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ペルソナについて

神が一本質でありつつ父・子・聖霊の三位挌に分かれるのは、神が現実態でのみ自己意識ではなく、自らそれを生むからである。 と泉治典さんは説明されていますが、この意味が分かる方教えていただけますか?

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noname#80116
noname#80116
回答No.3

 No.1です。  どうやら ボエティウスについての解説のようですね。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ボエティウス(Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius、480年 - 524年か525年)は、イタリアの哲学者、政治家。  ・・・  ボエティウスの思想の根幹はプラトンとストア派にあり、倫理の根拠をイデア説と〈想起〉に置き、理性により感情と外界の障害を克服しようとする。(ヰキぺディア=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ じつは かれの『哲学の慰め De consolatione philosophiae』は読んだのですが 『三位一体論 De trinitate』は読んでいません。おそらくこの後者の著書の中にある説だと思われます。  大きな口をたたいて すみませんでした。ですから まったくあやふやなことしか お伝えできません。  No.1で触れたわたしの三位一体についての解説は アウグスティヌスに拠っています。ボエティウスは 時代としてそのあとの人ですが 上の引用にあるように いくらか 理性的である傾向が強く それは プラトンのように イデアの問題として表現する傾向にあると感じられます。  感じられるというのは おおむね 正統の理論(神学)に属するという意味です。『哲学の慰め』では 《哲学の女神》などという表現も出て来ます。つまり 観想としての理論であるよりは 理性や経験思想のほうに傾いているという意味です。  このような傾向から たとえば 神という超越的なものについても  ◆ ポエティヌスはこれを理性的単一実体と定義する。  ☆ という表現が出て来ます。《何ものにも依存することなく みづから満ち足りている存在》として 《単一かつ実体》であると想定し得ますが 《理性的》というのは その実体が そうなのではなく その実体なる神に相い対するわれわれ人間の接し方として そうだと言うと採ったほうがよいと思います。(ただし 小さな批判としては 接し方として じつは 《感性や心》をとおしてであっても 一向に構わないと言うべきでしょう)。  ◆ すなわち実体として完結し、理性的に自己を意識し、自己を他から区別するものである。  ☆ 後半の《理性的に自己を意識し、自己を他から区別するものである》は ですから 神についての解説としては あまりにも擬人化して 捉えていると言うべきではないでしょうか。泉さんは そうは解説の解説をしておられないですか。  ◆ 神が一本質でありつつ父・子・聖霊の三位挌に分かれるのは、  ☆ 神は 超経験ですから その《本質》は 三つの位格に分かれると言っても その各個は それぞれ 他の各個と等しく また その全体とも等しく そして 全体は 各個とそれぞれ等しいという《無限》の存在です。(無限の一部分は やはり 無限です)。  ◆ 〔神が一本質でありつつ父・子・聖霊の三位挌に分かれるのは〕神が現実態でのみ自己意識ではなく、自らそれを生むからである。  ☆ こういうことではないでしょうか。つまり 《神そのものとしては ひとり満ち足りているが 〈現実態〉においては=という意味は 世界ないし人間に向かうかたちにおいては その満ち足りている〈自己意識〉ではなく 〈自ら それ=つまり 位格としてのあたかも顔かたちを 生む〉恰好である》と。  神の子であるイエスは そのナザレのイエスという名の人間としても存在した。(想定です)。かれは 十字架上に去っていったあと 父なる神とともに 世界に聖霊を送った。これが いわゆる愛として われわれの心に宿るというわけで そのように 《現実態》においては あたかも顔かたちをたがえて現われるかのようである。  ◆ そこで現代の神学者バルトはペルソナの代わりに神の存在の仕方という。  ☆ 《顔かたち》が 《神の存在の仕方》ということのようです。つまり 神に相い対しての人間の接し方と 上に言ったそのあり方のことであるようです。    さらに確かめる回答が来るといいですね。

noname#68627
質問者

お礼

たいへん参考になりました。 ありがとうございました。

noname#68627
質問者

補足

どうもご親切に詳細にわたり回答いただきありがとうございます。 1番分からないのは「生むからである」の生むなんですが、この生むとは一体どういう意味を持っているのかサッパリで。 もし何か気づかれたことがありました宜しくお願いいたします。

