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安田講堂事件に代表される学園紛争で変化したこと

昭和43年~45年にかけて加熱した学園紛争では 学生が大学を改革しようとして起こったと聞きましたが それによって、大学はどのように変わったのでしょうか?? それとも、うやむやのうちに収束してしまい 大学は何も変わらないまま現在に至るのでしょうか?? ご存知の方教えていただけるとうれしいです。

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  • hukuponlog
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回答No.5

#4さんが、適確に誤りを指摘して下さっていますが、追加でいくつか。 安田講堂に革マル派はおりません。機動隊突入前夜に彼らは撤退していました。旗だけを残して「敵前逃亡」したと東大全共闘他派から揶揄されていました。これ、当時の本郷にいた人間なら常識です。正直、ノンポリに近かった私ですら、呆れかえりましたから。 また、「核マルは内部で分裂し革労協などと思想路線以外でのつぶしあい」これも誤りです。革マル派が分裂したのではなく、革共同(マル学同)が分裂して革マルと中核になったのが60年代半ば(有名なクロカンが指導者=彼のテープの演説を聴いたことがある)、中核派とのいわゆる「内ゲバ」を繰り返したのが70年代です。 革マル派、まぁ、新左翼の中では評判が良くなくて、三里塚闘争からも排除されていました。そういう意味では、革労協とも関係が良かったわけではありませんが、革労協とは元々別組織ですし、こっちは社青同ですから「無関係」とはいわないまでも、「思想路線以外でのつぶしあい」ということはありません。 で、ご質問の大学がどう変わったか、ということですが。 発火点となった日大・安田講堂を闘った東大よりも、他大学(地方国公立大学)にむしろ良い変化をもたらしたと思います。 具体的には、東大を見本とするような権威主義的なシステム(講座制)を大学内に導入しよう、とする動きは無くなりました。また、学長選考の民主化、教授会の構成メンバーの拡大などにも影響を与えたと思います。 ただ、やはり揺り戻しも含め、「ある程度」の変化に留まったのは事実だと思います(当時学生だった私にはよく分かりませんが)。 学生との関係でいえば、全学交渉、学部長交渉などがシステムとして確立したのも、この時期でしょう。こちらは未だに残っていますが、形骸化していますよね。私などは、逆の立場になった今、どうして学生がこうした貴重な財産を活用しないのか不思議でなりません。

その他の回答 (5)

回答No.6

発端となった日大の問題は大学・理事長側に一方的に非があるもので、一般世論も理解を示していました。 その後の大学紛争の拡大は世界的な流行(?)に乗って進行し、当初は世論も支持する傾向があった事と、大学自治の遵守という考えが大学側にあって機動隊導入にためらいがあって、世論が学生側が行き過ぎだと考える方向に傾くまでは、次々に飛び火して行きました。 当初の支持を過信した学生側は、次第に「無理難題」的な方向に傾斜して行き、先鋭的意見が穏健的「日和見主義者」を押しのける様になりました。 表面的には東大の入試中止と安田講堂攻防戦がターニングポイントとなった様に見えますが、大学側がある程度の民主化を受け入れて行ったが、学生側がそれに満足せずさらに一大学では受けられないような要求(東大解体?)を出し初めた頃が本質的転換点だった様に思います。 従って、大学改革について実質的成果・変化があったと思いますが、その後の一連の事件により、学生の政治活動自体にネガティブな雰囲気が生まれてしまったのが、長期的には成果よりマイナス面が大きい結果となった気がします。

