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これで最後の質問にしたいと思います。もう疲れました・・・なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?
さまざま質問してきましたが、これで最後にしようと思いました。 それは、上質な回答が膨大なそれ以外の回答に埋もれすぎている、その膨大な無駄に対して、意識的に実質的に返答して検討していくことに疲れました。 質問は、なぜ自他の人間性を大事にしていこうとする人が少数派なのかということです。 さまざまな分野のさまざまなレヴェルの質問があって、そこに真摯にあるいは正直に向き合って答えることが、どうしてそんなに難しいんだろう?ということです。 いままで、そういう疲労が蓄積してしまったような気がします。気晴らし回答やら、文句をつけるだけやら、質問の意を勝手に解釈して議論をなさないなど。 なぜ、人の質問をそんなにひねくれて取るのか、あるいは受け入れる力がないのか? 素直に受け入れることは、回答者質問者ともに向上する方向に行くものだと思っています。耕すわけですから。それを簡単に拒絶し、小さな自分を満足させるために不寛容な狭い心を開かないまま終わっていいのでしょうか?そういう人生でいいやという考えにどうしてなれるのか不思議でもあります。 誤解を避けるために付け加えますが、私は決して幸せな人間ではないと思います。世の中で自分が生きがいを持って生きる道には入れませんで、孤独がちで不満だらけの人生といってもいいです。でも、そういう心情と、質問回答によって向上したいという意欲は全く別物です。八つ当たりをして気を晴らしたいとか、質問なんて理解しないでいいという姿勢には到底なれません。 なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が多いのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
#19です。 まだ締め切られていないようなのでもう少し言わせていただきたいと思います。 たとえば、↑ のように、今、私は述べました。 私は、最近一ヶ月ほどあることに集中していた(日数的な集中で、朝から晩まで毎日という意味ではありません)のですが、それも一段落して少しホッとし、ゆっくりできる精神状態に少しなりかけています。 それで、興味ある質問に答えてみたくなったのですが、この質問がまだ締め切られていなかったので回答する気になりました。 しかし、この同じ質問に5/14にも私は回答しています。 その時いただいたお礼は拝見しましたし、それに対する意見も持ちました。 ただ、先ほど言いましたようにあることに集中している期間だったので、よく言えば考えをまとめる精神的余裕が無かったため、有体に言えばとても面倒だったので回答を見送りました。 ところで、私は表現することが好きなので、ここで回答することは趣味のようなものになっています。 主に明確な答えの出にくいカテで回答しています。 明確な回答の出るカテの一部も含め、そこで回答される方はやはり(広義の)コミュニケーションを望んでおられるのではないか、という気がします。 「広義の」の意味は、 たとえば、質問者の疑問を晴らすことに喜びを感じること たとえば、質問者とじゃれ合うこと たとえば、質問者をからかうこと たとえば、質問者といっしょに考えること たとえば、質問者と何でもいいので話をしたい、ということ。 たとえば、質問文の一部について自分の考えを一方的に述べてみたくなるということ。 他にも色々あるでしょう。 質問といっても、多様な受けとられ方をするのではないかと思います。 このうちどの形を選ぶかということは、人それぞれで違うはずで、前回も述べましたが、ネット上の質問としては止むを得ないことではないか、と思います。 そこがご不満ということだと思うのですが、 たとえば私は今日は気持ち的にゆとりがあるので、「疑問を晴らす」ことを真剣に、集中して考えています。(結果はどうあれ) しかし、気持ちにゆとりのないときでも回答したくなることはあるものです。 そういう時は、質問文の一部を捉えて、質問の本質とは逸れた回答になることもあります。 