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同情と思いやりの違いとは?
- 同情と思いやりは、相手の感情に寄り添う行為ですが、その違いは曖昧であり、日本語における独自の風俗様式と言われています。
- 同情は相手の自尊心を傷つけると言われますが、思いやりは相手を助けたり支えたりする意味合いがあります。
- 具体的な違いは難しいが、同情がなければ思いやりは成立しないと考えられます。相手の感情を理解し、共感することが大切です。
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敢えて連投です。 というのも すでに直接に《助け合い》のことを言っているはずなのに なぜおまえはその関係(かかわり)や交通(まじわり)の議論に必ずしもせずに 人間論ないし存在論になると言うのか。これについて弁明せよという声に勝手に答えます。 それには 世界の《感謝》の言葉・その表現の意味内容を捉えるとよいのではないか? お殿さんが 自分を思いやって手柄を立てた家来に でかした あっぱれ 褒美を取らすと言って礼を言う場合を放っておいて むろん日本語では ありがとうと表わします。つまり きわめて即物的に 起こりがたい稀な出来ごとなりと言っています。つまりこれでは おそらく人間関係論ではないでしょう!? そのあと お礼を申し上げますとか 感謝いたしますとか言っても では その《礼や感謝》とは どういう意味を表わそうとしているのか? 《礼(禮)》とは 《神に向かって儀礼を履行する意》だと言います。手本のような振る舞いが決まっているということを 儀礼と言うのでしょう。つまりもし《かかわり》と言うとしてももともとは 神と人(また人びと)とのそれから来ているようです。(貝塚茂樹ら編:角川漢和中辞典 1959) 《謝》に到っては 原義は《ことわる》だそうです。《拒絶することば。辞退のあいさつの意。ひいて お礼の意となった》。つまり元は《謝絶》の謝から転じたと言います。《謝辞・謝意》には《お礼の言葉(気持ち)》と《おわびの言葉(心持ち)》との両義があるようです。 お隣の国では 謝謝・感謝・多謝というふうに《ありがとう》の意味で現代語としても使われているようです。 ところで 他人(ひと)の好意(親切心)や厚意(思いやり)に対して 日本語ではありがとうのほかに すみませんという表現をも使います。わたしのうろ覚えでは 《そこまでのことをしていただいて わたしの心はまったく澄みません。そのようにしてくださったあなたさまのお心を思うと わたしは心苦しい限りです》と言っていましょうか? 何だか 中国人の表現形式と同じ列に並びかけているでしょうか? 《そこまでのご親切は わたしの心が澄みませんからどうぞおやめになってください》という初めの反応があるのでしょうか? 《礼》が神とのかかわりにおいておこなう振る舞いだとすれば 神とのかかわりにおいて何かその相手に言葉をかける振る舞い これが グラッツィエやグラシアスやメルシなのでしょうか? 《神からのめぐみ(グラシアス・グラッツィエ)が それほどまでにしてくださったあなたにはありますように》でしょうか。 でもこれなどは けっきょく日本語のありがとうと同じようにきわめて即物的であることに変わりないのではないでしょうか? あなたさまのお心遣いのコトが起こりました。はい たしかに。と言っているのとあまり変わりないのでは? 仏語のメルシは 報いがありますようにと言っていましょうか? (サイコロさん おぎないをよろしく)。 それなら まだポルトガルでは 負い目を負いました(オブリガード)と言っているとしたら ほほえましい。 韓国語の――カムサ(感謝)ハムニダ(します)は別として――固有語のコマヲヨ(コマプタ)=ありがとうは どういう語源であるか調べようと思いましたが 一夜漬けはやめました。どなたかご存じの方にお願いいたします。 グラシアスと同じような意味あいは ロシア語のスパスィーバでしょうか。かような起こるまじき振る舞いをなさるあなたさまには 神が(バ← Bog )すくい(スパスィー)を与えられますようにと。 ですから 《助け合い》論は それに感謝する人の繰り出す表現の上からは関係論ではないと考えられる余地があるのではないでしょうか? つまり初めから関係論として成り立っていないように映ります。人びとは心遣いを受けると そこに関係が成り立つものではないですよと言いたいのでしょうか? そう言えば ムスリムのアラブでは シュクランでしたか ありがとうと言っていても どうもイスラームの決まりで喜捨は義務であるから お礼は言わなくてよいのだとか。むしろ思いやったほうがもらってくれてありがとうと言うのかどうか どうなんでしょう? 英語のサンキューや独語のダンケは どうも英語の 思う( think )と同じ語根から出ているようで 言ってみればお礼を言うほうが 《思いやります》というふうに表わしていましょうか? ご恩を忘れませんという意味でしょうか? すまんなぁと言うところを 日本語で わるいなぁと言って礼を言う場合もありますね。かたじけないという表現は いったいなんですかね。 まだまだあるでしょうか。 《思いやり》は きわめて広く中立的である。とのみ。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.13にお礼をいただきました。 無縁慈悲は切り捨ててもらってもかまいません。気持ちとしての慈悲と 理念としての慈悲 このふたつの概念をもって 思いやりや同情と照らし合わすことでよいと考えます。 それらふたつの慈悲としてなら 同情とそのまま対応すると考えます。ほかにどういう意味あいが同情にあるのか。これは よく分かりません。 思いやりは 人と人とのあいだに起こる心的現象のすべてを言うと見たほうがよい。こういう回答です。 あとは 関係や交通としての現象でありながら おのれの心構えのほうにこそ主題があり問題が起こっていそうである。ということ この点をも添えています。おそらく同情の場合にもだと考えます。 これまで勇んでキーを打って来ましたが ここまで来るともう持ちネタは底をついて来ました。勇んだ割りに伸びずじまい を予感しましたので あらかじめご宥恕を乞います。これまでの範囲でなら 詳しい説明の用意があります。
