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信じるという行為について
- 「信じる」という行為の意味とは何かについて考えてみました。証明よりも感覚的なものであり、論理的思考とは異なる面があります。
- 「信じる」という言葉の背後にある思考パターンや信念について疑問を感じました。人間の信じることへの傾向や、宗教との関連性についても考えました。
- 論理的思考を大切にする人たちが「信じる」という行為に対してどのようなアドバイスをするのかについて知りたいです。
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一般的に「信じる」と云っている観念に対して明確に答えたら、 これは、単純な「観念の固定」だと思います。 つまり、我執・妄信・自分の考えに対する自信です。 仏教的に云えばこれらは皆、煩悩だと思います。 原始仏教で釈迦が最初の段階で衆生に説いたのは、 「信仰を捨てよ!」です。 ・宗教の本質も、自分の考えに対する過信、頑固観念である場合が多いです。 もう一つ別の意味で、「帰依する」と云うニュアンスがあります。 これは、三法印等の法印を自身の拠り所とし、 「信じず、疑わず」の無我・空・中道の立場から法を道標に生きる生き方に帰依すると云う意味で、 サンスクリット語等に忠実に考えたら、 単純に答えて、「体を折り曲げる」上禮の姿勢の意味で、 正真に生きられていた、釈迦如来の説法を聞き歓喜して足をなめるようなスタイルで礼拝し敬意をはらうの意味です。 何かを信じる観念は恐ろしいので、よくよく自分の考えに対する過信でないか、 再三に渡って吟味する必要があると思います。 無我(諸法無我)・無常(諸行無常)の立場で、信じると云う観念は発生する筈も無いのです。 京都の生臭坊主です。
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- rin00077
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こんにちはー 自分に必要がないものまで信じる必要がありません。 また、信じるしかない状態の場合もあります。 大病を患って医者にかかったら、医者の言うことを信じます。 その医者はやぶかもしれない、でも所詮はどこかの医者の いう事を信じるしかなくなります。 それで、医者に見離されるくらいの病状であれば、あと信じる といえば神くらいです。 裏を返せば、病気にならなかったら医者を信じる必要がなく、 大病にさえならなければ、神を信じる必要はないということです。 必要に応じて、人は誰かを、何かを信じれば良いのだと思います。 信じないと、社会で対応できない場合があるからです。 一人の女性を好きになり、その女性とデートをする前の日に、 彼女は本当に女性なんだろうか?もしかすれば、ニューハーフ ではないのか?そうだとすればHは危険ではないのか? などと考えていたらノイローゼになります。 しかし本当にニューハーフだった時は人間不信になります。
お礼
ありがとうございます。 黒でも白でもなく灰色のままで行動する手段があります。 なので別に信じるという行為をしなくてもいいと思うんです。 キリがないのでまぁいいかという状態で問いを停止しているので ノイローゼにもなりません。
1.《信じる》とは 《経験的な思惟を超えたところに対して かすかに動く心の伸び》です。その《志向性》です。 2.これは 経験思考が及ばないところに関してのみ起こる動きです。その意味で 基本的に 《非思考》です。 2.《思考もしくは判断》を ただ単に《中断もしくは停止》するのではなく そうではなく 思考を続けようにも その力にとって限界であるというときに その理性など精神の能力の一切が及び得ないところに対して もし持とうとするなら持つことになる動きです。 3.とは言うものの このとき そのような心の伸びを持たない場合 持たない場合にも それは 《思考停止》ではなく 《信じない》という判断がはたらいているはづなのです。ということは 《信じる》と同じ――ただし 負の――志向性であるというのが 本当です。 4.これによって 早く言えば 有神論と無神論とが 互いに自由に同等の《信じる・信じない》動きとして 現われて来ます。 5.したがって ★ 「人間不信」 ☆ というのは 本来の用法ではありません。《人間》は 経験的な存在ですから 経験思考の対象になります。つまり 思考力をはたらせて 《信用》や《信頼》が出来るかどうかを判断するという問題であり これは 《信じる》の問題とは 別です。 6.つまり 信用できるかどうか・信頼に値するかどうかが 《分からない・未知である》というのは あくまで どこまでも 《考える》の対象であり続けます。そのとき 《だれだれを 信じている》とか《あいつは信じられない》とかいう表現は 単に 別のことがらに用いる言葉を借りて来ただけのものです。一種の強調表現です。 7.科学が証明したことがらは 同じく《考える》の対象ですから 《信じる》とは言いません。言う場合には やはり強調表現です。 8.科学が証明し得ないことがらの場合 二つに分かれます。どこまでも《未知》であると捉えられる領域と 科学の力で分かるか分からないか これが分からない領域とです。後者は 正当にも 《信じる・信じない》の問題になります。 9.同じく その後者の領域というのは――げんみつに言えば―― 科学の力が及び得ないと科学的に証明し得たこととは 微妙に違うかも知れません。つまり そういう場合は 《経験思考》の対象としてある事柄だからです。 10.かくして 《信じる・信じない》という心の動きは 《信教・良心の自由》とうたわれるように まったくの自由とされます。 11.もう一言述べてよいとすれば 一般に 信仰は 経験思想に――時間的にではなく 考え方の上で―― 先行していると考えられます。言いかえると 単純に言えば 有神論であるか無神論であるかによって その人の思想は 決まってくるのではないでしょうか。(それは 対話やコミュニケーションにおける交通整理のための判断基準としてのようですが)。
