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「偶然」とは何ですか?
「偶然とは何か」を定義しようと思ったのですが、うまくできなくて困っています。 例えば、「偶然とは、意図せずして起こったこと」と定義する、意図せずして動いている心臓の動きは「偶然」なのかと言うと、そうは言わないように思います。 また、「偶然とは、因果関係では説明できないこと」とすると、「因果関係では説明できない自然法則そのものは、偶然なのか」というと、これも、そうは言えないような気がします。 どうもうまく説明できません。一体、「偶然」とは何なんでしょうか?「偶然」についての適切な定義があったら教えてください。
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他の回答者の皆様はこの問題を人文科学的な視点から論じられておりますので、私はここでは自然科学という違った側面からこの問題を論じてみます。 この問題を自然科学的立場から真っ向から扱った文献として、J. モノー著「偶然と必然」、I. プリゴジン, I. スタンジェール共著「混沌からの秩序」、それにI. プリゴジン著「確実性の終焉」を挙げておきます。日本語で出ていますので、興味のある方は参考にして下さい。 自然科学では、言葉の定義そのものを分析するよりも、むしろ、この「偶然」という事象がこの自然界でどのような機能をもち、どのような現象としての帰結をもたらすのかを分析することに重点が置かれております。その立場から、始めに結論を述べてしまうと、 「『偶然』とは我々生命現象を含めた複雑な構造が物理学の法則に従ってこの宇宙の中に自発的に現出することを可能にしている、最も基本的な事象である」 と言うことができます。この言葉で何を意味しているのかを以下で説明します。 近年の非平衡熱力学の目覚ましい進歩の結果、この宇宙の中に生命現象をも含めた複雑な構造が自発的に現れてくる物理的根拠が判るようになりました。そのことを説明する理論のことを「散逸構造の理論」と言います。この理論によると、自発的に構造が出来上がってくる条件の一つとして、「熱力学第2法則」(別名、エントロピー増大の法則)という経験則が成り立っていることが必要であることが判るようになりました。この経験則は 「時間の流れは、全体としては系全体の無秩序さが増大する方向、あるいは情報が散逸するに向かっている」 ということを主張しています。そして、そのような散逸現象が起こる最も基本的な根拠を、ミクロなレベルで起こっている「偶然」、あるいは「確率的な事象」と呼ばれる現象が担っているのす。 この宇宙では、何らかの形で構造が出来上がった場合、その構造を壊そうとする邪魔な力が常に働いています。そこで、その邪魔が入ったことを、もしその系がづっと覚えていたら、その系は構造を保って存在できなくなってしまいます。そこで、この情報の散逸、すなわち邪魔が入ったと言う記憶を忘る機能がなければ、その複雑な系は安定してその構造を保っていられなくなります。この「記憶の喪失」を保証しているのが、確率的な「偶然」というな事象に根拠を置くエントロピー増大の法則なのだと言うことを、散逸構造の理論は明らかにしたのです。すなわち、偶然が役割を演じる場所がないと、我々を含めた複雑な構造がこの宇宙の中で存在できなくなってしまうということが判ったのです。 この理論は現在までに膨大な物理系や生物系に適用され、その理論の正しさが確認されております。それによって、上で挙げた本の著者の一人プリゴジンは1977年にノーベル賞を受賞しています。 ところが、物理学の基本法則をトコトン押し進めて行きますと、ニュートンの法則、マックスウエルの電磁気学方程式、アインシュタインの一般相対性理論、量子力学のシュレーディンガー方程式という全ての法則は、決定論的方程式と呼ばれる微分方程式で表されています。従って、物理学の最も基本的なレベルでは全てが、一見「決定論的」であり、「偶然」が本質的役割を演じる「確率」の概念がこの宇宙の中に入り込む余地がないように見えています。 そこで、エントロピー増大の法則と言う「経験則」で理解されているこの偶然なり確率的な事象が、物理学の決定論的な「基本法則」からどのような論理で導き出されるのかという、途轍もなく面白い問題が、まだ未解決の問題として物理学者の間で現在深刻に論じられています。 因に、この問題の回答のカギを握っているのが、非平衡統計力学や、最近話題になっている非線形力学形でのカオスの理論であろう、との印象を多くの物理学者達が抱いております。 別な言い方をすると、現在の科学では、「偶然」と言う概念で説明される現象が、この宇宙で何故起こり得るかという問いには、まだ答えられていない段階ですが、この概念で説明される事象が在るお陰で、我々をも含めた複雑な構造がこの宇宙に自発的に存在できるようになったのだ、と言うことは判るようになったのです。もっと詳しくは、上で挙げた著書を参考にして下さい。 (蛇足)量子力学の確率解釈の問題は、未だにその意味に関して論争の対象になっている「観測の理論」と呼ばれる、物理学的には未完成な理論との折衷で理解されている段階ですので、量子力学が出たから、確率の根拠も判るようになったという主張は、未だ物理学者達の共通意見には成っておりません。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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偶然=accident ということで。 既存の秩序を無視して起こったできごと、 というのはどうでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- hakobulu