お礼
ネタが尽きたとは、正直ですね。なるほど私はどうも裏の意味を攻められるより、正攻法が好きなようです。 慈悲について、いろいろ伺ってみようかとも考えましたが、二つの理由から、ここでは遠慮することにしました。まず慈悲の設問ではないから、これ以降のやりとりがディアローグになってしまい、他の回答者にとって心地よくはないだろうということ。それから私が、具体的に慈悲の何に関心があるのか、焦点を結ばないということです。 後者の点に関しては、ブラジュロンヌさんの設問欄がダメだというのではなく、単に私が考える準備ができていないのです。無理にあわせても、あまり中身のあるやり取りにならないでしょう。私の思うに、双方が関心のあることを話さないと、変に批評し合って、容易に水掛け論にはなってしまうのではないでしょうか。片方が一生懸命話しているのに、もう片方は距離をとって好き勝手言えるわけですから。 でもこれは正直に書いてくださったように、ネタが尽きたブラジュロンヌさんにしてみても同じではないでしょうか。あまり「思いやり」云々についてご関心はないのかもしれないと感じています。そこで今回の投稿は、むしろ私とやりとりしたいという動機の方が強いのだと解釈しました。ここはあっさりと終わらせた方がいいでしょう。 また機会があったら、別の設問にご参加ください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.9です。 参加者として歓迎されるまでには行かず さりとて追いかえされるところまででもない。でしょうか。 《思いやり》は 《思いを馳せる》と言っているのですから 《どういう動機で・どういう思いを〔誰に対して〕馳せるのか》というわけであれば 人と人とのあいでのあらゆる心遣いおよび/またはその振る舞いをその視野に入れているであろう。こう・またこれをのみお伝えしたかったのでした。公共の質疑応答の場として。 むろんこのご質問では 被災者への思いやりですから 水を差し横やりを入れるようなものですが 学問に沿おうという心づもりも棄て切れない。もしその言葉がモノゴトに対しても使えるのであれば 質問じたいを思いやった結果です。 つまり《なさけ》を――ほかにもありましたが―― 補助線として引くかたちであり そのナサケは ひとつにもともと人為的であるということ ひとつに さらに見せかけでもよいということを意味していると知られます。 そのような人間の行為ないし文化の問題を踏まえるならば あらためてたとえば《慈悲》という概念ないし思想とも照らし合わせておくとよいのではないか。 (1)感情や気持から始まっての慈悲から (2)理念をいだくかたちの信念としておこなうものをも含み そして果ては (3)無縁慈悲というようにどんな赤の他人に対しても人間の能力をあたかも超えたところの心づかい(思いやり・なさけ)としてとなり人となることに到る。このように その範疇はひろがっている。 ということは ナサケの原義をも加味して言えば 交通(まじわり・たすけあい)論であるというよりは 基本的には存在論であるように思えて来ています。相手に何をどのようにしてまじわるかであるよりも おのれの生活態度そのものであり 基本として言っても その思想(生活態度)のみを問うているのではないか。これでした。 《同情》は この《思いやり・なさけ》と同じ範囲に広がっているのか。もっと狭いのか。あるいは思いやりとは違って 別様に特殊なまた固有の意味があるのか。よく分かりません。 情ないし気持ちを同じくするというのであれば それは慈悲の第一の《衆生縁》であり あるいは理念をいだき信念として《同情》というコトをおこなうというときには おそらく第二の《法縁の慈悲》を言っていると考えられます。第三の《赤の他人が甘えて来るのを拒まず迎え入れ遊ばせる》ところの無縁慈悲は おっしゃるように信仰にかかわる《あわれみ ないし 愛》と対応させてよいのではないでしょうか。 ということは これまたおっしゃっているようにこれからは――もしほかによい回答をお持ちの方がいないのであれば―― これらの言葉の用例を集めて それらから共通の意義を取りだすという作業に成るかとわたくしも思います。 ★ ネットのライトノベルは、ただの広告 ☆ でした。あしからず。 ★☆ 同情は 〔それ自体・つまり《同情》という言葉が〕理屈になっている〔ところに起こる〕心的現象 ☆ でした。今回は 《理屈》ではなく 《理念ないし信念》と言いかえました。 変化がありました――わたしに対するブロックの解除――ので それに反応しました。その余の絡みは 今回こちらの思わくとしては 括弧に入れたままです。
お礼
>参加者として歓迎されるまでには行かず さりとて追いかえされるところまででもない。でしょうか。 なるほど、今度は正攻法で来たわけですね。わかりました、私の負けです。そちらさえよければ、普通にお話ししましょう。大体、ブラジュロンヌさんからしてみると、ブロックかもしれないと思いつつ、投稿できるか試してみたのでしょう。そこまで私に関心を持ってくださることに感謝したいと思います。 しかし率直に言って私は、お書きのことがよく分からないのですよ。まず失礼ながら、無縁慈悲なるリンクが張ってあった問題に今のところ関心が無いのです。設問の意味も、よくわからなかったのです。 >抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。 抽象化されると実践できなくなるといいたげですが、抽象化というほど大げさなものではなく、単に名前をつけただけなのじゃないかと思えます……。それにこれは厳密には「思いやり」などを問う私の設問と直結する問題ではないですね(連想することはできますが)。こういうわけで、何の話をブラジュロンヌさんが始めたのか、わかりません。 おそらくブラジュロンヌさんの頭の中では、それが極めて重要な問題に思えているに違いないからこそ、学問的に欠点があると主張なさったのでしょう。ともあれ、せっかくですから、私の設問において、慈悲なるテーマの関連性を理解させることから始めていただけませんか……。私はまったく別のテーマだと思っているのですが。慈悲は宗教的な含意を含んでいる言葉であるのに対し、私が扱っている問題は、宗教に限らないのですから。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
