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人はなぜ愛と憎しみの表裏の感情をもつのでしょう。

人はなぜ愛と憎しみの表裏の感情をもつのでしょう?動物的本能なのでしょうか?それって脳のつくりがそうなのでしょうか?進化できるのでしょうか??

みんなの回答

  • kanpyou
  • ベストアンサー率25% (662/2590)
回答No.5

少し違う視点から、、、 感情とは無縁だと思われる「昆虫」や「爬虫類」について考えてみたいと思います。 人間などの「哺乳類」は、親から栄養を与えられて成長します。 一方、爬虫類や昆虫は、『卵生』で、生まれてすぐに、自分で食料を獲得しなければなりません。その時点において、他者との接触はなく、対象の取捨選択は本能というしかないでしょう。 単独で生命を維持しなければならず、食料を確保するのも非常に大変ですので、「自己防衛」の意識が芽生え、他者を排除しようとします。この辺りが、憎しみと繋がっているのではないでしょうか?(野生動物は、いつも不機嫌なのか?) また、【愛】についてですが、何を愛と呼ぶのかという定義がありませんので、【敵対行動】以外の行動を検討すると、【求愛行動】が挙げられますが、【求愛行動をしない動物】という例があります。 魚の「鮭」がそうで、先に述べたオスの敵対行動が基礎となり、繁殖活動を行ないます。 恐らく鮭には、【愛】という感覚はないのでしょう。

noname#31063
noname#31063
回答No.4

人間は高度な社会性を持った動物です。生まれる時と死ぬ時以外は社会を尊重し、自然や異種のものとも団体戦で勝ちぬいて食物連鎖の頂点に立ったのです(その前は虎が頂点でしたが、サーベルタイガーも滅ぼしました) その群れの本能(集団欲)があるので、好きな相手でも嫌いな相手でも接近し自由より協調性を求めてしまう。 接近し執着する。回避する自由を自らに見出せず不満や不安を訴える為に葛藤する。それが依存。 愛することも憎しみも同じ接近する目的であるけれど、自由を認めていて自分も安心していられる心理(愛)と、相手の自由を奪い自分の為に犠牲を強いる心理(依存)で動機が異なっています。 『悲しみは力に、欲りは慈しみに、怒りは智慧に導かれるべし/宮沢賢治』 この賢治さんぐらい進化した本能を、才能を、人類全体が獲得したなら、世の中は必ずしも不幸ばがりではないと実感できるようになると思います。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

素人の私見ですが、少々。 >動物的本能なのでしょうか?それって脳のつくりがそうなのでしょうか? :そう思います。 >なぜ愛と憎しみの表裏の感情をもつのでしょう? :愛と憎しみが本能である以上、人間にとって必要なことだからです。 さらに言うと「生存するために必要な感情だから」ということです。 「愛」には様々な形態がありますが、最終的には「他者を受け入れて慈しむ」ということでしょう。 是非は別にして、「あるがままに愛しむ」「無条件に受け入れる」「珠玉のように大事にする」などが愛の根源的な要素です。 即ち、愛とは「現状を維持しようとする感情」「あるがままの全てを保存しておきたいという感情」ということができます。 この感情が無ければ、あらゆる事物は存在できません。 赤ちゃんが慈しまれて成長するのも「愛」であれば、目の前のグラスが砕け散ることなくその形を維持しているのも「愛」なわけです。 そして、その愛を発揮する本人自体もまた、自らが慈しまれている存在である(または、存在であった)ことを確認できるということです。 大事なのは、このような他者(あるいは他のもの)への愛の投射によってより、自らも愛によって成立している存在であるということが確認できないということです。 無力な赤ちゃんにとって、「愛」は単なる愛情ではありません。 生体として生きるために必要不可欠な空気や水のようなものです。 「愛」の完全なる欠如は、肉体的な死に直結します。 きれいごとの愛とは無縁の、欠くべからざる欲求として「愛」は求められます。 それに応え、その存在を保存することのできる「愛」が真の愛です。 これが「愛は本能である」ということの根源的な意味です。 「愛」は、「受容と慈しみによる現状の保存感情」の現われのひとつと言うことができます。 「憎しみ」は「攻撃」の感情です。 これも是非は別にして、上に述べた愛とはあらゆる点で反対の作用をする感情です。 憎しみは、自分に「愛」が注がれていないことに気付いた時発生します。 「愛が注がれていない」ということは、既に述べてきたように「存在を許されない」という概念に連動しているからです。 ですから、「憎しみ」は「他者(あるいは他のもの)を破壊しようとする感情」であって、自らの存在を維持する為の「他者に対する防御的攻撃」ということができます。 憎しみが本能であるのは明白でしょう。 「憎しみ」は「破壊と攻撃による現状打破の感情」のひとつの現われと言うことができます。 >進化できるのでしょうか?? さて、ここで本能とは何かということを少し考えてみると、「生体として生きる為の自己保存の感情」と言えると思います。 ただ、多くの場合オスはメスを攻撃し、両者共にエネルギーを消耗させながらも子孫を残そうとします。 「自らの遺伝子を守ろうとする感情」と言う見方もできるかもしれません。 その為には、その遺伝子を「受容し慈しみ保存していく」という姿勢が不可欠なのは言うまでもありません。 しかし、「破壊と攻撃による現状打破の感情」もまた必要なはずです。 完全に攻撃能力を失ったオスはメスを守ることができないし、子孫を残すこともできません。 現状に不具合なものを破壊するエネルギーが無ければ、自然環境や他の生物によって滅ばされる危険性が増大します。 つまり「愛」も「憎しみ」も、元を質せば人間の生存にとって必要不可欠な感情から派生したものだ、ということです。 「愛」はさておき(過剰な愛は憎しみよりやっかいなこともありますが、ここでは敢えて言及しません)、「憎しみ」は派生経路のいかなる時点で「必要不可欠なもの」から、「不毛の感情」へと転落したのでしょうか。 「破壊し攻撃すること」は人間にとって必要な場合があると先ほど述べました。 「必要性がある」と判断するのは個々の存在です。 目の前に立ち向かってくる危険なものを、自らを滅ぼそうとする対象として憎み攻撃するのは「不毛の感情」ではなく、逆に「正当な感情」とさえ言えるでしょう。 しかし、実際には危険でないもの、悪意が無いものに対してこの感情を向けた時、すなわち「勘違いによる憎しみ」が発生した場合、どのような結果が予想されるでしょうか。 「憎しみの連鎖」が始まるでしょう。 では「勘違いによる憎しみ」は何故おこるのでしょうか。 少し先に戻りますが、それは「自己の遺伝子を守ろうとする感情」が強すぎるあまり、極度に怯えてしまうからではないかと思います。 人間が、他者(また他のもの)の遺伝子もまた同様に大事な価値を持つものだという確固とした想像力を身につけた時、そして自己の遺伝子を安心して守れる環境が整った時、初めて「憎しみ」はその必要性を失うように思います。 無論、そのためには大いなる合意が人類に必要とされるでしょう。 その合意が「勘違いによる憎しみ」を持たずに達成できるかどうか、が鍵になりそうです。 そして脈々と受け継がれるそういった思想・感情が遺伝子情報として完全に人間に組み込まれた時、脳の仕組みも変化し、後世の人々は今の人間を「愚かではあったが懐かしき祖先」として評価できるほど「進化した」と言えるのかもしれません。

