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キリスト教の異端・改革派・異教への弾圧・迫害について
キリスト教の功罪を考えるときではないでしょうか。 功は 分かっています。ふつうの生活を送ってきたふつうの市民の歴史に 顕著です。 罪と言えば 具体的に集中して調べたわけではなかったので あらためて おしえていただこうと思いました。 単純に 世界史の知識によれば 《遺憾に思う》という反省のことばによっては つぐない得ないものがあると思います。丸坊主および二百年の謹慎というさばきを持ちますが いかがでしょうか。 * 罪は あやまち そして さばきは つぐないの勧めと それぞれ 言ったほうがよいでしょうか。 * 二百年の謹慎ということは 教会の自己解体を意味します。
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ANO1ですが、 ペースが遅くなってます。 コメント 感謝します。 今primeapeさんの方も読みましたが、 おかしくてしかたないのですが、primepeさんの文も、「めちゃんこ悪魔君」とか「牛」とか「鬼」とか確かに小学生でもわかりそうな言葉は出てきますが^^、 ムムっ! 聡明さを失っていない大人でさへ読み解くのが難しいのに、 よくまあbrageloneさんは、いとも簡単に読み解いてしまっているのですね。 はたから見ると特殊会話の達人どうしの話みたいです^^。 内容自体はめちゃくちゃ深いのですから、驚いてしまいます。 * ANO1への 私の回答へのコメントについてから書きますが、 教会組織に対しては サルになってでも「めざめよ、人間のくせに」とオコラないとだめみたいです。(ニセのオコリザルより) 昔 これは仏教組織の中のことですが、あるその組織の雑誌にその組織に暴力を振るった人が かなり残忍な死に方をしてるのを喜んでいる記事があったのですが、 これ? 普段偉い人達が、慈悲についてお話をされ みんなが涙で感動している そういう組織内での、同じ組織内でのみんなが読んでる雑誌です。 なんで、誰一人として、抗議や疑問の声を上げる人がいないのか? なんでそんな非人間的な冷たい心に誰一人としてきがつかないのか? 理由は一つしか考えられません。 みんな 自分の心で考える力が骨抜きになってるからです。 信仰という名によってです。 偉い指導部の人たちも まったくそのへん盲目状態となってしまっているということです。 学問的にそれを慈悲を勉強していても、実際は 自分で考えることはおこがましいというのを「信仰」としてしまっているからです。 brageloneさんたちの信仰の世界と 間逆の世界となってしまっているのです。 洋の東西を越えて キリスト教に昔起こってしまったことも、これだと思います。 そして、今もおそらく目覚めきってはいない、ということが自己解体できないでいる、あるいは組織を超えた形に出来ないでいる最大の原因かと思います。 キリストが何を語ってくれたのか、その一番肝心なところが、まったく盲目状態で見えてはいない?という はたからみれば超不思議な現象が宗教には起こり続けてきてしまったのです。 * わたしは、人の血を流すような派手なこととか犯罪とかはしてませんが、それと等しいほど人の心を傷つけてしまったことがあります。 自分を弁護すれば半分ぐらいは非自覚的にですが…。 でも、今でも もしその人に会えるならば誤りたいし、なにかその分のことをしたいし、できればそれ以上のことをしてあげたいし、 そして、もし来世があるならば(これは、輪廻のことですが)それを思い出せるというのならばそこでは償いたいと思います。 今は やらなければならないことがほかにたくさんあります。 死んでお詫びすることも出来ません。 * 教会組織も 同じだと思うのです。 目覚めることを促すしか無い時です。 もっともっとです。 そうすれば自ら ほんとうはつぐないもしたくなるでしょうし、 それよりも、まずは、今度こそ、個人個人しっかりした「教育」組織を 作る責務にも目覚めるでしょう。 ですので、たしかに、組織的には、おそらく共産主義の粛清よりも重い罪なのでしょうが(共産主義には 聖書があるわけではないわけですから)それでも、盲目状態だったのでは これは半分はめざめていた私よりは軽い罪だと 今の今は、わかってあげていいことなのではないかと思うのです。 