No.8ですが、書き忘れておりましたので。。。 皇太子妃 雅子さまが、ご気分など すぐれないとのことで、長らく、ご公務を休まれるようになった頃、まだ、嫁がれる前だった紀宮さま(現 黒田清子さん)が、ご心配の気持ちを、「思い上げる」と表現しておられました。
お礼
「思いやる」と「思いあげる」を比較すると、「やる」も「あげる」のどちらも贈与に関する動詞ですね。BAの補足欄で書いたように、贈与の問題は大変重要な示唆を与えてくれました。贈与に関する詳細な投稿があったので、BAに選ぶことはできませんでしたが、感謝しております。どうもありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
ん? 私、質問者を選んで回答してません。 というか、誰に回答したか覚えてないんです。 あまりにも質問者は誰か見ないで回答していたために、前喧嘩した人だと知らずに回答して、妙にとげのある言葉がかえってきて「はてー」と思って、その回数が多くなると、名前を見るので、だんだん覚えていく。 覚えたら、返信しないようにしている。 (私からの回答がきたら きっと不愉快になるだろうから しないであげるって思いやり? 笑 です) >汚職などをしている罪悪感を晴らそうという当人の真理葛藤が大きく関与していたのでした。かくして「思いやり」の前段階の「想い」は多様だと言えそうです。 ああ、、、、 それは贖罪みたいなもんでしょうか。 ほら 浮気して帰ってきた亭主が妙に嫁さんに優しくするじゃないですか。 「おかしい いつもと違う 妙のやさしく思いやりのある言葉。。。。さてはーーーー」って逆に感づかれたりするわけで。 でも なんでしょうね 罪の意識があると、妙にやさしくしてしまう。罪悪感からでしょうね。 やさしくすることで 罪が消えるって思うんじゃないかと。 最近流れているCMのことでしょうか? 「思いやり」 今まで気にも留めず通り過ぎていたのに、あるときヨタヨタと歩いている人に手を貸す。 今までは存在しているのに気づかなかったわけですが、心を覚醒することで存在していたのに見えなかったものが見えるようになる。 そんな感じだとしたら、思いを他者に向けると体が反応するってことかしら? 「ほんと気の毒よねぇ」って事故で怪我をした人に言うのは「同情」ですよね。 「事故で怪我したから少し休め 代わりに君の分もがんばって働くから安心して治せ。その代わり君が復帰したら 有給とらせてもらうぞ わははは」ってのは思いやりですよね。
お礼
>ん?私、質問者を選んで回答してません。というか、誰に回答したか覚えてないんです。 そうですか。女王様のようにご寛容ですね。有名なやりとりがありますね。 謝る者:陛下お許しください。 女王:許すことはできません。 謝る者:それをどうか…… 女王:なぜなら、怒っていないからです。許すことはありませんよ。 似たようなものを感じました。ともあれ、ありがとうございます。前回は私が自分でも、かなりそっけない返事をしたなと思ったのです。 >ほら 浮気して帰ってきた亭主が妙に嫁さんに優しくするじゃないですか。(……)やさしくすることで 罪が消えるって思うんじゃないかと。 私は浮気したことが無いので、「ほら」とおっしゃられても、わかりません(笑)。ただドラマではよく描かれているようですね。しかし浮気は、浮気した者のために相手が苦しんでいるのだから、ちょっと場合が違います。取り繕いという要素が大きいと考えられます。 しかし「小僧の神様」の場合は、主人公の汚職と小僧の置かれた立場は間接的にしか関係が無いわけです。汚職をして良い暮らしをしている自分を、真面目に働いている小僧と比べて哀しく思い、スケープゴートに使ったというわけです。 >「ほんと気の毒よねぇ」って事故で怪我をした人に言うのは「同情」ですよね。「事故で怪我したから少し休め 代わりに君の分もがんばって働くから安心して治せ。その代わり君が復帰したら 有給とらせてもらうぞ わははは」ってのは思いやりですよね。 そうですね。言われた相手の心情まであらかじめ配慮した上で、発言するのが「思いやり」というのは、私にも素直に納得できます。(他の回答者が感情と理性の区分を問題にしているので書くわけですが)、上述の例における「思いやり」には理性的な要素が大きいのかもしれません。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#6です。 >あまり二つの区分を認めていないということのようです。 : というご返事をいただき、私の表現不足を感じましたので、ちょっと補足させていただきます。 まず、この両者は決定的に異なる、というのが私の見解です。 前回の投稿を補う形で再度書いてみます。 たとえば、今回の被災者に対する「かわいそう」という感覚は、まさに初期的な感覚として、誰しもが持つのではないでしょうか。 そのように感覚が、個人の内面でどのように(瞬間的ではありますが)変遷していくのか、によって同情(という認識)にもなり、思いやり(という認識)にもなるのではないか、ということを前回は申し上げたつもりです。 