な哲学者と、 其の土台は大切にしていても表現者であることに使命を感じる者との違いが その文に現れてしまう現象自体はか仮に越えられないものだとするならば、 そちらの理論の正しさを理解する私のような表現者の役割はなおのこと大きいのかもしれません。 「絶対」という言葉自体が 悲惨な歴史を生んできてしまった人間の弱さを 同じ言葉を使って変えようとしても、 それが本来“そうとうに大きく必要な観点”であっても そのままでは実情にあわないものとなってしまうと思うからです。 *、 個人の感情を越えた地点でも、宗教戦争のような世界をふくめたひどい争いを早く無くしたいという意志が働く者です。 ほんとうに《絶対》ということを理解できる人が増えれば、 相対にすぎない世界の言葉争いの世界は無くなるわけですが、 これこそ、あらゆる組織に寄り添ってこそ其の理解をさそってゆけるもの とも考えます。 あくまで 哲学の論理の世界がしっかりしたものであることは前提の上でのことです。 * 同じ音楽を聴くにも、大自然と個との関りや、人間との関りの場によって聴きかたの深さが違ってきます。 そのへんの教育体制を根っこから変えてしまうというのが 私の中に芽生えたユートピアです。 まず、大きく言えば、知育自体が感性教育をじゃまするという考えは無く、知育もまた幼児教育において 早期の段階に(頭の柔らかいうちに)基礎教育を終えることに反対ではないです。 ただ、それが受験戦争とかいう競争に知育が巻き込まれるのを避けるべきだという点は 絶対条件とした上でのことです。 競争は遊びの中でこそ習得すべきであり、格闘技やスポーツのよりいっそうの振興をもむしろ幼児の頃から必須とする考えも裏にあったりします。 この裏の考えは、ここでは略しておいて先を進めますが、 其の知育については、 特に理数系が充実すればいいと考えているのです。 それに特化するかわりに、実はそれはPCとロボットがその最大の役割を果たすように 教育環境を整えなおす必要がある。 というのがまず第一点の 巨大教育改革の目玉となります。 簡単に言うと、 世界一の教師のモデリングをロボットとPCにやらせるということです。 詳しくは略しますが、 そのロボットや 有効画面は大量生産が出きるのですからね。 あるいは 世界100に入る教えるのがうまい教師が さらにその技術を検討しあって そこに仕組んでゆく ということでもかまわないわけです。(ここは そのための具体案というのではなくて、 そのような考え方として理解してください。) そうすると、いわゆる学力の世界に大勢の児童がそれこそ ほんとうの「ゆとり」を手に入れる形となります。( それ抜きの「ゆとり教育」が、しかも受験体制はそのままに行われても効果が無かったりするのは当たり前の話です。というより それは最初から矛盾しています。) これにより、次の段では 急ぎ学校の死と再生^^が行われます(笑)。 学校という名前が無くなって 遊校となってしまうということです。 学び舎は、人生全体となります。 学校は遊校化していきます。 遊びの深い理解者が よき教師として採用されることになります。 上述の第一の改革にも それをネットコミュニティの力でやってゆくことにいよってお金は極力かからない形を求めるわけですが、 科学実験遊びにしても お金のかかることは実際にはしないですむ方法も考え出し、 あらゆるお金のかからない友好事業をしてゆきます。 つまり家族という社会単位にしめる教育費の負担の大幅な軽減も同時に求めます。 これが感性教育の 実質的な最初の土台の部分となるということです。 教育をビジネス化して考えている人にとってはこれだけでは脅威の案となるでしょう。 しかし あくまでそれは総合ビジネスの一部として考えるということなのです。(この詳しい考えも略しますが) ひとつ重要なのが 教育のホテル事業化です。 世界中の子供たちが 世界中の街や村にホームステイできるようにホテルが中心となって其の役割を果たしてゆくということなのですが、そういうホテル事業と教育のドッキングということです。 中身は、実はこれが 写真革命という形での、最初の「感性教育論」となってゆきます。 ホテルには当然 あらゆる写真機が用意されています。 また“その地の自然や動物その他のあらゆる被写体の知識を持った心豊かな大人”が待機してもいます。 たとえばですが、釧路湿原のホテルならば、その湿原にはどのようにしたら臆病な蝦夷じかを写せるチャンスが訪れえるのか といった知識を深くそなえた現地のカメラマンがすでにおられるとうのが前提だといったことです。 やがて、いつの日かはロボット機能に私たち人間は写真技術を追い越される時が来るでしょう。 そこまで考えての写真芸術の本質とはというならば、 写真は藝術であるよりも、子供たちの感性教育の最もすばらしい道具の一つと考えたほうがむしろ深いとも言えます。 (今の時代ではまだ簡単に言えるることでもないのですが。) こうして、感性の豊かさへのその過程に、子供たちは映像の構成の世界をどこまでも学んでもいきます。 写真と絵画の本質的違いである、手という不思議な“心と連動した世界”のタッチとシャッターの違いとして正確に理解する 画家にも育ってゆくことになります。 そうした子供たちの新しい能力によって デザインの世界ももちろん大幅にさらに豊かな世界となってゆくでしょうが、 何よりも 私は 次の革命、 絵画革命がここにこそ 起こってくると考えているのです。 あるいは その世界的な規模の感性の変化の流れとともに、一方で、絵は線のタッチが大事だという本質的な教育ももちろん行ってゆくということです。 ここでは 写真という一ジャンルを中心として、それを語っているだけです。 (詳しい中身は すべて略しているということです。) * ここで話を 仏教への疑問のお話にもどして 今回はそれを持って「回答」とさせていただきます。 アメリカ在住のある写真家が しばらく以前、白鷺という昔は日本にも渡ってきたという鳥が おそらく何万羽もいっせいに飛び立つ様子を 一メートルぐらいの大画面に写した写真を見せてくれたことがあります。 その迫力には どぎもをぬかれる想いでした。 それこそあらためて童心にも帰りました。 遠くの鳥達の極一部一部が鴈の三角形を描きつつも全体は まるで偶然のあらゆる変化を示しつつ 一斉に一羽としてぶつかることもなく飛び立つ様の 命の不思議を その見えない糸の荘厳さを その奥の奥に垣間見える空のそれぞれの色合いの変化とともに、写し撮られたその映像は 「こんなの今までみたことないよ」と思わず思ってしまうような感動を私に与えていました。 地球という青い星の大地のすばらしさを 私たちの大地の奥深さを広さをほんとうに知ってゆくのは、これからの世界の子供たちの世代であるはずです。 が、その先に、さらに無限があります。 釈迦が 最高度の安らぎの境地に達し それが揺るぎ無いことは 信頼するとして、 でも彼がそれだからと言って 流体力学どころか 分数も知らなかったかもしれないことを認めないかのような理論を展開するのがおかしいように、 その時代に、映写のすばらしさを少しでも認識できたはずもなく、 ドボルザークの音楽に感動できたわけでもなく、 その意味では《絶対》ではないのだという点を忘れてはならないことは 現代仏教なら明確にすべき時期なのだと思います。 そうでないと、おそらく釈迦への謙虚さという地点すら価値の無いものとなりかねないと思います。 * 「エホバの証人」も、キリストの言葉ではなくて、仏教哲学やそこからも生まれた教えの世界を研究すればよかったのかもしれませんね。 彼らなら総合仏教研究互助組織を実現したかもしれません。 その組織はそんな感じなのかもしれませんね ☆きぐるみさん については、女性だとは知りませんでしたが、 見解の相違はおそらく私に 判断能力が欠如しているためだろうと思います。 ただ、だとすると、kigurumiさんに関しては《絶対》という概念が必要でないまれな人と思いますが、キリストを語るなら それでは片手落ちだという批判でしょうか? そうですね、 彼女の新約聖書創作論については、プラトン主義のコピーとのみの表現は 片手落ちではあるでしょう。 でも私は それは彼女の「演技(ウソ)」と見ているわけです。 あくまで私はですが 彼女の本心はキリスト者と見ているわけです。 これは自信があるとかではなくて、そう感じるという問題ですので、一見解すぎないわけですが。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
「エホバの証人」について、詳しいことは知りません。 「ものみのとう」にしてもです。 ご紹介のURLの部分の質疑はすべて見させていただきました。 そちらは「エホバの証人」の世界について詳しいようですね。 “信仰では無い”とのこと。 bragelone様のような方が見ればそのように見抜けてしまうのでしょう。 「信仰を正しい意味での無限の謙虚さ(無限ですから無思考となるかと思います。)を 人間の良心の知恵が発見すれば それが信仰」という定義については、 bragelone様はどう思われますか? 私はそういう感じで信仰という事を定義しているようです。 そしてそれならば私は確かにキリストを信じていると言えてしまうと思います。 そのへんがキリスト者なのでしょう。 おそらく「エホバの証人」についての考えは そのへんからも信仰とは呼べない段階の思索の世界と言えるのだと思います。 * けれども、kigurumiさんに関しては 違う見解を私は持っています。(見解であり 実際についてのすべては神様しかまったく解からないのでしょうが、 推理の浅い深いは、見解の中にもあるかと思います。) >都合が悪くなると 姿を消して行かれますし。――欠席裁判ですが ここまで言っておけるのは これまで同じことの繰り返しだったからです。< と言われている部分についてですが、 これは 善の行為を理解してるからだと思います。 できるだけ右の手でしていることを左の手にさへ知らせないように ということを考えるのではなくそっと実践しているのだと思います。 純粋で頭の良い方だと思います。 感性は 唯一この有限な生物の世界で、無限を垣間見せてくれる世界です。 私の場合は そこから神を信じないわけにはいかない、というか、それがいつしか自然になってしまっただけです。 無限なのですから 後は信じるべき、 あるいは無限だという理性が働くことが出きるまでの深い感性の記憶が自分の内にある限り、信じるのがあたりまえとなってしまっただけのことです。 それはけだし、表象自体の奥が無限ということでもあるのですから、経験や体験自体の奥にあるものです。 表面的な印象(演劇では そのような捕らえ方がその本質的な捕らえ方であるはず)からこそ、確かに ドラマの配役の感性の全体像や特質を直感できたりします。 が、それはその配役は そのコツさへ捕まえれば演じることが出来ますよということにすぎません。 あくまで表象は その奥の無限の可能性の世界をとらえることは出来ないのです。 そうそう kigurumiさんのお話でしたね。 おそらく彼は 「十字架上のキリスト」の意味をもしかしたら私よりも理解してるというのが あくまで見解ですが、私の見解です。 ただし、 左の手にさへそれを隠している方なのです。 宗教についても 信仰についても その権力の世界の怖さを ありとあらゆる手で表現して、去って^^、行きます。 私も 「エホバの証人」にしても、「カトリック」にしても、 問題はその組織にあると思います。 その組織を哲学的に深めさえすれば(私の頭の中では、最近、そういう哲学がアカデミックな哲学の歴史に育っているのか疑問になってきていますが、…) おのずと それは信仰の段階にまで指導者達がたどりつくという考えです。 そのためには、一つにはですが、私たちは権力の怖さについては、あるいは権力欲の怖さについては 知っておく必要があると思うのです。 それを人の批判を省みずに、黙って実践されてる方がkigurumiさんだと思います。 彼はこのような評価も求めていないでしょうけどね。(でも、孤独は誰にとってもつらいものですから、全く求めていないとも言えないで笑。) * 吉本隆明は 庶民的な例えも使う方なのですね。 私の場合は、パチンコ屋の店員だった時もあり、 わかりやすい例えだとおもしろく読ませていただきました。 感性の問題も、 問題点として、重大な観点は 確かに、 >プロとアマとの違いを分析していて これは 権力闘争や資本主義的行動の問題にかかわっているように考えました。< と言われている部分に大きく関るとわたしも思っています。 やはり、権力、あるいは権力意識と関ってしまっている点が問題なのだと思います。 資本主義社会のプロ意識が 正しく、最後の最後まで“その商品の人にとっての生涯価値”に対して責任を持つ意識 とは成っていないことに問題があるともいえます。 儲かったり、クレーム処理さへうまくこなせれば、後は責任は果たせたとしてしまう浅さと、 がゆえに、 真のフロ意識がその道途上にて、人間の権力欲のほうに負けて行く姿 が問題なのだとも言えそうです。 そこに藝術の世界までが、 同じく負けてしまっている? とうのが私の中で、大きな大きな疑問となって浮かび上がってくるのです。 吉本隆明とう人は知的な人であるだけでなく、やはりよほど純粋な人でもあったのでしょう。 遊びの世界にても「単なるプロ(それで生きていける)」ことに後ろめたさを感じた様子が描かれているわけです。 藝術の孤高性とかを認めないというのではありません。 でも孤高性がそこにあるのならばあるほどに、 それは本来そのプロということは、その孤高性をより多くの人のものにすべくあるゆる教育法を学んででもまたあるゆるジャンルの表現法を学んででもその努力をすべきものと考えます。 その責任を放棄して、それは絵なら絵の教室、歌なら歌の先生達にまかせればいいというのは、 これは本来アマチュアだと私は思います。 