こんにちは、源氏物語と平安時代にハマって○○年の主婦です。
平安時代の物語や歴史書を読むと、一人の男性が複数の女性と婚姻関係を結んでいるという状況がしばしば見られますね。そのような事例から従来、学者からは当時の婚姻形態は「一夫多妻」であったと判断され、一般にも理解されてきましたが、近年それに疑問をもつ研究者や愛好家が少なくありません。所謂「一夫多妻制」ではなく、現代と同様に「一夫一妻制」であり尚且つ「多妾」が許されている、という説です。
その先駆者である工藤重矩氏は『平安朝の結婚生活と文学』の中で、律令の戸令に基づいてなされた結婚と、それ以外の関係を区別すべきだと主張しています。紫の上の場合、正式な法律婚がなされなかったと見ておられ、その為彼女は生涯「妾」の立場であった、との事なのです。ただ源氏の最愛の妻であり、源氏家の家政を切り盛りする才能の持ち主として「正妻」格と見られていたに過ぎず、朱雀院の愛娘・女三宮が天皇家の威光を後ろ盾に降嫁してくると彼女は「正妻」の座におさまり、紫の上は自分が「妾」であると認識せざるを得なくなるのだと。
しかしその一方でそうではなく、紫の上はやはり源氏の「妻」として認められていた、と主張しているのが『平安貴族の婚姻慣習と源氏物語』の著者の胡潔氏です。氏は日本と中国の律令条文を比較して、当時の日本は「妻」と「妾」と明確に区別する規定がなく、男性が複数の女性と関係を結んでいた場合、そのうちの一人を「正妻=同居して家政を取り仕切る者」として選んでいた、と結論付けました。その意味で、紫の上が「妻」である事に間違いは無いが、新しい「妻」女三宮によって、その立場を脅かされる事となり、絶望感を抱えてしまったと言われています。
また上記のお二方以外にも、紫の上の妻の座については他にも多くの研究者が論じていますが、「妻」か「妾」かという論争にはまだ決着はついていない状態だと思います。天皇家は大勢のキサキの中から一人が選出され、皇后=正妻として冊立されますが、臣下の場合絶対的な身分の確立の方法があったのか、なかったのか明確ではありません。現代のように婚姻届の提出の義務が在ったわけでもありませんし・・・。
私自身の考えとしては(様々な方の御論を拝読した上でですが)紫の上はやはり「妻」であり、数人の女性の中において所謂「第一夫人」として、源氏からも世間からも認識されていたのではないか、と思います。ある研究者の方が「紫の上の結婚は野合だった」とまで言われていますが、どの程度の形式を踏まえれば正式な結婚とされるのか又されないのか、平安時代の風俗研究の現況からみても、判断は出来ないかな、と・・・。
女三宮は身分こそ高貴ですが性格は幼稚で頼りなく、降嫁から数年たっても「おほかたの世にも、あまねくもてかしづかれたまふを、対の上の御勢ひには、えまさりたまはず」といった状況なのです。異母兄の今上帝が即位して、それまで心に任せて紫の上を寵愛してきた源氏も新天皇に憚るところがあるようで、ようやく通う頻度が等しくなった、とも書かれています。もし女三宮が正式な「妻」で紫の上が「妾」である、とハッキリ区別されていれのであれば、さすがに源氏も降嫁当初から<表面的にだけは>丁重に扱うのではないではないか、と推察します。
また柏木が小侍従にこぼす愚痴の中で「院のあまたの御中に、また並び無きやうにならはしきこへたまへりしに、さしも等しからぬ際の御方方に立ち混じり、めざましげなることもありぬべきことぞ」と言っています。これも女三宮が紫の上に到底敵わないいたわしさを嘆く言葉であって、紫の上も宮もまた花散里達も同様に「妻」であると見ていなければ、「立ち混じり」という単語は使わないのではないでしょうか。
以上は素人の浅はかな超私見ですが、参考の一つにしていただければ幸いです。何より「なぜ正妻ではなく正妻格なのか」というご質問に対して「正妻だったのでは?」と回答してしまう事をお詫び申し上げます。
もしよろしければ、上記の書籍などをお読み下さる事をお薦めいたします。相対する説の著作ですが、同じ出版社<風間書房>から出ているのがまた面白い、と個人的に思うのですが・・・。