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存在とは?
「実在しないものは、存在しない。」という考え方で、神を否定することは可能でしょうか? 頭の中で思い描くだけの「存在」(又は、聞いただけの「存在」)は、「存在」とは言えない気がしますが、如何でしょうか? 後、「存在」については、カントとデカルトが対立していたみたいですけど、決着はついたのでしょうか?
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point-8さん おはようございます。お邪魔します。 さきほど わたしの芸術についての質問で ご回答へのお応えを書いたところです。 Q:存在とは? という問いですよね。 《存在》とは おのおのの主観にとっての自同律つまり自己同一性のことです。《人が人である / わたしが 人である / わたしが わたしである / わたしが わたしする》というそのあり方です。 ですので このあり方をあたかも否定するような何ものかを想定して その《何ものか》と《主観(わたし)》との関係において――ということは まったくの《虚構》においてということですが―― 捉えると あたかも分かったような納得が得られる。こう思われます。 もっとも 実際にも この人としての生においては おのれの意志のとおりに振る舞えるものではないという実態がありますので 主観にとって 《なぞ》があるのも ほんとうですし 主観やその意志をあたかも否定するような何らかの力が はたらいているのではないかというのも 真実であるようです。 この《なぞの何ものか》が これも一般に《神》として 想定され 持たれています。そして この神との関係にある《わたし》という話になると 社会性が発生します。(もともと 社会的な動物であるわけですが 自覚し意識するようになります)。 つまりあるいは主観にとってその価値観が 伴なわれて来ます。 次のような物語を たとえとしてのように 導入します。 その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに 《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声(お告げ?)を聞いたそうです。じゃあ どこへかとも定まらずに これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすでしょうね。 次に この《神がかり》が 昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには 《きょう わたしは おまえを生んだ》というのだそうです。そのダヰ゛デは 《〈なぞの何ものか〉によって その日 生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。 目覚めたというようなことでしょうか。この自己表現も 《存在》にかかわりますよね。また 先ほどの《行けと言われたから 行った》 これも そういう――受け身のかたちですが―― 自己表現になっており その表現のごとく生きることが おのれの存在だと言っている場合だと思います。 さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。 これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで 貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね わたしを遣わして心の傷める者をいやし 捕らわれ人に放免を告げるためである。 (『イザヤ書』61:1-3) さらに時は飛んで イエスという人の話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。 すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い てある箇所が目に留まった。 《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。 存在せしめる者がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を 告げ知らせるためである。》 (=つまり『イザヤ書』61:1-2) イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人 びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち に実現した。 と話し始めた。 (ルカ4:17-21) という《存在》をめぐる歴史物語です。 わたしは この究極のお節介版としての存在関係論が――むろん 虚構としてですが―― 《存在》にかんする人類最大・最高の思想であると考えます。point-8さんにとっては いかがでしょうか。
- altered
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ご質問から少しずれるかもしれませんが 「客観そのものは存在しない」ということを 竹田青嗣さんの「現象学入門」(NHKブックス)という本で 一応の納得を得ました。ご興味があれば読んでみてください。
- okky0707
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学問的な答えはできませんが、 そもそも「実在する」ことはどのように証明するのですか? 突き詰めて考えると、あなたが実在すると思っているものは、 あなたの目や耳から入った情報を脳が存在として認識しているに過ぎず、 それが実在していることを証明にはなり得ません。 結局、すべての物事はその存在を認識されて始めて、実在すると言えるのです。 ですから、神の存在を認識できる人にとっては神は実在するし、 認識できない人にとっては神は実在しない、 なんてことを昔よく考えてました。
お礼
>そもそも「実在する」ことはどのように証明するのですか? 此処での場合は「神」として、科学的論証・存在論的論証などが挙げられます。 >あなたの目や耳から入った情報を脳が存在として認識しているに過ぎず、それが実在していることを証明にはなり得ません。 懐疑論みたいですね。 だとするなら、「>すべての物事はその存在を認識されて始めて、実在すると言えるのです。」は矛盾していませんか? >神の存在を認識できる人にとっては神は実在するし、認識できない人にとっては神は実在しない。 其れは回答にならないと思いますよ。 神の観念について、其れが生じた原因を問い掛けることと其の内容の真偽は異なると思います。
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お礼
フッサールの考え方だと、つねに「自分」だけで留まり(その考え方は一つの見方としてはありだとは思いますが)、回答になってないと思います。
補足
>客観そのものは存在しない 誰が何に対しての「客観そのもの」は「存在しない」と言っているのでしょうか?