「喜ばしい」という感覚が(瞬間的に)変遷して祝福と嫉妬という両極端の認識に分岐するようにです。 「同情=情を同じくする」というのは、非常に感情的、且つ短絡的な精神作用ではないか、という気がします。 感情的・短絡的、ということは、これらの精神作用が人間の原初的な感覚に基づいているのではないか、ということです。 原初的な感覚といえば、なんといっても自己保存でしょう。 そのためのツールとして「憐れみ」が利用されるわけです。 つまり、相対的自己幸福感の形成でしょう。 この経路を辿って分岐した結果が同情ではないか、と考えます。 ところで、感情なり短絡性を厭うのが、動物との差異を生じさせることによって存在し得た人間の心理です。 「憐れみ」というのは一方通行のように見えますが、ほんのちょっとした条件の違いで、我が彼であったやもしれないわけですから、そういった他我の関係性に思いを馳せることが思いやりではないでしょうか。 この段階においては、憐れみはもはや単なる原初的感覚ではなく、論理的感覚とでも形容して差し支えないものに進化しているように思うわけです。 この進化は、理屈ではなく、自らの経験・体験を乗り越えてこそ得られるものだという気がします。 自らの経験・体験に押しつぶされてしまった人にとっては、この進化は無縁のものでしょう。 つまり、自らのキャパシティを超えるほど辛い体験をしてしまった人は、往々にして憐れみを負の方向に利用しようとしがちです。 被災者の心情に塩をすり込むような言動を嬉々として行ないます。 まさに自らが憐れみの対象であることへの必死のアピールだろうと分析できますが、対処する側は、ある程度太っ腹になる必要がでてきますね。 ご質問の意図から逸れた記述も含んでしまったかもしれませんが、以上のように補足記述させていただきました。
お礼
再回答、ありがとうございます。 >「同情=情を同じくする」というのは、非常に感情的、且つ短絡的な精神作用ではないか、という気がします。感情的・短絡的、ということは、これらの精神作用が人間の原初的な感覚に基づいているのではないか、ということです。 なるほど、まぁいってみれば、No9の回答者・ブラジュロンヌ子爵とは逆のことをお考えだというわけですね。 確かに同情は「情」なのですから、そのまま捉えると、感情の問題だと考えられます。そして「憐れみ」が理性的な判断であるとおっしゃるわけですが、憐れむ理由が、たとえば宗教的な功徳のためであるとか、精神修養のための施しなどと考えると、それも納得いくものです。 もっとも反対意見もあるわけで、ここら辺はどうやって、論じたら、より確信をもった形になるのでしょうね。子爵ももしかしたらお読みかもしれませんから、どう論じたらよいかという点から、ご一緒に考えてくれたらと思います。 >被災者の心情に塩をすり込むような言動を嬉々として行ないます。まさに自らが憐れみの対象であることへの必死のアピールだろうと分析できますが、対処する側は、ある程度太っ腹になる必要がでてきますね。 太っ腹は私が苦手なことです。皆々様の態度に、学ばせて頂いております。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 次の質問でのやり取りで 《慈悲》は 人間関係論ないし社会交通論であるよりは 存在論であるとおそわりました。 ○ 【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html ☆ 《となり人になる》という表現の意味するところをも合わせて そもそも《なさけ》をかけることが わざと人と人とのあいだのマ(間)をたがえることであるように思われて来ています。 《同情》も《思いやり》も――すでにご指摘がありましたが―― その動機をも含めて捉えるとなると さまざまであり 場合によるというようにやはり捉えられます。 わたしは自分の中での慣用としては 同情は 感情(またパトスやパッシオ)でありつつも どうもその概念化をすでに果たしたあとの言葉として見られており 早い話が理屈になっている心的現象だと思っていました。 もっと言えば 自分のためであれ相手のためであれ その理屈のもとにふるまっておそらく互いに気休めを得ようとするコトだと。 思いやりは およそあらゆる人間関係ないし隣人関係を言うのかと考えていました。ふつうは 良い側面のことでしょうけれど。理屈も含み得ることになります。 ▲ (大野晋:古語辞典) ~~~~~ ○ 情[なさけ]: § 原義 他人に見えるように心づかいをするかたち また 他人から見える 思いやりある様子の意が原義。 従って 表面的で嘘を含む場合もあり 血縁の人の間には使わない。 ナサは ナシ(為し)と同根 ケは見た目・様子の意の接尾語ケに同じであろう。 § 語義 1.〔うわべの〕心づかいの様子。 2. 見た目の風情。 3. 好意。 4. 思いやり。いたわり。 ・〔桐壺更衣の〕人柄のあはれに――ありし御心を 上の女房なども恋ひしのびあへり(源氏・桐壺) ・〔殺さず〕ゆるし奉り給はば 仏法については慈悲なり。世俗につけては――なり。(保元・中・左府御最後) 5. 情趣。 6. 物や人の微妙な風情を感じる心。 7.〔漢語《情》の訓として〕真情。感情。情愛。 8. 男女の情愛。 9. 義理。 (1990 補訂版) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 血縁の人にもナサケを遣うならばそれをも含めた広い範囲の心遣いを 思いやりと言うのでしょうか? 同情とは なんですかねぇ。
お礼
