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日本画における人物や構図
近代までの(あるいはつい最近の漫画描写までか)日本画で、人物の顔面アップというのはついになかった気がするのですが、どうしてでしょうか? あるいは、絵巻物的なものは遠景的俯瞰的な構図のみに終止し、変化に乏しいということがありますが、これはまたどうしてなんでしょうか? 構図に変化をつけ、クローズアップするとか、地面から這い上がる構図とか、なぜもっとダイナミックな視点を持とうとしなかったのでしょうか?
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私の専攻していた洋画の画法の知識と西洋、東洋、美術史の範囲を越えて しまったので、知り合いのその道に詳しい人にご講義してもらって きました。またぎきになると思いますので、分からない点の補足は 文書等でご確認ください。また注釈できるようであれば返信いたします。 まず、絵巻物を鑑賞するにあったって重要なところはビューが一定して いないと言う点だそうです。簡単に用語で説明すると、「心理遠近法」 という画法で逆遠近法というのなら東洋美術では頻繁に使われている 遠近法ですが、逆遠近法だけでなく透視図法的な画法とのハイブリッド であるという特殊な遠近を持っているという点に特徴があるそうです。 なぜこのような遠近法を用いているかと言うと、物語で使われている 文法や用法と画法に統制を与えるためなのだそうですが、私の専門外 なのでなぜ統制を与えることが出来るのかは深くは理解できてません。 ただ、西洋の透視図のようなスナップショットでは無く、文章の中に ある心情や時間や風景を画像に起こした場合一見混沌とした画面 ではあるが、文章を読むに当たってその絵巻物の世界に没入したり また自分の世界に返ってきたりしやすいような画法であり、読み手 (鑑賞者)があたかも経験したかのような魂の交感を助ける 作品であるらしいです。要するに(その知り合いの話によれば) RPGゲームのフィールド画面のようなものであり、自分が文章を 読み進めるとともにその世界の文章とは関係のない場所の思いをはせて みたり、登場人物になりきって絵からこちらの世界(現実世界)を 覗き込むことが可能であると言えるのではないかとのことです。 ですので、ある一定以上の絵画的情報の偏りがある場合その世界に 没入しにくく現実世界の個人を特定できるほどの情報や、特徴的な 情報はあまり必要ではないらしいですね。主人公や主要人物は別らしい ですが画面の構成上あまりにもそれだけ目立つようにはしないようです。 最小限でなおかつしっかりした要素の顔であるほうがよいらしいですね。 (その人は懐古ゲーマーなので最近の3DビューのRPGより昔の 2Dキャラはこちらの想像力しだいで泣いたり笑ったりするだろ それと同じさ、という説明つきでしたが) また、日本の文章にはよくある主語が不明確であったり、話の主体が変化 したりという表現と心理遠近法はマッチするらしいです。 完結的な絵が無いと疑問をお持ちでしたようですが、ある文章の ワンシーンを切り取るということを選択せずに長文をそのままに 画像として再現しているところにあの独特の構図の秘密がありそうです。 もしワンシーンを選択していたならもう少し大きめの絵が存在して いたかもしれないですね。透視図は無理だとおもいますが。 透視図だと建物を隔てた背後の人など描けない角度が増えてしまう のではないかとのことです。 ここからは私の私的な感想なので飛ばしてもらっても構いません。 西洋絵画が自然主義とするなら日本の絵画はどちらかと言えば表現主義 であり、主観と客観が曖昧で表裏一体となっています。 西洋絵画が個人を特定でき、表情を捉えて心情を表現したが、対象物と 同化することは表現上難しいが、日本の美術は自然を客観視する 目を多少犠牲にしながら逆に作品内の対象物と鑑賞者が同化し、客観と 主観の間を行き来することが出来る表現ではないでしょうか? 自分の心理状態によって印象が変容し、作品の無機物や動植物を擬人化 しやすいというメリットがあります。対象物との明確な距離がないが 心的距離を近づけたかったら対象物と一体になることで可能。 (デメリットあるけどもそれを克服するため表現が発展してきた) また西洋古典絵画を科学技術の応用と人間の絵画と取ることも出来ます。 日本の絵画は文学や詩のなどの内的世界の絵画と言えることも出来ます。 西洋古典絵画の特色上変化は化学反応のように変化は早いですが、 日本の絵画は親が子を子が孫に遺伝子を伝えるようにゆっくりと環境に 適応していたようです。停滞というわけではなく海外の表現も取り込み つつ、内包して徐々に変容していくスタイルが日本の美術のようです。 (司馬好漢や渡辺崋山のような絵師もいたようですし頑固だったわけで もないようです。政治や身分制度のように厳しかったようではない感じ ですね。) ただ、ビューの固定は洋画が流行するまであまり採用しなかったし、 トリミングはなかなか発展しなかった。トリミングに関しては対象物が 画面内で生きていると考えて生き物はなかなか切れなかったとも考えら れのではないか? と私は仮説を立てています。
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確認しますがアップ=接写ってことですよね?