その他の回答 (6)

noname#80116
noname#80116
回答No.7

  No.1&3&4&5&6です。  ANo.6での最後のわたしの言葉  ☆☆  ともに 勉強を進めるという恰好になると思いますが 課題がありましたら 質問に応じてまいりたいと存じます。  ☆ これを 約束として述べたものとしては 撤回します。意味がないようです。

noname#68627
質問者

お礼

>意味がないようです。 私には意味がありますのでどうぞ宜しくお願いいたします。

noname#80116
noname#80116
回答No.6

 No.1&3&4&5です。  ボエティウスの《三位一体論》を読みました。(短い論文です)。  特に修正を加える必要はないと確認できましたので お伝えします。  エピソードとしては まづ  ▲ アウグスティヌスの書物(* そのかれのほうの《三位一体論》)から出た議論の種子が私(* =ボエティウス)の内に播かれて なんらかの実りをもたらしたかどうか〔を吟味して欲しい〕・・・。  ☆ と言っていますので アウグスティヌスを理解した線上で捉えて間違いなかったのだと考えます。  《理性的・理知的》な性格を持つという側面について たとえば  ▲ 自然学に対しては理性によって 数学の対象に対しては学習によって 神学の対象に対しては知性によって研究すべきであり 感覚表象へとは引きずられてはならないと思います。  ☆ と述べるところに いくらか うかがえます。もっとも だからと言って 《感性》をないがしろにせよと言っているのでもないわけですが。  一つの本質が 三つの位格に分かれることについて そのたとえを自ら挙げて  ▲ 《一振りの剣( gladius ) 一振りのつるぎ( mucro ) 一振りの刀( ensis )》と言ってみても・・・それは《一性》の反復であって・・・。  ☆ と表現していますが そのあとでは なお その喩えでも 不適切であると論じていきます。神は モノではないからだと。  トマスについては わたしは 《スンマ》を途中で 読むのを諦めた経緯があります。横着な者です。つまり 喫緊に必要だと思ったところしか勉強しません。逆に言ってよければ アウグスティヌスで だいたいは 間に合います。でも その態度は 褒めたものでないことは言うまでもありません。  ともに 勉強を進めるという恰好になると思いますが 課題がありましたら 質問に応じてまいりたいと存じます。 

noname#68627
質問者

お礼

どうもご回答ありがとうございます。 私もトマスは一次文献を読んだわけではなくて、中世哲学における本質とか現実態、可能態を調べているうちに突き当たったと言うわけです。私の持っている哲学概論にトマスの存在論という個所があってそこからから引用したものです。 ボエティウスの《三位一体論》、たいへん参考になりました。 やはりネットでは得られないような情報を紹介していただくと非常に参考になります。 また質問いしましたときは宜しくお願いいたします。

