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これで最後の質問にしたいと思います。もう疲れました・・・なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?

さまざま質問してきましたが、これで最後にしようと思いました。 それは、上質な回答が膨大なそれ以外の回答に埋もれすぎている、その膨大な無駄に対して、意識的に実質的に返答して検討していくことに疲れました。 質問は、なぜ自他の人間性を大事にしていこうとする人が少数派なのかということです。 さまざまな分野のさまざまなレヴェルの質問があって、そこに真摯にあるいは正直に向き合って答えることが、どうしてそんなに難しいんだろう?ということです。 いままで、そういう疲労が蓄積してしまったような気がします。気晴らし回答やら、文句をつけるだけやら、質問の意を勝手に解釈して議論をなさないなど。 なぜ、人の質問をそんなにひねくれて取るのか、あるいは受け入れる力がないのか? 素直に受け入れることは、回答者質問者ともに向上する方向に行くものだと思っています。耕すわけですから。それを簡単に拒絶し、小さな自分を満足させるために不寛容な狭い心を開かないまま終わっていいのでしょうか?そういう人生でいいやという考えにどうしてなれるのか不思議でもあります。 誤解を避けるために付け加えますが、私は決して幸せな人間ではないと思います。世の中で自分が生きがいを持って生きる道には入れませんで、孤独がちで不満だらけの人生といってもいいです。でも、そういう心情と、質問回答によって向上したいという意欲は全く別物です。八つ当たりをして気を晴らしたいとか、質問なんて理解しないでいいという姿勢には到底なれません。 なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が多いのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.46

#19です。 まだ締め切られていないようなのでもう少し言わせていただきたいと思います。 たとえば、↑ のように、今、私は述べました。 私は、最近一ヶ月ほどあることに集中していた(日数的な集中で、朝から晩まで毎日という意味ではありません)のですが、それも一段落して少しホッとし、ゆっくりできる精神状態に少しなりかけています。 それで、興味ある質問に答えてみたくなったのですが、この質問がまだ締め切られていなかったので回答する気になりました。 しかし、この同じ質問に5/14にも私は回答しています。 その時いただいたお礼は拝見しましたし、それに対する意見も持ちました。 ただ、先ほど言いましたようにあることに集中している期間だったので、よく言えば考えをまとめる精神的余裕が無かったため、有体に言えばとても面倒だったので回答を見送りました。 ところで、私は表現することが好きなので、ここで回答することは趣味のようなものになっています。 主に明確な答えの出にくいカテで回答しています。 明確な回答の出るカテの一部も含め、そこで回答される方はやはり(広義の)コミュニケーションを望んでおられるのではないか、という気がします。 「広義の」の意味は、 たとえば、質問者の疑問を晴らすことに喜びを感じること たとえば、質問者とじゃれ合うこと たとえば、質問者をからかうこと たとえば、質問者といっしょに考えること たとえば、質問者と何でもいいので話をしたい、ということ。 たとえば、質問文の一部について自分の考えを一方的に述べてみたくなるということ。 他にも色々あるでしょう。 質問といっても、多様な受けとられ方をするのではないかと思います。 このうちどの形を選ぶかということは、人それぞれで違うはずで、前回も述べましたが、ネット上の質問としては止むを得ないことではないか、と思います。 そこがご不満ということだと思うのですが、 たとえば私は今日は気持ち的にゆとりがあるので、「疑問を晴らす」ことを真剣に、集中して考えています。(結果はどうあれ) しかし、気持ちにゆとりのないときでも回答したくなることはあるものです。 そういう時は、質問文の一部を捉えて、質問の本質とは逸れた回答になることもあります。 また、 「彼とファミレスでデートするのですが、何を食べたら良いでしょうか」という質問に 「鯖ミソ定食が健康的でいい。けど彼とキスするときに困るかな」とかいうからかい半分の回答をしたこともあります。 高校生の彼女は、 「なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?」 と怒ったでしょうか? お礼を飛ばされましたから怒っていたかもしれません。 少なくとも不真面目ぐらいには感じたでしょう。 いずれにせよ、そうしてまでも回答したくなるのは、質問している方の反応を予期しつつ文を書くという行為が、私の欲求となっているからではないかと推測するわけです。 疑問が解決して喜ぶ顔だったり、恥ずかしがりながら怒る顔だったりするでしょう。 このように、モニター越の顔を予期しつつ、文という手段で相手に能動的に働きかける行為が「回答する」ということの本質、と言ってしまうのは飛躍しすぎでしょうか。 その働きかけるパワーにゆとりがある時と無いときがあるということでしょう。 garcon2000さんのご質問にかける熱意というものは、その内容からいつも良く伝わってきます。 ただ、上のように気持ちにゆとりが無い時に、「完璧に」対応することが難しい場合もあると思います。 たとえば、「平和」「医療」「人間」といった議題について、茶の間で毎日のように本格的な議論を戦わせることが難しいように・・・です。 そういう時は回答しなければよいということでしょうが、何らかのコミュニケーションを欲しているので回答(らしきものも含めて)という形になって出てくるのでしょう。 質問の本質をとらえる、ということは存外パワーを消耗するのではないかと思われます。 なぜなら、実は回答の方向性がある程度見えていないと質問はできないはずで、 質問内容の本質を捉えるということ自体がすでに回答そのものなのではないか、という気もするからです。 garcon2000さんは、質問者でもあり、議長でもあり、またこの本質の主張者でもあったのかもしれませんね。 お疲れになったと思います。  

