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思いやりや優しさは心のどこから引き出せば良いのでしょうか?
- 他人と深いコミュニケーションを結び付きを作ることが出来ない人間を世間では欠陥人間として扱うことがごく一般的になってきた。自分が幸せになるためにギブ&テイクを求めることがどうして愚かなことなのかがイマイチ理解できない。
- 心身ともに健康で120%有意義な人生を送っているわけでもなく、日々生き方を模索しながら不安と隣り合わせで生きている欠陥品には人に無償で与えられる愛情が自分を切り売りすることに等しく思えます。
- 自分が幸せになりたいはずなのに自分の望みが叶わずとも相手を黙認し続けるパワーが心のどこから湧き出るかが分かりません。人と深い関係を気付くこと=忍耐、自分の心や気持ちを押し殺すことに思えます。
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…とてもわかりづらい部分と、それと「当たり前だよね?」と思える部分が、文章の中に混在しているように思います。 >他人を愛したり、思いやる気持ちは普通の人であれば無尽蔵に作ることが出来るはずなのに、僕にはその気持ちを作りだす装置が付いていません そんなことはないですよ。 無尽蔵なんてことはないです。 うーん、でも「量」は確かに個人差があると思います。 >心身ともに健康で120%有意義な人生を送っているわけでもなく、日々生き方を模索しながら不安と隣り合わせで生きている欠陥品には人に無償で与えられる愛情が自分を切り売りすることに等しく思えます みんなそんなもんです。 生き方を模索し、不安と隣合わせでいきてますよ。 あなただけじゃない、というか、みなそうです。 「そう見えるか見えないか」だけのことですよ。 >普通の人のように相手からどんな望まない反応が来ようとも「ま、いっか」で済ませられるほど心が健康でないので、相手と深い関係を気付くことが出来ません。 これもそう。 「ま、いっか」というくらい「アホくさい」こともありますけど、腹に据えかねることも間々あります。 正直、かなり怒ってるんです。 わたしだってそうです…今だって「あのヤロー!」とか思ってる人も、その行動も有ります。 そういう人には、顔は笑顔で、腹では「くたばっちまえ!」とか思ってるんですよ(笑)。 人にはそういう「二面性」があって当たり前なんです。 >自分の望みが叶わずとも相手を黙認し続けるパワーが心のどこから湧き出るかが分かりません。 自分が幸せになるためにギブ&テイクを求めることがどうして愚かなことなのかがイマイチ理解できない自分はやはり心に欠陥を抱えていると感じます。 自分の望み(目的)を果たしたいからこそ、時には引き、時には押すのです。 そういう意味では「ギブアンドテイク」もあります。 パワーはどこから、というのは「欲望」というのが根源です。 我々はそんなにキレイじゃないんですよ。 >人と深い関係を気付くこと=忍耐、自分の心や気持ちを押し殺すことに思えます。 いつも自分の本当の望みや目的が何だったのか分からず虚しい気持ちです。 ここだよね、一番問題なのは。 忍耐なんてのは「目的を達成するため」でもなければ、とても出来ないよ。 それに「本当の望みや目的」は、ふっ、と頭をよぎることはあるんだけど、なかなかつかまらないもの。 あやふやな形のものだし、時たま現れるものだから、日常的な「達成」の積み重ねの上でないと、形にもなってこないし、わかりづらいと思うよ。 たぶん問題意識としては強くて大きなものと感じてるんでしょうけど、割と「普通の人と同じこと」を悩んでるんだなぁ、と私は思いました。 少しストイックというか、自分に何かを課しすぎてる感じはあるけど、やっていることそのものは、同じようなものです。 他人と自分の「境」っていうのを認識するのが、少しだけ苦手なのかもしれないね。 その辺は専門家の領域だけど、私が言えるのは「あなたは他とあまり変わってないよ」ということですね。
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- tumaritou1
