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キリスト教の異端・改革派・異教への弾圧・迫害について

 キリスト教の功罪を考えるときではないでしょうか。  功は 分かっています。ふつうの生活を送ってきたふつうの市民の歴史に 顕著です。  罪と言えば 具体的に集中して調べたわけではなかったので あらためて おしえていただこうと思いました。  単純に 世界史の知識によれば 《遺憾に思う》という反省のことばによっては つぐない得ないものがあると思います。丸坊主および二百年の謹慎というさばきを持ちますが いかがでしょうか。    * 罪は あやまち そして さばきは つぐないの勧めと それぞれ 言ったほうがよいでしょうか。  * 二百年の謹慎ということは 教会の自己解体を意味します。

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回答No.6

ANO1ですが、 ペースが遅くなってます。 コメント 感謝します。   今primeapeさんの方も読みましたが、 おかしくてしかたないのですが、primepeさんの文も、「めちゃんこ悪魔君」とか「牛」とか「鬼」とか確かに小学生でもわかりそうな言葉は出てきますが^^、  ムムっ! 聡明さを失っていない大人でさへ読み解くのが難しいのに、 よくまあbrageloneさんは、いとも簡単に読み解いてしまっているのですね。   はたから見ると特殊会話の達人どうしの話みたいです^^。 内容自体はめちゃくちゃ深いのですから、驚いてしまいます。 * ANO1への 私の回答へのコメントについてから書きますが、 教会組織に対しては サルになってでも「めざめよ、人間のくせに」とオコラないとだめみたいです。(ニセのオコリザルより) 昔 これは仏教組織の中のことですが、あるその組織の雑誌にその組織に暴力を振るった人が かなり残忍な死に方をしてるのを喜んでいる記事があったのですが、  これ?  普段偉い人達が、慈悲についてお話をされ みんなが涙で感動している そういう組織内での、同じ組織内でのみんなが読んでる雑誌です。    なんで、誰一人として、抗議や疑問の声を上げる人がいないのか?   なんでそんな非人間的な冷たい心に誰一人としてきがつかないのか?      理由は一つしか考えられません。  みんな 自分の心で考える力が骨抜きになってるからです。 信仰という名によってです。 偉い指導部の人たちも まったくそのへん盲目状態となってしまっているということです。  学問的にそれを慈悲を勉強していても、実際は 自分で考えることはおこがましいというのを「信仰」としてしまっているからです。 brageloneさんたちの信仰の世界と 間逆の世界となってしまっているのです。 洋の東西を越えて キリスト教に昔起こってしまったことも、これだと思います。  そして、今もおそらく目覚めきってはいない、ということが自己解体できないでいる、あるいは組織を超えた形に出来ないでいる最大の原因かと思います。 キリストが何を語ってくれたのか、その一番肝心なところが、まったく盲目状態で見えてはいない?という はたからみれば超不思議な現象が宗教には起こり続けてきてしまったのです。 * わたしは、人の血を流すような派手なこととか犯罪とかはしてませんが、それと等しいほど人の心を傷つけてしまったことがあります。 自分を弁護すれば半分ぐらいは非自覚的にですが…。 でも、今でも もしその人に会えるならば誤りたいし、なにかその分のことをしたいし、できればそれ以上のことをしてあげたいし、 そして、もし来世があるならば(これは、輪廻のことですが)それを思い出せるというのならばそこでは償いたいと思います。 今は やらなければならないことがほかにたくさんあります。 死んでお詫びすることも出来ません。     * 教会組織も 同じだと思うのです。  目覚めることを促すしか無い時です。 もっともっとです。   そうすれば自ら ほんとうはつぐないもしたくなるでしょうし、 それよりも、まずは、今度こそ、個人個人しっかりした「教育」組織を 作る責務にも目覚めるでしょう。 ですので、たしかに、組織的には、おそらく共産主義の粛清よりも重い罪なのでしょうが(共産主義には 聖書があるわけではないわけですから)それでも、盲目状態だったのでは これは半分はめざめていた私よりは軽い罪だと   今の今は、わかってあげていいことなのではないかと思うのです。 醒めて裏で操っていた人間がいたとしたら、そのデーモン性は、簡単なつぐのいで済ませられないでしょうが、  巨大な組織の全体が眠ってもいた状態であったのならば、    悲しいことではあっても そのへんを怒りようがないことも言えてしまいましょう。 brageloneさんの、キリスト教なのに??????!! という気持ちはわかります。  あまりにも対象的ですからね。 でも、信仰の概念自体、 血を流すような事態を生んだような時には、これもまたまったく逆に盲目だったのです。 それと いざ環境が 戦争という極限の恐怖状態にお互いが置かれることにもなってしまったのです。   イギリスにおける現代でのキリスト教の宗教戦争がそれです。 イスラムとアメリカで起こっていることも含めて、 これは、もはや「目が覚める」哲学無しには、 泥沼からは 私たちが抜けられない世界だと思います。 キリスト教の真の理解者達の出番の問題だと思うのですが…。 * そちらの、prmeapeさんへのコメントの中に、 >このように この問題は 一般の人びとの社会生活一般ということにも かかわっているように考えます。