garcon2000
質問者

お礼

非常に分かりやすいです。 甘えた広義のコミュニケーションができるので、ここは色々解答がつく、回答がつかなきゃ質問もないわけで、形の上で、質問すりゃか伊藤がつきそうだなと思って質問すると・・・!という状況で成り立っているようですね。いずれにしても、質問回答バランスよくやっていないと、だんだんと相手の気持ちがわからなくなってきます。私もここ最近回答するようになってから、あらためて「なってない質問者もいるよなぁ(もちろん私の感覚でです)、回答するのもむなしいもんだなぁ」という気持ちにもなり、「たいした回答でもないのに、紳士に受けてもらっちゃって申し訳ないなぁ」とかいうのもあり、回答する分にも色々と迷いがあるわけです。 が、基本を崩したくないというエゴがあって。 例に挙げられたようなファミレスの話なども、質問者が礼儀知らず粗野でお礼文を書かないのか、あるいはなにか回答者に不当な嫌悪感を矮小なエゴで感じたのか、あるいは精神疾患か何かで正常なコミュニケーション能力を失って、冗談を冗談と処理できないのか、いろいろ憶測を生む。ですが、数うちゃの方法が適用できて、それしか満足を得る方法はないですね。5個くらい回答しないと、気分悪くてしょうがない。そういうマナーに関する限界性、粗野な部分が匿名のネットにはつき物で、これはしょうがないかもしれない。その中には、いろいろと不快なエゴも混入せざるを得ないのかもしれない。そう諦念するのが一番自然なのだということになります。 いずれにしても、統治というのは難しいものだなぁと、古来よりの政治家の腐心をちょっと感じられる気がします。

その他の回答 (46)

noname#96295
noname#96295
回答No.26

あなた、もしかして実人生での生身の対話、 不得手なんじゃありませんか?

garcon2000
質問者

お礼

自信過剰になってませんか。「参考意見」にとどめておくのが賢明ですね。 不得意ということはないです。むしろ、合わすのがうまい気がしてます(うぬぼれでしょうが)

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.25

>そういうレヴェルじゃなくて、「焦点の合った的を得た」対話です。 他の方も書いておられますが、ネットでは特にそれが難しいのですよ。 これだけ時間と文字数を費やしている私と質問者様の間でさえ、焦点がズレまくりではないですか。 おそらく質問者様も私も、書きこむ時は焦点がズレた内容を書いているとは微塵も思っていないでしょう。 でも書いた後、相手が「いやそうじゃなくて」となるわけですよね。 自分で言うのも何ですが、特に哲学のような問題に関しては、ここまで時間をかけてやりとりをしたい人は少ないと思います。 理由は前に書いた通りです。 モニタの向こう人の生活はそれぞれなのですから、(明らかな荒らしや嫌がらせを除き)相手の出方に文句をつける前に「自分につきあってくれてありがとう」と思われてはいかがでしょうか。

garcon2000
質問者

お礼

そういう気持ちはよくないですよ。とくに人に「ありがとう」と思えなんていうのは、あまりいい人とは思われない言動ですよ。もちろん、いい人と思われることに価値があるかいなかはその人しだいです。 しかし、ネットで十分焦点が(普通に)絞られた会話があります。哲学でも然りだと感じています。それがないのは、おそらく「国語力」「素直力」あとはこっちが望まないのに余裕がないのに無理してやっている?そんなところですか。 おそらく私も焦点があっていないといえばいないのでしょうが、どうあっていないのか説明してもらえればすぐ納得する話です。

garcon2000
質問者

補足

もっとも、これは私自身への警鐘でもあるわけです。なぜなら、NO.19さんへの補足でも書きましたように、人によりセンスは違う。なので、「そういうのは人から嫌われるぞ」という基準も違うのに、私は独善的に「人に対して「ありがとう」と思えなどというのは、人から嫌われることだぞ」と臆面もなく言っているわけです。