お久しぶりです。デュマの小説から抜け出てきたブラジュロンヌ子爵の回答が来ると、相変わらず、何か怖いですね。お写真は薔薇のようです。薔薇の騎士というところでしょうか。そういえば子爵のサイトには、ライトノベルがお勧め書籍?のような形で、掲載されていますね。私が見た時は「狼と香辛料」の新刊をお求めになったという風でした。結構、ファンタジーがお好きなのかなという印象を持っています。 ネットのライトノベルは、ただの広告なのか何なのか私にはわかっていませんが、他の要素を考え併せて、ファンタジーにご関心があるのかなと思います。とはいえ(他の欄で私のハンドルネームを上げて数行お書きでしたが)私は悪魔でもゾンビでもありませんので、比喩はどうぞお手柔らかに願います。 こうやって約二カ月ぶりのご登場に、嫌味とも挨拶ともつかない前置きをしつつ、私としては、どうしたものかと思っているのです。猪突先生をはじめとする私の敬愛する方々に、子爵がかなり冷たい態度を取ったので、目には目をという風に、追い返す理由づけはできないのでもないのです。とはいえ、私がここで仇を取るようなことをしても、猪突先生も雨合羽さんもマシュマロさんも、喜びはしないでしょう。それに震災の折、つまらないことで労力を使うのは、愚かしいとも思うのです。 さて、子爵のお考えでは、慈悲が関連するというわけです。慈悲pity(英)は他のお礼欄でも書いたようにラテン語の「信仰」piusという言葉を語源に持つのですから、宗教の問題から更に進んで、存在論ontologieに結びつけやすい概念であると想像はつくのです。ただ次の議論は、よくわかりません。 >わたしは自分の中での慣用としては 同情は 感情(またパトスやパッシオ)でありつつも どうもその概念化をすでに果たしたあとの言葉として見られており 早い話が理屈になっている心的現象だと思っていました。 「理屈になっている心的現象」とは何のことでしょうか。「理屈になっている」という修飾語の意味は何ですか。そして慈悲とどう関連があるのですか。説明が断片的なので、焦点が結ばないのです。 >血縁の人にもナサケを遣うならばそれをも含めた広い範囲の心遣いを 思いやりと言うのでしょうか? 同情とは なんですかねぇ。 問いかけがあるのですが、まだ議論はあまり先に進めないでおきましょう。子爵の頭では了解できている事項も、私には伝わっていないのですから。前置きの方が長くなってしまった格好ではありますが、来訪のお礼とご挨拶まで。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
実は、先般、出しておいでだった、フランス料理と日本料理に関する考察でしたか、あちらに回答させていただこうかなと思っていたら、すでに締め切られておりました(笑) さて、 「ハンカチを差し出して」云々という くだりで思い出しました。 むかし、私どもの母が、あるとき、テレビを見ておりましたら、当時のアイドル歌手として知名度を上げていた女性が、芸能人が多く在籍することで知られた学園の卒業式を迎え、そのおりの光景が放送されていたらしいのです。 そこで、母が、くだんのアイドルに関して、なにやら憤慨の表情を見せた理由と言いますのが、 アイドル女性が、そのパッチリした愛らしい眼を、ことさら大きく見開いたまま、しとどに落涙する表情を、いましも据えられたカメラの前で、惜しげなく公開しているという、まさに佳境に至った その時、突如、横から誰やらの腕が、ぬっと伸びてきて、ハンカチが差し出されていた。 ところが、くだんのアイドル女性、たちまち、「もうっ!」と言わんばかりの表情に切り替えられて、差し出されておるハンカチの手を、邪険にも振り払ったというのです。ちなみに、この「邪険」という単語も確認してみると、 「相手の気持ちをくみ取ろうとせずに、意地悪くむごい扱いをすること。また、そのさま。」 とありました。 「同情」というものを、言わば「あわれみ」あるいは「蔑み」にまで通じるものであり、したがって、「傲慢」であるという見かたはあるようです。 私には、情を同じゅうするわけであれば、ふつうは、まず、「蔑み」には至らないはずだろうと思うわけですが、「傲慢」というのは、あるいは陥りがちな危険はあるかと思います。 たしかに、同情から なされた行為が、「ありがた迷惑」ということもあり得ます。 ここには、「想像力」の問題が絡んでいそうです。 つまり、自分の分際にも通じるものであるからこそ、たやすく「同情」が可能であるならば、相手にしてみれば、「ふん、おまえなんぞと一緒にしてくれるな」ともなりかねないわけでして。しかし、これだって、「傲慢」のうちじゃないかと思えます。 >「想い」では「思いやり」とは呼べないと看破しているわけです。 >しかし公共広告機構のキャッチフレーズにはヒントがあるかもしれませんね。ここには「想い=同情」という気持ちのレヴェルではなく、行動に移すのが「思いやり」であるという前提がありますから。 こういう点で、質問者さまは、すでに、ご自分のなかで、ある程度の答えを お持ちなのだなと思われました。 私も念のため、ウェブ上の辞書を確認してみました。 「同情」 :他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に自分のことのように思いやっていたわること。 ややこしい(笑) 自分のことのように思う。で終わっていたら、まだしもなんですが、「…やっていたわること」とあるので、いけません。しかしながら、 「自分のことのように思う」という時点で、もう、「…やっていたわること」が含まれてくるはずなのですね。でなければ、真に「自分のことのように思」っているとは疑わしいのではありませんか。 ところが、「思いやり」と検索してみて、えっ?と思ってしまいました。 1 他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情。「―のある処置」 2 想像。推察。 3 思慮。分別。 ... こうあるのです。ますます ややこしい。 もろに「同情」と解説されてあるのも さりながら、「―のある処置」とは何か?。「やる(遣る)」ことを「処置」??とは これいかに。