もちろん、それが困難である場合は多々あるでしょうが、《その努力こそが実はその結果よりもそのプロ性、責任性を意味しているはず》なのです。 (《 》は、カッコ内の重要性を強調する意味で使っています。) だから ピカソに私は批判的だということです。 彼がプロ中のプロと言われている点においてです。 同じく音楽の世界ではレイ・チャールズも お金持ち達からそのプロ根性を絶賛されていますが、 其の地点は あくまでおかしな話だということです。 その作品でも商品でも 欲しい人がいればビジネスは成り立つということ自体を否定しているのではないです。 お金を出してでも欲しい人がいるということをです。 それによってマッチングの世界が成り立ち、商売の世界が回っていて、その中に藝術もおかれてしまっている限り、藝術価値も其の中に巻き込まれてしまうというのも解かります。 でも、まず簡単に言えば、心までもそれに巻き込まれてしまうのは、あるいは利己的にわざと巻き込まれるのは、 藝術の可能性の世界をこの存在に贈ってくださった神への冒涜だということです。 哲学者はそれを見抜くべきだと思います。 * なかなか、本題の感性教育大改革のお話に入れませんが たしかに重要な点の論議となっています。 ここはゆっくり進むことにしました^^。 ピカソは、 ある人が「いくらでもお金を払うから 絵を描いてくれないか」と言った時、 さらっと3秒で何かを描き「はい、これは200万円です。」と言ったそうです。 「 えっ でも いくらなんでも たった3秒で、200万円とは高すぎる」とその金持ちは言いましたが、そこをピカソはすかさず「いや、3秒ではない。これは私の歳プラス3秒もの時間があって今ここに描かれたのだ」と言い返したそうです。 もちろん、さらっと描いた絵が、何年もかかって描いた駄作よりも優れている場合も確かにあります。 しかし、どんな画家であれ、 歳の重みがまったくない画家はある意味いないとも言えます。 つまり、ピカソは 説明の責任を放棄しているわけです。 自分の絵に孤高性があればそれで良しとしてしまっているわけです。 これこそ資本主義社会の「プロ(吉本隆明が 意識した世界のプロ)」の手本でさえある姿ということなのでしょう。 でも、其の世界は、おそらくこれからの資本主義社会にては 滅びてゆくと私は思います。 死んで行くと思います。 生き延びられないと思います。 本物と言えるプロ達が やがて登場してくるだろうからです。 そう思いますし、 そのために私は急進的になっています。 以上です。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 ★ 「信仰を正しい意味での無限の謙虚さ(無限ですから無思考となるかと思います。)を 人間の良心の知恵が発見すれば それが信仰」という定義について ☆ まづ 《信仰》の定義については 《Q4492916:現代の黙示録=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4492916.html?ans_count_asc=20》のNo.1に投稿したところです。 arayata333さんのこの定義については 非常に細かく見て こう考えます。 1.《無思考》は 《思考し得るが しない》という意味にも取れますので 《思考を超えている》という意味を出すために 《非思考》と言おうとは しています。 2.《無限》は すでに 《絶対》という概念と同じです。 3.《謙虚》は 人間の思考がかかわる思惟であり振る舞いであり その経験を積んで得られる境地のことです。 4.そのように倫理や人間の境涯を 理性と感性との努力によって 体得するという人為の極致は ブッディスムの思想形式だと思います。 5.そのとき たとえば 《絶対ないし涅槃ないし空観》にたどりついたと言うのは 非常にあいまいであり 微妙だと考えます。 6.《たどりつく あるいは 実現する》というのは 《非思考の絶対を 思考で捉えようとしている》はづです。これは 信仰ではありません。あくまで道徳なのだというぶんには 何の問題もありません。 7.《人間・良心・知恵・発見》 これらはすべて 人間の経験的な思考であり行為であり相対の世界に属します。 8.ですから 相対の世界を超えた領域に対面したという想定から 非思考という状態ないし態度が生まれるのですから その信仰という原点に立って 《人間としての良心と知恵を活かし 謙虚の姿勢を得て行く》という生の動態が生きられるのだと思いますが いかがでしょうか。 ★ きぐるみさん ☆ については 見解が百八十度ちがうようです。非思考については――ちなみに 女性 だそうです―― かのじょは いっさい 言っていませんし その認識を述べたこともありません。《神は 法則だ》という世界観だそうです。微妙ですが 要するに 《経験法則》のことであり したがって 《神は 経験領域の科学的な つまり思考に納められ得る科学思考的な因果律》だということです。ですが 経験法則を超えたところに――つまりたとえば単純に言って 光速を超えたところに―― 絶対は 想定されるものです。そういう意味で 非思考です。無神論であるのは 何の問題もありませんが 非思考じたいを 知らないはづです。 ★☆ 藝術もその孤高性から抜け出て 一皮剥けなさい ☆ について おもしろく読みました。報酬という点では プロに徹するほうが 安定するでしょうけれど。 あたらしい論点は 出しません。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、brageloneさん。 *********************************************************************************** 江藤淳が こんなことを言っています。掲げておきます。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから 個人的な欲求不満は われわれが皮膚で仕切られた個人である限りは その範囲で処理すべきことであって 一般的社会正義に解消すべきものではない。 もし政治をやろうというなら その政治をやろうという決意のもとに立って 踏み切らなければならない。つまり正義のためにではなく 進んで悪を行なう決意がなければならない。それは人間が社会生活を通じてでなければ存在できないのだから仕方がない。 人間の共同生活を支えているのは いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動でしょう。政治は この力に触れなければ 動いていかない。そのためには 常識的に考えたら 嫌なことでもあえてしなければならないだろうと思う。だからスターリンなども あながちに排斥しようとは思わない。それは一つの様態だろうと思う。 これは実は家庭を治める上にも通じるのです。家族関係は一面で倫理だが他面では政治ですから。 (前掲の吉本隆明との対談) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうすると たとえ どんな悪でも すべて情報公開すべし となるでしょうか。隠しているから おもしろくないし ちっとも 良くはならないと言えるでしょうか。 どうでしょうね。 あるいは もし《復活》というのならば それは ▲ 人間の共同生活を支えている・・・いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動 ☆ を 明るいものへと どんでん返しすることも 関係しているかも知れませんが。 *********************************************************************************** ↑ この文章の中の ここの箇所 ↓ ● もし政治をやろうというなら その政治をやろうという決意のもとに立って 踏み切らなければならない。つまり正義のためにではなく 進んで悪を行なう決意がなければならない。それは人間が社会生活を通じてでなければ存在できないのだから仕方がない。 ここで出てくる“悪”ってなんだろう?と、しばらくつらつら考えてみた。 江藤氏といえば、1999年に自殺されている…。 『知恵子抄』が、ふと浮かぶ。 http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html “妻の介護” 【高村光太郎】 http://uraaozora.jpn.org/takamura.html 【 あの人の人生を知ろう~高村光太郎 】より一部抜粋 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 死の3年後、光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集「智恵子抄」を刊行 した(58歳)。 智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道 的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争詩を作ってしまう。終戦後、ほとんど の知識人が「時代のせいだった、仕方がなかった」と活動を続ける中で、光太郎はこうした態度をよしと せず、自らの戦争協力を深く後悔し、自己批判の為に岩手県花巻郊外の山間で、62歳から69歳まで 7年間の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、たたみ三畳の小さな土間と 自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『智恵子抄』は、智恵子の死後に書かれたもの。 後に高村光太郎は謹慎生活(隠遁生活)を送っている。 謹慎生活(隠遁生活)を送ることになった理由が“自らの戦争協力を深く後悔して”とあるが、それが本当の理由だろうか?理由の一つではあったことではあろうが一番大きな理由は『智恵子抄』を世に出してしまったことではなかったか。もの書きの性とでもいうのか、その身の洗い浚いを吐き出すことによって作品はリアリティさを増す。いまはいない智恵子、智恵子の気持ち(人権)よりも自身の気持ちのままに筆を走らせた。二人の秘め事として留置くことを、智恵子を知らぬ人にまで智恵子を知らしめてしまったことへの自戒にあったのではないだろうか。結果的に『智恵子抄』は社会的に評価を受け、高村光太郎の名声はさらにあがり妻の死によって生かされる。人の死によって生きる己が生。それゆえ常に智恵子の影に怯えていたのではないだろうか。翻って、江藤淳は『妻と私』を書き終えた後、自殺を図っている。高村光太郎と江藤淳、妻を失ったときの年齢はそれぞれちがうけれど両者共、もの書きを業としている。そして、妻のことを書くことにおいては共通している。妻の死後、生きながらえた者と、妻の死後、その命を自らの手で絶った者がここにいる。江藤淳は、自身の命を捧げることを以ってして“妻のことを書く”ことへの赦しをいまは亡き妻に乞うたのか。もの書きの性、書かずにはおれない。書かずにはおれないものはなんだったのか?“介護”という現実だったのだろうか?それとも、性の衝動だったのだろうか? 人が人をおもえども、おもうことがときに人を傷つけてしまう。 『句集 寒冷前線』吉本和子著 深夜叢書社 あとがきより一部抜粋 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 結婚して間もなく夫から「もし、あなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」と云われた。理由は、一つ家に二人の表現者がいては、家庭が上手く行く筈がないという事であった。吃驚したけれど夫は既に、二冊の本を自費出版していたし、ちょっと辛どい恋の後でもあったので、友人とも相談して「ま、子育ても表現のうちか」と納得することにした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 吉本隆明は、吉本和子から文筆という活動を休止させている。文筆活動の休止は、表現の自由の拘束とも見えもしようが、そうではないように思う。和子いはく「ま、子育ても表現のうちか」と。ある意味、女はしたたかである。禁酒法時代ではないが、表現はなにも文筆で表すものばかりではないことを心得ている。無くば無いなりに器用にやりくりをしながらこっそり表現を模索。ものを書くにも身の内の蓄えがないことには実のあるものはでてこない。あたためにあたため70歳を過ぎて出した句集は初々しい。仮に結婚当初から文筆活動を続けていたならば70歳という年齢にさしかかったとき、この初々しさを保てていただろうか?流行に任せ誰も彼もが書き出版すれば、書店のスペースはきまっている、誰に読まれることも無くお蔵入りする書き物は後を絶たない。「もし、あなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」という言葉の中には、生存競争激しい過酷な文筆という闘う場に女を立たせたくはなかったんじゃないのかな。その女がましてや妻ならばなおのこと。男が女を守るものと、そこに男の存在意義をもつ男であったからではないだろうか。 【男女雇用機会均等法】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%87%E7%94%A8%E3%81%AE%E5%88%86%E9%87%8E%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%94%B7%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%9D%87%E7%AD%89%E3%81%AA%E6%A9%9F%E4%BC%9A%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%BE%85%E9%81%87%E3%81%AE%E7%A2%BA%E4%BF%9D%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B 〔変遷〕 1.1972年(昭和47年)7月1日-「勤労婦人福祉法」 2.1986年(昭和61年)4月1日-「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」 3・1997年(平成9年)10月1日-「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女性労働者の福祉の増進に関する法律」 4・1999年(平成11年)4月1日-「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」 5・2007年(平成19年)4月1日-改正法施行 男女雇用機会均等法の促進から、男女の働きにも変化が生れた 夫婦においては、共働きの家庭がその数を増す 外で働くのは男のみにかかわらず女も外へ働きに出ることが常態化 男の存在意義が薄れる 家を守る者がいなくなる 女の存在意義が薄れる 男女の性差がどんどん希薄化していく これほどまでに、女が外へ働きに出るようになったのは… 倒産、リストラ、生活苦…etc 働きに出らねば生活が立ち行かなくなる現実がそこにあるから 一つ屋根の下に二人の稼ぎ手、所帯主は一人