回答No.24

 そうとしか考えられない、自分を出てください。  寧ろ、心理学の問題ないようかな。  恵まれた状況なんてはどんな人があるのだろう。  貴方は恵まれているのかどうかは別にして、気の毒だと存じます。   私はどんなになっても、あなたのような思いにならないように自分にあらためて誡めることが出来ました。  どんなことがあっても、こういう考えにはならないようにしようと思ってております。  有難う御座います。

garcon2000
質問者

補足

ぜひ、そのお気持ちを説明していただきたいです。自分とは対極的な考えの根拠を知りたいのです。

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.23

回答専門でお励みください。 ちょっとした、情報でも、よろこんでくれる人がいます。 イギリスで、インターネットがつながらない。どうしたらいいか? ちょっとしたアドバイスでつながりました。 回答者の人柄、情報が信頼性が高いと、何回も出会える可能性があります。 専門のカテゴリーだけで、回答していると、いやな気持ちになることが少ないです。「哲学」「歴史」など、だれでも自分の「哲学」「歴史観」をもっています。水掛け論や、攻撃になりやすいですね。 「高度な」「専門的」質問にかぎって、回答すると、じゃまがはいりません。現実で、疲れた上で、さらに、インターネットでストレスを持ち込まれては、かないません。 善意の質問者が、garcon2000さんの「あたたかい回答」を待っています。

garcon2000
質問者

お礼

はい、ほんとにやるか疑問ですが。私の知識はお恥ずかしい限りです。頭悪いんですね。何も頭に入りません。 しかし、「高度な」「専門的」質問は聖域だというのは、非常に味噌なんですよ。「知識」は不純物を排除する効果があるのです。エゴとか悪意とか。そして、それが「知識」「技術」を介さないでもすむ分野で、浅はかで腹黒い人間が、もっともらしい衣をかぶって跋扈してくる、やつらを避けるには、「知識」の聖堂に入ればまったく「来い来い」って言ったってこないんですからね。人間界って汚いものですね。

noname#96295
noname#96295
回答No.22

>向き合った対話とは別種の対話、それくらいを使い分ける柔軟性は一般的能力がある人には可能だと思いますよ。 13ですが、 そのような使い分けは簡単ではないですよ。また、柔軟性の問題ともちがうのです。 難しい話や入り組んだ話になれば、発話には、聴取という動作がセットにならざるを得ない。 声や表情にはたくさんの情報が詰まっていますから、 発する側は、受け取る側の無言を読みとり、意を汲むということを自然におこなうのです。 違う国語力のすりあわせもおこなうのです。すりあわせた結果、焦点のぼやかしも、まろやかなのです。 手紙のように時間をおくならば、読む時間、汲み取る時間、すりあわせの時間があり、 焦点をピンポイントにすることのほうがかえって難しい。 ご経験があるでしょうが、焦点を明瞭にした発話と焦点を明瞭にした聴取などというものは、 入り組んだ話をするには、対面でさえ高等技術なのです。 それが、反射的なスピードの文字のやりとりでは、焦点はピンポイントのまま進んでいきます。 ずれていても、すりあわせもぼやかしもない。論点が迷走するのを避けようとしますから。 相互に対話相手の情報が流れてこないということは、対話と言う時間の共有もできていないことを意味します。 獣医でさえもっと容易に動物と対話しますよ。言葉の不自由な外国の旅行者であってもね。 ネット上のやりとりは、ウソつきとの対話か、精神を深く病んだ方との対話くらい難しい。 インターネットで観念的な話をするなどはとても、一般に期待しうる能力とはいえないというのが、わたしの話の焦点です。

garcon2000
質問者

お礼

なんというか、そんなにややこしく考えることじゃないのではないでしょうか。文章から自然に感じられることを自然体で応答すれば、あまりおかしいことにならないと思いますよ。変な悪意とか、そんなものがなければ、2ちゃんねるだって滑らかに進んでいきますから。事実、ここでもうまく言っているとこと、ギクシャクしているところがあると思います。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.21