また、 「彼とファミレスでデートするのですが、何を食べたら良いでしょうか」という質問に 「鯖ミソ定食が健康的でいい。けど彼とキスするときに困るかな」とかいうからかい半分の回答をしたこともあります。 高校生の彼女は、 「なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?」 と怒ったでしょうか? お礼を飛ばされましたから怒っていたかもしれません。 少なくとも不真面目ぐらいには感じたでしょう。 いずれにせよ、そうしてまでも回答したくなるのは、質問している方の反応を予期しつつ文を書くという行為が、私の欲求となっているからではないかと推測するわけです。 疑問が解決して喜ぶ顔だったり、恥ずかしがりながら怒る顔だったりするでしょう。 このように、モニター越の顔を予期しつつ、文という手段で相手に能動的に働きかける行為が「回答する」ということの本質、と言ってしまうのは飛躍しすぎでしょうか。 その働きかけるパワーにゆとりがある時と無いときがあるということでしょう。 garcon2000さんのご質問にかける熱意というものは、その内容からいつも良く伝わってきます。 ただ、上のように気持ちにゆとりが無い時に、「完璧に」対応することが難しい場合もあると思います。 たとえば、「平和」「医療」「人間」といった議題について、茶の間で毎日のように本格的な議論を戦わせることが難しいように・・・です。 そういう時は回答しなければよいということでしょうが、何らかのコミュニケーションを欲しているので回答(らしきものも含めて)という形になって出てくるのでしょう。 質問の本質をとらえる、ということは存外パワーを消耗するのではないかと思われます。 なぜなら、実は回答の方向性がある程度見えていないと質問はできないはずで、 質問内容の本質を捉えるということ自体がすでに回答そのものなのではないか、という気もするからです。 garcon2000さんは、質問者でもあり、議長でもあり、またこの本質の主張者でもあったのかもしれませんね。 お疲れになったと思います。
その他の回答 (46)
そうですね。 じつは わたしも これまでに わたしたち日本人のコミュニケーションのあり方を問題にして来ました。 Q:日本人はさまよっているのでしょうか Q:日本人は生ぬるいですか Q:日本人は死んでいるのですか Q:日本人は人間ではないのでしょうか Q:われわれ日本人は互いに相手を神と思っているのでしょうか まだあったかも知れません。いちいちURLを示しませんでしたが これだけ問いつづけたということは その回答に まだまだ満足していないということでもあります。 もし 自己批判を放っておいてよいとすれば ひとえに 政治がわるいということではないかと考えます。言いかえれば かれらが 一般市民を子供扱いすることを そのわたしたちが 放っておいたままでいることだと考えます。この風潮の影響はおおきいでしょう。
お礼
政治悪いですよね。子ども扱いする、馬鹿扱いする、選挙票をどうとるかしか考えていない。どう乗せるか。そして、国民がそれに乗じている。
補足
日本人は死んでいるのですかを読んでみるところです。
- bari_saku
- ベストアンサー率17% (1827/10268)
うーん、申し訳ないのですが、私は質問者様のご意見の方が奇異に思います。 一番違和感を感じるのは、ここのサイトに書かれた内容を、個々人の全性格のようにお考えになっておられる点です。 人間は、そんなに単純なものではないと思います。 一つの質問はたかが数百字、会員の内面について、そこから読み取れる情報など、本当に微々たるものだと思います。 また、過去に質問や回答を繰り返していて、質疑応答の履歴がそれなりの量が残っている方にしても、それが性格の全てである可能性は低いと思いますし、実際にお会いする機会がありしたら、それまでの印象と全然違う、という可能性の方が高いと思います。 要するに、ここの質疑応答…いや、オンラインの世界の情報だけで人間性を、人間というものを語るのは早計ではないか?と思うのですが。
お礼
そうですね!しかし、ネットだからこそ、この活字だけがその人の人格なのです。だから、その限界性の中でわかりあうように努力すべきではないのかと。 おっしゃることはもっともです。人間の一部しか活字には現れないのだが、しかし、対話できるのに対話を放棄するというのはなんら意味がない。