お礼
★ 人が人をおもえども、おもうことがときに人を傷つけてしまう。 ☆ くだんの事件を放っておいた人をおもうばあい あぁ そうか と受け止めるのが おもうことだとおもいます。 受けとめたくないというのでしょうか。 おもったのだから 感謝せよということでしょうか。
補足
littlekissさん ご投稿を寄せていただきありがたい思いです。 まづ 《Q:未来論》のほうで ご文章から勝手に引用したことを 事後的ながら おあやまり致します。すみませんでした。 ▲ 人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。 ☆ と高村光太郎が書いています。これは 《サイト【 あの人の人生を知ろう~高村光太郎 】》の中で ▲ 当初の光太郎の詩は、「一切が人間を許さぬこの国では/それ(近代的自我)は反逆に他ならない」と、社会や芸術に対する、怒り、迷い、苦悩に満ちたものだったが・・・ ☆ とあるところを知りたいと思って 検索した結果です。 ▲ 高村光太郎:《緑色の太陽》~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46507_25640.html 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点としてその作品を SCHAETZEN(評価)したいのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とも言っています。ただし この文章は それほど全部を読んでおかねばならないとも思えません。《サイト【高村光太郎】》における《智恵子抄》での自己解説でも述べていたかと思いますが かれの当初の態度は かのじょが仕事をするとなれば そのままに任せたというようだっと まづは 確認するためです。 それでも 家庭政治がうまく行かなかったとも言えるでしょうし それだからこそ 智恵子が家事を優先させるようになったことは 光太郎に責任があるとも言えるのかも知れません。 光太郎について それ以上の詳しいことは知らないので そしてまた 江藤淳の場合は かれが 右旋回してからは わたしはよき読者ではなくなったことより 晩年のことも ほとんど知りませんので これ以上は いま 詳しい議論には伸びません。 提起されている問題 すなわち ★☆ 光太郎の戦後の山奥での謹慎生活や 江藤淳の妻を送ってからの自殺 ☆ の事例は 要するに 《家庭政治における悪とその共同自治》の問題だという見方を提出されてもいるわけですが これについては すべてを端折って 次のようにわたしは考えます。 ○ 男は 子ども時代に母親に面倒をみてもらって 世の中は まったくうまく行っていたという経験があり たぶん 無意識のうちにもその記憶が なにかと勝って 甘えたがる。 ○ したがって 出来ることなら 家事にかんして 妻に そういう母親の役をしてもらいたがる。 ○ 初めから 配偶者が自分の仕事を持っていたなら――または 家庭生活の途中で 仕事をしたいとなれば―― あとは 家庭政治は どこまでも 話し合いによって 役割分担とする。 ☆ 吉本隆明とその妻とのあいだに どういう会話があったか知りませんが 互いに合意を得たのであれば それに従ったということだと思います。それ以上の ★ 新鮮さ ☆ だとかは そのとおりなのかも知れませんが 上の考えから行けば 少々うがち過ぎであると思いましたが どうでしょう。 ▲ 各自は 能力に応じてはたらき 労働に応じて報酬を受ける。またさらに 能力に応じて働き 必要に応じて受け取る。 ☆ これは おそらく 人間の計画や管理によっては 達成され得ないと考えますが 或る種の理想です。しかも 現実には この未来社会へ向けて ★ 【男女雇用機会均等法】 もしくは 男女平等 ☆ の問題が 前に課題として 横たわっています。いまのところ 話し合いで決めていく としか わたしには 勉強不足で言えない状態です。 ★ 男は女を守るもの ☆ となるでしょうか。つまり ○ 男は 連れ合いに 甘えたがる。 ☆ というところに対してです。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
◆「聖書で聖書を読む」は、解かりやすそうですね。 ありがとうございます。 ネットでの著作物の無料購読システムには、いろいろ難しいところがあるようですね。 それこそ、私有財産制の生み出した感性とともにはそれを越えた情報化の波はいきなりは起こらないのでしょう。 図書館や出版社側の情報公開の努力も課金性(その収益を出版社や著者に還元する)という形のものを模索しているようです。 グーグルは、それを越えた知の共有化を目指しているといいますし、アメリカではそのへんが、むしろ進んでいるとも聞きます。 昔 ビルゲイツがマックに対して、「その新技術は公開すべきだ」と迫ったことがありました。 他社に対してなのにすごい抗議魂だと思いました。 もちろん「公開したほうが見返りとしれて得られる協力からの利益の方が これこれこういう具合に大きいですよ。 」という数字を示してのアドバイスでもあったのですが、 その中で「 それに、社会的にも、それだけの技術の公開には意義が大きい」という意味の説得もありそこに私は面白みを感じたのです。 利益追求の資本主義の会社、しかもアメリカのちゃきちゃきのそれに対して、社会的な正義を求める。 しかもしかも世界一の金持ちになった人が。 なるほど、アメリカという善悪極端な国にては、情報公開に関しては善に傾いたわけだと いう感想を持つところです。 しかし、聖書は神のもの、あるいは神の心のもの、という感覚からは、これが私有財産制とともにある点が引っかかってしまったところです。 昨日、エホバの証人でしたか その信者のような人がパンフレットを配ってきたのですが、 その内容の中のたしか「6つの疑問に聖書は答えている」という記事の中の(哲学的に答えとなっている文はひとつもありませんでしたが^^)「神は私たちを気遣っておられるか?」といった疑問には疑問自体にあきれてしまいました。 でも、哲学者のほうでも 神が一番苦しんでるとか その当体だとか、一番ミゼレーレと泣いている存在だとか、いう論議を聞いたことが無いですね。 これでは、 しかたないですよね。 偏在という言葉はあっても その意味こそ重要なのに哲学者がまともに考えてこなかったのなら、盲目的な信仰者が そのような疑問?を持ってもおかしくないですからね。 むしろ、私たち哲学者は、 今は、エホバの証人にしろ 「ものみのとう」でしたか、 そういう集団にたいしても 寄り添うように理解もしてあげるべき時かとおもいます。 これはその盲目性の怖さに目をつぶるということではないです。 むしろ、最も早く、 宗教の中のその「恐ろしい」世界を破壊する方法としてです。 解かってあげ、寄り添ってあげる、 これこそ力だと 最近より強く思うようになりました。 これ抜きに 感性教育の革命も無いですね。 * キリストの十字架に意味があるならば、とあらためて考えてみたのですが、 それが やはり私たちとともに苦しんでいるということをキリストは最後に示す必要があったということだと思います。 寄り添う心の直感、あるいは《息吹》、 考えてみれば そのへんをいつもbragelone様から気づかされていたところです。 《無思考》の意味合いが今一よくわかりませんが、 そういう関係性の知を超えた世界というか 人間性の良心の世界のことだった、という感じで受け取らせていただきます。 それがキリスト者だというふうにです。 夏目漱石も キリスト者だったのでしょうか^^。 かくされた形としてはそれが真実なのかもしれませんね。(ニセオコリザルより) * 私の考える「感性教育」の革命の話は、たぶん面白いので 続けますね。 なかなか 進みませんけど^^。
補足
arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 最近 朝寝坊があります。昔は 寝坊しようと思って遅くなったのですが ここ二週間くらいのあいだで 何回かは 知らずに寝坊しています。 吉本隆明と江藤淳との対話は 主題を互いに煮詰めて 非常に深まっています。もう四十年近く前のものです。 今回も その一端をご紹介して さらにその展開をこころざしたいと思うのですが。吉本が プロとアマとの違いを分析していて これは 権力闘争や資本主義的行動の問題にかかわっているように考えました。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 僕はかつて スマートボールの景品で食ってた時があるんですよ。失業時代にね。その時 これは方法は簡単なんだけれども ただ どうしてもプロになりきれない最後の一線というのはあるんですね。そして それはやはり屈辱感ということに関連するわけだけれども。 結局最後は 自分の方法で一番よく入る台というのは ある店によってもうすでに決定的に決まるわけなんです。だから 客がだれもいない 開店直後の時期に すーっと坐れば それはもうプラスなんですよ。利潤なわけですよ。ところがそこにパッと坐ることがどうしてもできないわけです。そのできないということの中には あん畜生また来やがったという様子をされはしないかということ。それでも素知らぬ顔をしていればいいわけで 自分自身でつくりあげた屈辱感であって 案外店のものはどうでもいいと思っているのかもしれないですけれども 素早く所定の場所 ここなら完全におれの方法でやればプラスなんだという台へすーっと だれもまだ客がこない時に行けばいいわけですがね。 それができるか出来ないかということが プロであるか アマであるかということの分岐点だと思うのです。そして僕は どうしてもそれができなかったんですけれどもね。できなかったというのは 善悪 二つの意味があるので あんまりよくないことだと言えばよくないことだと思うのです。つまり そこまで出来ないくせにそれで食おうとはおこがましいじゃないか という意味合いもあると思いますけれどもね。 その場合に あえてそこを耐えれば 平気な顔をしていれば スマートボール屋が お客さん いくらか落とし前を出しますからご遠慮下さい と言ってくるか だまってやらせるか どちらにしても利潤なわけですね。そこまでいけばプロなわけです。ところが どうしてもそこは限界だというふうになりまして プロになれなかったな ということがたいへん後悔でもあるんですけれどもね。 なんかそこの屈辱感というのは 己を低くしなくてどうして王道に達することができようか というようなふうにも思えますしね。しかしこれはそこまでやるのが重要であるのかという 一面ではそういう感じもありますしね。そこが僕なんかの たいへん関心をもっているところですけれどもね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 引用をここまでとして あとは バトンタッチとしたいところです。感性は 何を求めているか。 ★ 情報公開 図書の開放 ☆ なるほど 私的におこなう場合もあるでしょうし 公的におこなう場合もあると思いました。わたしも 剽窃でなければ 自由引用でよいと思うのですが。 ★ エホバの証人 ☆ は おわかりのことと思いますが どうも 会としては 信仰とは別であるようです。聖書研究会ならびに生活相互応援活動の集まりだと考えます。《Q4074250:キリスト教とエホバの証人との違い= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4074250.html》No.5&7が わたしの回答です。ちなみに 信仰とは違うという意味〔だけ〕では きぐるみさんの出される見解は そういうことのようですね。いえ 信教・良心の自由を認めた上でなら いいんですけれど そもそも《信仰》はないという立ち場であるようにしか受け取れない場合が しばしばです。都合が悪くなると 姿を消して行かれますし。――欠席裁判ですが ここまで言っておけるのは これまで同じことの繰り返しだったからです。 ★ 十字架上のキリスト ☆ 人間イエスは おそれもあったでしょうし 望むところではなかったでしょう。それでも 神の子キリストとしては もとより 人間イエスとしても みづから 勝手に その木に上ったのですよ。 自己の存在や他者との関係性を消滅させたなどというブッディスムまがいのことではなく そうではなくて 自分勝手に はりつけになったのですよ。そうでなければ 無償ではありません。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