私の場合、御質問者様と逆で、質問数よりも回答数のほうが圧倒的に多いです。いや、疑問に思う事柄が少ないとか知識豊富だから間に合ってるとかいうわけでは全然なくて或る意味、極端なんだろうなと思っています。 たとえば、つい2、3日前、質問してみようかなあと思い立ったのが「ゲゲゲの鬼太郎」の母親に関してなんですが、念のため、このサイトの過去質問検索をしてみたら、あっさり解決したので質問せずに済んだのでした。こういうことが多いです。 こうした単純な質問でなくて形而上学的とでも言うべきような、現実的に正解の出しようがない疑問は、安易に他人に教えてもらおうとは、あまり思わないほうです。尤も、青臭さの盛りみたいな年頃には、チャンスとみれば、そういう方面の議論に持ち込もうとして友人らを閉口させていたこともあるにはあったのでした。親に「そういうのは人に嫌われるぞ」と叱られたこともあります。もう少しで「蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日♪」のまま歳を食うところでした(笑) 思い起こせば、いまだに反省を迫られるような記憶も多少はあって、こんにち日常生活のなかでの周囲の人たちとの話題選びに影響を及ぼしている面は確かにあると思います。 私は自分では、いわゆる文系タイプだと思ってますが、時々、このサイトのなか等で「アナタ理系タイプの考え方ですよ」と言われたりします。実際、文系特有の、と言いますか妙なウェットさとかセンチメンタルとか、情緒的に過ぎるものに、ときに反発感を覚えたりすることもあります。うんと若かった頃は、そういうの、むしろ好んでいたほうなんですが。。。なんか年齢と共にサバサバと言うかカラッとしたほうを好むようになってきました。ネチネチジットリがシンドイんです。。。 質問に回答させてもらうときにも、サバサバという或る種ドライさが受け取り手によって極端に評価が分かれることもあり難しいところだな、と思ったりします。 私は生物とか科学方面の話題も好みますので、このサイトのカテゴリーを覗くこともあるんですが、こうしたカテでは良い意味でサバサバ、ドライが好都合でもあるのですね。 始末悪いのは、ここ、哲学カテでしょうか。あと心理学カテも、なかなか(笑) 中途半端に「文系」っぽいウェットさが絡むせいもあるのでしょうかねぇ。。。 数学などのように最終的に文句の付けようなく一つの正解へと収斂していけるような分野でないことの難しさが出てきてしまう。そこのところに個々人の抱え持つ複雑さが侵入してきやすい余地があるんですね。それを利用してと言うか、いわく、個人的「鬱憤晴らし」「ストレス解消」ですとか「プロパガンダ」「アジテーション」に至るものまで付け入ってくることにもなりがちです。 第三者的位置を保っていられるならば、これらのこともまぁ「枯れ木も山の賑わいサ」と苦笑しつつ見ていられるのでしょうが、困るのは当事者に自分がなってしまったときです。 >なぜ自他の人間性を大事にしていこうとする人が少数派なのか やはり、何らかの理由で精神的に余裕がないのではという感じを受けます。或いは極端な場合ですと最低の自尊心すら失ってると言うか、自尊心をカン違いしてると言うか、もしかすると自分自身の人間性さえ、ちょっとも分かってないかもしれないなと思う人もいます。自分自身にマトモに向き合えない人に他人にマトモに向き合えるはずないでしょうし。。。 実を申しますと今回の御質問、かなり投稿を躊躇っていました。正直申し上げて読解力の低い私にとって質問者様の御文章も、スムーズに御真意がつかみにくいです。 ここまで、かなりの遣り取りが積みあがって、御返事のなかに「国語の問題である」という一つ明快な補足が示されましたので、ようやっと参加させていただこうかという気になりました。 そうですね、文章力、読解力、実に人によります。人のコンディション、気分、背景状況にもよります。