醒めて裏で操っていた人間がいたとしたら、そのデーモン性は、簡単なつぐのいで済ませられないでしょうが、 巨大な組織の全体が眠ってもいた状態であったのならば、 悲しいことではあっても そのへんを怒りようがないことも言えてしまいましょう。 brageloneさんの、キリスト教なのに??????!! という気持ちはわかります。 あまりにも対象的ですからね。 でも、信仰の概念自体、 血を流すような事態を生んだような時には、これもまたまったく逆に盲目だったのです。 それと いざ環境が 戦争という極限の恐怖状態にお互いが置かれることにもなってしまったのです。 イギリスにおける現代でのキリスト教の宗教戦争がそれです。 イスラムとアメリカで起こっていることも含めて、 これは、もはや「目が覚める」哲学無しには、 泥沼からは 私たちが抜けられない世界だと思います。 キリスト教の真の理解者達の出番の問題だと思うのですが…。 * そちらの、prmeapeさんへのコメントの中に、 >このように この問題は 一般の人びとの社会生活一般ということにも かかわっているように考えます。信仰の如何を問わず みんなが集まって 共同作業で 社会的な仕事をするという場合には 《信仰上の序列や支配関係が 生まれることもない》と思うのですが 《宗教》の組織になると ことが 違ってくるようです。そのような宗教組織を 社会の中に どのように位置づけて 社会の安寧を図るのか。こういう一般的な問題でもあると思えています。< というところがありますが、 ほんとにそのような問題なのだと思います。 誰かが上に立って 上から目線にまでなってしまって キリストになったつもりで「罪はゆるされた」という儀式の宗教ではなくて、 みんなが 赦しあえることを喜び祝えるようなみんなが司祭となり、その祭りと祭りの心を司り、他の人たちを助ける組織になったらいいなと 思います。
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オコリザルです。 A3のご返事にお答えして。 brageloneさんは人類史の信仰についてよく理解していることが判ります。 人類史を集結して取りまとめた人知と言う偉大ではあるが仮の存在が祝福してしかるべき回答であろうとも思います。 私の理解力では相対の中での自らの存在の基点がbrageloneさんの論理の中では確認できないで、ゆえに考えて理解しながら読み解く必要がありました。 名前の束縛と自らが何者でもない感覚をいったり来たりといいましたが、そのほかにも自分不在の感覚と言うマイナス要素もかつて経験していてそれとは区別した上で、A3のご返事は読めば理性が磨かれる文章ですが、信仰には無頓着な一般の日本人的気質の持ち主からも難解だろうと思います。 聡明さを失わない小学生でも理解できるような易しい文章に出来ればもっと良いでしょう。
補足
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 なかなか日本人というのは 注文の多い性格をしていると考えます。品質の良さとともに 使い勝手がよくあるのでなければ あまり見向きもしません。 一方では こればっかりは 何が起こって その結果 こうなったというような事件の系列をさぐったりすることでもなければ 概念を集めてそれらを使って おおむね 意味が通るようにと 作文することでもないという問題です。 問題は 《絶対》という概念をめぐってであると考えますが これからして むつかしい。と言いますか 生活になじみのないものです。 こういうことを考えてみました。 たとえばプロ野球は 選手の実力と監督の采配とによって 試合が争われているのかと疑った場合――勝負は 決まっているのではないかと疑った場合―― 疑っているわたしは その《八百長疑惑》じたいについては そういう経験事態だと知っています。そして 資料や証拠がなければ 思弁的に思惟しつつ疑いつづけることになります。 ところが この《疑っている》ということ自体は 確かなことです。移ろい行く経験事態の一つひとつですが みづからの存在と社会的な共存にかかわることになれば かなり確かなことになります。 八百長で喜び 八百長を楽しんでいたのか。ほかのプロの競技も 同じだろうか。いや 政治も 経済活動も 同じだろうか。教育に到っても 同じだろうか。すべてに渡って 社会生活には 裏と表とがあるのか。それが 社会の法則か。そのほうが 秩序が保たれるというのだろうか。 あるいは 思い違いであって わたしは 邪推をしていたのか。あやまちであった。