★新約聖書のオンライン検索、ご紹介くださりありがとうございました。 でも、これですと、すでに聖書をもっている人やよほど箇所とかを覚えている人でないと使いづらいですね。 やはり 新約聖書だけは買っておくべきかと思いました。 ↓ その中の「聖書とIT」の記事には、疑問が沸きました? 普通、せいぜい50年程度が“著作権の範囲”ですよね。 しかも聖書という神の言葉、あるいはそれに等しいような深みを持った言葉を、いったい誰の著作権としてしまったのでしょう? 出版社がビジネスのために? カトリックがビジネスのために定期的に? 推理も出来かねてしまいます。 それと、これですと、ブログで熱心な人が聖書を写したとしてもそれは著作権違反で罰金とかが取られることになりそうですね。 もし私にHPを作れる力があったなら、新約聖書は その解説とか私の解釈とかも入れて、わたしなりのコンコルダンスも作って 誰もがすぐ参照できるようにしたいところ、それは 世界的に法律違反なのですね。 キリストがそれを知ったらどう思うのでしょうね。 ??? また、 これに対して 誰もアウトローにならないのだとしたら、 キリスト教徒って なんという“飼いならされた羊”なのでしょう。 ??? * 「衣食足りて礼節を知る」における 衣食足りた状態における優れた礼節への可能性はもちろん大きいです。 欲求7段階説の 7段階の自己実現欲求、 つまりお金持ちになれた時の自己実現欲求から自己実現へいたる道の可能性も大きいと思います。 問題は けれども その可能性について、具体的な話が両サイドから聞こえてこないことにあります。 そのへんもまた “感性教育の遅れ”と関るという感じで私には受け取られてしまうということです。 * まず、そちらのNo9へのコメントにありました、次のアドバイスにしたがって「感性教育」について書いていきたいと思います。 >教育というよりは その理念や基本思想を 解明・説明していかれると よいかも知れません。< 確かに教育というのであるならば、「生涯総合文化教育」と言ったほうが具体的であり適切かもしれません。 感性は、多元的にどこから入ってもその道があり、すべてはやがて有機的に相互性を高めあいつつ 進化してゆくと思っているからです。 しかし、基本は「感じる心」です。 「今見てる星は 何億光年もの遠いかなたからそんな時間を越えて地球にとどいている光なんだよ」と言われても 一般の私たちにはその実感は起こらないでしょう。 でも それなりに、真剣にそのことを考える人には誰にも それなりの「驚く」心が生じます。 確かに その時、その時空自体 壮大すぎる世界なのですが、それを感じる心が、この大地に存在しているという 受け取る側の存在への「驚き」とかは、ふと忘れられていることが多いでしょう。 そして、感じる側、受け取る側の 心自体を追求する人は少ないのでしょう。 しかし、これこそがほんとうは、すごい世界の正体なのです。 むしろそれ抜きに、宇宙がどんなに広大であると知ってもそれは単なる図と変わりません。 その反対に、雲を見るだけで その広大な空間の広がりに、荘厳さを感じて感極まる心、 それがやがて赤くそまり、流れてゆくさまに 静寂の深さと安らぎを至福と言えるほど感じる時もあるでしょう。 感じる側の心にはです。 では、 生死のあるこの弱い生物の中にて、その「感じる心」とは何なのか? 私の死と関る経験の世界では、 落下による一瞬の「逆さまの景色」の後 気を失ってしまったという、 頭の打ち様にによってはそのまま その「景色」を最後にすべてが消えて土に帰っていたかもしれないような出来事もあったのですが^^、 そのまったく逆に、 肺胞が一つ一つつぶれてゆく じっくりとした死ののた打ち回りの世界も体験しています。 右の肺胞が全部つぶれ、左の肺胞があと少しのときに、医者の「あと三日の命」との宣告も 私の意識は聞いていました。 そんな中の意識にては、 死とはすべての感覚が消えてしまう世界。すべての愛情、人のぬくもりさへも消えてしまうまったくの孤独の世界。 どんな精神すらも消えていってしまう世界と 思い悟らされた世界でした。 (この世界の真実については、それ以上は書かないほうがいいでしょう。) ともあれ、そういう体験をした人にとっての 生死観は、時として絶望的です。 でも その絶望のかなたにこそ希望がありました。 簡単に図で書くならば、 死は 円です。 難しい禅問答の円ではなく^^、 その中に 感覚も思索も 知も情も意志も、意識のすべてがあり、その円の外側には何もありません。 最後に、まるく口を開いて息を引き取るその口の形みたいな感じです。 ただし、私たちは、いえ、孤独のうちに「わたし」という意識存在は、「謎」から生まれています。 そしてその「謎」へとその時に、帰ってゆくのです。 新約聖書には、その「謎」が 愛であると解かれています。 あいかわらず本当は「謎」の言葉です。 神の知性の遍在性、 その人の意識と一体化している存在であることを示している何かであっても、それを捕らえるには自分が少しでも「愛」をつかまなければ どうせわからない世界とも言えます。 では、どうしたらそれを捕まえることができるのかについては、まず端的に語られてるのが新約聖書では、「子供のような心にならなければ天国に入れない」という意味のことを表現しているキリストの言葉です。 人類全体が そこへの道を しかも今度こそ 子供みたいに弱い状態ではなく、もはやゆるぎなく(もはやゆるぎなくです。)素朴な子供のような新鮮な心に立ち返ることをめざして歩んでいるようなものです。 その誰も が歩んでいる その道、仏教徒ならば無心への道というのでしょうか? その感性の道(知という意識は、それ抜きには“たんなる図のお遊び”となるというのは 死をたいけんしたものには大げさな言い方ではないです。 意志ももし、それを抜かした意志であるならば、ロボットと似てます。) あるいは感じる側の世界の道、 別に太陽信仰というのではなくて、太陽の光のほんの小さなさまざまな色合いに感動する世界、 緑に、 たった一枚の葉っぱに、それに降り始めた白い(雪)世界に感動する側の世界、 この世界は、 けだし、“円では囲まれていない”ということにやがて気がつく世界があります。 生物はやがて死にます。 感じる心も 消えていってしまいます。 でも それでなぜそれは 円で囲まれていないのか? それは、その価値の世界は 無限だからです。 どこまでもどこまでも新鮮に先がつづいているからです。 「謎」は、ここに解けます。 どんな絶望も、その先には「希望」しかなくなります。 * 真剣に生死を見つめ 生涯とは何かを誠実の考える人は、虚無という暗い洞穴にまぎれこんでしまいます。 洞穴の中の旅人の例えは、こうして哲学者の例えとして現代に詠われています。 出口の光を求めも求める旅人は 疲れ果ててもなお歩き続けないではいられない希求、上渇きを身に感じます。 光が欲しいからです。 どこまでもどこまでも 倒れても傷ついても歩き続けます。 でも それはやがて絶望にたどりつきます。 それが知性の道だからです。 私には私の絶望の世界があり、それは こんなふうに訪れたのでは無いのですが、 それからも生き延びて、何十年の旅の後に「希望」が見えてきたのですが、 光とは、その時、 こんなふうだと聞いています。 信仰の光です。 絶望はすべての力を奪います。 希求は願いは、上渇きは情熱は今や、其の分、生きる気力をすべて奪い去る力にしかなりません。 それを絶望といいます。 光と求め求めつづけたからこそなのですからね。 と、倒れこんだ その目に、 もう体のみか、目の力もうせたようなうつろな目に、光が一点映るのだそうです。 そのとたん、なにもかも失ったはずの旅人は飛び起きます。 それが信仰の光に例えられる光の世界です。 たった一点、 しかし、 もう再び傷ついても たおれても、もはや絶望はそこには無いという それが哲学者にとっての信仰なのだという。 見つけるものは、同じ、 ごくあたりまえの日常のなかの、 あたりまえの新鮮な命の世界です。 でももう ゆるぎなく 感性が消えてさへ、其の記憶がまだあるかぎり、 ありつづける「希望」という名でもある感性、 これが、 この「希望」の太陽が、 感性教育のアルファでありオメガだ。 というのが 図的にも詩的にも表現してみましたが、 生死、存在とも関るところの 私が書いてみたい 基本思想の解明となるかと思います。 * 読む人によっては 壮大すぎる描写であったかもしれませんが、 けっきょく 当たり前の世界のことでもあるのです。 とても あたりまえだけど、思い切ったことが必要なその「感性教育」とは?、 その革命ビジョンとは!、 それをこれから いっしょに考えていただけると助かります。 (つづく)
補足
arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 聖書検索は ほかのものを調べてみました。 ◆ 聖書で聖書を読む http://bbbible.com/ (福音書や書簡ごとに 読めるようです)。 ◆ BibleGateway.com――http://www.biblegateway.com/passage/?search= (いくつかの言語で見られます。日本語はないです)。 ★ 感性論 ☆ arayata333さんのばあい やはり 現場のお話であり 教育の実践と言っていいのでしょう。 ★ 真剣に生死を見つめ 生涯とは何かを誠実に考える人は、虚無という暗い洞穴にまぎれこんでしまいます。 // ・・・・ // 出口の光を求めに求める旅人は 疲れ果ててもなお歩き続けないではいられない希求、飢え渇きを身に感じます。//・・・//と、倒れこんだ その目に、 もう体のみか、目の力もうせたようなうつろな目に、光が一点映るのだそうです。 // そのとたん、なにもかも失ったはずの旅人は飛び起きます。 それが信仰の光に例えられる光の世界です。 ☆ たしかに ▲ (マタイ5:6) 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 ☆ とありますので そのとおりだと思います。ただ その言葉を厚くしたかたちだとも思います。物語にして 明かしてくださいました。つまり 実践だからと言って 具体的な事例をあげよと言う意味ではありません。そうではなく 虚無と絶望と あるいは そこにも見出された一片の希望と そこでなおあらためて義への飢え渇きを覚え 絶望に遇いつつ その末に立ち上がるようになる これらの道筋を さらに 人間の思索と歩みを織り交ぜて 肉付けしてくださるともっとよいと思いました。 アウグスティヌスだったかの話としては こういうのがありました。人は 義に飢え渇き 人間的になろうとする。たしかになった。ますます人間的になった。この上なく人間的になったと思ったとき 周りを見渡すと 誰も 真面目に 受け取ってはいなかった。そこで 絶望して 世間に合わすように生きることになる。失敗の例です。 ★ 死の体験 ☆ は いま その事態に遭っている人にとっては こころづよいお話だと思います。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【江藤淳】 漱石という人は非常に孤独な人だったと思うけれども 漱石の作品は不思議に読者を孤独にしない。・・・達人のものを読むとおよび難いという感じがして こっちが突き放されますけれど 漱石は突き放さないですね。 それは彼が個体を越えるなにかの感覚をもっていたからではないか。こういう感覚がほしい。われわれは漱石の時代よりも忙しい とげとげしい時代に住んでいるが しかしわれわれもまた幸福になる必要があるのではないかという気がするのですよ。 ・・・ 漱石が見たように 生の根源自体が二律背反的にできているのではないかとも思うのです。それは 政治を生むような暗い大きな力の根源でもあるし 同時に 限りない安息をあたえるような場所でもある。そういうものの認識を いったい現代人であるわれわれは どうして得たらいいかと思うのです。 (対談:文学と思想) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