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自分自身が判っていないからです。ここにこういう書き込みをしている時点で貴方には『無償で注げる思いやりには機能が足りないようです。 』と言う疑問が湧いています。この疑問は貴方の『無意識』から提出された疑問です。 人間には誰でも深い思いやりや、無償の愛を捧げたいと言う欲求があります。ですが『自我意識』がそのもう一つの意識に封印をしてしまう場合があります。貴方の場合がそうだと思います。誰の心も本当は繋がっています、処がその事に気が付かない場合があります。 程度の差は確かにありますが、人間として生まれたと言う事に意味があります。人間の心は確かに皆と繋がっていると感じています。その事がはっきりと判る場合があります。感動する場面や、感激する場面などに今言った事を見ます。 誰の心も皆同じく出来ていると感じています。処が自分は一人ポッチと言う感情も誰にでもある感情ですが、孤独感を強く感じると言う事が貴方にとってのキーワードになっているのかも知れません。 人間、長い間生きてゆく時に孤独感に苛まれる時があります。あべこべに同じ境遇でありながら、幸福感にあふれて、孤独でありながら孤独感を感じない時があります。満ち足りた心持になっている時のことです。 貴方が感じている相手を認める?と言うことと『自分自身を認める』と言う事もキーワードのひとつです。人間が否定的になって生き難い想いの中で生きて行く場合も同じ原因から生じている問題です。 かなり分り難い説明になりそうですが、私の説明から汲み取って頂けたら有り難いと思います。貴方は未だ若い人とお見受けします、若いうちは未だ悩みの中から自分の事や世の中の事を学ぶ必要が有ると思います。その悩みの中から段々と世の中の原理原則を学んで、心も又、お金の方も豊かになって行く筈です。世の中を働かせている原理原則は今の貴方の悩みを解決する中に満ち溢れている筈ですから『大いに悩む事』が大いに必要と成ります。 さて貴方の悩みの解決方法は、自分自身を知るところにあります。貴方の中にはもう答えが用意されています。ただ貴方が気付くだけで良いという事になります。そのヒントは『貴方の感情を沸かせている者は誰か?』という事になります。 高い所に上がった時に貴方に『怖い』と言う感情を沸かせています。人に会った時には貴方の自我意識が感じたものとは違う、他の情報を教えている者です。或いは貴方が意識している時に思う事とは違う事を思っている者が貴方の中には存在している事に気が付くところにあります。その違う内容とは『貴方が思わない時に閃く事柄』という事になります。 簡単に言うなら、人間は意識している自分と、無意識で生きている自分と二つの意識が在るという事になります。自分の中には二人の自分が内在していると言う事です。自分自身の悩みや生き難い想いはもう一つの意識からの圧迫と言う意味になります。その事を『心の矛盾』と言います。 幸福感にあふれて生きている事に満足感が溢れた様を『天国』と形容していると思います。その天国に一番近い存在が幼子と聖書に書いてあります。貴方が求めている事と思いますが如何でしょうか? その反対に、孤独を感じて全てに否定的になっていて、自分が如何したら良いか疑問に思う時があります。如何したら良いか分らなくなってしまう事です。その事を『失楽園』つまり天国から追放されたと言う意味ですが、そのことと貴方の疑問が重なっています。 それは人間の脳の機能と関係してきます。自我意識は左脳に存在する機能の事ですが、右脳にも一つの人格が存在しています。お釈迦様は『仏性』と教えています。キリスト教では『神』と呼ぶ者です。人間の悩みや苦しみの元はこの二つの脳の機能が違う事を知らない事に起因している場合があります。 悩みや苦しみや、或いは心を病むと言う事の原因は今言った事により起きています。自分自身が自分自身の心を圧迫している事です。人間の苦しみが『心の矛盾』という事になります。二つの心の矛盾が小さい時には、「小さな悩み」その矛盾が大きな時には「深刻な悩み」という事になります。 悩み解消の究極の心理学が宗教の中に存在している事になります。と言っても貴方に仏教やキリスト教を進めているわけでは在りません。今の宗教家は本当の自分の仕事をないがしろににして、本業を忘れ果てているように見えるからです。そうして本来の仕事の相手『衆生』は精神科医の元を訪れています。そういう事で精神科医の処が何時も満員になっている感じでしょうか?自分自身を知ると言う事は、無意識を司っている者に気付くという意味になります。そのテキストが『禅問答』という事になります。禅問答は右脳の意識と左脳の意識我で会うためのテキストという事になります。心の矛盾の解消が神と和解する事。
お礼
ありがとうございます。
- seed-leaf
