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これで最後の質問にしたいと思います。もう疲れました・・・なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?
さまざま質問してきましたが、これで最後にしようと思いました。 それは、上質な回答が膨大なそれ以外の回答に埋もれすぎている、その膨大な無駄に対して、意識的に実質的に返答して検討していくことに疲れました。 質問は、なぜ自他の人間性を大事にしていこうとする人が少数派なのかということです。 さまざまな分野のさまざまなレヴェルの質問があって、そこに真摯にあるいは正直に向き合って答えることが、どうしてそんなに難しいんだろう?ということです。 いままで、そういう疲労が蓄積してしまったような気がします。気晴らし回答やら、文句をつけるだけやら、質問の意を勝手に解釈して議論をなさないなど。 なぜ、人の質問をそんなにひねくれて取るのか、あるいは受け入れる力がないのか? 素直に受け入れることは、回答者質問者ともに向上する方向に行くものだと思っています。耕すわけですから。それを簡単に拒絶し、小さな自分を満足させるために不寛容な狭い心を開かないまま終わっていいのでしょうか?そういう人生でいいやという考えにどうしてなれるのか不思議でもあります。 誤解を避けるために付け加えますが、私は決して幸せな人間ではないと思います。世の中で自分が生きがいを持って生きる道には入れませんで、孤独がちで不満だらけの人生といってもいいです。でも、そういう心情と、質問回答によって向上したいという意欲は全く別物です。八つ当たりをして気を晴らしたいとか、質問なんて理解しないでいいという姿勢には到底なれません。 なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が多いのでしょうか?
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#19です。 まだ締め切られていないようなのでもう少し言わせていただきたいと思います。 たとえば、↑ のように、今、私は述べました。 私は、最近一ヶ月ほどあることに集中していた(日数的な集中で、朝から晩まで毎日という意味ではありません)のですが、それも一段落して少しホッとし、ゆっくりできる精神状態に少しなりかけています。 それで、興味ある質問に答えてみたくなったのですが、この質問がまだ締め切られていなかったので回答する気になりました。 しかし、この同じ質問に5/14にも私は回答しています。 その時いただいたお礼は拝見しましたし、それに対する意見も持ちました。 ただ、先ほど言いましたようにあることに集中している期間だったので、よく言えば考えをまとめる精神的余裕が無かったため、有体に言えばとても面倒だったので回答を見送りました。 ところで、私は表現することが好きなので、ここで回答することは趣味のようなものになっています。 主に明確な答えの出にくいカテで回答しています。 明確な回答の出るカテの一部も含め、そこで回答される方はやはり(広義の)コミュニケーションを望んでおられるのではないか、という気がします。 「広義の」の意味は、 たとえば、質問者の疑問を晴らすことに喜びを感じること たとえば、質問者とじゃれ合うこと たとえば、質問者をからかうこと たとえば、質問者といっしょに考えること たとえば、質問者と何でもいいので話をしたい、ということ。 たとえば、質問文の一部について自分の考えを一方的に述べてみたくなるということ。 他にも色々あるでしょう。 質問といっても、多様な受けとられ方をするのではないかと思います。 このうちどの形を選ぶかということは、人それぞれで違うはずで、前回も述べましたが、ネット上の質問としては止むを得ないことではないか、と思います。 そこがご不満ということだと思うのですが、 たとえば私は今日は気持ち的にゆとりがあるので、「疑問を晴らす」ことを真剣に、集中して考えています。(結果はどうあれ) しかし、気持ちにゆとりのないときでも回答したくなることはあるものです。 そういう時は、質問文の一部を捉えて、質問の本質とは逸れた回答になることもあります。 また、 「彼とファミレスでデートするのですが、何を食べたら良いでしょうか」という質問に 「鯖ミソ定食が健康的でいい。けど彼とキスするときに困るかな」とかいうからかい半分の回答をしたこともあります。 