この解説には問題があるのでは、と思えましたが、 2や3も含めて考察するに、強いて言えば、「同情」というのが、即時的な趣があるのに対して、「思いやり」のほうには、「思い」と「やり」の間に、一拍置いたような感があります。 つまり、「思いやり」のほうは、必ずしも、自分と同じ位置に即、というのではなくて、そこに、僅かながらにせよ、距離感があると見受けました。そこのところで、辛うじて、「失礼」さを免れているのかと。しかし、これは、「下」の立場の者に対しても「思いやり」ということはありますので、そうなると、必ずしも「身分の上下」的なものは関係ないということか。 こうしてみると、ふつうは美徳のうちに入れられているであろうところの、「自分のことのように」。 自分のことのように思えねば、次へ行けないのかということにも、疑念が湧いてきます。 それにしても、「やる」と言いますと、そこに動的なものが示唆されるのですが、そもそも、「情」というもの自体が、動きを伴うもののようでもあります。
お礼
>私には、情を同じゅうするわけであれば、ふつうは、まず、「蔑み」には至らないはずだろうと思うわけですが、「傲慢」というのは、あるいは陥りがちな危険はあるかと思います。たしかに、同情から なされた行為が、「ありがた迷惑」ということもあり得ます。ここには、「想像力」の問題が絡んでいそうです。つまり、自分の分際にも通じるものであるからこそ、たやすく「同情」が可能であるならば、相手にしてみれば、「ふん、おまえなんぞと一緒にしてくれるな」ともなりかねないわけでして。しかし、これだって、「傲慢」のうちじゃないかと思えます。 たくさん、どうもありがとうございました。一般的に言って、相手の好意を拒絶するのは、大体、美しくはないものです。しかし馴れ馴れしさや、足元を見透かしたような振る舞い、自尊心を傷つけるような形で心へ立ち入ってくる態度には、説明されてみれば、なるほど拒否して仕方ないのかなと思います。 たとえば乙武さんという障害者が個体満足という本を出版した頃、近寄ってきて涙を流す人がいたのだそうです。ただ乙武さんにしてみると自分は立派に生きているつもりだから、泣かれる理由が無かったのだとか。 しかしこうした齟齬は仕方ないのかもしれません。仮に、私が乙武さんに会って、彼の障害について何か言えるかといえば、自分の想像を超えた辛さがあるのだろうなと思う一方、彼の自尊心を傷つけないように気をつける――くらいのことしかできないだろうと思います。空想して、あれこれいうことは可能でしょうが、誤解かもしれないでしょう。そこで究極的に言って、わからないことは、わからないという他ないのかと思います。もっともこれを言い出したら、思いやりなどという言葉は成立しなくなってしまう危険がありますが……。 アイドルの例は詳細が分からないので何とも言えないですし、私はアイドル全般に無関心なのです。そこで見当違いかもしれませんが、どうやら、カメラ受けを狙って泣いたということであって、それを邪魔されたくなかったということらしいですね。こういう身勝手な人に配慮する必要はないという風に私は言い切ってみたいですが、しかし、アイドルなる職業も常人が想像が及ばないものであるという例ではありますね。 さて、ウェブの辞書を引いて、ご指摘くださったように、参照された定義からすると、私が他のお礼欄でまとめた書き方は、むしろ逆なようですね。思いやりが気持ちのことで、同情が行動である、と。どうしたものでしょうか。 要するに、私の議論を整理すれば、同情と思いやりの区別はつきにくいので、辞書を引いても参考程度にしかならないと、最初に諦めたのです。そこで代わりにとった方針は、いろいろな用例を検討することでした。こうしてみると公共広告機構のCMに関しては、同情が想いで、思いやりが行動という分け方が、解釈し得ることではあったのです。 様々な字引を比較しても、何か決定的なことは言えないので、結局は個人がうまい例証を見つけつつ、どこまで行き届いた考察を展開し得るかという範囲でよいかなとは思っていたのでした。そういう流れではありますが、思いやりの「やる」は次のご回答の「上げる」とあわせて、もう少し考えてみます。 料理の話は……、時期が時期ですから、どうぞ失礼、お許しください。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
こんな物語がある。 パン屋で働いている娘のところに、時々貧乏学生がパンを買いにやってくる。 昨日の売れ残りのパンを安く売っていて、貧乏学生はいつもその売れ残りのパンだけ買っていく。 何度も買いに来るので顔なじみになり、娘は昨日のパンを買っていく学生に思いを寄せるようになった。 それで、あるとき、その昨日のパンの中にこっそりバターを入れておいて渡したんです。 しばらくして貧乏学生は店に喜びの顔ではなく怒りの表情でやってきた。 学生は美術の学校の生徒で、コンテストに向けて入魂のデッサンをしていたわけです。 昨日の残りのパンは消しゴムとして使っていたわけです。 あともう少しで仕上がるってところで、ベチョー・・・・ 娘は、お金が無くて今日もパンではなく、昨日の残りのパンを買っていると思い、厳しい生活をしていると想像して「気の毒に」と<同情>したわけです。 自分がそういう生活だったら辛いなと、相手の気持ちを推測して同じ気持ちになったわけです。 いや 同じ気持ちになったつもりですが、実際は学生は金持ちで何不自由ない暮らしをしていたのかもしれません。 状況からいって、てっきり食べ物にもことかく貧乏人だろうと推測して、その推測で同じ気持ちになり、さらに自分がこうされたらどんなにうれしいだろうかと <思いやり>から、バターを中に入れるというサービスを提供したわけです。 つまり 思いやりには、行動が伴うことだと思う。 同情は黙って見つめているだけでも同情ですが、思いやりはねぎらいの言葉をかけたり、「大変でしょう 少し荷物を持ちましょう」と行動を伴うこと。 じゃないかなー って思います。
お礼
