- ベストアンサー
これで最後の質問にしたいと思います。もう疲れました・・・なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?
さまざま質問してきましたが、これで最後にしようと思いました。 それは、上質な回答が膨大なそれ以外の回答に埋もれすぎている、その膨大な無駄に対して、意識的に実質的に返答して検討していくことに疲れました。 質問は、なぜ自他の人間性を大事にしていこうとする人が少数派なのかということです。 さまざまな分野のさまざまなレヴェルの質問があって、そこに真摯にあるいは正直に向き合って答えることが、どうしてそんなに難しいんだろう?ということです。 いままで、そういう疲労が蓄積してしまったような気がします。気晴らし回答やら、文句をつけるだけやら、質問の意を勝手に解釈して議論をなさないなど。 なぜ、人の質問をそんなにひねくれて取るのか、あるいは受け入れる力がないのか? 素直に受け入れることは、回答者質問者ともに向上する方向に行くものだと思っています。耕すわけですから。それを簡単に拒絶し、小さな自分を満足させるために不寛容な狭い心を開かないまま終わっていいのでしょうか?そういう人生でいいやという考えにどうしてなれるのか不思議でもあります。 誤解を避けるために付け加えますが、私は決して幸せな人間ではないと思います。世の中で自分が生きがいを持って生きる道には入れませんで、孤独がちで不満だらけの人生といってもいいです。でも、そういう心情と、質問回答によって向上したいという意欲は全く別物です。八つ当たりをして気を晴らしたいとか、質問なんて理解しないでいいという姿勢には到底なれません。 なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が多いのでしょうか?
- みんなの回答 (47)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
#19です。 まだ締め切られていないようなのでもう少し言わせていただきたいと思います。 たとえば、↑ のように、今、私は述べました。 私は、最近一ヶ月ほどあることに集中していた(日数的な集中で、朝から晩まで毎日という意味ではありません)のですが、それも一段落して少しホッとし、ゆっくりできる精神状態に少しなりかけています。 それで、興味ある質問に答えてみたくなったのですが、この質問がまだ締め切られていなかったので回答する気になりました。 しかし、この同じ質問に5/14にも私は回答しています。 その時いただいたお礼は拝見しましたし、それに対する意見も持ちました。 ただ、先ほど言いましたようにあることに集中している期間だったので、よく言えば考えをまとめる精神的余裕が無かったため、有体に言えばとても面倒だったので回答を見送りました。 ところで、私は表現することが好きなので、ここで回答することは趣味のようなものになっています。 主に明確な答えの出にくいカテで回答しています。 明確な回答の出るカテの一部も含め、そこで回答される方はやはり(広義の)コミュニケーションを望んでおられるのではないか、という気がします。 「広義の」の意味は、 たとえば、質問者の疑問を晴らすことに喜びを感じること たとえば、質問者とじゃれ合うこと たとえば、質問者をからかうこと たとえば、質問者といっしょに考えること たとえば、質問者と何でもいいので話をしたい、ということ。 たとえば、質問文の一部について自分の考えを一方的に述べてみたくなるということ。 他にも色々あるでしょう。 質問といっても、多様な受けとられ方をするのではないかと思います。 このうちどの形を選ぶかということは、人それぞれで違うはずで、前回も述べましたが、ネット上の質問としては止むを得ないことではないか、と思います。 そこがご不満ということだと思うのですが、 たとえば私は今日は気持ち的にゆとりがあるので、「疑問を晴らす」ことを真剣に、集中して考えています。(結果はどうあれ) しかし、気持ちにゆとりのないときでも回答したくなることはあるものです。 そういう時は、質問文の一部を捉えて、質問の本質とは逸れた回答になることもあります。 また、 「彼とファミレスでデートするのですが、何を食べたら良いでしょうか」という質問に 「鯖ミソ定食が健康的でいい。けど彼とキスするときに困るかな」とかいうからかい半分の回答をしたこともあります。 高校生の彼女は、 「なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか?」 と怒ったでしょうか? お礼を飛ばされましたから怒っていたかもしれません。 