だが そのあやまちを知って わたしは わたしに還り わたしは存在すると言えるようだ。 このように 疑っているということ自体は 存在や社会にかかわるときには 確かなことだと言える。疑っていること自体が ひとから欺かれることはない。八百長が事実かどうか これについては 考え違いも生じ得る。けれども 疑っていること自体は 社会生活のあり方にかかわっていて みづからの存在を確かなものにしている。 つまり うそで社会が運営されているとしたら? 社会は 前もってひそかに計画した予定に沿って 実際には 進行しているのだろうか? それが 秩序なのだろうか? このような疑いは すでに 日本語で疑うのと ほかの国の言葉で疑い思惟するのと 違いがない。こころの言葉であるだろうか。こころの言葉であるがゆえに 存在を確かなものにしているのだろうか? しかも この普遍的な こころの言葉も いかに その有効性としての力が 弱いことか。物質は ひとの手に負えないが 社会の動きも ひとは 無力を知らされ お手上げである。 無神論にしろ有神論にしろ この人間の無力を超えたところに 無神という神 あるいは 有神としての神を それぞれ 想定したものだと考えられる。それは 苦しい時の神頼みをしないためである。しないで 済ませるためである。人間の能力の及ぶ範囲では そのような神頼みに訴えない。この方針を宣言したものである。
オコリザルです。 今回のテーマに沿ってSF小説風に表現します。 「欲」「罪」「悪」これらは生命に必要のない何か「感覚的なそれ」を存在しないことを証明しようとする地球生命を集結した知的試みであるのかもしれません。(霊長としての人類) 概念として3つに分かれたままのマイナス感情は不十分です。 「感覚的なそれ」は今日の所さらに還元されて「魔の属性を持つ影」として私の前に現れます。 キリスト教徒さんたちにお願いしたいのは、原罪が許されたことを信仰の言葉を使わないで理解できるところまで、智慧をつけていただきたいです。 「魔の属性を持つ影」とは信仰の力に支えられています。 悪魔とは神の狂おしくあらぶる姿。 とも、解釈できるからです。 メチャンコ悪魔君の話はやめます。 彼女は私から去りました。
お礼
今回は ここまでとしましょうか。原罪が贖(あがな)われたという物語は あえて 言わずもがなとします。いかがでしょう。 そうして とげは抜かれたが まだ その傷は 痣や そばかすのようなものでしょうか そのような傷痕の形で 赤ちゃんにも 残っているのだと考えます。赤児も その意味では いまだに人間である限りで 痕跡のような原罪をもって生まれてくるという見方です。しかも 痕跡なら 覆われているという見方です。 ということは 悪も魔も 悪意も鬼も すでに 痣やそばかすや蒙古斑のたぐいだと言う意味になります。そばかすや痣を掻いてしまって そのあたかも新たな傷から 周りの人に対して余分な意識を排泄するというデーモン(鬼)現象が起きるということでしょうか。(いま こじつけました)。
補足
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ メチャンコ悪魔君の話はやめます。 彼女は私から去りました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でっかいことだと思います。必要に応じて そのお話も表わしていかれることでしょう。 ★ 原罪 ☆ の問題を あらためて わたしなりに 考えます。 《人が 神による被造物である》という信仰は 非思考の問題です。無神論という信仰でも 同じです。 §0 非思考の原点 人間存在は その知恵が 経験現象に相即的であって有限である。 この相対的な知恵 つまりは存在の相対性が 相対を超えた絶対なるものを 一度は 想定する。これをいいことにして 経験現象に関係なく さまざまなことを人は 想像する。 あたかも現象に関する知識に留まらず想像力を促すかのようなこの《絶対》について これを 無とするか 有と見るかで 非思考の形態が 二つに分かれる。 §0-A 無神論 人間とその世界の経験的な存在や現象を超えたところに 絶対を想定したとき やがて その絶対は無であると唱えて ここに戻って来る非思考。 けれども 有無を超えている領域に関する非思考において その絶対を無としたのは すでに 思考である。超経験なる絶対との対面において その絶対との関係を 経験思考をつうじて 経験的な概念である《無》として決めたという信仰である。