で、質問者は何を言いたいのですかね、 他人を非難することは問題だと、質問者も他人を批判する矛盾。 難しいですね。 質問者はご自身を理解できていますか? 質問者はご自身を制御できていますか? 人の事を言う前にそこを考えたほうが良いですよ。
お礼
端的に、国語の問題なんです。 質問文の中に疑問系を捜すことが80パーセントの作業だと思いますよ。 >なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が多いのでしょうか? もちろんその前提はおかしいよっていう解答はあっているわけです。ですが、この疑問系についての回答をしないということは、やはり変なことだと感じます。
さまざま質問してきましたが・・・との事ですが、誰に対して質問をしてきたのでしょうか? 質問をする・・答えが欲しいのだと思いますが、 他人に質問をすれば、それは答える人の数だけあります。 質問者さんは、ご自分に向って問いかけをしましたか? 質問者さんの求める答えは、自分の中にこそあると思いますが・・ 他人は、考えの整理をするお手伝いとか、ものの見方も千差万別と言う事のお手伝いは出来るでしょうが、個人に特定すれば、所詮はその人の一つか二つの見方にしか過ぎません。 また、経験もその人限りのものでしょう・・・一つの参考例にしか過ぎません。 他に答えを求めている間は、永遠に質問者さんが求めている答えにはで合えない様に感じます。 >>なぜ、質問に素直になれないのでしょうか? 何故かお答えしましょうか・・ その必要がないからです・・質問されたからと言って、答える義務もなければ、責任も生じません。 >>理解しないのでしょうか? なぜ、他人に理解を求めるのですか? その方が不思議です・・・ 逆に聞きます、なぜ質問者さんは他人に理解を求めるのでしょう・・・ それよりも、質問者さんは、その他人を理解しようとしていますか? 自分の事は理解して欲しいが、他人のことは責めているばかり・・・の様に感じますが。 あ、私、哲学の「て」の字も学んだ事はありませんので・・・ なので難しい理屈は分かりません・・・ しかし、今自分が幸せである事は知っています。 何故って、それは手放す事を知って実行し続けているからです。 お話ずれていますか・・・それならお許しを・・・ この世は単純です・・・複雑に考えれば複雑な世界が展開しますし、 私の様に単細胞的に生きるなら、その様に世界が展開します。 難しい事は何も分かりませんが、それでも十分に幸せです。 今日も、名もない花一輪が綺麗でした。
お礼
とても、素直な方、あるいは素直さに価値を置いている方なんでしょうね。私もそれが理想なのですが、煩悩やら欲得やらで疲れますね。 さまざまな質問(確か200くらいですか)いろんなジャンルにいろんなのしましたね。単なる好奇心(なにやら見聞していろいろ沸いてくるんです)が一番多いと思います。結構学問系が多いですかね。純粋学問系は少ないです。あそこは一番焦点が合ってますね。あそこだけ普通のQ&Aです。物理とか数学とか生物とかまぁ歴史になってくるとちょっといい加減になってきます。心理学哲学やらいかがわしいのはだめですね。結局そこら辺が一番多いんですが。あと社会問題ですか。そのあたりのやはり問題になりやすいところの質問が多かったです。 でも、自由度が聞くからといって、悪乗りしていいとは思わないわけです。あまりにも、回答に誠意がなさ過ぎなのが多い。もちろん過剰な親切回答もありますが、雑音が非常に多い。 問題はおっしゃるような、哲学的な回答方でなくて、もっと純粋に技術的な、国語的なものです。つまり、この質問で言うと >なぜ、人の質問をそんなにひねくれて取るのか、あるいは受け入れる力がないのか? >なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が多いのでしょうか? これを抽出して回答できるかということです。 質問に答える義務がないから、ならば答える必要など微塵もない。質問が理解できなければ何の答えなんか書けるわけがない。これは、国語の問題ですよ。 私は100くらい回答していますか。いちおう、質問文は理解したつもりで、そんなことじゃないなんていうお礼文とかはもらったことないと思いますよ。もちろんあまり満足ではないことが多いでしょうが。 人を責めるも自分を甘やかすもない。国語です。 最後の段は非常に共感できます。捨てるって大事ですよね。人間が生きてきます。
