- ベストアンサー
地雷原を抜けて…、「~をして」という分詞構文の文。
こんにちは。 「地雷原抜けて、僕は考えた。僕も地雷を踏んでHandicapped Personになっていたかもしれない」。 このような感じの文を書きたいのですが、「地雷原を抜けて、」 のところの分詞構文の書き方を忘れてしまいました。 ニュアンスとしては、地雷原を抜けて直後振り返って考える。 という感じがよいです。 とりあえず、自分で作文してみました。 When I was in Cambodia during my travel, I saw many people who were damaged of land mines. Went Through the center of the land mine zone, I thought I could be a handicapped person. wentは間違っているような気もします。Throughで始めるか、 going throughではじめるかで迷っています。 それとも全部間違っているかも。 ヘルプをお願いします。
- みんなの回答 (15)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
アメリカに35年ほど住んでいる者です。 個人的な理由から、私なりに書かせてもらいますね。 When I was in Cambodia (いつでしょうか),I saw many people suffered by stepping on land mines and handicapped for their life. Fortunnately I had an opportunity to walk over the mine field. Right after walking over, it dawned on me that I could have become just like those people myself by stepping on a land-mine. 私なりに説明しますね。 まず、出来るだけ分かり易い単語使って、複雑な構文にせず、フィーリングを土台として書いてみました。 sawは全く「幼稚」ではありません。 優しい、分かり易い単語と言う事だけです。 mine field areaと重複する必要はありませんね。 suffered and handicapped for lifeとして、この作者の、「痛々しい光景」と「思い」を出すように、ただの不具でなく「一生不具になった」としました。 あることを悟ったわけですから、その悟りの原因を感じる機会を得ることができたと言うフィーリングを出す為に、Fortunately、またopportunityを入れました。 また、ただpass throughではなく、じかにこの足(地雷の一番の損傷するところ)で歩いたんだ、という表現をする為にwalk over(のうえを歩いた)と言う表現をしました。 そのすぐ後、とEvianusさんはおっしゃっていますので、簡単な表現のright afterを使いました。 Dawn on meをつかい、頭を殴られたように気がついた、という表現をしました。 また、ただの、障害者になっていたかもしれないというより、前の、「見た」をうまく引き立てるために、「歩いているときに地雷を踏んでしまい、彼らみたいになっていたかもしれない」と言う表現に変えてみました。 そして、私自身という単語を出して、本当に私自身もそうなっていたのかもしれない、というフィーリングを出しました。 これで、分かり易く、フィーリングも届く英語になったと思います。 さて、分詞構文への回答ですが、Right after walking overと言う形をとりました。 この文章の中では、歩くのは私しかいないわけですから、walking overの主語はIであることは問題なく理解します。 これでいいでしょうか。 分からない点がありましたら、補足質問してください。
その他の回答 (14)
- Ganbatteruyo
- ベストアンサー率63% (4601/7273)
Gです。 endedとしたほうがいいと駄々をこねる以外は、Pさんの文章はすばらしくスムーズだと思います。
お礼
そうですね。
- d-y
- ベストアンサー率46% (1528/3312)
phaedrusさんがすばらしい英文を書いておられますから、分詞構文のところだけ... 「地雷原を抜けた後に」なら、"having passed through the land mine field"でいけると思います。 "Going through the land mine field"だと、「地雷原を抜けてる途中」になります。
お礼
Having passed through the land mine field「地雷原を抜けたあとに」 Going throught the land mine field「地雷原を抜けてる途中に」 ですね。簡潔にわかりやすくありがとうございました。 単純なことをつい忘れてしまって困っています。 回答ありがとうございました。
During my travels through Cambodia, I came across many people who had been injured by land mines. After passing through a mine field area, it suddenly struck me that I could have stepped on a land mine myself, and end up becoming handicapped. During my travelsはお決まりのフレーズ。 I sawでも良いのですが、幼稚な嫌いがあるので、came acrossに変えました。 damagedは破損で、人間の場合には普通injured, wounded, hurtなどを使います。 通り抜けたの意味でafter passing throughとし、suddenly struck meで急に気がついた、としました。 又、hadicapped personになるのではなく、単にhandicappedになるの方が自然でしょう。怪我をして、それが障害の原因となるから。
お礼
回答ありがとうございます。 during my travelsに関して質問ですが、なぜtravelは複数なのでしょう? いろんな国を旅したというニュアンスでもあるのでしょうか? できれば教えてください。 よろしくお願いします。
- LOVE-BLYTHE
- ベストアンサー率60% (18/30)
When I traveled Cambodia, I saw many people who were injured with land mines. Going through the land mine field, I thought I could also be a handicapped person. 最初の文もwhen I traveledをけして、travelingとしても大丈夫ですが、2回も分詞構文をつかうと、変ですかね。 あまり自信はないです。injure のかわりに woundでもいいと思います。 分詞構文の書き方は、 たとえば最初の文であれば(説明用に簡略化)、 When I was in Cambodia, I saw many people. の前部分の「接続詞+主語(そのあとの従属節と同じ主語の場合)」を消します。 そして動詞のwasだけのこっています。動詞は過去であっても現在分詞の形に変えます。 ただし、完了系の場合は(つまり接続詞と主語を消した後have(had) beenという形が残る場合は)having beenとなります。 受身の場合は、接続詞と主語をけしたらbe ~edが残りますよね。 それはbeをbeingに変えるのでOK 時にBecause it was fine today, we went to shopping. とあるときに、It being fine today, we went to shopping. という主語が違っても分詞構文にすることもできますが、 これは古くて文語で堅い表現(シェイクスピアとかでよくでてくる)です。
お礼
回答ありがとうございました。 シェイクスピアの文章を想起されるとは高尚ですね! 僕もいつかは読もうと思っています。
- 1
- 2
お礼
大変わかりやすい文章と解説、ありがとうございました。 カンボジアに行ったのは、去年の夏です。 地雷原とは、シェムリアップというアンコールワットのすぐ近くの町から、 アンコールワット遺跡群から少しはなれたところに位置する、 ベン・メリアという遺跡に行くときに通った道でした。 道の周りは地雷がすでに撤去されているのですが、新しく 公開され始めたばかりの遺跡なので、まだ地雷が残って いるところが多く、ドクロマークのついた立ち入り禁止の 看板がいたるところに見られました。 wark over, dawn onなど、単語の勉強もできました。 回答ありがとうございました。
補足
現地には、地雷で障害を受けた人がたくさんいました。 特に子供が多く、それは目を覆いたくなるような風景でした。 地雷を踏むと手や足がなくなる、というイメージを抱いて いたのですが、実際はそんなわかりやすいものではなく、 手が変な形に下り曲がってくっついていたり、顔が変形して うまく口が閉められないようになっていたりと、悲惨を絵に描いた ようでした。 地雷のダメージを受けていない子供たちが、満面の笑みで 遊んでいるのを見ると、本当に悲しく、悔しくなります。 そして、そういう人の何割かは日本であったら回復できるのに なぁ。と思わせるもののありました。 プノンペンの町の中央にある寺院に行ったのですが、ここに お祈りに来る人は本当にどうしようもない悲しみを抱いて いるのでしょうね。 日本にいるとこんな悲しみが存在しているということを 忘れがちですが、こういう国に行き、このような悲しみが 現に私たちの住んでいる世界に存在しているということを 実感できたように思います。 仏像を濫造していたころの日本も、このような悲しみに満ちて いたのかもしれないなぁと、思いました。 ベトナムでも戦争の影響か、障害を背負っている人が多かった ですね。