信仰とは 非思考の形態を言う。 のちに見るように人間存在の自然本性からして 《無》なる選択も そうではなく《有》だとする選択と同じく 自由だと考えられている。 §0-B 有神論 絶対は有ると唱え これを絶対者と捉え さらに 神と呼んだり 創造の主体と見なしたりする非思考。一般には こちらの非思考形態を 狭義に 信仰と呼んでいる。 * 《これが有る・あれが無い》というのは 経験的な存在や現象にかんすることであり それとしての概念である。つまり 《神が有る・無い》というときには それは 非思考に対して その形態化として 人の経験的な思考と概念を絡ませている。 * 非思考と言えば すでに そのとき 非思考という思考となっており これを人は意識している。絶対を 非思考という思考(意識)において 想定したときから 超経験なる絶対との対面が 始まっている。有神論も無神論も この対面を 人間の言葉で代理表現したものである。有神論とて すべて 神に関する表現は たとえであり 代理表現である。 §1 自然本性 有限で歴史経験的にして可変的という相対的な人間存在にも 《自由意志》が備わる。能力に限界があるということと 判断や行動をめぐるその能力の駆使にかんして 制約があるということとは 別である。後者は 無制約である。物質は 人間の手に負えない。 しかも 自然本性には 意志による自由な選択がはたらく。〔ように造られた〕。 そのために 身体には 精神が芽生え この精神が精神するとき その記憶において秩序を思いものごとを整序する。この記憶行為から知解行為をとおして 知解(知恵・知識)が生まれる。これら記憶と知解との総合から 意志が出て来て 動き出す。 §2 原罪 自然本性は有限・可変的である。自由意志を基軸とする自然本性は その意志自由を発揮して 記憶と知解の能力を開発し 自然本性の維持向上を図る。このとき 無制約・完全自由の中にも なんらかの《こころ》があると思われるようになった。 いと高きところなる者に対する畏れとしても よく 引き合いに出される心のことである。われは有限なりという心である。可死的であると知った。 原罪を知った。すなわち 光が曲がると知った。あたかもそれと同じように 自由意志がゆがむことがあると知った。こころに反する判断とおこないは 自由意志の自由を曲げる自由であると知った。これは われわれ人間の知恵では悟れない非思考の次元にかかわっているのではないか。人間存在が人間存在であることによりそもそも陥るあやまち という意味で 原罪と名づけた。 個々の罪(あやまち)は 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・盗むなかれ》などとして 挙げられる。同じく 原罪にかかわって(つまり そこから派生するものと見なされるかたちで) 《欲望・悪・魔》なども 言葉として表現されるようになった。
オコリザルです。 信仰のありように思うところがありました。 信仰を表ざたにして生活に取り入れるならば、 「私は神を信じています」この言葉を確かめただけで内容の如何にとはず兄弟のように抱き合い。 「私は信じるものがある」この言葉一つで一人の人間として尊重する。 そのくらいだったら平和な歴史を歩めたでしょう。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 なるほど。どうして そういうひどいわざを行なうようになってしまったのか。 抽象的に言えば おそらく 高ぶりのこころ これが いつしか どこかに 芽生えてしまったからではないでしょうか。 宗教として認められず 迫害を受け 地下にもぐって 皆で 信仰を守っていたときは よかったのでしょうが 公的に認められ やがて 組織を持ってしまったときからは 気のゆるみと言うのでしょうか 特に 指導者層では みづからが みづからを 権威づけて行くということがあったからでしょうか。 たとえ 集団をつくって 指導者を立てるようになったとしても あくまで ★ 「私は信じるものがある」この言葉一つで一人の人間として尊重する。 ☆ この基礎を大事にして この基礎のみで 人間関係を形づくって行っていたなら 何も起こらなかったのかも知れません。 公認され 国教にまでなってからは 教会という組織が――権威と権力また資金力をも持って―― どこか支配の構造を作って行ったのでしょうね。 この組織そのものが 個人の信仰にとって その自由を奪うように 悪く作用するのではないか。こういう反省点にまで いちど 踏み込んで行ってもらいたいと思います。 このように この問題は 一般の人びとの社会生活一般ということにも かかわっているように考えます。信仰の如何を問わず みんなが集まって 共同作業で 社会的な仕事をするという場合には 《信仰上の序列や支配関係が 生まれることもない》と思うのですが 《宗教》の組織になると ことが 違ってくるようです。そのような宗教組織を 社会の中に どのように位置づけて 社会の安寧を図るのか。こういう一般的な問題でもあると思えています。