それら諸々の夾雑物を極力排除しようとすれば、できる限り事務的な文体と内容を心がけなければならなくなりますが、それではオモシロくないと思う向きもあるでしょうね。こうした場所で密な交流を望むような人ほど、そうなのではないでしょうか。そういう人ほど、他人の言動に寛容でなければウソだと思います。 No.18様の「心地よい距離感」というコトバを目にしましたが、これの難しさ、私が、こちらのサイトで一番痛感し続けてきたことです。 今度は「インターネットだからという理由が、それほど決定的なのでしょうか。」これを考えてみます。 より厳密には、インターネットだからというよりも匿名だからでしょう。 私自身いくつか質問してみて、10の回答投稿があれば、そのうち実際の役に立つものが一つ二つ拾えれば、おんの字かなぁという実感です。その他は、基本マジメに、誠意を感じさせるものでさえあれば、多少、的を外していても、向けていただいた気持ちを感謝しつつ受け止めます。お互いシロウトの多い、こういう無料サイトですからゼイタク言えません。 いわゆる「リアル」の生活上、とくに職場などでは言いたい放題やりたい放題が許されないのは当然のことですが、そこまで極端な欲求はなくても殆どの人は自己主張や意見表明を何かしら堪えている、それぞれの個性なりに多かれ少なかれ自分のなかへ押し込めて日々過ごしているものがあるだろうと思います。 問題になるのは、それを吐き出させてもらえる対象が乏しい、しかも吐き出さないことには、どうにももたないくらい膨れあがっている、にもかかわらず上手に吐き出す術を「リアル」の生活のなかで、よう見つけない、そういう切迫感に追われている人が自覚の有無はともかく、匿名の利点を最大限利用しようとするとき、形式上は質問・回答をするふりをして実は他の目的を果たそうとする場合があることです。 これは質問者(回答者)が気づかないか意に介さなければ、それとして終わるのですが、気づいて不愉快に思うか、見過ごしならぬと思い始めると、ハッキリ問題化してしまう。 何のことはない、回答者(或いは質問者)の体よく装った欲求不満解消が、そのまま質問者(回答者)のストレスへと持ち替えさせられるだけに過ぎない場合があるわけです。こうした姿勢で行う投稿に、可能な限りのサイトの目的に即した質疑応答の遂行など望めません。どちらか側が、この場本来の目的から逸脱しているのですから。それも程度問題で許せるうちは宜しいのですが基本的には質問でも回答でも、相手を無視して自分の利益ばかり追求していてはいけないということでしょう。あたりまえですが節度の問題でもあります。 真の対話とはどういうものかも分かってないようでは。。。あまりに支配欲剥き出しの我田引水というのは。。。 私は「○チャンネル」とかに限らず、ここのサイト以外は閲覧さえ殆どしたことないのですが、とくに「○チャンネル」については「玉石混交」ということを踏まえて利用せよということが言われるようですね。 「玉」は「石」よりも、「良貨」は「悪貨」よりも希少なもの。ちゃんと見分けられるだろうか。 それは、このサイトにだって言えることだと思います。いえ、世間についても言えることじゃないでしょうか。 回答者側に立った場合でも、思い切って投稿してみたものの「シマッタ!やっぱ、やめときゃよかった」と後悔するリスクから逃れられないのは質問者側と同じことですが、質問の場合は回答以上に事前選択がきかないというリスク大ですから、今回、御質問者様が「回答専門になろうかと思います」と仰るのは、より無難な御判断であろうと思います。 そのあたりから御自分なりの「かくあるべきでは?!」というスタイルを身を以って他会員に示していくという「運動」もあり得ると思いますので決してクサってしまわずに前向きであられてくださいね。 まずは 御自分のための 大らかさも、ある程度は確保していてください。これはネット以外においても大切なことです。心の余裕のない人に自分が引きずられてしまわないために。 (長文になってしまいました。)