信仰の如何を問わず みんなが集まって 共同作業で 社会的な仕事をするという場合には 《信仰上の序列や支配関係が 生まれることもない》と思うのですが 《宗教》の組織になると ことが 違ってくるようです。そのような宗教組織を 社会の中に どのように位置づけて 社会の安寧を図るのか。こういう一般的な問題でもあると思えています。< というところがありますが、 ほんとにそのような問題なのだと思います。 誰かが上に立って 上から目線にまでなってしまって キリストになったつもりで「罪はゆるされた」という儀式の宗教ではなくて、   みんなが 赦しあえることを喜び祝えるようなみんなが司祭となり、その祭りと祭りの心を司り、他の人たちを助ける組織になったらいいなと  思います。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さんへの わたしからの ささやかな贈り物です。  ▼ (ローマ書8:22~28)~~~~~~~~~~~~~~  被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。  被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。  わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。  わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。  同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。  人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。  神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あやまちや失敗を含めて 《万事が 益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています》と。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  すぐ上の箇所と二重になりますが 重ねて 掲げておきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  誰かが上に立って 上から目線にまでなってしまって キリストになったつもりで「罪はゆるされた」という儀式の宗教ではなくて、   みんなが 赦しあえることを喜び祝えるようなみんなが司祭となり、その祭りと祭りの心を司り、他の人たちを助ける組織になったらいいなと  思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも わたしには   ★ 盲目状態となってしまっている  ☆ からだとは 思えません。  ▼ (マタイ22:36)~~~~~~~~~~~~~~~~   ――先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。  イエスは言われた。   ――『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神で    ある主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。     第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように    愛しなさい。』     律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。 ▼ (ローマ書13:8-9) ~~~~~~~~~~~~  ・・・人を愛する者は、律法を全うしているのです。  「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ほかのことがらは忘れても この《愛》については 忘れるはづがありません。唯一考えられることは 異端者・改革者・異教徒について すでに 《さばき》を行なったということです。  異教徒については そもそも《教化されるべき人間》に属するかどうか 一たん考えたということですから。(つまりヨーロッパ・キリスト教徒以外の人類は われわれ日本人を含めて 同じ人間であるかどうか 協議して決めたということのようですから)。(この発言は きちんと調べたものではありません。何度も そういう記事に出くわします)。  ですから わたしは  ★ キリスト教の真の理解者達の出番の問題  ☆ を超えていると思います。そういう段階や次元を過ぎてしまっていると思います。《頭を丸めて 謹慎しなさい》と言ってやるときだと考えます。過去のあやまちを全部まとめて いま です。そこまでですけれど。  primeape さんの文章は もう長く交通して来ていて 抽象的に どういう人間の思いを指して言っていたり それが人間関係のどのような動きにかかわっていたりするのかということが ある程度は 分かります。《めちゃんこ悪魔くん》は――もう去って行ったとおっしゃっていましたが―― 世間の悩みや辛さを媒介し伝達してくれる役目を持っているとも わたしは 解釈していたので その後についても 聞きたいです。  ベルクソンの質問について 時代情況についての解釈を交えて うまく説明しておられましたね。わたしは 読んだことがないので ベルクソン自身の思想は 知らないのですが 全体として よくまとめておられると感心してしまいました。なんで記憶が脳からはみ出るのかと思っていました。情報が 外からのものもあるのは 当たり前ですし。