すみません。 もう一度新約聖書を読めるネット上のサイトを教えていただけますか? 旧約とかは、神話の解釈や宗教の専門家でなないですから、興味無いのですが、新約聖書はもう一度読んでみたくなりました。 学生時代に ともかく何度も読みました。 でも、その時には解からなかったことがたくさんあります。 ただ、疑問とかは惹かれた分、残り続けました。 >《わが神 わが神 なにゆえ わたしを見捨てられたのか?》という言葉を発したということです。 そこで 見捨てられたということにおいて 見捨てられてはいなかったと 分かったのでした。< というそちらのコメントの部分ですが、 キリストが十字架上で息絶える寸前のような時に言われた「エリ エリ(神よ、神よ)レマ サバクターニ(なぜ、わたしを見捨てられたのか?)」という言葉と対応したものですよね。 (この部分も 聖書が単なる創作ならば、なぜ書かれることになったのか?解かりがたいところですよね。 創作であったとしても、この部分がリアルですよね。) 神が そんな必要(ご自身の存在とかにとっての)無いのに「わざわざ」人間として弱い姿まで さらされた? という「謎」の世界ですよね。 私の場合は、この意味合いは解かっても、 そのようにキリストという人間が神とはということを啓蒙するために演出したというふうに理解してしまうのですが、 いずれにしても、 純粋な知性の人がこの「謎」にぶつかると、特に絶望状態を経験したことのある人は、 ここにこそ「光」のようなものをあびたほどの感動を受けるようですね。 bragelone様が 自らをキリスト者と言われるお気持ちの根っこのようなものが垣間見えてくるような気持ちになりました。 私の場合、人生や存在に絶望したというより神に絶望したという感じのときがあり、 でもそのおかげで自分の弱さを肯定できるようになった経過があったりします。 でも弱い時の自分の状態がどんな とてくつもなくあるような状態だったかを思えば、そのすべてが灰色のような状態でなぜ自分に絶望しなかったのか? これが子供の頃の さらに惨めな体験の記憶があったからでしょう。 考えてみればたくさんの体験をしている者です。 キリストの最後のメッセージの意味も 少し理解できる気がしています。 * >《衣食足りて 礼節を知る》<、 これは、マズローという心理学者のいう欲求7段階説ににていますね。 6段階を経て、やっと7段階目の自己実現欲求に目覚めるという心理法則?のあたりがです。 でも 「衣食足りて」という言葉は、 私の体験からはとてもリアルな表現として感じられます。 お金が無く、見も知らない土地にて公園のトイレで冷たい雨をしのいで、公演で水を飲んで生き延びた時の 死への恐怖とか惨めさとか 心のユトリの無さとかとかの精神状態を思い出せば、 昔の人たちの想像をぜっする生活からの言葉に思えて、これは解かる気がします。 人間として、軍杯を上げるとすれば儒教の勝ちです。 でも、資本主義のお金と心理ということでは、あるい植え込まれたニーズの世界ということでは、マズローの心理学はいやに統計的に当てはまる世界ですし、より科学的ではあるということなのでしょう。 しかし、いざ自己実現?して、自己の欲求がすべて満たされ、幸せになり、自分自身はお金も地位も名誉もいらなくなるという人は少ないし、すでに私有財産制にはすっかりなじみになりなれ親しんでいて、それを越える力もなく? というより、 この自己実現 という言葉自体が抽象的なままなのですから、そこがすでに私には疑問だということなのです。 仕事も充実していて趣味もやりたいことを自由に出きる心と経済体制があったとして、 その趣味がほんものの境地にたどりつけば、始めて自己実現できるというのであっても、 それがなんであるかは一つも語っていないわけです。 心理の学問というより、 あやしげな催眠術みたいに使われてしまっているという感じです。 役に立つほうが多い怪しげさ^^なので笑けれど(笑)。 つまり 幸せって何なのか? そのへんが結局語られていなくて、 その理論とかの網の目からは、 ほんとうは一番大切な人間の宝が むしろかえって見えなくされているかのような感じなのです。 卓上論理からいくら心理実験を科学的にこなしたからといって、「しあわせ」についてだけは、解からないことなのでしょうから それは仕方ないのでしょうが。 おそらく 「衣食足りれば、真に自然な礼節への可能性が開かれる」というのが正しいのでしょうが、 儒教も、 可能性に過ぎない点を 結局見落としていたということだと思います。 マズローの方は そのへんもっとマズくて、ローギアがかかってる感じです^^。 いずれにせよ、 やっぱり、ここに必要なのは 感性教育の たぶん、ほんとうに革新的な進化だということになるかと思うのです。 * 思い切ったことが必要と思っています。 経済的に大勢の人がお金持ちの人も不安に巻き込んで 切羽詰ってきています。 今こそ、ちょうどもしかしたら、その大変革とかが可能な時なのかもしれませんね。 《当番制》というのは、でも、ほんとうは荒削りな表現と思えています。 《リーダー・フォロアーの 回り持ち体験を、充分体験できたそのへんの卒業者達の当番制》としたほうが、これもよりしっかりした未来論としての目標になるかと思っています。 でもそれへの道についての具体策ということが回答であっていいのですから つづけさせていただきますね。 感性教育についての発表の機会を与えてくださりありがとうございます。 (つづく)
補足
arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ キリストが十字架上で息絶える寸前のような時に言われた「エリ エリ(神よ、神よ)レマ サバクターニ(なぜ、わたしを見捨てられたのか?)」という言葉 ☆ については 一説として 次の《旧約聖書・詩編》の一節(つまり 22章の冒頭の一句)を引いていると言います。その章は そのあと 神の讃美へと変調していますので そのように解釈するという捉え方です。 ▲ (詩篇22:1~2、22) ~~~~~~~~~~~~~~ わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。 ・・・ 22:22 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 聖書のオンライン検索は 次です。 http://ebible.echurch-jp.com/ 語句からも 福音書や書簡ごとにも 検索できます。章と節を 算用数字で打ちこむときには 半角になります。その点 やっかいかも知れません。案内にしたがってください。 ★ 神が そんな必要(ご自身の存在とかにとっての)無いのに「わざわざ」人間として弱い姿まで さらされた? という「謎」の世界ですよね。 ☆ このなぞについては 一応 答えが出ています。イエスは ふつうの人間でしたが 同時に キリストとして 神の子である・つまり神であるという想定です。つまり 相対的な存在であると同時に 絶対の存在であるという虚構です。人として 大声で泣きながら 十字架に就いたのですし 神として みづから望んで はりつけになったと言います。 ★ マズロー および 礼節をめぐる儒教 ☆ いづれも その昔 初めて知ったときには 新鮮で学ぶに値すると思ったのですが 申し訳ないのですが いまでは 世間の知恵というふうに 受け取っています。経験的な努力によって人格を磨くと言いますか そういう知恵であり 経験思想だと思います。 ですから どうしても 一たん 何ものからも見放され 無となった状態を経て たとえば《当番制》による共同自治をおこなうようになると いまのところ 考えております。 権力の闘争やその執行についての秘密の部分などが すべて 情報公開になったとしたばあい――つまり すべての人が あらゆる問題や事実を知ったばあい―― 《人間はほろびる》という見方があるわけです。そういう従来の考え方をする人間は 存続できなくなるというわけです。たしかに 分かりませんが そこには 一たん 目を見張るような現実の様変わりが起こるのではないでしょうか。そうでなければ 権力からは もはや まったく自由な人間と そのような人間による共同自治が 実現するかは あやふやであり 見当もつかないと思われます。 わたしたちは 権力を回避せよというのではありませんが 権力を奪取せよという方針でもないわけです。むしろ 水嵩を増していって 政治を 共同自治の状態へと還元するように持っていくのだと思うからです。 ですから たとえば 権力の地位にある人びとの中から もはや そのままでは 立ちゆかないというような見通しを持つ者が出るようになるのではないでしょうか。そういう変革が起こって 水嵩を増して行き どこかで どんでん返しが起きる。こんな予想を立てています。 外れても いいわけです。要は 一人ひとりが 感性・知性ともども 日から日へ 変えられていくのだと思います。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
自分には、自分の書いてることへの自信のようなものがあまりありません。 たぶん、自分の中ではもはや整合性がとれていて崩れないのではないかと思えるほどに、いつしか考えがまとまってはいても、 たくさんの本とかを読んでいないので、 いままでの人類が考えてきたことの歴史とか流れとか うずもれていたりもするだろう昔の人の知恵とか、 まったく解からないままであるようにも思え、 その中での自分の立場とかが見えてこないからだと思います。 書いてることの 人間社会での役割のあたりが見えない感じです。 経済カテのほうにも、軽く今の政治の出来事を話題に ほんとうは経済がどういう力のものかを暗にさぐる質問をしていますが、 今のところ同じく軽くあしらわれてしまったような、たぶん日銀とか金融庁とかの対策をひとことで書かれてしまった回答が一件入っているだけです。 ほんとうは、自分もただこうして話でいるだけでなくて、できれば正しい起業に一石を投じて見たい気持ちなのですが、 これはいわば、「AZスーパー」の拡大版のようなもので、よほどの自信がないと身動きできるところではないですね。 最近の鹿児島の過疎地に出来た巨大なAからZまですべての商品を扱うスーパーの大成功の事例のことなのですが、 それはほとんどが、いままでのマーケットの常識を覆した経営なのです。 在庫はけして返品しない。 一律計算もしないで安く提供する(バーコード方式を無視した形での最安値提供。) 地元の雇用に最大限に貢献する(リストラと逆)、一人でも送迎バスを連絡があれば走らせる、 全部経済法則を無視したかのような経営です。 ただひとつ、 すべてがそろってる、つまり総合的なだけなのです。 これで、連日満員? しかし、ここには書けないことであるところ、 ひとこと言うならば 総合化こそすべての味噌であるということなのです。 ((これだけで、 言いたいことに気がつくような頭のいい若者が これを読んでくれたらなと 思うのみです。)) でもAZの経営に、理論があったわけではなくて、社長も何故成功したのか首をかしげながら、ただ単にお客中心主義を貫いているだけなのです。 私には 理論が無ければ行動はできません。 勉強の時間も体力も無いところどう出発できましょう。 が、 哲学自体は、まるで地球よりも大きいのかもしれません^^。(自信がないので 破れかぶれで書いてます。) 自分の中では「「総合的だ」」ということです。 * 自分では やっぱりキリスト者であるかどうかは よくわかりません。 ただ、愛という言葉にしても キリストがその言葉を使ったのはたしか「命を人のために捨てるほどの愛は無い」とかいう言葉ですよね。 これこそ「おしえ」じゃないですよね。 生物である人間の謎の世界であり続けます。 なに一つとっても、 パウロはまだよくわかりませんし、 その人が創作者だったのかもしれないても、 わたしには「謎」というか 先がどこまでもある(私の考えの常に先がある)世界で、 これが庶民のたとえ話で言われてる言葉じゃないですか。 大工さんでしかなかったから 当時の書物に記録が皆無だったのでしょうが、 それをよく拾い出したということなのでしょうが(わたしにはですが 奇跡とかは何かの気迫に押されての勘違いか、ともかく物語りがまざってしまった汚点だとしても、 実在はした人との推理がどうしても働いてしまう内容だということです。) でもだからと言って、神という存在とキリストとを結ぶ接点を見出すという感じでもないのです。 神は神であり、キリストは優れた人間(優れすぎてますけど)としか、解からないということです。 * 「仁」については、 たしかに記録が残っているとすれば、おそらくその「教え」の部分かと推測しています。 でなかったとしたら、中国古典を勉強した偉人達がそのへんを評価していないはずが無い、というふうな推理の仕方なので あやふやな思索に過ぎないのでしょうけどね。 孟子とか孔子とか、そのあたりの人が「仁」についての道徳を何か語ったりしていましたか? ほんとうに無知無学な者、恥ずかしいです。 でも、同じ推理力のようなもので、 というかやはりなんらかの体験からの思索なのでしょうが、 それは確かに、ここでの議論の「自然本性」の世界の 人間としての自然な行為として生まれたものと思います。 アフリカの中の 肌をさすって病気の人をいたわる習慣のある種族の集団で病気の人の肌をさすっている写真が、 ある専門の指圧の本に出ていたのですが、 その頃は私自身は気脈の世界も知りませんでしたので 惜しいきもちになるのですが、 その専門家である著者は、 彼らがちゃんと 現代のつぼ医学からみても正しい位置に手をそえてることに驚いていました。 でも、そこからその体系が生まれるのには、たぶん、苦しみをともにするそれこそ「友」と友の ↓ ちょっと言葉では、 言えないところに差し掛かったみたいですので、また男女関係とも関りそうな体験ですので、 ここに体験をさしはさみます。 ↓ 私は その女性の手を握ったことも無いですが、 北海道の人でさへそちらのほうが寒さをしのぎにくいという冷たい風の山から吹き降ろしてくる地方にて、ともにその極寒の大地に農作業(主に酪農)にいそしんだことがあります。 苦労をともにしたことが、 どれだけ 人と人との心を通わすものか。 それがどんなにすごいものなのかを 体験している者なんです。 やっぱり、言葉でそれをどういったらいいか結局わかりませんけど。 むむむ。 ↓ もしかしらた、ともかく それらの遠い記憶が重なってのことなのでしょう。 わたしには、 健康への願いをこめて肌をさする「友」と「友」のあたりまえの感覚がわかるきがします。 たしかに、それは「おしえ」、道徳とかいうのではないですよね。 中国北方の厳しい大地、遊牧の地でもない荒れた農地にて、おそらく豆だらけの、もしかしたらその時私の手がそうだったように赤切れたセルロイドのような手の平から その気脈の知恵は生まれたのだと思います。 * 《一たん これまで考えられていた〈人間〉が 〈ほろびる〉段階を経る》 超一流の思想家の方が そのように思っておられたと言われても 思い当たる点とかは、 あることはあっても自分の考えについては自信とかはやっぱり無いですね。 