高校生の彼女は、 「なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?」 と怒ったでしょうか? お礼を飛ばされましたから怒っていたかもしれません。 少なくとも不真面目ぐらいには感じたでしょう。 いずれにせよ、そうしてまでも回答したくなるのは、質問している方の反応を予期しつつ文を書くという行為が、私の欲求となっているからではないかと推測するわけです。 疑問が解決して喜ぶ顔だったり、恥ずかしがりながら怒る顔だったりするでしょう。 このように、モニター越の顔を予期しつつ、文という手段で相手に能動的に働きかける行為が「回答する」ということの本質、と言ってしまうのは飛躍しすぎでしょうか。 その働きかけるパワーにゆとりがある時と無いときがあるということでしょう。 garcon2000さんのご質問にかける熱意というものは、その内容からいつも良く伝わってきます。 ただ、上のように気持ちにゆとりが無い時に、「完璧に」対応することが難しい場合もあると思います。 たとえば、「平和」「医療」「人間」といった議題について、茶の間で毎日のように本格的な議論を戦わせることが難しいように・・・です。 そういう時は回答しなければよいということでしょうが、何らかのコミュニケーションを欲しているので回答(らしきものも含めて)という形になって出てくるのでしょう。 質問の本質をとらえる、ということは存外パワーを消耗するのではないかと思われます。 なぜなら、実は回答の方向性がある程度見えていないと質問はできないはずで、 質問内容の本質を捉えるということ自体がすでに回答そのものなのではないか、という気もするからです。 garcon2000さんは、質問者でもあり、議長でもあり、またこの本質の主張者でもあったのかもしれませんね。 お疲れになったと思います。
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- littlekiss
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ぬけてました。 ANo.45へ追加です。 『失われた時を求めて』 http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0246410/top.html http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol16-2/16-2ka.pdf
- littlekiss
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こんばんは、garcon2000さん。 ************************************************************************** 誤解を避けるために付け加えますが、私は決して幸せな人間ではないと思います。 世の中で自分が生きがいを持って生きる道には入れませんで、 孤独がちで不満だらけの人生といってもいいです。 でも、そういう心情と、質問回答によって向上したいという意欲は全く別物です。 八つ当たりをして気を晴らしたいとか、 質問なんて理解しないでいいという姿勢には到底なれません。 ************************************************************************** 【修辞技法】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BE%9E%E6%8A%80%E6%B3%95 【修辞学】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF 【4 e ラーニングシステム活用の課題と必要性】 http://www.javea.or.jp/chosa/pdf/h16_report_3.pdf http://media.excite.co.jp/daily/tuesday/030617/topics_p01.html http://media.excite.co.jp/daily/tuesday/030617/topics_p02.html http://media.excite.co.jp/daily/tuesday/030617/topics_p03.html http://media.excite.co.jp/daily/tuesday/030617/topics_p04.html