その他の回答 (24)

noname#117439
noname#117439
回答No.15

オコリザルです。 A14のご返事は主観が侵食される作用について処方箋となりつつも、どう理解したと表現するか言葉がありません。 内包し得ない事柄を、個人として受け止めない為にはそのほうが良いのです。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  あぁ 誤解しましたね わたしは。  ★ (No.14) どうしても救いたくなる  ☆ についての誤解ですね。いろいろ相談を受けておられ 除霊というところまで関与されているとうかがったので 同じように 捉えてしまいました。《救う》というような動きですね。  信仰がらみでは 範躊がちがうということのようですね。この点 了解しました。

noname#117439
noname#117439
回答No.14

オコリザルです。 A9のご返事より。 ☆ そして 《天の国》は 《いま・ここ》だという議論をしております。 個人個人の思いのままに任せても安心でいられそうですので、他人に気兼ねなくそんな天国で暮らしても良いのではないかと思いました。 どうしても救いたくなるのはやっぱり違う個人に内包し得ない衝動ではないかとも思います。 「とりすがり」「すがりつき」この手の心情をはっきりさせて決別する準備も必要です。 私はこの点でたまりかねています。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ どうしても救いたくなる〔とき〕・・・「とりすがり」「すがりつき」この手の心情をはっきりさせて決別する準備も必要です。  ☆ 逆に 反対されたり 取り合わなかったりされたりする場合のこととして 次のように言われています。  ▲ (マルコ福音6:7~11)~~~~~~~~~~~~  そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。  その際、汚れた霊に対する〔除霊の〕権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。  また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。  しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《足の裏の埃》ですら それは その家のものだから 持って来てはならない ということのようです。  ★ すがりつき  ☆ も 同じように感じましたが いかがですか。

noname#117439
noname#117439
回答No.13

オコリザルです。 ここは本名を明かさない場なので私もどえらい自慢話をしましょう。 15年位前です。 私は将来展望が健全だったので、当時マルチメディアと語られたIT社会の展望に明るかったので、その一翼を担っていた任天堂さんと仲がよかった一時期があります。 私はいろいろな提案の見返りに報酬を求めました。 当時、地雷犬(地雷探査犬)というのが登場していたのですが、人間の肩代わりをして、小さな命を懸ける地雷犬の姿は、悲しみを呼ぶ人類の罪ではなく犬にとって幸せだと説明しました。 そしてそれを何らかの形で世の中に伝えてくれと任天堂さんにお願いしました。 任天堂さんは地雷探査犬の姿をCMにしてアメリカで放送しました。 これが大きな反響を呼び地雷禁止キャンペーンの発端の1つとなりました。 地雷禁止キャンペーンはノーベル賞を受賞しています。 私はそのキャンペーンの中で完全に無名の立場ですがノーベル賞受賞の栄光に浴しています。 誰もそれを知らなくてもです。 こういう純粋な愛の体現が、小さな取っ掛かりでも、世界を変えていけることは励ましとなりました。 だから私は無意識に対して「つげだし」ができるんです。 聖書の話、現代の行いの一致点、この手のこともお互いに完全に無名のままで入るのが最高の幸せなんです。

noname#80116
質問者

お礼

 そうだったんですか。そんなことがあるんですか。  任天堂と言っても 地雷犬は ロボット犬ではなく 生きた犬なのですね。 そういえば 地雷撲滅の運動があったように記憶にあります。あるいは 芝刈りのようなかたちの地雷探知機を開発して 活用し始めたといったニュースを見た記憶もあります。  地雷犬は 要するに 臭いで嗅ぎ出すということですね。構想を描いて提案なさったのですね。なるほど 地道な努力であり 栄光ですね。おめでとうございます。  今回などは ほとんどつねに聖書を引いていますが 先回(No.12)は とんでもない文章を出してしまったとも思います。でも 大筋では そういう方向を向いておりますし ありうる話ではないかとも思っております。一歩一歩まいりましょう。  ご回答ととうとい情報をありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.12