noname#80116
noname#80116
回答No.5

 No.1&3&4です。  ★ 神は可能態から現実態へ推移するのでしょうか?  ☆ 図書館で ボエティウスの『三位一体論』を きょう借りて来ましたが まだ 読んでいません。  《可能態 / 現実態》については まづ あくまで 説明のための便宜として 用いていると採ってください。  〔そもそも 三位一体なる理論が 《父だとか子だとか》の代理の言葉を用いて あたかも その内実(本質)がこのようであろうと 比喩で表現した説明です。たとえば 超経験の存在である神に 《性》はありません。《父》というのは 子に対して親だというような意味合いを伝えようとした仮りの表現です〕。  さて 従って   ★ 推移する  ☆ という言葉も もちろん たとえで説明するために用いるに過ぎません。なぜなら 超経験の存在には 時空間がないからです。もしくは 時空間を超えているからです。  とすれば  ★ 可能態も現実態も  ☆ けっきょく 説明のためのそういう仮構です。    いづれにしましても  ○ 子なる神は この地上に来て 肉をまとい 人間となった。  ☆ こういう虚構です。キリスト・イエスは 神(キリストなる子としての神)であり人(イエスという名の人間)であるというものです。  まぁ 現人神(あらひとがみ)という思想も ありますけれど。  どうなんでしょう?  * あらためて 論理的に説明しておくべきだと思いました。  現実態は 神と 世界ないしわれわれ人間との 関係という側面を言います。もしこの現実態に対して 神が ひとり満ち足りているそのさまを表わそうと思えば 可能態になるのだと思われます。そのときには 神は 人や宇宙を その存在にとって 必要としているのではないというわけです。ひとり満ち足りている です。  * 神は 時空間を超えているとすれば 《この世界ないし宇宙という時空間には いない》という側面があると同時に 《この世界をあたかも包む。ゆえに この時空間に遍在する。つまり いる》ともいうべき側面も 出て来ます。後者が 現実態であり 前者は 可能態です。  一方からもう一方への《推移》というよりは けっきょく その両側面を つねに 含むということになりますから 自由自在ということのようです。  こう考えると 分かりやすいですよね。最後に やっと 少しは たどり着けたでしょうか。

noname#68627
質問者

補足

brageloneさんは非常に対応が早いですね。 恐れ入ります。 トマス・アクィナスは神においては存在は同時に本質であり本質が存在であると言ってます。また本質と言うのはその存在にとって可能態であり、存在と言うのは現実態において捉えられると言ってますから、結局神は現実態であると同時に可能態でもあるというこでいいんでしょうか。 結局一本質でありつつ三位挌に別れると言うことなんでしょうね。 どうもご親切にありがとうございました。 また質問しますので宜しくお願いいたします。

noname#80116
noname#80116
回答No.4

 No.1&3です。  ★ 1番分からないのは「生むからである」の生むなんですが、この生むとは一体どういう意味を持っているのかサッパリで。  ☆ 修正・加筆して 説明します。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり 《いわば〈可能態〉において 神そのものとしては ひとり満ち足りていて あたかも〈自己意識〉だけの存在のようであるが   〈現実態〉においては=という意味は 世界ないし人間に向かい相い対するかたちにおいては――満ち足りている〈自己意識〉のまま現われるのではなく―― 〈自ら それを=つまり 子や聖霊としての位格となってあたかもそのような顔かたちを 生む〉恰好である》と。  神は 光にたとえられます。あたかも 光として 満ち足りている存在です。それが 可能態です。現実態としては 三つの位格(ペルソナ)にあたかも分かれて現われるという見方です。これが 三位一体として捉えられる神のことです。  光源が 父なるペルソナ(そういう顔かたち と思ってください)であり その発耀が 子なるペルソナであり それら両者の明るさ・暖かさが 聖霊なるペルソナです。   光は 経験世界におけるモノですから 光源とそこから発する耀(かがや)きには 時間的な経過があります。しかし 神じたいは 時空間を超えています。したがって これは あくまで たとえです。  光の源が あたかも 耀きを《生む》かのようであるということです。明るさや暖かさに喩えられる聖霊は 基本的には 《光源と発耀とから つまりは 父と子とから 発出する》と表現されます。これも おおまかには 《生む つまり 聖霊が生まれる》かのようだということです。  神の子であるイエス・キリストは そのナザレ村のイエスという名の人間としても存在した。かれは 十字架上に去っていったあと 父なる神とともに 世界に聖霊を送った。これが いわゆる愛として われわれの心に宿るというわけで そのように 《現実態》においては神は あたかも顔かたちを変えて 現われるかのようである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#68627
質問者

補足

わざわざご回答いただき誠にありがとうございます。 すいません最後の補足になりますが、 神は可能態から現実態へ推移するのでしょうか?