http://media.excite.co.jp/daily/tuesday/030617/topics_p05.html http://media.excite.co.jp/daily/tuesday/030617/topics_p06.html 「ぼくのうちに波がきた」 http://www.ehondaisuki.jp/003/520.html http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=4817 『冗談関係のメモリアル』 『月の川を渡る』 『風の消息、それぞれの』 『〈虚言〉の領域』 http://museion2003.web.fc2.com/ale1.html
No.6です。 garcon2000さん garcon2000さんご自身の質問《Q:ズバッと行くやり取り=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3622564.html 》に書いたものです。掲げます。 * * * 【そのANo.7】 次のような思索が残されています。参照しうるもののようです。 《的を射たこたえを出す人びと》(* ここでは《質問に素直に答える人びと》)のことを 《あなたがた》が指し示していると捉えてよいでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 真実がどのような労苦によって見出され 誤謬を避けるのがどれほど困難であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 敬虔な心の清澄さによって肉の幻想を征服するのがどんなに稀な 成し遂げがたいことであるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 内なる人間の目がその〔義の〕太陽を見ることができるように癒されるのが どれほどの困難を伴なうことか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 神についてほんのわづかでも知りうるようになるためには どれほどのため息とうめきが必要であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 同じ誤謬によって欺かれたことのない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 (アウグスティヌス:『基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論』2.2――『著作集・7』 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ でもわたしは ずばりものを言うようにしていますが。そうでなくっちゃ 《社会》とは言えないからです。 * * * 【garcon2000さんのこの回答へのお礼】 ズバッとものを言うというのは、かならずしも相手を傷つけることとは限らず、もちろんそういう状況もあるがそうでないこともはるかに多いわけで、恒星の例などその典型ではないかと。いろいろ虚飾に満ちた説明をしたいとか間を持たせたいとかかっこつけたいとか分けわかりませんが、誠実に人の求めに応じられるのに応じないという傲慢さこそ、ひとの「怒り狂い」を買うに等しい行為ではないかと。それがあまりにも世の中に少なくなっているので、ほとんどの人が麻痺している。本当はおかしいことがまかり通っているのではないだろうかと考えます。 * * * そのあとにも さらにいくらか質疑応答が続いています。
何度もの回答で申し訳ないのですが、やはりあなたの回答のやり取り に疑問を持ってしまったので答えます。 つまりあなたは回答になっていない=○○○だからです。 と言い切った回答がないとおっしゃいたいのかと思いました。 それも質問者さんの質問を無条件で受け入れた形の。 ではそのように答えるとすると >人の質問をそんなにひねくれて取るのか、あるいは受け入れる力 がないのか? 本心を悟られたくないから。雰囲気であーこういうこと、と とらえて欲しいから。です。 (内容によっては)直球にたいして直球で返すのは礼儀に 反するという考えが根付いていますし、直球で返す言い方では この人頭オカシイんじゃないかと思われるからです。 >小さな自分を満足させるために不寛容な狭い心を開かないまま 終わっていいのでしょうか? 構いません。