マズローの欲求7段階説というのは知っています。 これって資本主義の経営書にも出てきますよね。 でも、そういう7段階となってしまう心理は、おそらく「自然本性」の感性に立ち帰ったら、とても存続しえないでしょう。 そうした心理変革が 資本主義のこれからの進展にとって必要だという論議であるならば、 わたしにも解かりそうなところですが 《いったん<ほろびる>段階を経る》という言葉は 強力すぎる比喩ですね。 そのぐらいの 思い切った何かが必要だということを見抜いていたということなら、 私の感性教育改革案はかなり極端な大改革のビジョンですから似ているのかもしれませんね。 私の場合は、その専門の道をそれとさへ知らず(自覚さへしないで)ただ夢中で歩いてきてその案の世界にたどりついてしまったわけですが、 その思索無しに、 そのへんを見抜いていたというのならば、吉本隆明という人は やはりたしかに よほど鋭い思索家だったのでしょうね。 あ みんな感性教育に結びついてしまうのですが、 はずれまくりでしょうか? ともかく、 こうなったら(ネット音痴とお金の無さで日本感性教育学会にコンタクトできないのならば) ここで、その案(ビジョン)を さしつかえなさそうに思える限りは発表してしまおうとも思いますが どうですか? 《当番制》への道は、 ここでの論議の一致点でしょうから、 私という変わり者の、変り種回答もそこをはずしたものでないのならば、 「あり」ということで です。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 まづ初めに この質問は 未来社会について 具体的な主題をとおしても 考えるという趣旨ですので その筋でしたら 何でも 取り上げてください。 ★ 仁 ☆ の扱いでは わたしは早走りましたね。中国人は 《ともかく信仰》の側面は 道教のようですし 儒教が どのように位置づけられるのか その判断を わたしは 早まったようです。ただし ★★ わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。 ☆ というように 大上段に振りかぶったかたちで 述べておられるようではあります。いづれにしましても もう少し 冷静な分析・判断をすべきところでした。 たぶん 知行合一というように 陽明学でしたか 理論と実践との統合を言う儒教の一つの展開があったと思いますが そのような主張が現われたということは 《おしえ》として神棚に祀られていたという情況は あったのではないでしょうか。 ともかく 孔子も孟子も いまは 遠い存在になっていますので あらためての手ほどきののちに 《仁の復活》については 考えてみなければならないと思ったのですが。 ☆★ 《一たん これまで考えられていた〈人間〉が 〈ほろびる〉段階を経る》 ☆ の問題です。一つには 豊かな社会になっても 一般に 《衣食足りて 礼節を知る》――これは 期せずして 儒教のようですが――というふうには この日本では ならなかった。その昔 これこれの経済行動のやり方では 長い目で見て 立ちゆかないと 友や先輩に言うと いや きみは若い いまは なんと言っても 経済の繁栄を築かねばならぬと返って来ました。そうか しかたがないと見守っていたわたしも 期待が 見事 外れました。 もう一つの事由は こうです。わたしが こうして 社会から隅のほうへ追いやられても 元気でいつづけることが出来たのは 一たん 死んで 蘇ったからです。それは 一般的な言い方をすれば 《神も仏もないのか》というまでに 世の中から 承認も受容もされなかったということです。あるいは 或る時点では とうとう 《わが神 わが神 なにゆえ わたしを見捨てられたのか?》という言葉を発したということです。 そこで 見捨てられたということにおいて 見捨てられてはいなかったと 分かったのでした。 要するに 《古い自分は ほろびる》という回転がありました。その経験からいけば 未来社会は 一面として たしかに 人為を問わないかたちの自然史過程として推移すると思われますが もう一面としては――特に 一人ひとりの個人の人生としては―― どこかの時点で 旧い自分が死ぬというまでの経験を持つのではないか とは思っております。《目から うろこが落ちる》というふうでも いいのですけれど。 一たん 強い光を浴びて 目が見えなくなったサウロ(つまり パウロへ改名する前の名)は アナニアがかれの上に手をおいたとき ▲ すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。(使徒行伝9:18) ☆ という例としても記されています。 ★ 感性 ☆ の主題は おそらく 言葉で説明していくことに むつかしいものがあるのでしょうが 人と人との関係のあり方に変革が起こるといったところに 焦点をあてて 試みてください。 あっ 教育というよりは その理念や基本思想を 解明・説明していかれると よいかも知れません。 わたしも 足元を見つめながら 進まねばならないです。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
南島(沖縄)の漁村から生まれた分かち合いの 素朴な姿というのは、文明以前や文明の始まった頃には、人間の世界ではほとんど似たような姿がみられていたようです。 動物は 高度なチンパンジーやゴリラにいたるまで、食べ物を分かち合って食べるという行為は、 本能が故の社会集団の仲間うちでさへ行われなかったと聞いています。 類人猿研究家のような方が言われることですから間違いないでしょう。 (本能としての家族行動のことではありません。動物も親は兄弟達には平等に分配する知性があったりしたと思います。彼らにとって集団も本能の内ということを考えるとわたしには疑問も出てくるのですが?) それが、人間社会が生まれたとたん、狩の場では男が主に狩をして得た獲物は女性や子供たちや老人達に平等に分配されたということです。 性も 同じ分かち合いの感覚とともにあったわけですが、 これが「自然本性」の場では、 快楽はみんなでというフリーセックスになったわけでは無いということです。 自然にも最初から一夫一婦制(制度としては最初は無かったと思いますが)だったわけです。 それをむしろなんらかの素朴な宗教であれ抑圧が始まった後に、原始的はハーレムの習慣を持つ民族とかも生まれたのだと私は推測しています。 それは、なぜかというと、動物の脳が人間の脳に進化したとき、何が一番変わったのかというと、それが「自他を見つめる」能力だったからです。 だから いきなり目と目をみつめあい、笑いかけあえるユトリを脳が得たと言うことなんです。 ここでは反省の能力とか自由意志の能力とかについての論議は進めませんが、 ともかくその同じ変化がすべてをもたらしたわけです。 本能も欲望も 五感すべても、自然に人間としての出会えた喜びやリスペクトの中で たぶん ごくふつうに、 「見つめる」ことができたと思います。 言葉以前には、特に、 赤ちゃんみたいに くったくない感性のままにても、 やがて大人になれば、その生活の全体を「見つめる」ことができたと思います。 すると、これは ごく普通の生物としての、家族関係を 性の分かちあいのためにわざわざ壊すという考えが、そこから生まれたとは考えられないという推理です。 一夫一婦という家族形態は、もともとは自然な帰結だったと思います。 * そのへんの 歴史とかをマルクスがどこまで 調べたり、推理を働かせたり、研究し考えたかは知りませんが、 食べ物だけでなく 生産物すべての分かち合いを考えた学者が、 自然な男女関係が、私有財産のような 利己心からではなく、人間関係の自然な帰結であるような関係として「見つめられていた」と気がつくのも 納得できそうです。 * 吉本隆明氏の言われる「関係の絶対性」と言う言葉も、 自然な関係の絶対性という感じもものであるとすれば、 言いたいことは解かる気がします。 でも、もともとは、おそらく弧も関係も両方とも あたりまえに「見つめる」ことができていたのだと、私は思うのです。 けして 家族どおし、別々な存在になってしまうということなど、全く無しにです。 コミュニストとして、私有財産制への反旗を翻す必要から おそらく同じことを「関係の絶対性」という言葉で表現したのだとおもうのです。 権力関係の絶対性とかではなくて、 やはり、もともとの自然な人間関係の絶対性を 心に深く希求した人なのでしょう。 個々の命が、そのままで深く尊敬されるべき 尊い存在だと言う意味での「弧」とか「個」の否定ということなのではなくて、 その自然なもともとの関係性に、立ち帰れば、 関係から「個」は自然に大切にされるし、 そこには不自然な ごますりの笑顔とかの不純な尊敬の姿とかも消えるといったことが言いたかったのかと思います。 しかし、そうだとすれば、気持ちはわかりますけれども、 私有財産制が無くなれば、いきなりその 本来の性が復活したり、本来の人間性が戻ってきたりするというのは ? その辺が「夢見村」という感じだということです。 * つまり、やはり、まず先に、制度としては私有財産のあるうちにも、 性の問題を解決することのほうが先決だという考えであることです。 そのへんは、いろいろ考えてみましたが、私の場合、変わりそうにありません。 * シュタイナーについても、一言また触れておけば、 もしかしたらですが、このへんについては急進的でありたかった人なのだと思います。 むしろ、その時代に急進的であろうとしすぎた人というふうに考えると正しい全体像が見えてくるのかもしれません。 * アウグスティヌスという方の 性についての模索は現代にてもそのまま充分考察にあたいするものなのだろうと感じました。 しかし、 ここは、先に現代において性とは何かという問題を、彼抜きに考えておくべきなのではと 私には思えたところです。 真の神話の世界の帰結は、もしかしたらその近代人の発言のあたりにあるのかもしれません。 最初の近代人のその苦悩と告白の思索に すでに答えもあるのかもしれません。 でも、それをさぐるためにも、 私たち自身が、もう一度はっきりと性の問題と取組む姿勢を持つべきところかと思うというのが、 私の考えなのですが。 * 食べ物の味わいを現す言葉として、とろりとした味とかとかの表現を日本人は他の国の言語よりも、はるかに多く持っていると聞いています。 また身体の部位を使って 精神的な意味合いを表す言葉もこれは日本のみの文化と言えてしまいそうな深みと広がりを持って日本には存在します。 ひざを突き合わせて語る。とか 手まめ、足まめ、とかなかなか骨のある人だとか、 これ自体が外国にはほとんど無いところ、あっても意味は浅いところ、なんと、さがぜば何百と そういう言葉がある国が日本なんです。 これを私はですが「肌文化の国」と呼んでいます。 お体を大切に という挨拶の国にふさわしい文化とも言えるかと思います。 医学のふるさとである仁の思想は、薬草のとれない北方の広大なきびしい大地に生まれ、 友として、おそらく最初はなんとか苦しみをなんとかしたいだけで肌をさすってただけだと思うのです。 そのへんの私の中に働いてしまう想像力の世界とか、推理とかは ここでは略しますが、 結果として残り記録されたのは、経絡の医学の世界だったわけです。 でも、医学そのものが仁であるわけではないじゃないですか。 もともとの仁は、上下関係、支配関係、ビジネス関係、すべていっさいなしの、いたわりのあたりまえの人間関係だと思います。 この経絡の世界の、気脈の世界は、わかりにくいとは思いますが 書けばともかく肌上のつぼの位置の流れの世界です。 つぼ自体が、現代にてどれだけ現代医学のこれからと関係するのかについては、私はなんら専門ではありません。 しかし、私はこれが もともとの仁の感性とつながっていることは解かりますし、 それは、「肌文化」の日本人の仕事と考えます。 感性と気脈のつながりを研究するのは 発祥の国である中国より以上に日本にこそその責務があると考えているのです。 話がそれてしまったようにも思われるかもしれませんが、 わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。 日本感性教育学会でも、気の世界と感性との関係は研究課題の一つとなっているようなのですが、 くわしいことはまだ解かりません。 気といっも、“中途半端に医療とむすびついたりする怪しげだったり、もじ通り中途半端立ったりする”世界もありますし、 気にかかるところです。 * 究極的には、こうして私の場合、性の問題は59歳あたりの時に仁の世界と重なったわけですが(さまざまな解決してなかった性の問題がこれで卒業できました。 それもまたあらたな出発地点にすぎないことなのですが) そこから考えると、 逆に恋愛はもちろん、フリーセックスの世界とか新たなセックス共同体とか、その他の火遊びとか言われてる世界も、要はきちっとした、成熟への過程としてみとめ、安全に責任を持って指導できるような遊びの広場として開放できるはずだという考えが生まれます。 そして、「みだらな」とか「いやらしい」とか「不浄」とか言う言葉も、しっかりした信頼の出きるそのシステムの中では、やがてその心ともとに消えてゆくと私には思えます。 おおらかな優しさと尊敬の息吹のみが その「みだなら」「いやらしい」「不浄」の心の変わりに 徐々にかもしれなくても広がってゆくと思います。 (逆に、日本人の特性でもあるような言葉や心の文化も、このままでは消えていってしまうと思います。 …。 だから私はあせっているのだと思います。 だからせめて急進的?になるのかもしれません。) ここで、その実現への道をどこまで論議したり出きるのかはともかく、 おそらく吉本隆明氏は「関係性」と言うことの中に、そのような「関係性」の世界を求めていたのではないでしょか?