- adaypajimy
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端的にみんな、 哲学を放棄しているんでしょうね。 例えば質問者は、レヴェルとか、人間性(人間主義/ヒューマニズム)という言葉の定義によっては、誰かに非難されて然るべき言葉であることを自覚した方がいいと思います。レヴェルという定義のアウトサイダー、そしてヒューマニズムという定義のアウトサイダーを、あなたも非難しているではありませんか。 哲学を放棄する者を非難することを対話とは言わない。
お礼
そうでしょうね。哲学というと大げさですが、本当に柔軟に考えてみる姿勢というか。レヴェルとか人間主義は普通の言葉ではないかと?大体、差別語というのは何なのだろうと思っています。言葉自体に差別も無差別もないものだと。それは非常に不純な考えなのだろうと感じています。 しかし、やはり、哲学カテですし、やっぱり、それを放棄している人をも認めるということは、無政府状態となってしまうのではないでしょうか?それも認めるというのもひとつの考えなのでしょうが、そうすると常識的に、ここでの趣旨には合わないと感じます。
- bari_saku
- ベストアンサー率17% (1827/10268)
何だかご質問文が難しくてよくわかりませんが、 ・回答者が質問文を理解していない ・質問者がついた回答を理解していない ・人の数だけ正義はある ・そもそも無料の、回答の品質が保証されているわけでもないサイトに 多くを望んではいけない …可能性としては、このあたりではないでしょうか。
お礼
たいへん怖い問題じゃないかと思っているのです。人ってなんだろうというか?恐ろしく孤立的な存在なのじゃないか? ご回答ありがたいのですが、実は私には危険なお考えが根付いている気がします。4つ挙げていただいたことは、大体として、「人はろくでもないもんだ」というか「人は大して人を理解できるわけでもないし、しようともしない」というすさまじい命題を含んでいるように思うわけです。 >・そもそも無料の、回答の品質が保証されているわけでもないサイトに多くを望んではいけない 4つあげていただいた中で特にこれなんですが、世の中そういうものだという自動反射的というか思考停止的な感覚が一般人(無論私も)ありますよね。でも、なぜそうも空虚ですさまじくなければならないのか?その原因はどういうところにあるのかと思うしだいです。
お礼
非常に分かりやすいです。 甘えた広義のコミュニケーションができるので、ここは色々解答がつく、回答がつかなきゃ質問もないわけで、形の上で、質問すりゃか伊藤がつきそうだなと思って質問すると・・・!という状況で成り立っているようですね。いずれにしても、質問回答バランスよくやっていないと、だんだんと相手の気持ちがわからなくなってきます。私もここ最近回答するようになってから、あらためて「なってない質問者もいるよなぁ(もちろん私の感覚でです)、回答するのもむなしいもんだなぁ」という気持ちにもなり、「たいした回答でもないのに、紳士に受けてもらっちゃって申し訳ないなぁ」とかいうのもあり、回答する分にも色々と迷いがあるわけです。 が、基本を崩したくないというエゴがあって。 例に挙げられたようなファミレスの話なども、質問者が礼儀知らず粗野でお礼文を書かないのか、あるいはなにか回答者に不当な嫌悪感を矮小なエゴで感じたのか、あるいは精神疾患か何かで正常なコミュニケーション能力を失って、冗談を冗談と処理できないのか、いろいろ憶測を生む。ですが、数うちゃの方法が適用できて、それしか満足を得る方法はないですね。5個くらい回答しないと、気分悪くてしょうがない。そういうマナーに関する限界性、粗野な部分が匿名のネットにはつき物で、これはしょうがないかもしれない。その中には、いろいろと不快なエゴも混入せざるを得ないのかもしれない。そう諦念するのが一番自然なのだということになります。 いずれにしても、統治というのは難しいものだなぁと、古来よりの政治家の腐心をちょっと感じられる気がします。