自分が満足しない形を取ったところで何も得るもの がないという考えがありますから。 このほうが良いということが分かっていても、自分が満足しない こと=それは理想論であって現実的ではないからです。 実現しっこないことに時間を費やすほど人は お人よしではないからです。だったらお互いの妥協点を 見つけることのほうがはるかに有益だと考えるのが多数派です。 なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに 慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が 多いのでしょうか? 自分を守るため、プライドを保つため、自分の優位性を示す ために議論することがほとんどだからです。 それいがいは何事もなくやり過ごすことのほうがストレスを 溜めなくて済むからです。 あんたのやってることは間違っていると人から言われるのは むかつきます。だれでも自分は正しいと思いたいものです。 カチンとくる言葉にそうだね俺が間違ってるよねと言っても 自分の優位性を示すことにはなりませんし、それは違うよ と否定したところで相手が納得しないのが分かった時点で カチンとくる言葉の至らないところを攻撃して言葉を無効に してしまえばいいわけです。 ようするに対話などせずその会話をやめるか論点をずらすことが 最善の方法なのです。 じゃあなぜそのような七面倒くさいことを人はするのか というと、事前にその人と衝突するのを避けるための エチケットだからです。会話や議論をするときこのひとなら 衝突してもいいと考えて会話することはその話し手に対する 甘えがあるからです。 それか、緊急をようする事態であった場合はこれに限りません。 言いにくいことは言いにくいと思うのが普通の人だし わざわざ争いの種をまくのはヤクザぐらいしかいません。 自分の意見が無条件で通ると思っているとも思ってもいませんし。 あなたは疑問にはっきりと答えをもらってすっきりしたいと このコミュニティーに質問なされたのでしょうが コミュニケーションにも限度というものがあります。 友達同士の議論のように甘えあって議論できるはずもありません。 それは分かりきっていることだと多くの方は自覚して あえて明文するひとはいないでしょうし、わざわざ教えても くれません。だいたいは雰囲気で掴むものです。 それは、インターネットのやり取りだけではありません。 実社会でも同じです。(普通に分かっていると思って書いています) 最後に >質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか? 私もそうだと思えないからじゃないでしょうか? または質問自体がヘンテコな質問だからとか。 それか質問に素直に答えたら、そうですね、か 違いますね、の 答えしかできない内容の質問ではないのでしょうか? 後はだからどうしたの?という質問なら 暇つぶしに書き込んだからということもかんがえられますね。 どっちにしろあなたは自分でこのコミュニティーで質問することは あわないと判断を下したのだからあってなかったんです。 あなたは色々な質問がありましたが毎回私はこの質問者さんなんか ズレてるなーと思って何問か解答を投稿していました。 それに自分の言葉で回答を理解しようとする人だなと思って いました。お気をつけください。 よい議論の場をほかで見つけられることを願っております。
お礼
>つまりあなたは回答になっていない=○○○だからです。 と言い切った回答がないとおっしゃいたい そうです。 >本心を悟られたくないから。雰囲気であーこういうこと、と これはわかりますね。ただ、そういう雰囲気を察する洗練度がある程度ないと無理でしょう。特に私のような野暮なやつには程度が高すぎますね。 >構いません。自分が満足しない形を取ったところで何も得るもの 実際的ですね。しかし、これでは相手にあまりインパクトを与えられない気がします。ここが無駄な消費に終わってしまうのではないかという強迫観念が残ります。妥協点といっても、結局楽して得するという虫のいいことにならないかと。 >自分を守るため、プライドを保つため、自分の優位性を示す それいがいは何事もなくやり過ごすことのほうがストレスを 溜めなくて済む。 これが現実社会なら話が分かるのですが、ここでも必要ですか。。 >あんたのやってることは間違っていると人から言われるのは むかつきます。 これなんですが、私のここでの感覚として、まず回答者がちゃんと組み合ってくれないというところから不満が始まっています。