少なくとも不真面目ぐらいには感じたでしょう。 いずれにせよ、そうしてまでも回答したくなるのは、質問している方の反応を予期しつつ文を書くという行為が、私の欲求となっているからではないかと推測するわけです。 疑問が解決して喜ぶ顔だったり、恥ずかしがりながら怒る顔だったりするでしょう。 このように、モニター越の顔を予期しつつ、文という手段で相手に能動的に働きかける行為が「回答する」ということの本質、と言ってしまうのは飛躍しすぎでしょうか。 その働きかけるパワーにゆとりがある時と無いときがあるということでしょう。 garcon2000さんのご質問にかける熱意というものは、その内容からいつも良く伝わってきます。 ただ、上のように気持ちにゆとりが無い時に、「完璧に」対応することが難しい場合もあると思います。 たとえば、「平和」「医療」「人間」といった議題について、茶の間で毎日のように本格的な議論を戦わせることが難しいように・・・です。 そういう時は回答しなければよいということでしょうが、何らかのコミュニケーションを欲しているので回答(らしきものも含めて)という形になって出てくるのでしょう。 質問の本質をとらえる、ということは存外パワーを消耗するのではないかと思われます。 なぜなら、実は回答の方向性がある程度見えていないと質問はできないはずで、 質問内容の本質を捉えるということ自体がすでに回答そのものなのではないか、という気もするからです。 garcon2000さんは、質問者でもあり、議長でもあり、またこの本質の主張者でもあったのかもしれませんね。 お疲れになったと思います。
その他の回答 (46)
私はその >なぜ、質問に素直になれないのでしょうか?理解しないのでしょうか? 側の人間ですが、 まず、他の方の回答にもありますが、インターネットだからです。 顔の無い、文字だけの世界。 荒らしや炎上がただでさえ多く、確か現象に名前もついています。 忘れました。すみません。 現実社会だったら私は宗教批判なんてしません。 上座部仏教大嫌いキリスト教大嫌いなんていえるのはネットだからです。 実際カウンターでもついてればまた違うんでしょうが どれだけの人数のどんな人に読まれているのかさっぱり予想もつきません。 それにこうしたQアンドAサイトは 質問者は知識を持たざるもの。回答者は知識を持つもの。 階級闘争みたいなことをやっているともいえます。 妙なエリート意識と被害者意識が芽生えやすいとも思います。 弁証法的に個々の回答者同士が傷つき滅んでもサイトそのものが 発展すればいいなんて人は、ほっておくでしょうし。 意味の交換が素直に行けばいいのですが その秩序をなり立たせるのが個々の正義なんでしょうが 基本的に法律がありませんからね。 悪貨は良貨を駆逐するともいいますから おかしな回答者ばかりが続けばしだいに、まともな人はいなくなって さらにサイトの質は悪くなっていくでしょう。 知識があっても、悪用する人がいるかもしれない。 知識人が嘘をつく可能性もある。 何が正しいのか。猜疑も生まれる。 それから、ここは確かにQアンドAサイトであるが 実存が本質に先立つような考え方をする人にとっては 実は目的が違うかもしれない。 ある人は文字通り質問と回答を求めるが 憂さ晴らしをしたい人、社会に文句を言いたい人 コミュニケーションをとりたい人、自尊心を満たしたい人 様々いるでしょう。 私たちはこのネット上のさらに一部の空間において そこに参加することも去る自由もあります。 善をなすことも悪をなすことも、可能です。 希望することも絶望することも。 ゴミを作る人もいればゴミを拾う人もいます。 宝を見つける人もいます。こんな感じでしょうかね…。 私のこの回答もインチキかもしれないし、本当かもしれないし 善意かもしれないし、悪意かもしれない。
お礼
インターネットだからという理由が、それほど決定的なのでしょうか。 どうもそうは思えないのです。人々(もちろん私も入るし例外は少ない)の自己本位がいたるところでみられます。その一端がインターネットにも現れている。そういう気がします。人が一杯いるところに行くと、烏合の衆というすさまじい本質を感じることがある。 私も、宗教的(とくにキリスト教的)懲罰と慈愛姿勢なんて嫌いですね。 >質問者は知識を持たざるもの。回答者は知識を持つもの。 こういう考えが一般的にどこから出るのか、本当に不思議です。狐につままれたようですよ。なんか抜けてるんですかね。 なんで、こんなところで闘争しなければならないのか。つまり、基本的に一人の趣味の世界ですよね。それをなぜ、それほど「闘争」などという疲れることがすきなのか? >実存が本質に先立つような考え方をする人にとっては 実は目的が違うかもしれない。 「実存」ってそんなに価値があるものなのでしょうか?不思議です。 ご回答、本質と善意のにおいを感じました。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