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#11です。 ◇ 後者です。 未開人が村に帰って、仲間に「コーラは偶然出てきた」と言うのは、それで良いという意味です。 ◇ 言葉としての有用性は、失っていないと思います。 仮に、神が実際に存在するとしても、それを認知できない私たちの社会において、雷が極悪人の上に落ちたとしても、それを偶然と呼ぶことが許されるといったような感覚かもしれません。 >交差点で50回続けて、信号が青で、一度も止まらずに進むことが出来た場合、これを、「偶然」とは言わないのでしょうか? :『 この語彙を受け取った者の属する、ある範囲内の集団(=現代車社会)の総意として、「発生確率が低い」と認識される事柄 』 だと思うので、偶然と呼べると思います。 しかし、Aさんの場合は「発生確率100%」です。 信号の例に置き換えれば、何らかの事情で50個の信号を青点灯状態で止めてあった道路を走った場合、ドライバーが偶然と思っていても、それはやはり必然と呼ぶべきではないか、ということになるでしょうか。
補足
ご回答ありがとうございます。 >ドライバーが偶然と思っていても、それはやはり必然と呼ぶべき この文章が「偶然」という言葉の用法として、正しいとすれば(私は、正しいと思いますが)、偶然か必然かは、ある範囲内の集団にとっての予測可能性ではなく、個々人にとっての予測可能性によって決まるということにならないでしょうか?
- sheep67
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こんにちは。 質問文で、こちらが説明できるできない、での分類を言われてますが、つまり意図しない=意図、という因果関係がない、と解釈しますね。 例えば、人がある判断をしたり感じたりするとします。 でもそれすら脳の働きであり、その脳は自然の進化に従って偶然の信じられない低い確率の元で偶然発生した脳のニューロンの発火に過ぎないとも言えます。 それはそういう解釈で押し通せばこの世界に偶然以外無いと思われます。 いっぽう、偶然はない、この世は必然だけ、というのもまた確かにそう感じます。というのも、必然というのは、こちらが主体になって、事象に対しそういう意味付けをするので、必然だ、と感じたり解釈できれば、どんなことも必然です。 乱暴な結論ですが、以上から、偶然と偶然でないことはこんな関係かなと推測してます。~~きっちりした答えになってないです、済みません。 それと、因果関係で説明できない自然法則ーというのは? もしかして粒子と波の2重性の話と関係あるのかな~と思うのですが、意味がよくつかめないのでここまでです。
補足
ご回答ありがとうございました。 ご回答いただいた内容は、世の中で生じる現象は、いずれもみな偶然と解釈することもできるし、必然と解釈することもできるということのように思います。 ところで、私の質問は、「偶然とは何か」と言うことなのですが、この場合、どのように考えたらよろしいでしょうか?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#9です。 丁寧にご返事いただきありがとうございます。 それも考えました。 「個人の認知」に関しては、#2さんへの補足でも述べていましたね。 それでも悪くはないとは思ったのですが、偶然の意味性が拡散してしまうような気がします。 自動販売機にコインを入れてコーラを出して未開人にあげた場合、未開人が「コーラは偶然出てきた」と考えてもおかしくありません。 現代人にとっての必然が未開人にとっての偶然というわけです。 それは、彼の属する村における総意としての認識によって「発生確率が低いと」判断した、と捉えることができるでしょう。 村に帰って村の人たちに「コーラは偶然出てきた」と伝える場合はそれでいいと思います。 しかし、現代社会の中でそう言ったとすれば、偶然という言葉を使うのは適切ではない、ことを知らせる必要があるように思うわけです。 「個人の認知」に帰するのではなく。 「個人の認知」としてしまうと、言葉の持つ意味というか、有用性が失われてしまうのではないか、と思いました。 これは偶然ではなく、単なる認識の不足と言うべきではないかと。 そういったようなことを考えた結果ひねり出したのが今回の回答だったわけです。 #7さんのおっしゃることもよくわかるのですが、 「偶然」という言葉の意図するところは、私としては「現象そのもの」に対する評価だという気がします。 ですから、誰がどう思おうと、(Aさんの意図が介在している以上)あの接触は必然以外の何ものでもないのではないか、と受け止めてしまいます。 Bさんが偶然と思ったのは、個人の認知ではなく 誤った認知、という捉え方なのですが、ちょっと違うのでしょうか。 自信はありません。 「自分にとっての重要性」ということもわかるのですが、私としては、どんな事柄であっても言葉として取り上げられる以上、その人にとって重要なことなのではないか、といったような感覚ですかね。 ただし、先の自販機の例ではありませんが、その現象に対する理解を共有できることが条件です。 (自販機の仕組みを理解できない集団内においては偶然という言葉は適用できる、ということですが) その意味での「ある範囲での集団の総意」ということです。