「なるほど、質問は分かった。しかしここのところはどう考えてもおかしい。なぜなら・・・」ということがない(少ない)これは大きな差ですよ。ここをなおざりにしていいとは思いませんし、ここの存続価値にかかわることです。あるいは社会の健康度にかかわるかと。心理的側面が大きい問題のような気もしますが、実は国語力的なものが結構決定的なのかもしれないと思います。多少曖昧な欠陥がある文章でも、その真意を理解する読解力、それが足りないところに来て、さらにエゴイスティックな自分を前面に出す回答が多いからじゃないでしょうかね。 この後の段のご回答は、上の条件が満たされないからそれをどう解消するかという論法なので、私の考えと土台が違ってしまうのですが、もし、どうしても「人は対話ができないのだ」という命題が真であれば、まことに有効実用的な方法だと思います。 >私もそうだと思えないからじゃないでしょうか? それか質問に素直に答えたら、そうですね、か 違いますね、 「そうです」「違います」の一言で終わるのが、もっともシンプルかつ誠実な回答だと思っています。それ以上のものをつけるのは、実は回答者のエゴなのだとさえ思います。
12 28 30 37 amaguappaさんは書き込む内容によって立場を使い分けてらしたんですね。自分は質問の種類で使い分けていたせいか、その違いを逆に誤解していたようです。 13と22で書かれていた事はとても興味を持ちました。解りやすい。 現在でも12で書いた、ここの印象は変わっていません。
13,22,26,36です。 茶化しですか。愚かな受け止めかたもあるものだな。 対話が不得手だから、結局対話が成り立たないのだと暗に指摘した。 本人が気づけないのならどうしようもない。 自分に甘い人だけが味方だと思っているのか。。。さて。 五度も答えるとはお節介も過ぎた。 言語情報科学、コミュニケーション心理、精神医学、秘教史、療法に関わらない一般的なアドヴァイスをしたときは、 わたしのコメントは一般人としている。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんにちは。 回答させていただくのは初めてですが、ときどきgarconさんのご質問と、 そのご質問に対して寄せられたご回答を、興味深く拝見しておりました。 時間とボキャブラが足りないのでなかなか回答することができなかったのですが、 さまざまな「ものごと」に関心と好奇心をもち、 素直に純粋に真摯に「追求」しようとする姿に、パワーと熱意を感じます。 garconさんが提起する議題は、一緒に考えたくなるものが多く、 実際、その議題を共有する人たちの言葉の中から、いくらか知恵を頂いたと思います。 真摯なやりとりを望んでおられるようなので、 真剣に対話をしてみたいと思います。 >もう疲れました・・・ :お疲れ様です。 すべての言葉を、一滴もこぼさないように、 真剣に聴いて、受け止めようとしているのだから、 疲れて当然ではないかと思います。 (しかし。少しシビアになりますが。) 疲れることを 「覚悟して」 「不特定多数の人を」 「garconさんが」 「誘ってきた」のではないですか? (さらに。もっとシビアになりますが。) 疲れることを、自分のパワーを使うことを、 「garconさんが」 「欲して、求めて」 「garconさんの判断で」 「garconさんが選んで」実行してきたのではないですか? この「ロクでもない場所」を、 「garconさんが」 「必要としてきた」のではないですか? いったん、まとめます。 「garconさんが」「疲れることを」「愛している」のではないですか? >質問に素直になれないのでしょうか? >理解しないのでしょうか? :自分が精一杯話していることが理解されないというのは 本当に悲しくてつらいことですね。 悲しくてつらいのは当然のことで、 「悲しいじゃないか」と表現する権利をgarconさんが持っているのも当然のことで、 持っている権利は堂々と使えばよい、というのも当然のことで、 実際、ご自身のパワーを使って権利を行使している姿に感心しています。 いったん、考えてみたいのですが、 「garconさんには議題を提起する権利が当然ある」ということは、 「議題を提起された側には話す権利が当然ある」ということになりませんか? さらに単純化すると、 「garconさんが」「不特定多数の人に」「話す場を与え」、 「不特定多数の人が」「受け取って」「使わせてもらった」ということになりませんか? 問題は「使い方」の「ルール」が守られていないように感じる、ということでしたね。 