garcon2000
質問者

お礼

調べればわかること、いろいろな方面がありますが、形至上的でないことはあんがいわかるのかもしれませんね。私がその努力を怠っていることは確かです。聞いた方が早いと思うからなんですね。 しかし、若いうちは、哲学論に持ち込むというのは、何も反省すべきことじゃないと思うんです。私もその傾向がありました。本人は本気真剣なんですね。ただ、周囲が受け入れないから。だから齟齬を生むということですよ。周囲がそれに迎合共感すればいいのに、石頭なのか事なかれなのか面倒なのか白状なのか感受性が鈍いのか、とにかく、周囲は石頭なのです(申し訳ないが)だから、その、今なって「青臭い議論をした」なんて反省しなくていいと思いますよ。一種の社会的抑圧という不の歴史なんです。 文系タイプの情緒っていうのは、どうも危険ですね。つまり、詰めが甘いからそうなるのではないかと。数式的な考えを取り入れながら、詩情に酔うのはいいんです。しかし、それなしにまどろっこしい甘ったるい世界は、柱のない家ではないかと。極端に言えば、テレビバラエティーの思考停止状態です。コメディーというかどたばた喜劇が好きでないですか?私はその傾向大ですね。それが反ウェットというか、思考停止叙情の対極というか。 で、その思考停止状態とウェッティーと、今回問題にした、国語に基づかない回答というもの、ルールのないものですね。これがダブっているのではと思うのです。これが大変いやだ。その、なにか洗練されないかつ無作法なエゴが、険悪な形で表出されることの多いこと。 「知識」は自分にちゃんと向かうという効果もあるのではないか?そう感じました。ようするに、悪いエゴ、ここでいう自分の鬱憤を晴らしたいとか、感情の捌け口にしたいとかいう目的をQ&Aということにかこつけてさも正義感ぶっておこなう。こういうやからは一般論(それもオリジナルな思考がもてないからだと思う)という正義の衣をかぶってそれにはんするような質問を攻撃するという、もっとも唾棄すべきような事態が起こるわけです。だから、私はやめたってことですね。 今回大変ご丁寧にお心のこもった肯定的な文章を投稿していただいて、たいへん安堵の気持ちに慣れました。私は文章力がないので、悪文拙文になって大変ご苦労かけました。

garcon2000
質問者

補足

>そういう方面の議論に持ち込もうとして友人らを閉口させていたこともあるにはあったのでした。親に「そういうのは人に嫌われるぞ」と叱られたこともあります。 友人と親御さんに申し訳ないが、NO.7さんのおっしゃる「その方面のセンス」がないだけの話だと思いますね。人によってセンスは違うのだから、「このセンスが標準なのだ」というような常識の優位性を振りかざす風潮、これが社会のひずみ、対話の欠如、対話の拒否、自分本位という問題を含んでいるような気がします。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.20

#11です。貴方の回答への補足を読んで、貴方はオリジナリティーを大切にしている方だと見受けました。私も仕事上オリジナリティーだけが勝負なので、貴方の苦しみの一部を理解できるような気がします。 オリジナリティーを大切にしている方にはだれも避けることができない、苦い経験を貴方もしているのだと思います。私の場合にも、こちらで一人で興奮しているのに、相手が全然興味を示してくれないという経験を何度もしています。ネットでなく、研究生活の場で面と向かって説明しているのに、そう言う反応に出会うことがしばしばありました。そう言う場合には誰でも落ち込んでしまうと思います。 私の場合はそれをどう解決したかというと、皆を説得することをはじめから諦めることにしたのです。幸運にも、私の尊敬している方は私の言うことをいつも本気で聞いてくれたので、その方だけを説得するように決め、他の方々の反応は一切無視することにしました。 この世の中にたった一人でも自分に共感を持ってくれる人がいることは、どんなに心強いことでしょう。もし、自分にそのような友人なり、師なり、弟子なりが、たった一人でも居れば、それで十分幸運なのだと思います。そして、そのたった一人の人を説得するのは、不特定多数の方を説得するよりも遥かに易しいのです。 確かに、ネット上では面と向かった付き合いでは起こらないような、特異な反応に出会う場合があります。でも、ここの「教えて!」欄では、日頃の付き合いと変わらない真摯なやり取りも多く見受けられます。この回答欄の皆様もおっしゃっているように、しばらく休憩して、何とかそのたった一人の方を見つけることを、試みてはいかがでしょうか。

garcon2000
質問者

お礼

オリジナリティーを大切にするというか、天邪鬼なんだと思います。ただ、どうもいわゆる「当たり障りのない」とか「常識」というものが、本当に煮詰めてできたものじゃないような気がするわけです。そこが引っかかるのでこうなっています。 人口構成って言うのは、おっしゃるとおり、考える人って少ないということになってしまっているのでしょうね。いろいろな意見があるのではなく、考える人と考えないで迎合している人と、そういう、汚い構成になているようです。いやですね。 なかなか諦念にいたってかつ納得できるのは難しいですね。 再度投稿ありがとうございます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.19