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あくまで私の体験でですが…相手を認め尊重することで初めて、愛情や思いやりの気持ちが出てくるのかなと思っています。 私は、burst_epさんの言う愛情や思いやりが、心で造られながら生きるのに、まず『自分』から卒業することが必要なのではないかと感じています。親離れのように、自分から離れるんです(自我にコントロールされることから、自己を自分の意思でコントロールできるようになる感じ;状況を客観視し、その場での自分の取るべき行動を発見できるように自分の思考が成長した感じ)。 自分離れをすると、自分中心に回っていた、自己が認識している世界が、自分から少し離れたところにあると感じるようになります。心も、むき出しで外からの刺激に直接晒され傷を受けやすい状態から、やさしくあたたかな感じのするベールに守られている感覚になってきます(心が安心感に守られている感覚)。 そうすると、外からの攻撃(と自分が感じるようなもの;否定されるなど)や環境の変化などで受ける影響に心が大きく振り回されることが少なくなったり、日常の中での小さな喜びや美しいと感じる心の感受性の閾値が下がりホッとできたり(ストレスを感じている状況では結構重要なこと)、嫌な状況の中でも逃げ出さず頑張ろうと気持を立て直せたり、自分の非や至らなさを認め自分を成長させるための学習や行動を面倒くさい気持ちをコントロールしつつ行えるようになったりしました。 そうする中で心に少し余裕を持ち、相手を認め尊重することができるようになり、愛情や思いやりも自然にもてるようになりました。 この気持ちをもつためには、まず自分がある程度成長しないと、なかなか難しいのではと思います。無理に人と関係を築こうとエネルギーを使う前に、自分の成長にエネルギーを使ってみるのもいいかもしれません。無理に人と関係を築こうとすると、自分が消耗して、病気になってしまうような気が、私はしています。まずは自分が人間的に成長できて初めて、人との健康な関わりができるのかなと思います。 分かりにくい文章ですみません。あくまで私の考えなので、参考までに...
お礼
自分を客観的に見る、もしくは肉体と精神が分離したように 自分の真上から自分を見下ろすような感覚なのでしょうか? 感情や痛覚など無くして上から自分を操り人形みたいに 操っている感覚なのかな?と回答文を読んでいてそう感じました。 自分に降り掛かるものに痛みを感じず冷静に対処すりにはやっぱり ロボットみたいに感情がなくてはダメなのかなと思ってしまいます。 自分という人格がある限り痛みや苦しみからは逃れられない、 むしろ感情がない方が人生はどんなに生き易いのかと思います。 回答文ありがとうございます。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
計算する必要がないのが愛情などの優しさです。これをすれば、見返りがもらえるのでは、見返りを待っているとそれは無償の愛ではありません。あなたにはどこかで計算する癖があるのです。 ただ、親などから物を与えられる愛情で育ったのではと思います。甘えは良いのですが甘やかしされているなどですね。 愛するという経験不足なので、どうしても方法が分からないのです。 それと曖昧な感情を理解出来ない障害もありますので、生み出すのは容易ではないでしょうね。 ただ、その愛情などは自分自身が強くないと難しいです。大きな存在、金持ちなどではないです。人として大きくなるのです。そうすることで弱い人間に対して守る力になります。欲望で大きくなると見下すようにも成りますが。 あなたは機能など機械にたとえているようですが、人間は機械ではありませんよ。もしかして曖昧な感情は理解出来ないタイプかな?と思いますがどうでしょうか。
お礼
曖昧な感情分からないです。 昔から理論的に説明のつかないものは苦手で仕方がなかったです。 生み出す装置そのものが欠落しているから生み出せないんです。 神でも仏でもそんな大きな存在では全くないので、何も貰えないのに 無償で提供すり気持ちが分かりません、そういう環境で育ってきました。 回答ありがとうございます。
お礼
このサイト等で人を愛せない人間は自分のことしか考えてない、 という回答や理論を展開する方が非常に多いので、皆が皆、 まるで神や仏のような感情で他人に接しているように思えます。 見返りダメ、期待ダメ、自分が大切ではダメという文を嫌というほど拝見しました。 自分としては「一体普通の人は何に喜びを見いだしているのだろう?」 という疑問をいつも抱えていると同時に、それが世間の真実だからこそ 自分はそれが出来ずに関係を築くことが出来ない=自分は普通でないと いう結論を導き出してしまうほか方法がなくて、やっぱり自分はキレイじゃないから 求めて何がいけないのかはやっぱり分からないんですね、仏にはなれません。 やっぱり他人(普通の人)との間には大きな壁がある気がします。 回答ありがとうございます。