補足
ご回答ありがとうございました。 >自動販売機にコインを入れてコーラを出して未開人にあげた場合、未開人が「コーラは偶然出てきた」と考えてもおかしくありません。 >「個人の認知」としてしまうと、言葉の持つ意味というか、有用性が失われてしまうのではないか、と思いました。 未開人が村に帰って、仲間に「コーラは偶然出てきた」と言うのは、間違いだという意味でしょうか? それとも、それで良いという意味でしょうか? もし、前者であれば、未開人は仲間に何と言うべきでしょうか? もし、後者であれば、未開人のこのような言葉の使用は、その言葉としての有用性を失っているのでしょうか、それとも、失っていないのでしょうか? >ですから、誰がどう思おうと、(Aさんの意図が介在している以上)あの接触は必然以外の何ものでもないのではないか、と受け止めてしまいます。 車で街を走っていて、交差点で50回続けて、信号が青で、一度も止まらずに進むことが出来た場合、これを、「偶然」とは言わないのでしょうか? 客観的には、信号機は予め決められたルールに従って、赤・青・橙の切り替えをしているので、そこには、いかなる「偶然」も関与していないように思います。でも、個人的には、そのルールがわからず、予測ができない以上、やはり、それを「偶然」と言うのではないでしょうか?
- qsxdrfvgyh
- ベストアンサー率22% (17/76)
>囲碁の例で、「偶然」とおっしゃっているのは、何の「偶然」でしょうか、「対戦の進展がどのように進むか」ということに関する「偶然」でしょうか? 自分の手に対する相手の一手が、序盤のある段階で10通りあったとして、そのどれが発現するかという時の偶然です。どの可能性もあるのにその手に出会うということの偶然性です。たまたま配られたトランプでもいいです。必然的な一手や配布とは、感じられない状況の場合を想定しました。 >私の勘違いかも知れませんが、囲碁の場合は、敵味方が、それぞれ、論理的判断をして、最終的には、自分の「意志」で次の一手を決めるわけですから、「偶然」の入り込む余地がないように思うのですが。 自分自身の手はそのとおりですが、自分にとって相手の一手を序盤で必然的に予知できているとは考えられません。そういう意味です。 今の(自分側の)事実と次の(相手側の)事実との関係性の強さが、ほとんど感じられない時に偶然と思うのではないかという視点です。
補足
ご回答ありがとうございました。 >今の(自分側の)事実と次の(相手側の)事実との関係性の強さが、ほとんど感じられない時に偶然と思うのではないかという視点です。 確かに「関連性」という言葉で表現してもいいのかも知れませんが、一般には、「予測(予期)可能性」という言葉で表現する事柄のように思いました。 最終的には、「偶然とは何か」に対する答えを知りたいのですが、「偶然とは、自分にとって意味あることが、予期せずして起こること」と考えてよいでしょうか?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#3さんへの補足で kobarero さんが述べているように、 「偶然とは、予測不可能なことが起きることではなく、予測は可能であるが、その発生確率の低いことが発生すること」 がしっくりきますけどね。 あとは、 「予測可能かどうか」あるいは、 「発生確率が高いか低いか」 を誰が判断するのか。 という点についての補足があればいいのかなと思いました。 で、それを判断するのは、この言葉を聞いた者が属する社会の総意と考えるといいのかもしれません。 自動でドアが開くのを見た未開人が、偶然という言葉を自分の村に帰ってから使用すれば通用しますが、都会の真ん中では否定される。 「社会」は、国であったり、地域であったり、職場であったり、学校であったり、あるいは数人のグループであったり、様々に置き換え可能だと思います。 自信はありませんが、 偶然とは、 『 この語彙を受け取った者の属する、ある範囲内の集団の総意として、「発生確率が低い」と認識される事柄 』 としてみました。
補足
ご回答ありがとうございました。 >で、それを判断するのは、この言葉を聞いた者が属する社会の総意と考えるといいのかもしれません。 この点について考えてみたのですが、結局、#7の方が書いておられるように、Aさんには必然でも、Bさんから見れば偶然ということもあり得るわけですから、「偶然と考えるかどうかは、社会の創意ではなく、個人の認知」ではないかと思いますが、いかがでしょうか? また、もう一つ、付け加えることとして、やはり、#7の方が書いておられるような自分にとっての重要性という視点が必要なように思います。 それで、結論として、偶然の定義は、 「偶然とは、自分にとって意味あることが、予期せずして起こること」となるように思うのですが、どうなんでしょう?
