- 締切済み
本当の優しさ、思いやりとは
本当の優しさ、本当の思いやりとは、どういったものなのでしょうか? みなさんの考える、思う「本当の優しさ」、「本当の思いやり」を教えて下さい。 わかりやすく定義してもらえるととても嬉しいですが、実体験などから、確かに本当の優しさだったと感じたことなどでも全く構いません。また以下に私の考えを書いていますが、これと異なるものも全く構いません。みなさんの思う本当の優しさについて教えて下さい。 ―私の考える本当の優しさ― 『相手の幸せを第一に考え、なおかつ自分の想像と影響の限界を常に認識しながら、それでいてなお、その限界を超えようとし続けること』 ポイント 1.相手の幸せを第一とすること 2.想像には必ず限界があると正しく認識していること 3.影響についても同じ 4.限界を認めつつ、諦めないこと 私が漠然と考えていたことをはっきり定義できるきっかけとなった質問がここにあったので、参考に載せておきます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2956032.html ここのNo.9へのお礼にあるのを見て、現在の考えに至りました。また内容自体も非常に考えさせられるもので、なかなか興味深いです。よろしければご覧ください。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (20)
- 専門家の回答
みんなの回答
- oignies
- ベストアンサー率20% (673/3354)
どんなときも温かい目でみることかなあ。あとは他人の領域にずかずか ふみこむようなことをしない。黙ってみていて、助の必要な時助けてくれ たひとは優しいと感じました。 あとは共感力かと思います。
- suzumenokox
- ベストアンサー率15% (35/229)
こんにちは。 優しさとは「相手の認めるべきところを認めたうえで、生物の一種に過ぎない存在としての限界を支え、個人的な事情に土足で踏み込まないようにしながら、多様でいいことに干渉しない。」ということだと、私は思います。その前段階として話す態度のある対話からわかり合おうとすることが大切です。まずはそういう対話ができるようになるための修行的な位置づけとなる時期が成長の途中の段階として不可欠です。自分本位の押し付けではなく同時にアクションとして相手に実質的に機能しているような善意が理想です。その理想を目指して試行錯誤をする過程そのものが自分を成長させていくものだと思います。その道のりは人生の重要なファクターの一つとして死ぬまで続くものなのかもしれません。
本当の、と言った瞬間、それは本当ではなくなります。 相手の幸せを第一に考える、と言った瞬間に、それは 迷惑な干渉になり得るのです。 何故って、相手の幸せは相手が考えることで、しかも 揺れ動き、流れて変化して行くものだからです。 そんなことはない!と反論することは、その時点で 相手の考えや感じ方を否定することになります。 それは相手を幸せにすることとは正反対の行動です。 例えば、あなたが既婚で子供もいるとしましょう。 あなたは妻子を愛しており、この先もずっと家族の為に 貴女が考える方法で幸せにし続けたいと願っていると します。 でも、いつしか妻も子もあなたの一方的な決めつけや 一旦は理解してみせる態度を取りながら最後は必ず 自分の価値観を理解させようとするあなたの態度や 性格がずっと嫌で我慢していた、でももう嫌なので離婚 したい、と突然言い出したとします。 仮定で話しているのではなくて、現実にこういう話は 後を絶ちません。 「え?僕は今まで君たちのことを考えて尽くして来たのに、 何故?どうしてそんな僕を嫌いになるの?」と、呆然とする 人が沢山います。 妻子の幸せを第一に望むならば、別れて下さい、そして 慰謝料と養育費を払ってください、と詰め寄られたり、 見知らぬ弁護士が代理として冷酷に離婚を要求したり する。 妻も子も、会うことさえ拒んでしまい、あなたは何が悪かったのか、 どうすれば良かったのかと頭で考えるばかりで堂々巡り。 何の答えも出せずに途方に暮れる。 そんなことは本当に世間によくあることです。 相手の幸せを第一に考える、という考え自体が、そんな自分は 正しく揺るぎない、と思いたいがためのシュプレヒコールでしか なかったことに気づいた時には、究極の善人である筈のあなたが 嫌われ、避けられ、拒まれる。 これも、当然のことです。 相手のことを第一に考えるのは相手の 専任事項なんですから、相手を理解していることに自信がある、 などと言った瞬間に相手に取っては人格を否定されたのと同じ 抵抗感を感じるのですから。 二つ目に、想像には必ず限界があると正しく認識していること、と 言うのも、あくまで自分の頭の中で考えるだけの姿勢から離れる ことが出来ていない気がします。 相手が幸せを感じるのに、考えであれ想像であれ、あなたが 主役である必然性は全くありません。 これまた例えば、あなたと然程親しくない、或いは好きではない 知人が暴漢に絡まれてあなたと視線があったとします。 関われば、まずただでは済まない暴力団員や、或いは刃物を 振り回す狂人でも構いません。 