ところでgarconさんは「このようなルールの中で使ってほしい」と、 不特定多数の人に、説明してから場所を与えてきたのですか? そもそも不特定多数の人すべてに理解できるように説明することが可能ですか? 理解「できない」ことを責めることにエネルギーを使うのですか? できるのに、わざと理解していないのだと思いますか? 精一杯、理解しようとしても、理解「できない」のだと考えたことはありますか? 「できない」ことを「できなさい」と求めますか? たとえばgarconさんが、あなたの肩を貸してください、と誰かに求めたとして、 肩の主が怪我をしていたり風邪を引いたりしていたとして、 それでも「心地よい肩になりなさい」と求めますか? 多くの人が、自分の話したいことを話します。 自分の話したいこと、というのは、おそらく、 自分が「正しいと思っていること」です。 間違っている・有害である、と分かっていることを、 わざわざ話したりしないでしょう? しかし不特定多数の人が、自分が「正しいと思っていること」を話すのだから、 「正しくないこと」が含まれているのは当然ではないですか? 「間違えて覚えてしまったこと」を持っていることを責めますか? 「間違えて覚えてしまったこと」を「悪意」と名づけますか? 最後に。 与えられた「話す場所」を、 個人的な毒を吐くために使う人がいるのは事実で、 それはとても悲しいことだと思います。
お礼
覚えていただいたとは、まったく恐縮至極、かつ赤面ものです。ろくでもない質問回答をしてきました。正直言うと、やや憤りを晴らす意味で、おそらくこういうことだろ!質問という形でちょっと憂さを晴らしてやるか!という気持ちもあったのだと感じています。 お答え、まったくそのとおりだと思います。非常に同感です。 私は権利を行使させてもらって、答える方もそう。いろいろな基準があって、自己の信ずるところをやっている。 ただ、「一般常識」というものに照らし合わせたいと思ったわけです。ここは質疑応答の場のわけで、その枠組みさえも理解しないか、あるいはへと思って遵守する気がないかというのは違うのではないか?学校の授業で漫画を読むのか?場違いなことをあえてしてもそれは個人の裁量なのか? 私の言う「場違い」は一般よりこだわりがあるかもしれません。それは、「話が通じていない質疑応答、回答はみとめられないのじゃないか?質問内容を理解しない回答は回答ではないのではないか?」ということです。それが、今までやってきて感じたことです。その「雑音」があまりにも多い。 もちろん私自身も知らず知らず回答でやっているのでしょうがね。 で、それよりわるいのが > 与えられた「話す場所」を、 個人的な毒を吐くために使う人がいるのは事実で、 それはとても悲しいことだと思います。 これです。 これは無条件で認めません(って私は管理者じゃないので実行力はまったくないですが) この「方便」ここではくだらない鬱憤晴らし駄文ですむのでしょうが、こういう類は最近の詐欺とかそういう人を人とも思わない、心を心とも思わない救いがたい悪行だと感じているところです。
最後にするのはもう少しお待ちになったらどうですか? 私は去年の9月に入会しました。 私は自分の生き方や考え方が多数派に属さない事を知っていますが、しかし、少なくとも実社会に於いて反社会的だったり、社会常識から外れていると他から言われたり、社会からつま弾きされるような言動をした事は無いと自負しています。 また、実社会ではそれなりに自分の意見を表明する機会もありますが、その意見を潰されたり、誹謗される事も無く今まで生きています。 にも拘らず、このサイトに入会以来ご質問者同様、何故此処では自分の考えがいつも糾弾され、自分が異質と感じるのか、その結果の居心地悪さを何時まで耐えられるのか自問しない日はありません。 しかし、もう一つ浮かぶ考え方として、此処はある意味ほとんどの人に取って日常のストレスの発散場所なのだという確信です。 現代人は、皆孤独です。 特に日本人は豊かな生活と引き換えに、自分の間違いを認める事を拒否する意固地さを身につけ、他の意見に耳をかたむける謙虚さを失ったような気がします。 しかし自尊心という鎧で武装した心はどこかで息抜きを求めないではいられません。 困っている人を助け、その人が満足して質問を閉め切るのを見て自分のストレスを発散させる人、あるいは質問者を誹謗中傷したり、悪意のある意図不明な質問を繰り返す事によって自分のストレスを解消する人、の違いはあるでしょうが、ある意味ではこのサイトはそれぞれの人に取って、それぞれの意味があるのだろうと思います。 