- qsxdrfvgyh
- ベストアンサー率22% (17/76)
必然か偶然かは、ある事実とその後の事実との前後関係が、因果関係かどうかを問わず、関係性として強いか弱いかで区別している概念であると思われます。 たとえば、囲碁ゲームで自分の手と相手の手の関係で考えると 序盤ならば、偶然性が高くなり、終盤ならば、必然性が高くなります。 序盤では別の可能性がいくらでもありますから、関係性は弱く、偶然そのような手になったと感じるでしょう。しかし、終盤では選択の余地が無く、関係性は強く、必然の手と感じられるでしょう。可能性の高低によりますが、数値化はできず、あいまいでもあります。 ですから、予測困難ならば偶然で、予測どおりならば必然という個人の能力問題は解消しています。
補足
ご回答ありがとうございます。 囲碁の例で、「偶然」とおっしゃっているのは、何の「偶然」でしょうか、「対戦の進展がどのように進むか」ということに関する「偶然」でしょうか? 私の勘違いかも知れませんが、囲碁の場合は、敵味方が、それぞれ、論理的判断をして、最終的には、自分の「意志」で次の一手を決めるわけですから、「偶然」の入り込む余地がないように思うのですが。
- x-nishi
- ベストアンサー率36% (60/164)
#1です。 >例えば、質量保存の法則とか、電荷のプラスとマイナスの間には、引力が発生し、プラス同士なら斥力が発生するとか、あるいは、その力は、電荷の大きさに比例し、距離の二乗に反比例するとか等等、自然科学の法則と言われるもの全てです。 > >これらは、数学の公理と同じで、因果関係では説明できず、「ただ、そういうものだ」ということで、理由なく認めるような性格のものではないかと思います。 なるほど。すみません、私が勘違いをしておりました。 さて本題ですが、私の概念では「ある原因となる事象に対して予測されない、または予測される確率が低い状態」となります。このとき「予測」するのは「偶然」という表現を使う本人です。 例えば「偶然Aさんに出会った」という表現について考えてみましょう。 自分はAさんに会うためではない、別の用件でどこかへ出かけました。Aさんがそこに来ることも知りません。 ところが、Aさんは何らかの手段であなたがその場所に来ることを知っていたとします。Aさんはあなたに会う必要があった。だから時間を合わせてその場所へ出かけた。 この状況下で出かけた先でAさんに出会った場合、あなたは「偶然」という表現を用いますよね。でもAさんからすれば「必然」です。あなたに会いに行ったわけですから。 さてあなたはAさんが意図してあなたに会いに来たことを知らないままAさんと別れ、Bさん、Cさんと待ち合わせをします。BさんもAさんの意図を知らない、でもCさんはAさんから聞かされていたとします。 あなたはBさんとCさんに「さっき偶然Aさんに出会ってさぁ」という話をします。Bさんも「それは偶然だねえ」と言います。その後でCさんが「偶然じゃないよ。だってAさんはあなたに会いに来たんだから」と言います。このとき「偶然」という言葉は話し手の主観で使われています。 このように、「話し手が予測する確率が低い」時に「偶然」という言葉が使われるのだと私は考えています。 「心臓や内臓筋が意図せずとも動く」のは、これまでの解剖学や生物学などから十分予測される事象ですから、その知識を持っている人から見たら偶然ではありません。 「プラスの電荷とマイナスの電荷は互いに引き合う」「その力は電荷量に比例し距離の二乗に反比例する」ことも、先人達の研究や「そのように表現するという考え方を広め、認めてもらう」ことによって予測可能です。したがってこれらのことを既に知っている人から見たら偶然ではありません。でもこの自然法則を初めて発見した人(すみません、名前を失念しました)は、「偶然」琥珀を毛皮でこすったら羽毛が引き寄せられることを見つけたわけです。最初は「偶然」そのような現象が起こっている、と思い、もう一度繰り返したら同じ事が起こったので「いや、偶然ではないのかもしれない」と疑い(このときすでに次に起こる現象を予測していますよね)、法則を見つけるためにさまざまな実験を繰り返したのかもしれません。 #2の方へのあなたの質問の中で自動ドアの話があります。 これに対する私の回答は「YES」です。 自動ドアの存在を全く知らない人から見たら、自分がドアの前に立ったと同時に(そこには誰もいないわけですが)偶然ドアが開いたという認識を持つのだと思います。 これを「知的レベルの欠如の程度」と呼べるほど私は知識を持っていませんが、まあでもニュアンスとしてはそういうことだと思います。
補足
ご回答ありがとうございました。 だいたい理解できたつもりです。 それで、最終的に「偶然とは」の定義の形にまとめたいのですが、#5の補足に書きましたように 「偶然とは、自分にとって意味あることが、予期せずして起こること」という定義で良いとお考えでしょうか?