回答、ありがとうございます。前回、素気ないお礼をしてしまってごめんなさい。今回は遠慮がちですね。私は口下手ですから、許して下さい。 おっしゃるお話はオー・ヘンリーの「魔女のパン」ですね。ヒロインの名前はマーサでしたっけ。私は子供の頃に青い鳥文庫で愛読したものです。恋をしておしゃれをしたり、飾りつけをしたりと嬉々としていたマーサが手痛い形で失恋して、可哀そうだなと思ったものです。懐かしいですね。 あまり記憶が正確ではありませんが、マーサは働き者の年配の女性で、恋の機会が無かったから、少し空想癖があるのですよね。いつも店に来て一番安いパンを買っていく青年がいて、きっとこの相手は貧乏なのだ、私は貯金もあるし、私が支援してあげようなどと空想してしまったわけです。しかしこの青年は設計士の見習いで、コンペティション用の作品に取り組んでおり、安いパンを消しゴムの代わりに使っていたのでした。つまりマーサの店のパンなど、食べるものではないと思っていたのであって、食事はどこか別のところで済ませていたのです。おっしゃるように、青年はお金持ちであったのかもしれません。マーサはある日、よかれと思ってパンにバターを入れてあげて、よいことをしたと思って嬉しくなっていたら、青年が怒鳴りこんできて、妄想が打ち砕かれてしまいます。そこで物語は幕が下りるわけでした。 オー・ヘンリーのこの小さな物語は、同情の問題について、よい問題を提起してくれます。興味深いのは、マーサは相手を憐れんだり、また彼のドイツ語訛りの英語をおかしく思ったりする一方で、遠近法に関して該博な知識を披露した青年を尊敬もしていたのでした。この時、マーサは一方的に「かわいそう」と思うのではなく、相手に敬意を払い、「思いやり」を実行する前の気持ちとは恋であったという点に留意しておきたいところです。 思いやりを発揮する例で、こうやってフィクションを例にとると、考察するべき対象は広がりますね。志賀直哉の「小僧の神様」で主人公は丁稚奉公の小僧が寿司を食いたいと思っているところで、まさに話題に出ていた最高級の寿司を大盤振る舞いするのですが、それは博愛精神に目覚めたのではなく、汚職などをしている罪悪感を晴らそうという当人の真理葛藤が大きく関与していたのでした。かくして「思いやり」の前段階の「想い」は多様だと言えそうです。単純に「同情=思いやり」なのではないようです。同情が思いやりに結びつくこともあるが、恋や贖罪という気持ちも「思いやり」に結びつくわけです。 もちろん、エロスやサディズムも「思いやり」にはなるのですが、その話はちょっと文学的すぎますね。それにご回答から離れてしまうという意味で、既にお礼としては悪い書き方をしてしまっています。そこで、ここで擱筆しようと思います。
- hakobulu
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>たとえばハンカチを差し出す行為にしても、相手がかわいそうだと認識しなければ、何も始まらないでしょう。 : これはおっしゃるとおりと思います。 その上でですが、「かわいそう」は認識というよりはあくまで感覚であって、「同情 / 思いやり」はその後に兆す心理に関する表現、と考えても良いのではないでしょうか。 「喜ばしい」という瞬間的感覚から、祝福と嫉妬という両極端の認識に分岐するようなものです。 「同情」は、闇雲な自己同一化によってカタルシスを形成するようなニュアンスが伴ないますが、 「思いやり」は、他の方もおっしゃるように、思いを(相手に)遣る、届ける、という冷静で客観的な事象としてのニュアンスが濃いように思われます。 蛇足ですが、同情という表現が必ずしも「思いやり」と本質的に同義ではない、ということにはなりません。 「思いやり」という意図で「同情」という表現を使う場合も往々にしてあるのが現状でしょう。
お礼
ありがとうございます。同情という気持ちがあって、それが行動(=表現)になると「思いやり」という様態になるというのですね。とはいえ、hakobuluさんはあまり二つの区分を認めていないということのようです。そういう方が他の回答者でも多いですね。それほど気を遣わずとも、いいのかもしれませんね。参考にさせていただきます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
#1の者です。「外国」での話をして欲しいとの事ですが、 「外国では」という話でありながら、「同情」や「思いやり」という 日本語で語ろうとするところに無理があるのでは? おそらく指摘されたいのは、「憐れみ(pitty)」によって助けるのは、 上から目線で屈辱的だ、という事だと思われますが、残念ながら 「同情」を訳すと一番に出てくる「sympathy(シンパシー)」は、語源 的に「sym(シンクロのように“共に”)+pathy(パトス=思い)」として、 「思いやり」と同じになってしまい、回答する方も混乱してしまいます。 「思いやり」と「憐れみ」の違いとして問われた方が良かったでしょう。
お礼
外国語や外国の事例をもってくると、比較対象ができるので、議論に客観性が備わるのみならず、議論の大枠が見通せるというメリットがあるかと思ったのです。ちょっとやってみましょう。 Sympathie(仏)、ないしはsympathy(英)は、おっしゃるようにギリシア語語源で、同朋意識を示す言葉です。仏語ではそのままで「好意」という意味があるように、対等な関係に対して使うようです。No4の回答を踏まえると、対等な関係に対して使ってもいいという意味で、sympathieは「同情」というより「思いやり」と訳した方が的確な場合があるのかもしれません。 Pity(英)やcompassion(仏)は明確にキリスト教の影響を受けた語です。英語のPityはラテン語のpius(信心深い)に元があります。Compassionは仏語では「聖母の悲しみの日の祝日」という用例があるように、これもまた宗教的です(大体passionだと「キリストの受難」を意味するわけで、それに対して「共感com-」するというのだから、そもそも語の中に宗教的に解釈し得る要素が潜んでいるわけです)。 