オコリザルです。 昨晩の罪びとの神の話はもはや夢のようなもので、おぼろげな記憶の中に埋没するでしょう。 ちなみにこのように、封印されていく記憶を、無理矢理暴こうとする「何か」に触れると鬼神が登場して蹴りをくれます。 もうそんなこともなさそうです。 少しだけ進展が有ったようで、相対の中の自らの所在とは、私は現実を絶対視することで補っているのに気がつきました。 その点が、主観がどうのこうのという話の顛末です。 「わたし」は確かに存在します。 実はそれすらも、危うく思えるから、謎かけをするのが哲学でも有ります。 「わたし」(それぞれの主観)の存在を確かめることは神の存在を裏付けることと同じ意味が有ります。 わたしはこの点で、展望した無意識野の世界に関して、語りすぎてもいましたね。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  いちど どえらい言い回しをご紹介しましょう。高慢な態度にも見られる度肝を抜く思想です。例によって パウロですが  ▲ (コリント後書4:10~16)~~~~~~~~~  わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。  わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。  こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。  「わたしは信じた。それで、わたしは語った」(詩編116:10)と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。  主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。  すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。  だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日から日へ新たにされていきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ パウロと この書簡の相手であるコリントの信徒たちとのあいだに すでに一定の関係が成り立ち 或る種の善玉のデーモン現象が起こっていて その相互作用をとおして 生活態度を新たにしつつ ともに歩んでゆくのだと言っています。  なんと傲岸なことに 世話を焼いてやっているぞと言わんばかりに  ★ わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。  ☆ と言います。《わたしたち》というのは パウロとその同行者の者たちです。デーモン現象の 現在におけるあり方としては 死と生との 交通かつ交換がおこなわれていると言うのです。パウロたちは 死を引き受けている。あなたがたは パウロたちの生を受け取って 生きている。とまで言っています。  死を引き受けていても 日から日へ つねに 生き返り あらたな自己へ変えられて行っていると言います。  どないやねん?! と言わざるを得ないようです。いかがでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.11

オコリザルです。 格闘技の実況中継です。 20世紀まで、私の感受性で磨かれた独自の(個人的な)常識では、キリストの神は罪人にも等しく恩恵を与える神ではなく、まさに罪人専用の神でした。 本来はそうではないでしょうが、そんなことを思い出しました。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます  イエスの格闘技の実況中継です。  ▼ (マルコ福音2:16~22) ~~~~~~~~~~  ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。  イエスはこれを聞いて言われた。   ――医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたし    が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであ    る。  〔イエスの先駆者のごとき洗礼者の〕ヨハネ の弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」  イエスは言われた。   ――花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿    が一緒にいるかぎり、断食はできない。     しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断    食することになる。     だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当    てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を    引き裂き、破れはいっそうひどくなる。      また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしな    い。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革    袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるもの    だ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》というのも 単なるレトリックで 言葉のあやではないでしょうか。現場では 格闘技が たしかに おこなわれるのだと思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.10

オコリザルです。 この場合は無意識に由来する私独自の見解と申しましょうか。 A9の問題提起は正解で間違いありません。 ドグマに揺らぎが出て一回結んだ理解が二転三転しています。 今晩は格闘技です。 罪人が信仰から逃れようともしています。

noname#80116
質問者

お礼

 ふうーむ。ううーん。  次につなぎます。

noname#117439
noname#117439
回答No.9

オコリザルです。 A8を検証して1つ思うところがありました。 悪人は神のご加護を浴しています。 ところが罪人が神の恩恵を浴した話は聞きません。 そのような神学は知りませんか。 もしかしてそれがキリストの神ですか? 思い当たるところがあります。 世の中に影響を与える人徳のある人物はえてして生贄にささげられます。 ドグマたるこの世はなおさらです。 そこでは繰り返し処刑されます。

noname#80116
質問者

補足

 今回は 引用のみです。    ▲ (マタイ 5:10~12)~~~~~~~~~~~~    義のために迫害される人々は、幸いである、    天の国はその人たちのものである。  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。  喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして 《天の国》は 《いま・ここ》だという議論をしております。  次には かつて神の子たちへの迫害者だったパウロの言葉です。(パウロの言葉だと伝えられているという場合もあります)。  ▲ (ピリピ書3:5) ~~~~~~~~~~~~~~~  わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。  ▲ (ガラテヤ書1:11~17) ~~~~~~~~~~  兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。  わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。  あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。    ・・・  しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、  御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、  また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。  ▲ (テモテ第一書1:13~16) ~~~~~~~~~~  以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。  そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。  「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。  しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だそうです。