noname#96295
noname#96295
回答No.2

補足も拝見しましたがすごい文章ですねえ。 理性的単一実体とは、hypostasisの語源、rational single substanceそのものです。 ほかに解釈の思いつきようがありません。 しかしながらhypostasisは判断のないpersonといえると思います。 神によらぬ人間の自然な存在のしかたが、想定として、神学上必要な起点ですから、 しかしそうでありながら、そのように自ずから存在し完結している存在のしかたとは、神のうちなる性質を示すにほかならないのですから、 hypostasisとは、判断がないながらも究極の判断様態であるといえるのではないでしょうか。 そこで判断がなくていったいどうrationalでありうるのかについて、 「理性的に自己を意識し、自己を他から区別する」というのでしたら、さしずめ、赤ちゃんの鏡像段階ではありませんが、わたくしを峻別するわたくし、という理性の土台なのでしょうか。 現実態という語は、エンテレケイア、アリストテレスの可能態と現実態の区分です。 「質料」とは可能態であり、可能性より先立ち可能性もたない最終の「形相」である神を、運動や変化のない完成たる、現実態とするのです。 それは質料がない、動かない、可能性をもたない、ただ自己であるありようです。 これは運動と存在の追いかけっこの最終の存在となります。 一見すると泉氏は神が現実態ばかりではないような書き方をしているように見えますが、 あるいは、現実態としてあるのでなければ、自己意識に終始してしまい、自ら三位格を生むことにならないのだ、という気持ちかもしれません。 現実態であるような自己の存在のしかたが、personを生むということは、 そこには生みの材料があってはならない状態で生むということですから、謎めいた行為、謎めいた存在様態です。矛盾をはらんでいます。 自己であるという判断を棄却したhypostasisは、rationalであるその本質によって、判断された内実をともなうpersonを生みだすことになるのでしょうか。 私にできる解釈はここまでですね。

noname#68627
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >一見すると泉氏は神が現実態ばかりではないような書き方をしているように見えますが、 そうなんですよね。神は純粋現実であると思っていたのですが。 >そこには生みの材料があってはならない状態で生むということですから、謎めいた行為、謎めいた存在様態です。矛盾をはらんでいます。 神の本質は質料を含まないですよね。 自らそれを生む、それを存在の仕方と言っているのか。

noname#68627
質問者

補足

実はこれ初心者向けの用語集だと思ったんですけど泉さんもこんなの初心者に理解できると思っているんですかね(笑い)。 たいへん参考になりました。

noname#80116
noname#80116
回答No.1

 泉治典さんは アウグスティヌスの翻訳をつうじて 存じ上げています。その著書は 図書館で借りてきて読んだ記憶があるのですが その文章に関しましては 定かではありません。  ・現実態  ・自己意識  ・自らそれを生む これらの用語が 何を言おうとしているのか いま一つ分かりかねています。もしよろしかったら その文脈を もう少しおしえていただけないでしょうか。できましたら 考えてみたいと思います。  なお 三位一体につきましては 次の箇所で 説明したことがあります。  《QNo.3886781 :キリスト教徒のヨブ記の読み方は? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3886781.html》の ANo.9です。  * 人間に対する関係において 神は あたかも はたらきとしてあり これを 三つのペルソナに分けて捉えるとよいという大きな脈絡であるとは思います。

noname#68627
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 まだまだ質問は山ほどあるのですが、この質問ならケチを付けられないだろうと思いまして(笑)。 ちょっと前後の文章を付け足してみます。 「中世では神の三位挌をペルソナと言う。初代教父は聖書における神の顕現様式を示すのにこの語を用いたが、アウグスティヌス以後神学用語として定着した。ポエティヌスはこれを理性的単一実体と定義する。すなわち実体として完結し、理性的に自己を意識し、自己を他から区別するものである。神が一本質でありつつ父・子・聖霊の三位挌に分かれるのは、神が現実態でのみ自己意識ではなく、自らそれを生むからである。そこで現代の進学者バルトはペルソナの代わりに神の存在の仕方という。」 とこんなところなんですが解明できますか?

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