その知人を庇って闘うなり逃がすなりするのに思考も想像力も 邪魔なだけです。 警察に電話をかけて助けを呼ぶにしても、暴漢にそれを聴かれたら こちらも酷い目に合わされる恐怖に震えあがる。 そんな状態で相手の幸せを第一も第二もありません。 刺される覚悟、言い換えれば思考や想像を完全凍結して 猪突猛進、無我夢中、遮二無二、即行動に移せるか。 それだけです。 知略は無我夢中で行動できる者にしか扱えない武器です。 思考や想像力それ自体が代わりに闘ってくれる訳ではありません。 第三の影響も必ず限界が、というのも単なるエクスキューズ、言い訳に 過ぎません。 先ほどのような極端な状況は日常的にはそうそう無いかも知れませんが、 要は、考えたって想像したって、所詮頭の中の連想ゲームに過ぎない。 影響、つまり自分の行動の結果が大したことなくても仕方がないと やる前に言ってるようなものです。 行動する前に効果を云々するということは、自分の行いが良い結果を 生むことを期待して、でも責任は負いたくないという、なんとも引きこもった 考えです。 何故って、そんなことグルグル考えてる間にとっとと行動し、行動しながら 臨機応変に対応して行く人間に追いつけるはずもないからです。 そして、往々にして、世の中は下手な考え休むに似たり、案ずるより 産むが易しのことの方がはるかに良い結果を齎すことが多いのです。 現実的に考えれば、本当の優しさだとかそのポイント四項目だとか 考えること自体が、良い結果をもたらすやり方から、もっとも遠いものに なる。 良い結果とは何か、ということは、考えることではなく予想する ことでもなく、行動した結果、或いは上手く行かなかった中から愚直に 失点を挽回しようと足掻いて僥倖を得るようなものです。 四つ目の、限界を認めつつ諦めない事、というのもメディアで喧伝される 耳触りのいい煽り文句やセリフを継ぎはぎにした感が否めません。 世の中には限界なんてものを考えてもどうにもならないこと、諦めた方が良い、 更に言えば、諦めるべきことの方が実は遥かに多いのです。 本当の優しさ、とか本当の正義、などと「本当の」という表現は、自分が それを決めるのだという傲慢さを言い換えているのです。 優しさが欲しいと願う人に、本当の優しさを持った人ですねと評価されたい。 それは、本当の優しさどころか、優しさでさえありません。 それは下心、というものです。 相手が自分に対してこうして欲しいというなら叶えて上げたいと思うもよし。 嫌だと思えば断ればよし。 人間は所詮、僅か100年足らずの束の間の生を、誰になり替わることも 出来ずに、自分、と言う固定されたキャラクターで過ごすしかない存在です。 他人を幸せにする前に、自分一人の人生さえ、満足した充実したものに 出来る者さえ、数少ないのです。 本当の、とか 究極の、とかの「絶対的」という考えや価値観に取りつかれるのは 真実など実は存在しない、どんどん変貌していくこの世界に対峙していくのが 不安だと思っていることに他なりません。 動いて流れて変化して行くものを、こうだと決めつけこうあるべきと決めつけるのは 元々無理なものです。 凍らせるとか箱に閉じ込めてしまうとか、あるがままの姿ではなくすることでしか 停止させることは出来ないし、本当の、という意味は侵されぬ不変の、という 意味と同義語ですから、相手からしてみたらしばしば暴力になるものです。 自分の中の弱さや不安や、願望や欲望を、理性的な行動原理の様な言葉に 置き換えるのは、翻訳ではなくて、差し替えです。 勇気と言うものの代わりに蛮勇や冷静な戦略、或いは冷酷さを差し替えることは その結果を大きく損なうことはありません。 それらもまた、勇気と同様に矛であり盾であるからです。 でも、下心やへ理屈は、これに差し替えることは出来ません。 ちっぽけな一人の弱い人間でしかないことを弁えても、欲望が淘汰される訳では ありません。 海図ばかり眺めて船乗りを気取ろうとしても、船乗りにはなれない。 帆を上げる事、漕ぎ出すこと、こぎ続ける事。 それを「ただひたすら」行動している人間が、海図を読むことでより高いレベルに 至ることが出来る。 海図とは、そのためにあるものです。 結果を導き出さんとする思考も想像も、同じ。 船出をしない者の為に海図があるのではないのです。 誠実であろうとすることは、誠実であろうと考える事ではありません。 何かをやるにせよ踏みとどまるにせよ、悪い結果が出てお前のせいだと 指弾されても、謝罪し孤独になり心が痛んでも、どこかで取り返したいなと 足掻き続ける事。 そうして、結局空回りで何もできないまま人生が終わったとしても。 それでいいではないか、十分だよと、肩を落しても良いのだと思います。 小さな小さなゴマ粒のような一人の人間として、失敗も、不本意も、欠点も 全て含んでやれることだけを真剣に積み上げていく。 小さな小さな、取りに足りない事をチマチマと愚直に続けて行く。 何者かになろうと足掻くのは若者の特権だし、頭でっかちで独りよがりで 自分しか見えなかったり、思い込みが激しくて独善的になったりしがちだけど、 それがあるから生きていくうちに自信を失い、擦り切れ、夢破れ想いは壊れ、 だからこそ、本当の意味で人間の小ささも偉大さも儚さも、寄り添う意味も 腑に落ちるようになっていくものです。 