質問が言葉遊びの範疇を出ていませんね。 ですから、質問の焦点が定まっていませんね。 信じるとは、字義通りに、「○○は真実であると認識すること」です。 で、このことを右から左から、上から下から解釈したところでどうにもならんでしょう。 論じるのならば、人間の「○○は真実であるとの認識」の妥当性でしょう。 1、人間はなに一つ確実なことは知りえない。 2、そもそも、人間が確実に知りえる対象の存在さえ怪しいものだ。 3、いやいや、各自の観念に現実を反映させる繰り返しの中で観念と現実の一致は可能。 おおよその回答は、この3つの考えのどれかを下敷きにしたものになるでしょう。 ところで、「真実とは、観念と現実が一致していること」という点では誰もが合意できること。 で、「地球が自転している」という観念と「地球が自転している観測事実」という現実。 で、この観念と現実との一致を「真実」と呼ばなきゃー、議論する大前提そのものがありません。 で、この段階で屁理屈を延々と述べないとすれば・・・。 >20世紀に入って天体観測用の望遠鏡が飛躍的に発達し、 >星の世界から銀河の世界が観測できるようになりました。 >アメリカの天文学者エドウィン・八ップルは >ウイルソン山の天体観測所の100インチ望遠鏡で遠い銀河を観測していると、 >遠くの銀河が地球から遠ざかっており、 >さらに遠い銀河ほど早い速度で遠ざかっている事を発見しました。 では、この宇宙膨張論の論理的帰結としてのビッグバンについて・・・。 「ビッグバンは真実であると認識すること」の妥当性です。 で、この場合、「真実とは、観念と現実が一致していること」の中味が少し先と異なります。 「地球が自転している直接的な観測事実」は存在しています。 が、ビッグバンを証明する観測事実に関しては間接的なそれとも言えるしそうでないとも。 また、そもそもビッグバンなんて20世紀に入ってからの「事実」とも言えます。 かって、天動説が地動説にとって変わったのと同じことが20世紀に起きたということ。 で、結局は、「○○は真実であるとの認識」は、時代とともに変化しているということ。 人間は、全知全能の神ではないので、究極の絶対的な真実を知ることは永遠にないでしょう。 ですから、「○○は真実であるとの認識」に言う真実は、変化を繰り返す相対的な真実です。 で、結局の所は、<相対的な真実>の存在を認めるのか否かが<信じる・信じない>。 ※かかる認識論の問題と、人間を信じるとか信じないとかは別問題でしょう。 ※かかる認識論の問題と、神や仏を信じるとか信じないとかは別問題でしょう。 ※認識論の問題で言えば、<真実=相対的な真実>をもって<真理の探究>を否定するのか? 質問では、ここら辺りの論点というか焦点が定かでないですね。
- qualheart
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>人間である以上私たちは信用できない生き物 その根拠は何でしょうか? 例えば、自分が誰かと会う約束したとして、彼は約束通り待ち合わせ場所に来たとします。 このとき、約束に対して彼を「信じる」に値するものは存在していると思うのですが。 「信じる」という思考には、それぞれに細かな対象があり、すべてが一色単にできるものではありません。 「信じられる」事柄もあれば、「信じられない」事柄もある。 それだけだと思うのですが、質問者様は「信じる」「信じない」の判断が曖昧な対象物に対してのみ、この「信じる」という思考を論議しようとしているように見えます。 まあ、結論は出てるんじゃないですか? 質問者様が書いているように、信じる・信じないは自由です。 そして、その対象物は無数に存在するため、すべてを総括して「信じる」行為が無意味だとも言えません。 「信じる」行為に意味がある場合もあるし、意味がない場合もある。 それが答えです。
お礼
早速ご回答ありがとうございます。 ちょっとずっと考え事をしてて頭がパンク状態なので また落ち着いてからお返事させて頂きますねm(__)m
補足
皆さんへ。 回答が遅くなりましてすみません。 ちょっと皆さんのおっしゃることが難し過ぎて理解できないので もっと易しく分かりやすいように説明していただけないでしょうか。 あまり難しい言葉は使わないように…。 「信じる」と「決断して行動する」のはまた別なのではないのでしょうか? No.1さんの、待ち合わせの約束に対してですが、 信じていないけど行く場合はどうなるんでしょう? 私は両親はいますけど、まぁいいいかというノリで親だと思っているだけで信じて思い込んではいません。 医者に対してもまぁいいかというノリで任せて、信じてはいません。 かといってノイローゼにはなりませんよ。 いちいち「信じる」という行為をする必要性があるのかなと思うんです。 信じる行為に意味がある場合というのは何でしょう? この世のどんな細かな対象も信じれるものなんてないと思いますし それに対してわざわざ信じる行為をする必要はあるのかと。 例えばもし自分の心をプラスの方向に持っていかせたいために強引に思い込み(信じる)をするのであれば、 そんな勝手な思い込みで安心したり強くなったりする人は論理的でなく馬鹿ではないかと言いたいんです。 No.8さんだけが私の言いたいことを何となく理解してくれているのではないかなと思うのですが…。 言葉をあまり知りませんし説明下手なものでどなたか私の言いたいことを簡潔に整理してまとめていただける方がいましたら助かりますm(__)m
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お礼
釈迦さんはそのようなことを説いていたのですか! 私の思っていることと同じかもしれません。 ありがとうございます。とても参考になりました!