パーリ語の三蔵を学ぶものです。 <<質問は、なぜ自他の人間性を大事にしていこうとする人が少数派なのかということです。さまざまな分野のさまざまなレヴェルの質問があって、そこに真摯にあるいは正直に向き合って答えることが、どうしてそんなに難しいんだろう?ということです。>> 理性は人それぞれまちまちですし、人間のほとんどが自我に執着し、「自己の見解が正しい、他は間違っていいる。」「~が悪いのは皆他人(外の原因)のせいだ。」「自分は誰よりも知識人だ」というような間違った見解を持ってしまっているのが現状でしょうね。 その間違った見解を守るために必死になっているのでしょうから、正直者にはほど遠い… このような人間界の中で理性的に語り合える善友に出会えることはとてもすばらしいし、まれなことです。 貴方のような理性的な方にとっては、理性の塊と私が賞賛するところのパーリ語の三蔵をわかりやすく、哲学的な面から解説したサンガ出版の「仏法」を一読されることをオススメします。 納得がいくことがあったり疑問点が浮かび上がったら、テーラワーダ仏教のお坊様方に疑問を投げかける機会も多々ありますので一度足をはこばれては如何でしょうか。 きっと善い対話がなされると思いますよ。 <<質問回答によって向上したいという意欲>> この姿勢があれば、きっとお坊様方も快く回答してくださいますよ。 貴方が幸せでありますように。 合掌。
お礼
2ちゃんねるでですが、あるスポーツの趣味分野で、自分の理論を長文展開したことがあります。それは、入門書とかネットで普通かいてあるような常識論でなくて、私が自分の中で暖めてある程度確信した独自の論だったのですが、2,3の嫌味以外に全く反響がないといってもいい常態でした。なので、人はあまり追及しないものなのかもしれません。 「それはこれこれで間違っているよ」 というのを待っているわけでですが、その論を理解しようともしない。そういうことが、ネットでも実社会でも多すぎる。「対話」の空洞化。 仏教的な思考は興味があり、共感するものがあります。
- siyahqalam
- ベストアンサー率26% (13/50)
たしかに疲れますよねえ。でも、「最後の質問」とかおっしゃらずに 少し休んで、また来てくださいね。 さて、ご質問の件ですが、13の方と同じになってしまうんですけど、 「ネットだから」ということに尽きると思います。 インターネットは、「対話しようとしない」「小さな自己」にとって 格好の道具です。他者を受け入れない危険な性質は、実は誰の中にも あります。コンピュータの力は人間の通信能力を飛躍的に高めました が、交流能力を高めたわけではありません。肥大した自意識が、他者 の存在を無視したり傷つけたりすることも当然起こるはずなのです。 ここから先の文はまたあなたを疲れさせることになるかもしれません。 質問者様の文章を読ませて頂いて感じたことは、 「この人は本当に対話を望んでいるのだろうか?」という疑問です。 (敢えて誤解されることを恐れずに言います) ご自身では気付いていらっしゃらないかも知れませんが、 文章の中に小さなとげがいっぱい生えているんですよ。 このとげに対する(増幅された)反応として、 ハリセンボンかヤマアラシみたいな回答が帰ってきて困惑した、 というのが今のあなたの状態ではないかと思います。違いますか? 以上、失礼ながら勝手な意見を述べさせて頂きました。
お礼
わたしにも、「受け入れない」ことは一杯あります。この中にも、絶対に回答したくない、そんなことに一門の価値も見出せないような質問とか、テレビ番組、娯楽、小説、映画、ファッション、人間性・・・霧がありません。私は受容力低いんです。 ですが、それとネットで拒絶したり、嫌味を言ったり、相手を打ち負かすことだけに終始したり(これはやられたらやり返すということに私も自動的になりますが、先ではないと自負しています)これはなんなんだろう?と。もちろん実社会でもです。なんで、人はどうでもいいのか? >肥大した自意識が、他者の存在を無視したり傷つけたりすることも当然起こるはずなのです。 そういうことをしたいものなのか? そういう趣味もあるのでしょうね。 で、対話を望んでいるのか? 望んでおります。 とげはどういうことか、はっきりは分かりませんね。指摘していただけると検討の余地があります。