こうやって語源学的な推論をしていくと、大雑把に、ギリシア語語源の「同情」は対等な関係によるポリス的な共同体の形成に関わる概念であるのに対し、ラテン語語源の「同情」は宗教的な観点を含んでいると大きく区分することはできそうです。語源学だけに頼ると偏りが出てしまいますが、同情と一口に言っても、多様な背景を持っているということは一先ず示せるでしょう。 さて、日本の場合でも、古くは「慈悲」や「惻隠の情」などという言葉があったように、同情の仕方は多岐に及んでいます。こうした概念上の区分は普段生活している分には気づきませんが、外国に行くと気付かされることもあろうかと思ったのでした。それで多国をまわったというpsytexさんに聞いてみたいと思ったのです。失礼でしたら、どうか私のぶしつけを一笑に付して、お許しください。
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お礼
>仏語のメルシは 報いがありますようにと言っていましょうか? (サイコロさん おぎないをよろしく)。 えーと、ご存じなのじゃありませんか。元々は何かの労働の対価に「塩を送る」という意味の言葉がありましたが、塩を送るという行為がなくなっても言葉だけが残って、感謝を示す語になったのでした。これがmerciの語源だと言われています。Graciasなど神の恩寵を元とする語と比べると、Merciは契約を前提とした世俗的な感謝の語だと言えますね。東京外大の教授の説ですから、ブラジュロンヌさんの方がご存じでしょう。 それでここから考えると、merciは契約である以上、相手の行為が最初から予想がついているわけです。実際、merci beaucoupという強め方は「やりすぎです」という皮肉の意味が入りますが、これはmerciが元々契約上の礼であるからだと説明もつけられるでしょう。 こうした契約に基づく発想は、「ありがたい=在り得ない」などという日本語の発想とは根本からして違います。日本語では予想もしないことをしてもらえると、嬉しいようですね。他に「かたじけない=(そこまでしていただくのが)恥ずかしい」も相手の行動を予測していないという前提があります。 >英語のサンキューや独語のダンケは どうも英語の 思う( think )と同じ語根から出ているようで 言ってみればお礼を言うほうが 《思いやります》というふうに表わしていましょうか? ご恩を忘れませんという意味でしょうか? 英語に関しては、それでいいと思いますよ。OEDには異説はあるものの、thinkと同じという説が紹介されており、言語分布からしても、merciとは別物だと考えてよいようです。 こういうのは、ワルツブルクあたりが権威なのですよね。ブラジュロンヌさんもお好きなのですか。ところで語源学による言語の分布の話はついて行けますが、何の話なのでしょう。つながりがあまり見えていないのですが。
補足
【ベストアンサー選出にあたって】 投稿も一区切りついたように思ったので、ここで設問を締めることにしました。皆さま、どうもありがとうございます。 この投稿をBAに選んだことについて、首をかしげる方もいらっしゃるかと思います。当初、この投稿の趣旨はよくわかりませんでした。しかし、おそらく投稿者の趣旨と外れる形でしょうが、再解釈する中で、自分なりにわかってきたこともあります。なぜ、日本語の「思いやり」は難しいのかという理由がです。 No12で別の回答者の方から指摘があったように「思いやり」という語は「思いあげる」という用例と比べることができます。「やる」にせよ「あげる」にせよ、贈与に関連する語であるといえそうです。しかしそうであるのなら、果たして、相手の期待値をどのように我々は考えているのでしょうか。 個別の話なので、一般化して議論することが難しい問題です。しかし私がお礼欄で書いたように、日本語の「ありがとう」は語源的に「ありえない」と同じであって(異説があることも承知はしています)、相手の好意を当初から期待していないのです。翻ってみれば、感謝に足る行為とは、予想を裏切る行為でなければならないのです。 これは大変なことです。というのも、好意に基づく行動が失敗すれば「ありがた迷惑」になるからです。これは予想可能な、場合によっては契約に基づくことを感謝とするフランス人の感覚とは、大きく異なるでしょう。こうした「ありがとう」の文化は、日本が島国であり、閉鎖的な村社会の中で、相手の期待値が十分に予測できるという背景をもったうえでのことであったと言えるかもしれません。 ともあれ「ありがとう」という言葉を持つ日本人にとって、相手のために何かするということは、常に拒否されるかも知れないという危険と隣り合わせなのです。ここから「思いやり」に与えられる意味がフランス語などに比べて、多義的で繊細である理由を理解することができないでしょうか。「思いやり」という微妙な言葉が存在するのは、他方で好意が容易にありがた迷惑やお節介になりやすいという背景を持っているからだと考えられるのです。 これはまだまだ議論の入り口の段階ではあります。「思いやり」の多義性を分類して深く考察するには及んでいません。実際、設問の「同情」と「思いやり」の差ですが、感情vs理性、思念vs行動という図式も出てきたものの、決定打に及ぶまでには考察が進められませんでした。ただ一つ言えるのは、「思いやり」の方が同情よりも幅広いニュアンスで使用できる便利な語であるということです。 しかし、これ以上の議論をどう進めたものか、私にはあまり見通しがつきませんでした。実際、設問欄の性質上、回答者がのってくれないと、議論も進めようがないのです。かくして目算がつかない時点で潔く、議論が半ばのうちに私が強引にまとめる形ではありますが、一度、設問を締めようと考えます。どうもありがとうございました。 末尾ながら、東北の復興を祈りつつ。