- arayata333
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私は無知ですが(その点がいろいろ恥ずかしくなる時がありますが。)、高校生の時の世界史の知識からは、 キリスト教の弾圧とか迫害については、魔女狩りとかいろいろなプロテスタントとの対立とか あるいや十字軍のことぐらいは、そういったことがあったようだ、ぐらいにしか解らないところ、 そこから考えれば、 現代の各説のキリスト教徒どうしの争いは、 弾圧とか迫害のようなものからは遠いのではないかと思えます。 実際には、高校生程度の知識では知ることのできない、隠された醜い史実とかもたくさんあるのでしょうが、 わたしは知りません。 もし、 キリストは神か人間か?などという感じの説の違いで争っているとかいうことならば、 それは哲学が介入して争いの馬鹿馬鹿しさを訴えることの出きる地点なのではと思います。 お互い、そんなことで、弾圧とか迫害をしあってるならば、馬鹿馬鹿しいというよりあきれてしまいますし、 これは哲学者やキリスト者がなんとしても止めなければならない事態なのではないでしょうか。 遠い過去に、踊りやその絵や歌などのもっとも純粋な表現ジャンルがキリスト教会(カトリック)によって抑圧され それがルネッサンスの時代に開放された形となっていますが、 その抑圧自体は もう過去のものととらえていいことだと思うところです。 理解が深まれば 自然に消えてゆくことです。 人間が人間を裁くことはその限りは必要の無いことと思っています。 問題は 理解が浅いからそれらの問題が起こってきたのだし、いまだに問題点が多々あったりするということです。 キリスト教などの一神教の自己解体ということでならば、 私も以前から同じ考えがありました。 《尊いのは、たった一枚の葉っぱの方が バチカンや教会の集いよりはるかかなたに尊い存在なのに、 あるいは新約聖書から言えば「野のユリ」のほうがはるかに尊いのに(というより ほんとうは大自然は無限に尊い)、そしてキリストはそのことを主張したのに、 その贈り物よりも、その組織を尊んでいる姿は、 私たちの脳には いらないことだ。》という意味合いでのことです。 ですが、これも よく考えてみたら《「野のユリ」への感性が育っていないあるいは阻害されてる文明の渦中》にては、 無理からぬこととも思えてきてしまっています。 それに 西洋ではそれはなじみの文化として人の心の奥にまで入り込んでいます。 いきなり解体するのではなくて、 教育も含めてこの情報化時代に市民の力でむしろキリスト教の深い意味合いを進化させることからはじめる必要があるのではないでしょうか? 理解さへ深まれば 異端とか改革とか異教とかの分裂自体、馬鹿馬鹿しくなりますし、 いわゆる権力はもう必要ないという自覚が たとえばバチカンにしたって哲学者の集まりの可能性のある人たちですから 必然的に生まれてくるのではないでしょうか? blagelone様の 気持ちの中には、もっともその責任の大きな立場の人がその逆をやってきてしまった責任の大きさを問いたい気持ちがあるのでしょうが、 それこそ、これはキリストが意識もうろうとした中で語ったことばであるだろう「 その罪は赦されてる。 それはあなたはそれを知らないからだ」 という十字架上でのその言葉の意味合いを受け取るべきところかと思います。 私自身、 知らないで後から どれだけその人をきづ付けてしまったかという行為におもいあたることがけっこうありますし、 その時点では罪の意識も無かったりしたこともありますし、 今から考えると未熟というより 信じられないようなことを自分自身が いとも簡単に、 しでかしてしまってたりします。 このとき、意識もうろうとした中でのキリストのあの言葉は おちこむ私にそれでも前に向かって進めという 進んでいいんだよというプラスの志向性を与えてくれはげましてくれます。 