若い頃十分にトンガることをせずにモヤモヤと煩悶を抱えてロクデナシの 中高年や老人になってしまう人は世間に沢山いますが、彼らは若い時に 考えるばかりで無我夢中で行動できなかった者達が多いのです。 あなたがこれからより人間として胸を張れる生き方がしたいならば、 言葉だけの理想論ではなくて、それらをすべて逆にした価値観もまた、 ひとつの真実だと言うことを併せて受け入れられるように行動して、 失敗して、誤解されたり悪者にされたりを重ねて行かれることを お勧めします。 自分の幸せを第一に考える。 独りよがりに考えず、全く異なる他人の価値観も呑んでみる。 グチャグチャ考えずに体を動かす。 諦めることも事も時には正しいことだと割り切る。 ダメならゴメン、バレなきゃバックレ。時には嘘も方便。 適当にやる方が上手く行くことも少なくない。 あなたの四つのポイントからは大分違う考え方だけど、それが正しいと 言ってるのではなく、あなたの中にもこれらがたっぷりつまってることを あるがままに否定しない方がいいですよ、と申したいのです。 ぐたぐだと長い駄文にお付き合い頂きありがとうございました。 一言で言えば、言葉や理屈に支配されずに頭を空にして、 肩の力を抜きましょう、ということです。 思いやりや優しさは定義や意図するものではなく、相手が感じるとるものです。
「本当の」をつけると本当ではなくなる。 本当のこととは、本人がそれを語らぬこと。 ありふれて、そこらじゅうに咲いている雑草の花のように。 人は、唯一の真実を得ようとして足元さえ見えなくなっていく。 本当の、と口にした瞬間、金は石ころに変わる。 色んな混じり物があるからと言って、金を含む鉱物が 金を騙る偽物になるわけじゃないのに。 全てが金で出来ていないと赦せないと感じるのは、 自らが純粋な金で出来ていない者の、哀しい叫びだ。 決してそのようにはなれない、若者の血の叫びだ。 詩のようなもので答えてみました。
ポイントが一つ抜けています。 5、自分が幸せになること。 但し御存知のように幸せはお金では買えませんよね!・・・念の為 人間は悲しいことに自分が幸せであると感じないと、すぐにろくでもないことを考えだします。 嫉妬、妬み、恨み、辛み、羨望、数え上げたらきりがありません。 あとは、優しさや思いやりと、同情、憐れみとを同じに考えないようにすればいいだけです。
- love_judy
- ベストアンサー率92% (13/14)
いっぱい考えたと思います。 上手く言えないし、伝わらないかもしれないけれど。。。 あなたの出来る範囲で構わない、良心に、魂に恥じない行い。 私は、こう考えています。
はじめまして これも人それぞれです、感じ方皆違いますので、答えは決められません。 あえて言うなら、他人の幸せ第一にする?っておこがましいです。 自分を幸せに出来ない奴が、知らない奴がどうやって相手を幸せにできるのですか?そんな簡単に他人を幸せにできるものなのですか? 自分が恥ずかしい、自分が憎いなんて論外です。
- 沼田 紫鐡(@DARKREDGEAR)
- ベストアンサー率41% (20/48)
そこまで考えがまとまってるなら とりあえずやってみんさい。 自分がどれだけデキネェ奴かが ハッキリするから。
人の優しさ、ってどこまでが本当なのでしょう。 人の真心は紙一重で欲に変わりやすいものです。 それでも、或いは形だけであっても、ありがたく受けとる姿勢は美しいものです。 ほんの少しの優しさでも大切にする気持ちから生まれた優しさに濁りは無いと思います。 もし、濁りを感じたとしても、それが人の優しさなのだと、ありがたく頂くことにしましょう。
- akiaki0409
- ベストアンサー率0% (0/0)
相手のとって良い選択を感じ取る【賢さ】と【主体性】を持ち、 【【 相手にとっても自分にとっても良いこと 】】 をすることだと思います。そういう選択ができることかな。 自分のことばかりなのは『わがまま』だし 相手にとってだけならば、『自己犠牲』なのではないかと。 自己犠牲=優しい となりがちですが、 自分を大切にできなければ、本当の意味での優しさにはならないと思います。 自分を助ける為に相手が犠牲になっても嬉しくは思いません。 また、それを喜ぶようではどうかと・・・。 無理されても困りますから。困らない人を『自己中』というのでは。 だからこそ、相手の喜びを自分の喜びに変えられる主体性を持つことだと思います。 『やってあげているではなく、自分がやりたくてやっている』 という気持ち。 人の喜びを自分の喜びに思える気持ち。 そうすれば無理なく、見返りを求めることなく相手の為に何かができると思います。 そして賢さが必要だと思います。 人によって求めるもの、相手にとって良い選択が違いますから。 これはいいから。と自分の価値観で相手に何かをしてもそれは 『お節介』ですよね。 受け入れたほうがいい時。突き放したほうがいい時。 厳しくする時。見守る時。褒める時。 様々な選択肢の中から最良の選択ができる賢さです。 うーん。 難しいですね~本当の優しさって(;´▽`A``
- 1
- 2