理という漢字は、玉(ヒスイ)をみがくことを意味しています。
ヒスイには筋模様がありますよね。あれをきれいに見せるようにすることを「理」という字で表しているわけです。
昔の人は相手を説得したり納得させたりする技術のことを、ヒスイの原石をみがいて、筋をきれいにみせることに喩えたわけです。思いつきや感情といったものは、ヒスイの原石と同じで、そのままだとただの石ころに過ぎません。誰も価値を認めてくれないでしょう。しかし、みがいてきれいにすることで、相手に価値を認めさせることができるわけです。要するに、説得したり、納得させたりできるわけですね。
おおざっぱに言えば、
「明日家の大掃除がある」という事実と「おもちゃを買って欲しい」という主張が原石だとすれば、
「明日大掃除を手伝うから」→「おもちゃ買ってー」と、うまく両者を「→」でくっつける技術が「理」なのです。これを辞書では「物事の筋道」と言っているわけですね。
理屈の「屈」はもともと「窟」という漢字で、これは「ほらあな」という意味です。
まあイメージとしては、ヒスイみがきの職人が住んでいる洞穴だと思えばいいでしょう。もしくは、ヒスイみがきの方法をたくさん蔵書している穴蔵。
要するに、うまく矢印をくっつける技術をよく知っている人、もしくはその技術の集まりのことを意味しているわけです。
ちなみに「屈」には「曲げる」という意味があって、「窟」を「屈」という字で代用した瞬間、「理を曲げる」という意味も含まれるようになってしまいました。つまり、自分の都合のいいように理を曲げること、という。
現代では「理窟」本来の意味と「理屈」という字義通りの意味が混在して使われているので、注意が必要です。「屁理屈」とか言うときは、間違いなく今の字義通りの意味でしょうね。
論理の「論」の左側の字の「冊」は、竹札を意味しています。昔は竹札を紐でくくったものを巻物にして、それに文章を書いていたわけですね。
で、この竹の巻物は、紐がほどけたら大変なことになりますよね。ほどけないようにしっかりくっつけているのが上の三本線だと思えば、だいたい正しいです。
つまり、文章の書かれた竹札を正しい順序でまとめるように、考えを順序よくまとめて発言するのが「論」という字の意味するところです。
論理とは、考えを順序よくまとめて発言する(論)ための技術(理)、ということになります。
ついでに説明すると、理論とは、技術(理)を順序よくまとめたもの(論)ということになります。