これはキリストがファリサイ派でしたか、その司祭たちにムチを持って怒ったという事と 一緒に出来ない事態と考えているわけです。 彼(キリスト)にとっては、 その勤めの神聖さ、そのお祭りの神聖さは無限であるわけです。 そのような踊りを踊れる主であるキリストだからこそ、模範としておそらく演技ではなくて、ほんとうに怒ってみせたのだと思うのです。 私たち凡人が 凡人を裁くとか 赦さないというのは、哲学の道、知性のあり方ではないのではないかと思うのです。 教会の自己解体を 私も、今でも理想と考えています。 でも、それは理解を通じてです。 その理解を急ぐべき時というのならば、私は急進派ですので大賛成なのですが…。 一説によると、バチカンはマフィアや、ポルノの世界と、自らの安泰のためにひそかにつるんでいる とのこと。 でもこれ自体、ほんとうに新約聖書のキリストが言っていることを理解したら、その両泥沼にも、蓮の花を咲かせることが出きることではないですか。 マフィアを解体させ、ポルノの中から不浄をなくし(セックス自体は野のユリ以上の尊い贈りもの、あるいはその可能性を宿している贈り物、一夫一婦制の重みを否定しているのではないですが、 その気づきが中途半端ではポルノを変えることはできない)(ポルノを無くすことは意味無いし、無理。 方向はすばらしいその意味合いをまずは文だけであったとしても もっともっと語ること)ていくことが必要な時であるということなのですが、 おそらく それには、司祭なら「あなたの罪を赦された」という資格があるのか?といったあたりの 罪の問題の哲学の浅さとか、 不浄とはという哲学の浅さがくずれないと、 その改革は無理でしょう。 でも、その理解が生まれたなら、 逆にキリスト者がそれを実現できないとは、これも私には考えられないことなのですが…。 マフィアだって、やくざだって、神にとっては、私たちと同じに無限の尊い命なんですから…。 娼婦だってもちろん同じことですから…。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 この質問の趣旨をあらためて確認させてください。 1.キリスト教つまり ローマ教会およびそれに挑発されたプロテスタント諸教会は 人の血を流し過ぎたと思われます。その重大性について 事例を交えて おしえて欲しい。 2.現在すでに おおむね 反省して あらたなあやまちを繰り返すことも少ないと思いますが 過去の清算をきちんと終えたとも思えないものがある。単純にですが 自己解体し二百年の謹慎をもって つぐなうとよいと思われる。 3. 以上について 認識のあやまりがあれば 正しつつ ご見解をおしえてください。 こうなっています。 寄せていただいたご回答は ★☆ 方向において賛成し その実行の仕方において しかるべき扱いをおこなっていくべきだ。 ☆ となりましょうか。まづ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一説によると、バチカンはマフィアや、ポルノの世界と、自らの安泰のためにひそかにつるんでいる とのこと。 でもこれ自体、ほんとうに新約聖書のキリストが言っていることを理解したら、その両泥沼にも、蓮の花を咲かせることが出きることではないですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについては なんとも分かりません。分かりませんし 仮定として論じるのも なんとも 気が進まないです。いまのところ 保留とさせていただけますか? 一番の問題は わたしたちが 自己解体を迫るといったときに どういう立ち場に立って どういう態度で臨んでいるのか になるでしょうか。 ★▼ (ルカ23:34) そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 ☆ この言葉とその考え方を応用することは出来るかも知れませんが この今取り上げている教会の悪事については もっと単純であると考えられませんか? 要するに 血を流すことを平気でやったわけです。人殺しです。《異端者・改革と言う名の反逆だと思った者・そして未信徒(異教徒)》であるなら 殺してもよいという意識は ありありだったのではないでしょうか?――《遺憾に思う。ごめんなさい》で つぐないが済むかどうか なのですが。 《赦す・赦さない》の議論は ここでは 省略させていただきます。《つぐない》の問題だけとして扱うという意味です。しかも横から つぐないが足りないのではないかと強引に叫ぶ恰好のそれです。 と言いますか つぐないを迫るより先に 赦すことをしなさいという意味でしょうか? 《赦さない》という立ち場を取らずとも――そして 《赦す》という立ち場でもないのですが―― 《つぐないを迫る》ことは出来ると思うのですが? これで だいたい お応えできたかと思うのですが? というのも 相互理解の問題や哲学の出番といった捉え方もあるにはあるのですが ともかく ここでは 《血を流しすぎた――それの清算は 済んだか》 このような過去の一事にのみ しぼっています。いかがでしょう?