お礼
ここで 訂正があります。 趣旨説明で ▲ 《吉本隆明と江藤淳の対談:文学と思想――『文芸』1966・1》=A とした出所は 勘違いで 次が 正しいのでした。お詫びします。 ▲ 《吉本隆明と江藤淳との対談:文学と思想の原点――『文芸』1970・8》(『江藤淳著作集 続5』1973所収)=B そうして 他の引用について 明らかにしておきます。 No.2補足欄―― B No.3補足欄―― A このようですので よろしくお願いいたしたいと存じます。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。正直申せば こういうご回答を かなり わたしは 待ちましたね。一たん ご自分はキリスト者ではないかとおっしゃった時点で 同感し 共鳴していましたが その後は いくらか 揺らいでおられました。(どうも わたしは あけすけで いけませんが 乗りかかった船です)。今回 まづは 錨を降ろして 帰港されたのではないでしょうか。 えらそうに言ってすみませんなのですが 全体として 共感しました。 わたしへの批判 アウグスティヌスを出してくる旧いわたしへの批判も 大いに 出していただくこととして 今回について あえて いくらかでも違和感があったと思われる所は 次の二箇所です。 ★ わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。 ☆ シュタイナーのサイトで ▲ ここで人智学を学ぶものにとって気をつけなければならない一つは教条主義、律法主義に陥らないことであると私は思う。 ☆ と言っていたことを No.1補足欄でわたしは触れたのですが その重要性は 日頃 思っていることなのです。 ★ 仁 ☆ に何の抵抗も反対もないのですが その主張が つねに 《おしえ》になって出されると 《教条主義・あるいは 〈仏性〉なり〈悟り〉なりの標語主義》となってしまうように感じています。その意味は ○ 愛 だとか 自然本性の回復 だとか ☆ のように 標語としては 漠然とした言葉のほうが(つまりは なるべく道徳から離れていて その規範化し難いような)言葉のほうが ましだと思っております。《仁》は 広い内容を持つとすれば よいかも知れませんが すでに《倫理規範化》した歴史もあると見られます。つまりは たとえば《〈自然本性〉と言っても 昔は〈仁〉という概念で捉えた思想もあったんだよ》といったふうに 持ち出してくるのは どうでしょう? とは言うものの 《愛》も すでに 手垢がついているかも知れませんね。 ▲ 「関係の絶対性」 ☆ この概念は 何せ 昔のことですから 今ではもう 歪曲して解釈しているかも知れませんが 要するに ★ 《絶対個 であって関係がある。》 ☆ とおっしゃる意味だと取っています。つまり 《関係性》というからには 関係しあう存在がいるということです。もし解釈がちがっていたとしても もうそのことには触れないことにします。つまり しかるべきときには 別の課題として取り上げることにしましょう。 というのも 吉本のばあい 取り扱いにくいのは 《絶対の反体制》を標榜するからです。《ただ単に〈資本主義体制への反対〉として 〈私有財産制への反旗を翻す〉》のとは 違うという論陣は 張っていると思います。《反旗》には じつに 《仁》や《自然本性》とも書いてあると言いかえすと思いますよ。手ごわい相手ですよ。 すなわち ★ おそらく吉本隆明氏は「関係性」と言うことの中に、そのような「関係性」の世界を求めていたのではないでしょか? ☆ と その概念の発展性において おっしゃるとおりなのですが まったくそのとおりなのですが そのことの中身は もう少し複雑です。つまり 趣旨説明に掲げたように 《一たん これまで考えられていた〈人間〉が 〈ほろびる〉段階を経る》と見ていることも 重要だろうと思われることです。 むろん ここは arayata333さんと 論点を形成するところなのです。わたしも その点では 《屈折 ないし 変容》が どこかで 起こるのではないかと見ている口です。存在じたいの革命が 起こって 前史を閉じ あらためて 後史なら後史に入るのではないかという推測です。 応答が適切に出来ていないようですが とりあえず このようにお返しすることに致します。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
前々回の回答に、自ら反省するべきことを感じたのは、その回答の非対話性のあたりです。 空回りしてるのではないかと感じたのです。 でも それがなんであるか解からず、急遽追加補足文を書くこととなったという感じです。 * 私自身が、 美人とブスとの間に差を感じる必要性を完全に卒業して、やっと男女関係の正常な出発点に立てたのは、なんとかなり遅く、59歳になってからです。 もちろん、これではまだよちよち歩きでもあるでしょう。 よく考えてみれば、それ以前は、そんなにも長い間、私自身が(結婚していませんが)もし、結婚をしていたらそこに女性の所有感を完全に克服していたなどとは言えないこととなります。 対等な人間としてもお付き合いしつつ、でも心の奥ではその関係にとらわれていたはずだと思うわけです。 それはたしかに 歳とともにその所有感とやらは薄らいでいたでしょうし、わたしが結婚していたら、もしかしたらですが、もっと早くその地点は卒業できていたかもしれませんが、 いずれにしても、ここに思い出すのは次の 私自身の若い頃の汚点です。 たしかに恋愛も経験していたので、その中ではセックスは純粋な心としてのみ経験したわけですから、それにおぼれてる状態の中にては美人もブスも関係なかったとも言えます。 しかし、それ以外の女性はやはり美人でないと、女性として感じられず、その恋愛経験がゆえに、逆に女性として感じることができない女性とはセックス関係に入ってはいけないという観念を持ってしまっていたことは事実です。 しかし、 そのおかげで、実際に私は、ある女性の心を大きく傷つけてしまうことにもなったのです。 それをブルジョアの女性所有感、あるいはそういう感じの無意識界というふうに、コミュニスト達は考えたのでしょうか。 ブルジョアは 女性所有の選択肢を持っている関係でもある、 といったふにです。 家族とは、家族自体が大切というのではなくて、そのとき、そのぶん、意識すると否とを問わず、 会社や家族という所有権を保証してくれる資本主義を守る生殖という生産手段としてそのブルジョアの心に映っているはずだという論理があったということでしょうか? ブルジョアの心と言えば、資産をコントロールもして私有財産を守り増やし それが社会的不平等を生み出しても省みず、家族を守るという大義名分のために鬼となる心というふうにも そのへんの思索の幅を広げることが出来たりするかとおもいますが、 コミュニストの論述は、そのへんの関係が共産主義となれば終わるので、 それによって家族制度はともあれ、男女関係のお互いの関係性が一気に変わっていくはずだ、という論議なのでしょうか? わたしは、現在の私たちの間でさまざまな男女関係の問題が起き、未熟さがはびこっていたりするのは あくまで文明病とその克服の過程(の困難さ)の問題だと考えている者なのです。 その観点から考えるならば、共産主義が仮にいきなりやってきたとして、変わる可能性があるのは、むしろ家族制度の方かと思います。 心自体がそれほど大きく変化するとは思えません。 共同体の中で心通う男女たち、愛称のあう男女たちが いままでの一夫一婦制の枠を越えて肉体関係も持ち、共同体メンバーはその男女関係によってかなり規定されて変化しつつ、あらたな構成員に常に生まれ変わりつつ(変わりつつ変わりつつ)存続していく形で、 子供たちのいままでの親に当たる人たちは、必ずしも自分の親だけでなく共同体の大人たち全員だ、というような関係の制度化です。 結婚式とかはなくなるわけです。婚姻届とかもたぶん無くなるかと思います。 大人も子供もより さまざまな性格の人と交わり、より多くのコミュニケーション力をみがき、 こうしてそのまま自然にても、今までの家族の問題もなくなり、より豊かな文化の原点としての第一次共同体が生まれることになる とう考えです。 おそらく、 もしかしたら そんなふうになるかもしれないし、 それはその時が来てみないと解からないけれど、 ともかくきっと所有関係が終われば男女関係は大きく変わっていくだろう。 というのが《「共産党宣言」》とかでの見解だという感じでとらえていいのでしょうか? 新たに自分自身の過去の女性観とかを振り返ってみたりして、考えてみましたが、 実はそのへんのそちらの文は 無学と読解力の限界で読み取れていなかったところだったのです。 おおよそは、こんな感じで受け取ってよろしいでしょうか?(すでに、自分の意見も混ざっていますが) * もし、そのようなことだとすると、 やはり、制度によって、男女関係の心自体が大きく変化するということは私の考えではあまり考えられません。 今までの家族に変わる共同体が生まれて、たしかに新たな支配関係やその心がその真集団に生まれる可能性は 極端に少なくなるでしょうけど、それが人間の心に 支配欲とか権力欲とかがいきなり無くなる大きな因になることだとは 思えません。 また、そういった変化を予測するのは、むしろ混乱を招くだけだと思います。 たとえば、家族制度はそのままでも、私有財産の心自体を感性の成熟で克服していれば、人の心はそのために不平等の大義名分を持つことも無くなるわけですし、 肉感的愛情自体が成熟すれば、そこからはあらゆる創造意志がみなぎるでしょうから、 家族を超えた付き合いは、子供たちも巻き込んでどんどん豊かになってゆくでしょう。 そうすると、 では、この男女関係の問題で重要なのは何かということは、 遠い未来や 巨大の制度の改革(共産主義)以前の、 現体制内にての、その中での資本主義の理想的な発展の力としての、男女を中心とした愛情の問題ということになるかと思います。 情報化社会には、その力は巨大になる可能性を秘めているというのが私の考えの中にあります。 * ここで、かの「のほほん村」の先生の お話の中にて、 自我の真の確立と男女関係がほのめかされてる部分も、 たぶん、同じことをやはり神秘主義からのメッセージとして語っているのではないかと思われる部分があったことを思い出します。 「のほほん村」というのは、この存在から苦という存在を無くす切実さ(あるいは福祉の面の切実さ)に欠けている欠点を彼らが持っているという批判を オコリザル風に言ってみた形ですが、要は、詳しくは略しています。 欠点は、それがなんであれ、長所の中に封じ込めてできる限りはそのようにして語りたいところだからです。 彼らは 彼らの立場を きちっと誇示しつつ(方便も交えつつ)、ほんとうは、男女関係についても、感性的にしっかりとした考えを持っていたとう長所の部分がそこに見られるということです。 * bragelone様の言われる「霊的な婦人の共有」という言葉は さらに深いと思います。 信じてるから考えることはおこがましいという智や知の盲目状態を作ってしまったような信仰の世界とは逆に、 信じてるからこそどもまでも疑うことさへ出きるという純粋で知的な立場にたっておられるbragelone様のような「信仰」の世界からは、 それが他の人がそうであっても、そのような深さが生まれてくる客観的地点なのかもしれません。 私が 59歳のあたりを堺に、 感じるようになった少しも分け隔ての無い男女愛の世界は、 東洋医学の発祥の元、医学のふるさとの心とも言われる仁の心を生み出した人たちの発見した気脈の世界を知ることからやってきています。 それ以前の私の 女性観はまだ 恋愛時点でのそれにおぼれた感覚の方がまだ真実味のある世界だったとも言えます。 でも今の私なら、そのへん寅さんにも負けない^^かもしれません。 その感覚は、 では どういったものかというと、 魂の感覚を知るという感じもものでもあるのです。 言葉で言うとそういうふうにも言えます。 「霊的な愛情」あるいは>霊的な婦人の共有<という言葉の「霊的な」と言う言葉のあたりが、幻想的なといった意味とは逆の《知的な認識での「魂」》という言葉の世界をとらえたものであるならば、 これは同じ 仁のふるさとの世界でもあると思います。 神様からの贈り物としての生物でもあり人間でもある存在の、全存在をやさしく抱きしめる世界です。 仁という言葉には、神も セックスも出てはこないわけですが、 肉感的愛情という点においては、ここで通じる世界だと思います。 * 「のほほん村」の村長であり教育長でもあるシュタイナーも、 方便はいろいろ交えつつも そのような男女の肉体関係の健康な発展は、のほほんとした表現ながら暗に語っているわけですし、 では、そのへん、すこしでも早く、無策の日本が(すみません、無策じゃなかったですね一策さくでしたね。 急進的皮肉氏より。)大変なことにならないうちに、 では、まず日本はそのへんどうすべきなのかということに 回答の筆を進めていってよろしいでしょうか? * 今度は 対話の空回りは かなり克服されてると思うのですが。