Q、ここで、「関連」とはどのよう意味になるのでしょうか? A、関連とは、「こうだからこうなる」(因果)の意。 例えば、独身の男女がいるとします。 当然に出会う以前は、非恋人関係にあります。 が、男と女の性に誘われて恋人関係に移行します。 こういう非恋人関係から恋人関係に移行する関連は、内的な本質的な関連であって必然。 この一文は、次のように書き換えても通じるでしょう。 こういう非恋人関係から恋人関係に移行する因果は、内的な本質的な因果であって必然。 ただ、関連=因果と置き換えれば、そこに出現するのは形式論理学の世界。 言わば、必然と偶然の定義をめぐっての言葉遊びの世界。 そういう観念論的な言葉遊びと一線を画す意味で敢て<関連>と。 ここら辺りは、私の憶測ですが・・・。
補足
ご回答ありがとうございました。 >ただ、関連=因果と置き換えれば、そこに出現するのは形式論理学の世界。 この辺りが、今ひとつ、わかったようなわからないような気がしますが、例えば、マルクス主義のように「資本主義から社会主義への移行は歴史的必然」という場合の「必然」のような感じでしょうか? すなわち、原理的には、必然で、いつか必ず起こるが、いつどのような形で起こるかは、無数の要因によって影響を受けるので、確定することはできない。このように「必然」ではあるが、予測不能であることの発生を「偶然」と言うということでしょうか?
- magga
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僕なりに挑戦してみたいと思います。 偶然とは、その言語を発した人にとってある現象が、「そのまえ」あるいは「そのとき」あるいは「その後」に、その人の論理的理性的な思考をフルに駆使しても「予測・予期できなかった・していなかった」あるいは「因果関係を(大まかにでも)発見できなかった(した気にもならなかった)」こと。 または「因果関係を鑑みないこと」(因果関係を鑑みなければ、全ては偶然と言えるような現象となるが)このなかにおいて、特に個人的に心にインパクトの大きく感じたことに対して使う言葉。 こんな感じでしょうか。 因果関係を鑑みない。つまり理性とは逆の状態に多く出てくるであろう概念と感じますね。感情の管轄にある言葉と感じます。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
補足
ご回答ありがとうございました。 だいたい理解できました。 「特に個人的に心にインパクトの大きく感じたことに対して使う言葉。」というのは、おもしろい着眼点ですね。これは、「偶然」とは「自分にとって、意味があることの発生」に関するものということになりますね。 そうすると、「偶然とは、自分にとって意味あることが、予期せずして起こること」と定義して 良いでしょうか? あと、「因果関係」という言葉を敢えて使う必要があるのかどうか、今、ちょっとわからなくなりました。というのは、街で、偶然、友人に会ったという場合、それは、予期せぬ出来事ではありますが、因果関係という視点では、何が「因」なのかよくわからなくなりました。友人の「街へ行こう」という気持ちが「因」でしょうか。
お礼
今まで知らなかった新しい分野についての知識でした。文献の紹介も含めて、ていねいなご説明をしていただき、ありがとうございました。 全然知識のない領域なので、理解するには程遠いので、単なる感想ですが、新鮮に感じたのは、エントロピーの増大が、自発的な構造の生成の必要条件という話です。今まで、生命体はエントロピーを減少する働きを持っているので、熱力学第2法則は、生命体のような構造物を破壊する方向に働くのかなと漠然と思っていたからです。時間があったら、ご紹介いただいた文献なども勉強してみたいと思います。