お礼
arayata333さんへの わたしからの ささやかな贈り物です。 ▼ (ローマ書8:22~28)~~~~~~~~~~~~~~ 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あやまちや失敗を含めて 《万事が 益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています》と。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 すぐ上の箇所と二重になりますが 重ねて 掲げておきます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 誰かが上に立って 上から目線にまでなってしまって キリストになったつもりで「罪はゆるされた」という儀式の宗教ではなくて、 みんなが 赦しあえることを喜び祝えるようなみんなが司祭となり、その祭りと祭りの心を司り、他の人たちを助ける組織になったらいいなと 思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうも わたしには ★ 盲目状態となってしまっている ☆ からだとは 思えません。 ▼ (マタイ22:36)~~~~~~~~~~~~~~~~ ――先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。 イエスは言われた。 ――『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神で ある主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように 愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。 ▼ (ローマ書13:8-9) ~~~~~~~~~~~~ ・・・人を愛する者は、律法を全うしているのです。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ほかのことがらは忘れても この《愛》については 忘れるはづがありません。唯一考えられることは 異端者・改革者・異教徒について すでに 《さばき》を行なったということです。 異教徒については そもそも《教化されるべき人間》に属するかどうか 一たん考えたということですから。(つまりヨーロッパ・キリスト教徒以外の人類は われわれ日本人を含めて 同じ人間であるかどうか 協議して決めたということのようですから)。(この発言は きちんと調べたものではありません。何度も そういう記事に出くわします)。 ですから わたしは ★ キリスト教の真の理解者達の出番の問題 ☆ を超えていると思います。そういう段階や次元を過ぎてしまっていると思います。《頭を丸めて 謹慎しなさい》と言ってやるときだと考えます。過去のあやまちを全部まとめて いま です。そこまでですけれど。 primeape さんの文章は もう長く交通して来ていて 抽象的に どういう人間の思いを指して言っていたり それが人間関係のどのような動きにかかわっていたりするのかということが ある程度は 分かります。《めちゃんこ悪魔くん》は――もう去って行ったとおっしゃっていましたが―― 世間の悩みや辛さを媒介し伝達してくれる役目を持っているとも わたしは 解釈していたので その後についても 聞きたいです。 ベルクソンの質問について 時代情況についての解釈を交えて うまく説明しておられましたね。わたしは 読んだことがないので ベルクソン自身の思想は 知らないのですが 全体として よくまとめておられると感心してしまいました。なんで記憶が脳からはみ出るのかと思っていました。情報が 外からのものもあるのは 当たり前ですし。