補足
arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 arayata333さん 今回は わたしも思案に思案を重ねている主題ですので arayata333さんにも さらに 考察をつづけていただこうと 勝手に 思いました。たたき台を述べ続けるかたちになります。 まづ 《共産党宣言》が そんなに 決して みだらなことを想定しているのではないことを 示す文章を 引用のみしておきます。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 男性の女性にたいする関係は 人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。 だから どの程度まで人間の自然的態度(* 自然児スサノヲの人間語)が人間的(* 品格を重んじるアマテラス人格語 もしくは スサノヲ=アマテラス統合語)となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは 男性の女性にたいする関係のなかに示されている。 (マルクス:経済学・哲学草稿 第三草稿〔二〕私有財産とコミュニスム 城塚登訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 《霊的な婦人の共有》ないし《人間の 自然的・感性的かつ人間的な 社会関係》のことを言っていると見てよいと思います。《感性が人格を形成する核である》とさえ言っているようですよ。 ☆ かえって 聖書にも 女性蔑視の文章があると しばしば 指摘され批難されている箇所をめぐって アウグスティヌスは 次のように論じています。男の側からの見方が現われていて 擁護しがたいかも知れません。考察を加えていくべき主題だと考えます。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 男が神の似像(にすがた)であり 栄光であるから 頭に蔽 いをかぶってはならない。しかし 女は 男の栄光である。 (パウロ:コリント前書2:7) ・・・男は神の似像であり したがって 女には被るように勧めるその蔽いを 頭から 取り去るように〔使徒=パウロは〕語っている・・・。 精神は 永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。したがって 男は 頭に蔽いを被ってはならないのである。 しかし 物体的・時間的な事物に巻き込まれるあの理性的な行為にとって より低いものへ余りに突き進むのは 危険である。だから それは 頭の上に抑制されるべきものを意味表示する蔽いを示す権能を 持たなければならない。 ・・・神は 時間によって 見たまうのではない。また 或るものが 時間的・暫定的に生じるとき 動物や人間の内的な感覚 また天使たちの天的な感覚さえも 影響されるのであるが そのように神の直視と知においては 新しいものが 生起するのではない。 ・・・ それでは 信仰篤い婦人は 身体の性を失ったのであろうか。 そうではない。かれら(かのじょら)は 神の似像――そこには性は存在しない――によって新しくされたゆえに 神の似像――そこには性は存在しない――によって 言い換えるとその精神の霊において人間が造られたのである。 それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。 女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性の(*――理性の である――)あの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神が その部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は 留まらない。この精神は 男のみならず 女も持つことは 明らかである。 だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論12・7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《理性のあの部分》については 直接の解説はありません。《経験的な あるいは むしろ 経済的な ものごとを管理する知恵のはたらき》のようなことでしょうか。 要するに けっきょくは 未来社会における人間の人間との関係を 変なことばですが 先取りして 考えてみておこうという課題ですね。男と女との関係を 捉えられれば――マルクスではありませんが―― 人間と人間との交通関係が 分かるようになるかも知れません。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
補足します。 自分の考える性の考え方が 知性の世界?とか哲学論争とかの世界では、かなり前衛的なのかもしれません? 感性教育というのも かなり総合的に実際の教育の現場とも結びついた、たぶん歴史的にも裏のある<でもはじまったばかりでもあるという>日本感性教育学会の考えよりも、さらにはるかに急進的ですから。 でも残念ながら わたしはネット音痴ですし、お金が無いのでスタッフを雇うことができない という状況にいつしか求道のみの人生の中陥っていました。 自分の考えが正しいのかどうか その専門の方々に問いただすことも出来ない状況です。 そこですべて迷いつつ回答してると言う感じなのです。 自分の考えの社会的な位置のようなものも解かりません。 すべてそのような中での、中途半端の状況にての回答です。 もし何か落ち度とか 批判とか またご迷惑な点とかがありましたら、遠慮なくおっしゃられてください。 よろしくお願いします。
お礼
No.5のご回答で ○ 競争なり権力闘争なりを このまま 進めていけば しかるべき会社なり指導者なりが 台頭して来て 要らない競争や権力者は なくなっていく。 ☆ というような展望をお聞きしました。おもしろい見方だと思っております。 と同時に わたしの関心は さらに その過程で そのどこかで 人間の更新が 起こるのではないか にあります。 むろん 信仰もかかわっているのですが そうではなく(つまり それを 前面に押し出すのではなく) あくまで 哲学思想として この今から そういう変革のことを 考えていくと いいのではないかと思っています。 つまり 競争の問題にしても 変革を捉えつつ議論しつつ いまの方式を進めていくところに 要らない競争や権力関係が 淘汰されていくのではないか こう感じています。 いや どうでしょう? 何もいじらずに 自然史過程にまかせたほうが いいものが残るという自然淘汰が実現するでしょうか?
お礼
☆ かたて落ちは 差別用語だと言います。どう扱うか どう対処するか 考えるところだと思います。わたしの方針は 無難な行き方で 済ませるところは そうするというものです。この場合 使いません。 ☆ きぐるみさんの件で ひと言としては 《神は 善悪を超えている》のであって かのじょの伝える神は 善の極致なる存在であるようです。これは 道徳です。経験思考です。非思考ではありません。といったところです。
補足
arayata333さん わたしの回答歴とのおつき合いを わづらわせ申し上げて まことに 到らない対話者だと思い すみませんという言葉そのものです。(じつは きぐるみさんの件で 今回も あるのですが)。ご回答をありがとうございます。 まづその過去の質疑応答歴のあるのを ご紹介しましょう。いくつもあります。ほぼ最初に 昨年の五月六月に 次の質問で持ちました。ほかの回答者のを容れて 22件の長いものですが よく問答の経過がわかっていただけるのではないでしょうか。それゆえ あえて ご紹介します。 ○ 《Q3043372:〈イエスなる人は神なるキリストである〉はゆるされるのですか。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3043372.html?ans_count_asc=0》 ★☆ 信仰論 ☆ たとえば 《絶対》の概念を持ち出すことのミソの一つは こうです。 ○ “「無限の感性」の世界への謙虚さ”という言い回しを持つとき 《無限》と言えば すでに 最終の到達地点を 意識した場合には もちろん そうでなく 暗にでも無意識のうちにでも 知っているということです。そのことが 分かるということです。 《無限・彼岸・涅槃・絶対》という言葉を持ち出したなら そのとき ただちに ひとは 意識してかどうかを別として 自己がその絶対のもとにあるということを 知っているのです。それが 信仰です。しかも 非思考として生じる心の伸びです。だから 関心を持つことになります。そうでなければ 何のために 勉強や修行をしようと思うでしょうか。 昔は 《かみ》と言っても 最終の境地のことを知り得たかどうか分かりませんが 今は 数学で《絶対》をおしえるでしょうし 一般に《唯一神》ということが耳に入るようになり これは 《絶対》のことだと 何となくにでも 分かるようになっています。したがって 《絶対》が《相対》を越えてあると 想定したなら ひとは おのれの魂のふるさとを知ったと知るのです。 日本人は そのあと――つまりこの《〈絶対〉との対面体験》のあと―― もう 放っておくのが 一般です。世界の人びとと交通対話を持つとなれば この《絶対》なる概念は 一般に 用いて おのれの世界観を説明することが ふつうだと思われます。そのために おのれの無神論を 絶対という概念のもとに位置づけて 説明するという課題があります。日本人と同じく 少なくとも日本の ブッディストは この絶対観をあいまいにしておこうとします。 ★ 感性教育 その具体的な措置などの提案 ☆ これらは 専門家を交えての井戸端会議で 練っていくとよいと考えます。実践には実践の課題や手法があると思います。 一点 技術的・事務的なことで 反論を持ったのは ★ PCとロボットがその最大の役割を果たすように 教育環境を整えなおす必要がある。 ☆ のは 指摘されているとおりに 理数科の問題であり それに限るのだと思います。あるいは あくまで 補助装置であると思います。そうでない場合には ロボットは それ自体が ひとから おそわることはない機械であるということを 子どもたちに しっかりと分からせる必要があるように考えます。 ☆ 理念の問題として 抵抗があるのは ★ 世界100に入る教えるのがうまい教師が さらにその技術を検討しあって そこに仕組んでゆく ☆ のは 少々 革命が不徹底ではないでしょうか。つまり これまでの教え方でうまいことと これからうまい教え方をするそのこととは 同じであるかどうかです。《検討し合って》ということですが それでも すでに 従来の教え方の効果が大きいほうが これからも 有効であろうと前提しているように思われ それでいいのかと抵抗を感じましたが いかがでしょう? ☆ エホバの証人は 言いたくありませんが 自分以外のキリスト教界を ばかにしていて 一般に 逆からも 相手にされていないのが 実情です。もちろん 問題は 中身ですが そういう実態もあるということを お知らせします。そういう実態のたぐいのことは ほとんど わたしは これまで話題になっても 素通りして来ましたが きぐるみさんの件で やはり 見解の相違があることを発見して 言っていく必要もあると感じたところです。――エホバの証人は 例の 輸血を拒否するという教義を守る宗派です。