しかし、一時的な感情の爆発で他人を貶めたり、誹謗する事で得る自己満足は永続的ではないし、塩水で渇いた人が又塩水を飲むような行為でしかない事も事実です。 此処を使い勝手の良い場所とするかしないかは自分自身だというふうに、この頃思うのですが、だからと言って毒にも薬にもならない暇つぶしの質疑応答に参加するだけではつまらないという事も事実であれば、何処ら辺までと自分を律する線引きが必要になるのかもしれないと思います。 入会したばかりの頃、あまりにも酷い質疑応答に驚き、その事について質問した事があります。「数ある回答の中に、珠玉の回答が混じっている。それを見つけるために私は此処を止めないでいる」と言った意味の回答が来たことがありました。 その時はよく意味がわからず「大げさだな」くらいにしか感じなかったこの回答の意味を最近頻繁に考えます。 何時巡り合うか分からない珠玉の回答を待つか、きれいさっぱり卒業するか、考え込むのはご質問者や私ばかりではないような気がするのですが。 とりとめの無い回答になっってしまいまして申しわけありませんでした。
お礼
どうも、ご丁寧なお言葉ありがとうございます。子供のころから「なんでなんで!」って言うのありますよね(ない子もいるでしょうが)その一種純粋な遊びができるところだと思っていたら!・・・なんとも、期待とは違う実情があったわけです。 ご回答者さんがかんじた、ここの居心地悪さ、それは「ちょっと世間的な考えとは違うこと」を表明すると、たちまち「常識家」たちがここぞとばかりに、空虚な反論や嫌味皮肉を投げかけてくることじゃないでしょうか?「ふ~ん、そんな考えもあるのか」という人が8割がたになると思ってたところが、逆の割合なわけですね。つまり、こっちの思考を理解し味わってみようともしないで、かみ合わない反論ばかり加えるやからの多いこと。これほどの無作法はないと思います。 現代人都会人の孤独は確かにあります。生活の便利さ豊かさと引き換えに、それはついて回る。まさにえるものと失うものは同時進行です。その心の空虚さ苛立ち、そういうものを洗練されず解決せず、鬱憤という形(意識しないかもしれない)で表出することがあるのでしょう。なぜこんなに意固地になったのでしょうね?やはり孤独でしょうかね。それとももしかすると総合的「学力」なのか? ここでの参加方法も、おっしゃるとおりで、いろんな思惑があるのだということをほぼ確信できるようになりました。これは当初から考えれば、実に意外、もちろんわるいほうにです。 そこまでは百歩譲ってもいいとして、「おれはQ&Aやっている、本当は忙しいのに回答してやっている、お前の質問なんて本当はどうでもよくて俺の考えを教えてやる」みたいな思考法で参加しようとする。これは、とても認められません。 つまり、「対話」がない。エゴしかない。こんなことで社会はいいのでしょうか?ここでの話は、そのまま社会に拡大できると思いますよ。 自分の質問だけではなく、人のを読んでも、こりゃかみ合ってないと思うものが結構ありました。かみ合ってないのはそこらじゅうどこでもですけど。 ひどい回答の中の「玉」ですね。しかし、その確率を考えることがまた精神にわるいのです。もちろんここでいい答えを出す人がいい人ともいえないわけですが、少なくともここには膨大な無駄がある、もしかして、生きている人間も、膨大な無駄人生が圧倒的なのではないか?そんな連想にも結びつくわけです。
- tumaritou1
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パスカルは、言っています。人間は明らかに、考えるために造られたものである。-----そして、思考の順序は、まず自己から始るべきである、次に自己の創造者へ、そこから更に自己のの運命へ、と進んでいく べきである。-----しかし多くの人々は何を考えているであろう か、彼らはこういうことは決して考えていない。 人間は悩む者である、それは、アダムとイヴがエデンの園から追放された事に相当します、普通の人が神経症や、精神疾患になったことに相当します。 それは、人間として、思考する順番が自己から、始められなければなら ない事に相当します。自己の内側から、考える機会が、与えられた事と言えるからです。その事は、自己と言うものの、実存からの問いかけ、と言えます。 貴方が感じている疑問は、あなた自身それも、貴方が知らない 貴方の働きから、生じています。貴方にはスタミナが有ります。 他の人が貴方のように、考えないのは、命の働きが弱いからです。 