noname#67881
noname#67881
回答No.4

他の方の回答にコメントをつけるのは、慎むべきこととは承知しています。 しかしながら、この回答は質問者の方のみならず、多くの方の目に触れます。 あまりに事実の誤りが多く、誤った認識が広まってしまうのも、問題に思います。 事実の誤りを訂正します。 安田講堂は1968年夏頃にバリケード封鎖され、1969年機動隊によってバリケード封鎖が解除されました。赤軍派が結成されたのは、1969年です。連合赤軍が結成されたのは、1971年です。 よって、安田講堂には、連合赤軍は立てこもっていません。まだ、存在していないのですから。 また、この頃赤軍派は公安の殲滅作戦によって劣勢には立たされていません。まだ存在していないか、結成されたばかりだからです。 核マル派でなくて、革マル派です。 公安に追い詰められた結果講堂に立てこもったのではなく、大学側に反発して立てこもった後に、政府が動き出し、大学の決断を経て、警察力の行使となったのです。 (ここまで) 質問への回答についてです。 私自身は大学紛争の体験者でなく、詳しい知識を持っているわけでないので、参考にとどめてください。 学園紛争は、確かに大学の改革を目指して始まったものです。はじまりは日大です。 しかしながら、そう時間は掛からずに変質していきました。安保反対(日米安全保障条約)、ベトナム反戦、さらには共産主義革命を目指す者などがあり、各人、各派の思惑の入り乱れるものとなってしまいました。その後、一部の派が先鋭化して、急速に一般学生が離れ、紛争も沈静化していきました。 このような経緯を経てますから、結果は明らかでしょう。 学園紛争で直接に改革されたところとしては、大学がある程度民主化されたところです。 No2の方の回答に端的に現れています。それまでの旧態依然の組織体制から、民主的な手続きを踏むよう試行されました。 ただし、その改革も「ある程度」にとどまり、しくみを変えるには至りませんでした。 学園紛争が間接に与えた影響としては、学生が何かの主張をすることが忌避されるようになってしまいました。これは、現在まで続いています。 大学生の低学力化については、大学紛争とは一線を画す社会的な現象です。 社会が豊かになれば高学歴化が進み、その結果、大学生の低学力化をもたらす。どの先進国でも起きていることです。

回答No.3

 立花隆によれば学生運動のルーツは「ブント」にあります.  ブントについては詳しくは http://mltr.ganriki.net/faq10u01s.html#Bund および,上記ページの引用元である『中核vs革マル』上巻をお読みいただきたいのですが,要するに 「日本共産党は武力革命を放棄したが,俺たちはあくまで武力革命を目指すんだ!」 というのが学生運動の発端であり,大学改革は口実に過ぎません.

alice7g
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 参考にさせていただきます。

  • tanuki4u
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回答No.2

私の出た学科では、就職に際して学生が勝手に好きなところに就職できるようになった。 とのこと。 それ以前は、教授が ○○君 □□に行きなさい と、指定しておりましたが、学園紛争後は、学科で企業からの募集のリストがまとまり、学生が決めたことに主任教授がそのまま推薦状を出すという方式になりました。 ※ 学生はちなみに 希望が重なるとジャンケンで決めます。

alice7g
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 学生運動が起こる前は好きなところに就職できなかった と知りとても驚きました。 好きなところに就職できるようになってよかったです。

  • v7nV1dZjx
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回答No.1

それは建て前です。 確かに私のいた東大では教授を吊るし上げる抗議活動が 行われましたが、それは大学改革というよりも普段気に 入らない教授や講師を引きずり出して自己批判させると いうものでした。 安田講堂事件はそれとはまったくいっていいほど関係あ りません。武力革命を目指す核マル派や連合赤軍などの 学生革命グループが公安に追い詰められた結果講堂に立 てこもったのです。この頃はすでに赤軍派や核マル派は 公安の殲滅作戦によりかなり劣勢に立たされていました。 核マルは内部で分裂し革労協などと思想路線以外での つぶしあいをしていました。 で、大学が学生運動によって変わったかですが、もっと ひどくなりました。70年安保以後、80年代の経済発 展の中で日本人の中流安住の志向が強まり、大学はレジ ャーランド化したのです。 90年代の文科省の誤った教育指導方針の転換から現在 の大学生はゆとり教育の弊害を受けて現場にあり、数式 の計算もろくにできない学生が少なくありません。 私の大学では、教養部で高校での補修をしているありさま です。高校を卒業しているからこそ大学に入学できははず なのにです。教育現場の状況は実に悲惨です。 これからますます悪くなるでしょう。文科省は教科書の 厚さを2倍以上にする方針を固めたようですが、いまごろ そんなことをしても手遅れです。

alice7g
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 安田講堂事件と学生運動があまり関係ないとは知りませんでした。 たしかに今の学力低下はひどいですね。 私はゆとり教育真っ只中の世代ですがあの中学・高校の授業では なにも身につかないと思いますね。

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