  • Yabukoji
  • ベストアンサー率33% (158/475)
回答No.2

「愛」と「憎しみ」の感情が本能であると直接定義づけられた論文を知りませんが、私は本能であると思います。 本能を「固体の生存および共同体(種)の保存のために動物が生得している思考、行動の様式、能力」と考えると、 ・愛の対象である自己、恋人、妻子、家族、友人はすべて自己と種の保存に  合目的的です。 ・憎しみの対象である、敵、仇、その他(借金取り、犯罪者、麻薬、賭博、不倫・・・)は  何らかの意味で固体自身か共同体の存続に危機をもたらす存在と考えられます。 これは言葉の問題ですが、敵を愛したのでは簡単に殺されてしまいますし、恋人を憎んでいては簡単に子孫をのこして繁栄できません。 > それって脳のつくりがそうなのでしょうか?進化できるのでしょうか?? 本能と脳では本能の方がアプリオリであり、細胞レベルの本能に従って脳が組成されたと思います。 愛も憎しみも動物が普遍的に持つ本能の一部が人間の脳によって言語化された表彰でしょう。 (動物がおそらく瞬間瞬間に持つ感情レベルの判断的思考を言葉によって整理し位置づけしたものが愛や憎しみだと思います。) 愛と憎しみは固体と共同体(種)の保存本能ですから 同じ環境においては進化も退化もしないでしょう(退化即滅亡です)。 環境が変るとき、たとえば種なり共同体なりの存亡を賭けるような外来の危機が現れるとき、つまり強力な病原菌、エイリアンや独裁者の出現などに対抗するためにそれまでの利害関係を中断して(憎悪が愛に昇華されて)国際医療チームが編成されたり、地球同盟軍で共に闘ったりすることになります。ヒットラーに対抗して米ソが連合したようなものですが、それが「進化」でなかったのは、戦争が終ると再び米ソ冷戦に戻ってしまったことで明らかではないでしょうか。

  • kyoromatu
  • ベストアンサー率14% (746/5024)
回答No.1

>人はなぜ愛と憎しみの表裏の感情をもつのでしょう。 学問&理論的なことについては、浅学につきお答えできる教養はありませんが、個人的愚見ながら、愛も憎しみもひっくるめて表裏というより、それらが融合混在するのが、感情一体そのものではないのかなと思っています。 そういう感情が、理性とのそれこそ表裏性をもちながら、ある意味で相当緊密に連動しているからではと思っています。 つまり逆説的に単純に申しますと、その理性があればこそそういう感情もあるのではないでしようか。 動物的本能&脳のつくりということはまさにその通り同感です、これは最大公約数的妥当解だとも思います。 進化論については全く想像もつきません、出来るかもといえば出来そうですし、出来ないさ!と云えばできそうにもありませんね。 この地球上から戦争・紛争・争議・動乱が全く無くならないうちは、大袈裟ながらそういう脳進化はしていないとも云えるでしょう。 つらつら考えますとそれらは、地球最期の日に結論がでるのでは・・などと突飛なことを思ってしまいます。

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