貴方が、今のように考えるのは貴方の生命力が強い事によります。 貴方が、貴方の疑問を解消するための、具体的な方法は。 貴方が疑問を感じているその大元に立ち返って、 貴方が、どうしてその疑問を、抱くに到ったかさかのぼります。 それは、貴方の実存からの疑問ということです。 従って、貴方の疑問が全て解消される道は、貴方の心の中に、 戻るほかありません。 貴方のの疑問は、最も人間的です。誰も考えてはいません、 しかし、貴方がその疑問の発生する処。すなはち、こころの原点を通過 する事(悟り)それ以外には、決して貴方に満足は、得る事が出来ません。そういう事で、貴方は、「禅」を学んで下さい。 「禅」の中に貴方の、得たいものが、いっぱい詰まっています。 貴方の悩みが、人間の悩みです。昔の「禅匠」達の悩みと同じものです。 それは、貴方を悩ませている、その疑問の中にこそ、その答えが有ります。すなわち、貴方がその疑問と「一体」になった時に、疑問は解消 することでしようう。
お礼
まったく、そのとおりだと思いました。 自分と向き合うことが1番ですね!静かに偽りなく。 私はスタミナあるんでしょうか?無駄なことにエネルギーを使っているのかとも思えます。しかし、そうとらえていただけると、肯定的な気持ちに慣れます。 どうしてその疑問を抱くのか?ですね。 なんか、殺伐としたものがいやなのですね。「対話」がある殺伐感はいいです「そんなこと知るか」「知ったこっちゃねぇ」とか。ところが、それがない気がするんです。「そんなこと知るかということを知ったこっちゃねぇ」というのが、言語化されずに、意識化さえされずにあるのではないか?それを街で人間間でよくある気がするのです。 人が泣き叫んでいる。この悔しさこの苦痛この悲しさは何なのか?それに無頓着でいられるものでしょうか? 「禅」ですか。「無」はいいですよね。ちょっと瞑想したことがありますが、習慣化できませんでした。変わりに、静かに暗くして好きな音楽を聴くという集中法を練習しているんですが(練習でもないですが)
>この「茶化し」に参考になったポイントとかついている事態を見ても、ここが禄でもない場だということがわかります。 そういう判断を下されたんですね。 あやしいといえば怪しいな。 No,26No,36のamaguappaさんは突然、専門家に変身されましたから。 それでも自分自身の経験から正しいと思えば、それがどんなモノと酷似していようと、誰の言葉であろうと関係ないんですけどね。 いま、ここで結論は焦って出さなくてもいいんですから。 とりあえず糖分とって休んで下さい。ストレスも睡眠不足も栄養不足も、思考や冷静な判断を鈍らせるんで。
お礼
専門家やら一般人やら、各人の考え方ですからね。何だって専門家になりえますよ。人生の専門化とかね(そりゃ誰でもだ) この参考になったポイントなんていうのも実にいかがわしいですね。ちゃんとした文章になっていればまだしも、何でもかんでも評価できるって?どういうわけなのか。
お礼
非常に分かりやすいです。 甘えた広義のコミュニケーションができるので、ここは色々解答がつく、回答がつかなきゃ質問もないわけで、形の上で、質問すりゃか伊藤がつきそうだなと思って質問すると・・・!という状況で成り立っているようですね。いずれにしても、質問回答バランスよくやっていないと、だんだんと相手の気持ちがわからなくなってきます。私もここ最近回答するようになってから、あらためて「なってない質問者もいるよなぁ(もちろん私の感覚でです)、回答するのもむなしいもんだなぁ」という気持ちにもなり、「たいした回答でもないのに、紳士に受けてもらっちゃって申し訳ないなぁ」とかいうのもあり、回答する分にも色々と迷いがあるわけです。 が、基本を崩したくないというエゴがあって。 例に挙げられたようなファミレスの話なども、質問者が礼儀知らず粗野でお礼文を書かないのか、あるいはなにか回答者に不当な嫌悪感を矮小なエゴで感じたのか、あるいは精神疾患か何かで正常なコミュニケーション能力を失って、冗談を冗談と処理できないのか、いろいろ憶測を生む。ですが、数うちゃの方法が適用できて、それしか満足を得る方法はないですね。5個くらい回答しないと、気分悪くてしょうがない。そういうマナーに関する限界性、粗野な部分が匿名のネットにはつき物で、これはしょうがないかもしれない。その中には、いろいろと不快なエゴも混入せざるを得ないのかもしれない。そう諦念するのが一番自然なのだということになります。 いずれにしても、統治というのは難しいものだなぁと、古来よりの政治家の腐心をちょっと感じられる気がします。