ここは質疑応答の場ではあるわけですが、質問者回答者ともに根本的に求めているものはコミュニケーションであろうという気がしています。 コミュニケーションは何らかの目的を以ってなされるかのように見えますが、(質問者にせよ回答者にせよ)他者からの反応を言語などによって確認したいという欲求に支えられているもののようにも思うわけです。 それぞれの生き方によって、あるいは、#18さんおっしゃるような状況の違いによって、その欲求が、つまり確認してみたい内容が異なってくるということではないでしょうか。 愛する相手だからといって、常に愛の言葉だけをささやいているとは限らず、嫌味を言ったり、すねたり、無視したり、からかったりするのと同じようなものかもしれません。 >小さな自分を満足させるために不寛容な狭い心を開かないまま終わっていいのでしょうか? :まず、小さいということに気づいてない場合もあるでしょう。 また、気づいていても生活にいっぱいでそういったことを顧みるゆとりを持てない場合もあると思われます。 (このパターンが一番多いのではないかという気がしますが) あるいは、価値観として、重要なことを他に求めている場合もあるかもしれません。 いずれにしても結果としてなおざりな回答になってしまうと思います。 しかし、一旦テープルに料理を出した以上、シェフとしては客の食べ方には無頓着であったほうが心の健康のためにはいいでしょう。 どんな料理もいい加減にしか味わえない人もいるでしょうし、他の場合にはきちんとした食べ方をする人もいるでしょう。 せっかく作った料理を、遊び半分に弄ぶ人もいるかもしれません。 それは、その人のスタイルなのであって、よほどの友人などであれば不満を表明する意味もあるでしょうが、ネット上の不特定多数を相手に、それを求めるのは砂漠にコップ一杯の水を注ぐようなものです。 ただ、その料理を満喫する人も必ず幾人かはいるというのもまた事実でしょう。 しかし、質問にはお礼が付随しますからエネルギーを消耗しますよね。 興味ある視点からの質問が多かったので残念ですが、しばしお休みされるのもよろしいのではないでしょうか。  

garcon2000
質問者

お礼

「Q&A」という限定的な枠組みを離れて、「コミュニケーションの場」という風に勝手に定義されてしまうのはどうかと感じているところです。まず、そこに違和感があるんでしょうね。その生き方まで別に問題にしたくないし、知ったことでもないと。なにか、ここはかなり限定的なことをやる趣旨のところという頭があるんです。 精神的ゆとりがもてないというのはわかります。結構難しいですからね。欲得を離れて静かな心境になる、そういう時間を一日に確実に作るというのも。 しかし、それは、プライベートで抜き差しならない事態があるから、通常の業務はできないとかしきたりを守余裕がないとか、なにか変な理屈になっていく気がしています。いろいろ精神的問題があるから「Q&A」でなくてもいいというのは。 要は、無法地帯ということですかね。注意する人がいないと学校は遊び場と化しますかね。そういう現実らしいですね。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.18

#1&5です。 >対話できるのに対話を放棄するというのはなんら意味がない。 いや、そもそも精神的にもしくは時間的に「対話できる」状態かどうかすらわかりませんよ。 親が明日をも知れぬ命の人かもしれない。 激務で、毎日終電帰りの人かもしれない。 受験勉強の真っ最中かもしれない。 大好きな彼女に振られそうで、気が気じゃない人かもしれない。 …等々、色々事情はあるでしょう。 モニタの向こうの人がどういう状態かは、質問者様や私にはわかりません。 それにリアルな付き合いでも、同じ行動を「フレンドリーだ」と思う人と「馴れ馴れしすぎて不快」と思う人がいるでしょう? 「心地よい距離感」は人それぞれだと思います。 質問者様が深い交流をお望みになること自体は、別段悪いことではないですが、上記に理由により全ての会員にそれを望むのは「押しつけ」になると思います。

garcon2000
質問者

お礼

いえ、深い付き合いとか本質的な対話とか、そういうレヴェルじゃなくて、「焦点の合った的を得た」対話です。ぶっきらぼうであってもいいし、なれなれしくてもいいし、それはその人しだいです。 それが、対話の放棄であるか否かではないか。

garcon2000
質問者

補足

NO.25のご回答への補足訂正です。 NO.19さんでなくNO.21さんでした。

noname#117439
noname#117439
回答No.17

文章能力に柔軟な思考を感じます。 お優しい方なのでしょう。 少し休憩したらまたお越しください。

garcon2000
質問者

お礼

いちおう、回答専門になろうかと思います。ありがとうございました。

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