noname#117439
noname#117439
回答No.8

オコリザルです。 >《「この世」は 自らが触れられない世界》なのですか? これには少し動揺しました。 理解できないなら私は自分の意見を「信じている」と語るしかないなと思いました。 そんな信じる立場の意見といいますか、思考実験的見解です。 少なくても、五感では触れられないの意味ならば、間違いありません。 たとえば「ありがとう」と答えれば良い所で「すみません」と答える人は多いでしょう。 この場合その人の目に映る私の人物像は、美徳だなんだとごまかしていても、深層においては、ほどこしに謝罪を要求する悪鬼に写っています。 この、悪鬼の人物像がまかり通るのがこの世のドグマです。 その心象に住む、私の名をかたる悪鬼が、私がかつてイデアの偶像と表現して、信仰においてわら人形とされる偶像です。 名前の緊縛現象が起こるので、誤解を解こうとしたなら、それと格闘することになります。 もしもそうしなければ、私の心象にも「すみません」との給う人の人物像に関する歪みといいますか、本人自身が自分の人物像への誤解をしたままの、この世のドグマが私の心に出来ます。 この格闘が悪霊退治です。 言葉を交わしたり、目を合わせた人には、より強い結びつきがありますが、すれ違った人でさえその心象の私の姿に悪鬼を見出せば除霊です。 この点は、より拡大した無意識同志の通信をしています。 すれ違う人と「絆」を結ぼうとする積極性を発揮し始めた一時期に、この世のドグマをむき出しにして、私に接する当人のその姿に、私本人を幽霊とみなして、自らの心の悪鬼と会話する姿を見出しました。 私自身が幽霊扱いされて、廃人同然になった経験です。 さらに時を進めて、心の交流の無理強いが出来るようになると「人間とは何ぞや」で、他者と妥協できない状態になりました。 ここで登場してくれたのが精霊の姿をした神様です。 明らかに対峙、衝突した両者の情念でもなく人間外の清らかな意志でした。 発見したのは割と最近ですが、この手の神様は昔から日本人同士が、情を交わすお手伝いをしてくれます。 知解能力を超えて、気を失うほどの軋轢を経験したときには、神の意思がより神聖さを増した形で支えてもくれました。 ヤクザのような、自らを悪人とするどん底人生を歩むものほど、この神様のご加護に浴していて、悪党は総じて信心深いです。 こうして自発的信仰の前に、そもそも神の存在を認めなければ、自らすらもわからない状態に置かれているのが、日本人でして、そのような神国であります。 デーモン現象は、私の場合は、この手の悪鬼の退治が主観に干渉する現象として認識していますが、狂犬のように振舞っても、それを放った当人の健全な無意識に取っては、多様な何らかの理由で解き放った猟犬であるようです。 最近は心の交流の中で、もう少し猟犬をしつけてから狩をするようにお願いすれば済むことだと、気が付きました。 話は変わってキリシタンについて、霊界通信的な神秘を語りますが、八幡様と言うスーパーヒーローを生み出した、日本の名も無き軍神への信仰心は偉大でして、武士はその本人の生き死には別として、軍団として神々の意向に反した戦はしたことがありません。 したがって当時、日本の神々には一神教の神とを受け入れがたい何がしかの軋轢があった筈です。 そしてその理由が今も尾をひいていると考えます。 20代頃の私にとって日本の神国らしさを、なんとなく肌で感じていた頃、信仰心を表ざたにする姿は、すがりつく姿であり、軟弱者、かつ裏切り者でした。 この偏見は現在も一般にまかり通って居ますし、偏見を振り切れないでそのままのゆがんだ信仰であがいている人も多いです。 このゆがんだ信仰は、偏見の呪いの意味もありまして、本人だけの意思ではありません。 それでも自助努力で立ち上がらなければなりませんが、日本人キリスト教徒は、一神教の自らの神への信仰を貫くために、神々と共存の道を探らなければならなくもあります。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  あぁ 〔意味じたいは〕簡単なことでしたね。  ★ 触れられない《この世》  ☆ とは 人と人との交通・対話が 成り立たない。つまり 心が通わない。さらには いがみ合いがまかり通っている という意味でしたね。  《触れる》というのなら 五感での感覚のことと思い たとえデーモン現象であっても どうして 感じられないのか・触れられないのかと 負の感覚のほうで考えてしまいました。  心の言葉ではなく 歪んだ心を 結果としては無意識のうちにも 直そうとして ただやたら起こる意識を 起こる端から 周りに蒔き散らかすというその情念・つまりデーモン現象のことでしたか。  特に 弱者と言いますか ほんとうは弱者ではなく ふつうの・言わば心が白紙の状態にある人を見つけると 《蒔き散らしやすい・いじめがいがある》と思ったからでしょうか やはりやたら その たいていは汚い意識を排泄し ふりかけようとします。これは半ばは 意識してやっているのです。ばかは死んでも直らない。  この死んでも直らないばか振りを 白紙の心のこちらは その情感じたいをも 受け取ってしまいます。アースをしようとして来たその情感を 自然に感受します。そうしますと あたかも こちらは この世から――そのこの世が見えているのに――完全に隔絶されたかに感じるものです。《孤独》といったものではありません。宇宙船から外に出て 置き去りにされた感じです。  どうして このようなあたかも死の状態に陥ったにもかかわらず わたしたちは生きているのか。なぞです。よね。  ★ 武士の神  ☆ については こういう見方も出来るかも知れません。つまり 我が田に水を引きますが 八幡神にせよ八百万の神々にせよ そのとき信じた神が 非思考の形態としては 《ひとつ》だという意味です。まとめてでも ひとつです。  つまり 非思考の形態化としての信仰は 無神論でも有神論でも 同種ですし 有神論にしても その神が いくつかに分かれていたとしても また いくつに分かれたとしても 同種の原点または出発点となるのだと考えます。  《一神教→排他的》という感覚が これまでの歴史の負の側面として 強烈であったのだと考えます。  非思考の形態化としての神の名は 何でも構わないというべきです。すべて代理表現ですから。そうして 信仰は 現実ですから 一面では その力として現われる結果に すべてが託されているとも言えるかも知れませんし 多面では いやいや 結果に一喜一憂するものではなく 《なぞ》は つづくと見なければならないという見解も出されるはづです。  ★ 日本人キリスト教徒は 一神教の自らの神への信仰を貫くために  ☆ というとき もしこの一神教が 凝り固まった《おしえやその文字の死守》であったならば あたかも それとしての  ★ 名前の緊縛現象が起こるので  ★ 神々と共存の道  ☆ は 無理です。少なくとも これまでのあやまちについて きちんと反省に反省を重ねて すっかりそのゆがみを知るようにならないと 覚束ないと思います。  ★ 信仰心を表ざたにする〔か しないかの問題〕  ☆ は 確かに そのことをも表ざたにしないという不文律が あったかも知れません。たぶん 明治維新以来の国家神道のくびきに 人びとが反応した結果であり そういう習性がついたのではないでしょうか。いまの若い世代では それほどでもないように思いますが どうでしょうか。