補足
そうです。
- nemosan
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「大首絵」というのがありますが? 喜多川歌麿 http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0601/index.html 東洲斎写楽 http://www.aurora.dti.ne.jp/~k-manabe/ukiyoe/syaraku/syaraku00001.html 達葛飾北斎 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/hokusai.html
お礼
こういうのは、様式として近世にでてくるようですね。でも、やっぱり視線をこちらに向けているわけではなくて、なんというか、対象物としての価値観から離れられないですよね。
アップは習作ならあるでしょ。習作は作品として人前に出さないし。 絵巻物は質問者さん自体が絵巻物って書いてる時点で、絵巻物は 文章が主で絵は説明する図ってなぜ気づかないか逆に不思議だね。 情報量は多いほうが説明しやすいわけで、地図が上空からみた図を記号 で描いてあるのと同じと考えれば分かり易いですか? 逆に絵本がアップばっかりだったら意味わかんないと思いますけど。 それとタブロー(日本語なら画面かな)を区切られた世界と考えた場合 その枠内からはみ出していると画面の外へ(タブローの正面から外ね) 対象物が飛び出してるわけで、遠近を表現する場合それは欠陥なわけ。 空間が外へ湾曲してるわけだからね。線や形体が開いちゃうし。 アップで表現するという場合は抽象的な形態のみを扱う表現でないと 破綻する可能性が高いからなんですよ。 それに、日本の美術は対象物の周りの空間を宇宙や世界を感じさせる ために余白を使って表現するし、盆栽ですら空間を重んじる精神が あるわけで、それから考えると空間が詰まってると品のねぇ作品 と感じちゃうのかもしれないのかな。 視点を変えると言うのも画面に湾曲が出やすい表現方法の一つで 画面における空間の湾曲を悪と取ってた意識が強いと考えられるんじゃ ないかな。 (日本画なんかに視点による遠近の表現なんてねえだろとか言わないでね。) それと、様式美を重んじる日本画だからそれから規格外にはみ出る作品は ウンコみたいな扱いしかされないわけでね。実験的な作品なんてオナニー は現代の美術ぐらいでしか評価されないでしょ。歪んでようが なんだろうがいいもんはいいっていうのは分からなくもないけど、 守るべき作法っていうか愛すべきマンネリって必要だと思うけどな。 だから昔のお偉いさんがそんな変わったもの重宝するなんてことは考えられないわけですよ。 作家もお金もらって描いてるわけだから死活問題です。 横山大観ですら最初はボロクソに言われたくらいだしね。
お礼
習作といいますが、本作品にかかわらない習作なんてあるんでしょうか。絵巻物の情報量といいますが、あまりにも固定化した構図というのは、頑固頑迷という印象です。空間美もいいのですが、それを表すのに、鳥瞰図ばかりでいいのでしょうか? 空間の湾曲、その多様性を認めないという精神ですね。これがどうも解せないとこです。遠近表現は、ほとんどないとあえて書きたいです。
- liar_adan
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「なかったからなかったのだ」というのが答のように思います。 逆に言うと、「どうしてダイナミックな視点を持たなければならないのか」 という問題になります。 日本画における、となっていますが、 西洋美術でも、顔のアップというのは、近代以前はあまり思い出せません。 あるのかもしれませんが……。 日本での肖像画はだいたい全身を描きますが、 西洋の肖像画はバストアップも多いようです。 これは、クローズアップということではなく、 椅子とテーブルがある生活で、相手の顔を見る状況を絵にすると、 バストアップが自然な構図になるのでしょう。 日本の場合、床や畳に直接座るので、バストアップでは中途半端になります。 「バストアップ」はもうちょっとで「顔のアップ」になりそうですが、 やはり違うと思います。 構図は、その時代の人の視点に影響を受けるのではないでしょうか。 たとえば、近代以前の人間が「顔のアップ」を視る機会は、ほとんどなかったと思います。 一人の人の顔が、視界の全部を占めるというのは不自然な事で、人生のうちでもそうそうありません。 恋人とキスをするときぐらいじゃないでしょうか。 今の我々は、顔のアップの絵を見ても特に奇異な感じは受けません。 しかし、それは、写真・映画によって、様々な構図を見慣れているからでしょう。 それがなければ「こんな視点は無いんじゃないの?」と思うのではないでしょうか。
お礼
もっともだと思います。 生活習慣によって多少左右されるでしょう。 西洋画の肖像との決定的?なさを感じまして、それは、視線が交わっていないということがある気がします。日本画の人物は決して画家の方を向いてないですよね。この辺の消極性も気になるところです。
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お礼
非常にわかりやすいご説明で、感銘しました。ありがとうございます。 西洋的なあるいは東洋的な人間関係的文化と深く結びついているし、また、絵巻という構造上にも理由があるのですね。それと、日本語との調和とか心理的距離など、さまざまに理由が錯綜して、おっしゃるようなところに落ち着いているのでしょうね。たしかに、日本画のほうが、鑑賞者を持つ積み込む配慮がなされている、という面はありますからね。 後は、好みなのでしょう。 画面の中で生きているというのは仏教的みたいですかね。