noname#117439
noname#117439
回答No.7

オコリザルです。 A5のご返事はあいかわらづ明晰で反論は有りません。 私の場合は信仰心は表ざたにしないだけなんですが、その理由はこの世界に神がいないゆえではけしてありません。 自らが触れられない世界である「この世」に対してならあてずっぽでそこに神はいないとはいえます。 この日本人的な信仰を表ざたにしない気質にどのような評価と分析を加えればいいのかは自分でも考えあぐねています。 brageloneさんの信仰の姿勢は尊敬に値するのでご自分の考えに疑問を持つ必要は無いのですが孤独ではないかとも考えます。 日本のキリスト教を考える時、神道的な神への敬意を表すわたしとしてはどのような神にも社が建つ日本でどうしてキリシタンは抹殺されたのかが謎です。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  このところお褒めにあずかり 正直言って うれしいです。さらになお ともに 精進してまいりましょう。  一つに 無神論と有神論とのほかに 第三の道がありはしないかという問題がありました。ですが 絶対は ただ一つですし それを 経験的な世界のことばで代理して表わすとなると 有るか無いかの二つに一つだと考えられます。  《絶対》に直面したくないということなのでしょうか。日本人のばあい。  逆に 直面した者が 《非思考の原点》の形態化を解説しようとすると けっきょく 無神論と有神論どちらかの《布教活動》といった内容を持たざるを得ないようです。  かつて 仏教が入ってきたとき 物部氏が指導者となって奉ずる土着の信仰と衝突して 争いとなりました。その代表としての物部氏の没落という代償によって 寺とやしろ(神社)との共存は 保たれていきました。  キリシタンを邪宗門とし 排斥したのは 一方で 西洋人が キリスト教を先兵として浸透させたあと 国を乗っ取ろうとしていたこと 他方で 政治支配者の論理で 都合がよくなかろうと判断した結果 排斥を選択したということだろうと思います。後者は 明治政府による国家神道の論理だと考えます。国家を挙げて いわば心を一つにして 進もうというのでしょう。どうでしょう。  生活者の次元では 東北には キリスト伝説さえあると言いますし。  ★ 私の場合は信仰心は表ざたにしないだけなんですが、その理由はこの世界に神がいないゆえではけしてありません。 / 自らが触れられない世界である「この世」に対してならあてずっぽでそこに神はいないとはいえます。 ☆ すみません。第二文が わかりづらいです。  《「この世」は 自らが触れられない世界》なのですか?

noname#117439
noname#117439
回答No.5

オコリザルです。 A3に着いたお返事は名文なのでさらに感想を述べます。 前置きを踏まえてなお、相対の中で自らの基点がありません。 「無」です。 そうすると有神論の展開がそこらじゅうに転がっている布教活動と大して変わらない。 現実に対する見解なのでしょうか、そういったものが正反対の立場です。 光の恩恵に浴した私がとことん無神論なのも変な話です。 それでもbrageloneさんの信仰と克服してきた人生の年輪は尊敬に値します。 これらの一致点について考えを進めると良いでしょう。 信仰心を表ざたにしない立場としての注文です。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  きわめて事務的に――それは もう間違いになりますが――応えてみます。  わたしの文章は ブッディスムで言う《無明(煩悩)》やクリスチアニスムの《原罪》を聞いて わたしなりに どう受け止め どう考えるか これを表わしたものです。  ただし 無明や罪という言葉に 実際にそのまま反応して 勉強してみようと思った結果です。  もし仮りの話をするとすれば こういう場合もあるかも知れません。つまり ひととおり勉強した結果 おかげで 特に問題も少なくなって来た。というとき 無明も原罪も そもそも 無であった。と まとめの言葉を発する場合です。  この場合だと 無ないし無神論の立ち場に近いということになるのではないでしょうか。  わたしの個人としての立ち場は キリスト者ですが それは ひとつに 今わたしがあるのは そのキリストの言葉によると思うからです。もう一つには おそらく 弱いからだと考えます。何ごとにも ひとりで立ち向かうには 無力を知らされ そして しかもそれにもかかわらず 人間の力でやれるところは 一切 人間の努力としてやれという意味で キリストの神を抱いている。苦しい時の神頼みをするなという意味で 有神論のほうを選んでいます。  そして そこまで行けば おそらく 無神論と同じような 非思考の形態なのではないかと考えます。ちがいは その非思考の原点に 神なら神という言葉があるということではないでしょうか。この《言葉・それが有る》というのも たとえであり 代理としての表現形式ですから 無と言えば無です。  ★ 相対の中で自らの基点がありません。  ☆ 《相対》じたいには 原点――《非思考の原点》――はありません。ですから 信仰抜きで言うとすると たとえば《キリストなる神》というような 相対的な代理表現としての《出発点》つまり《基点》があるということになります。これも 《無》だとおっしゃったでしょうか。そうすると たぶん この《無》という代理表現が 出発点であり基点であるのではないでしょうか。  それと いま一つの事情としては これまでの歴史において いわゆる仏教とキリスト教とが 膨大な文献を生んで来ました。宗教を離れても 社会一般に影響を及ぼしているでしょうし 文化芸術一般というなら ほとんどすべてが直接にかかわっているかとさえ思われます。(仏教以前やキリスト教以前の神々の世界が 良いのだという主張にしても 両宗教との対比でおこなっていると考えられます)。  つまり 触れずには済まされないのではないかという見方です。  もし primeapeさん流にいくとするならば 《布教活動》を一切 断念して 沈黙のうちに 生活をし 身のまわりの人びととの交通で 主張すべきは主張していくという態度になると思います。どうなりましょうか。

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