ネットだからですよ。 ことば だけのやりとりだからですよ。 本来、宝石のやりとりと同じように、 さしあげたいひとにあげる、受け取りたい相手から受け取る、 けっして無駄遣いできる性質のものではなく、 たとえ好かない者同士であっても、多少は値踏みの上で交わすことができる、 そういうものが ことばです。 ネットのような、ことばだけのやりとりは危険です。 喋るごとに口から宝石や金貨が出るお姫様と、ガマ蛙や虫が出てくるお姫様の話があります。 ネットでは、宝石や金貨をドブに捨てるのもガマや虫を増やすのも、おちゃのこさいさいですね。 感受性の鋭い性質の、とくに若い方には、無理です。 ネットのなかのことばから少し離れて、ご自分の向き合いたい人と対話をなさり、大切な人に丁寧なことばを向けてください。
お礼
ネットだからですか?その「ネット」っていうのはそんなに特別なものなのでしょうか?そんなに限界性があるのでしょうか?もちろんそれはありますが、しかし、その限界性の中で、十分それを生かそうと思えば、ここのステップアップにつながるには十分だと思いますね。実際そういうこともありました。その打率が低すぎるのでやめようということです。 向き合った対話とは別種の対話、それくらいを使い分ける柔軟性は一般的能力がある人には可能だと思いますよ。 そんな疑問だったと思います。
人間性について・・・・質問サイトに限った事なんですよね。回答者に対しての。じっくり言葉を交わしお互いがどんな価値観を持った人間か理解し合った上での会話なら、garcon2000さんの納得いく結果が得られるのかもしれませんよ。 ネットでは客観的に見て、思った事を発言する方が多いですから人間性を大事にする事と言うのは無理かもしれない。しているつもりでも、相手がそう感じていないかもしれないし。言葉や回答だけでは個人を推し量る事が出来る物じゃないと思います。 ほら、嫌だなーと感じても。家族思いだったり。結構いい人だったり。 それにここは、登録制のせいなのか、ある程度の責任を持って運営されている所ですよ。ここにたどり着くまでが、本当に酷かったので余計にまともな人たちがいる気がします。
お礼
もちろんその人間を知っていればぜんぜん話は違うんですが、そもそもこういう場なわけですよ。こういう場を生かすためには、活字から最大限想像力を働かせなければならないでしょう。それが感じられない。無益に終わりすぎる。こんなところで、一般社会論をしても始まりません。式辞には一応のフォーマルウェアーを着ますよね。それは、そのようなアピールがあったこともない人には有効だからです。ここでも、この限界性を認識するからこそ、最大限の想像力だと感じるしだいです。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
私は物理学の研究生活を勤しんでおりますが、物を造り上げるには大変無駄だ努力をしなくてはならないのですね。物質の世界の法則である熱力学第二法則(エントロピー増大の法則とも言う)によると、一つの有意義な構造を造り上げるためには、その何倍もの無駄をエントロピー生成という形で排出しなくてはならないのですが、この無駄の生成に関しては物質界ばかりではなく、精神界にも当てはまる普遍的な経験則のようです。 私の経験では、生産的な方は議論を大切にしているようです。議論をしないと、前もって自分がそうなってほしいという方向ばかりに論理的整合性を探してしまい、結局正しい答えにたどり着けないからです。 別な言い方をすると、相手が判ろうが判るまいが先ず相手に自分の意見なり仮説を打つけてみる。そんなとき、自分でも予測していたような答えが返って来たらそれで良し、何故なら、自分は余り頓珍漢なことを言っていないらしいと言うことが判るからです。また、自分の考えても見なかったような、それこそ頓珍漢な答えが返って来たらそれでも良し、何故なら、それによって自分の問いの構成の仕方に何か不透明な物が在って、相手を誤解させている可能性に気がつくかもしれないし、あるいはその頓珍漢な答えから自分の全く予想外な世界をかいま見るチャンスに遭遇でき、目から鱗が落ちるかもしれないからです。 私は学生に対して、諸君のプレゼンテイションで質問者が誤解に基づいて全く見当違いな質問をして来たときに、それを無駄な質問だと思わないようにと指導しております。相手が誤解している場合には、もしかしたら諸君のプレゼンテイションの中に相手を誤解させてしまうような、拙劣な論理の展開が在った可能性もあるので、どこでそのような誤解を招く表現を使ってしまったのかを探る切っ掛けを与えてくれるものとして、そう言う一見無駄な意見のやり取りも、諸君の今後のプレゼンテイションの上達や、思索の深化のために役に立つものだと教えております。 自分から見て不満や驚きに見える意見や回答は、自分の気がつかなかった世界を知り、自分をより大きくしていくために、大変重要な意見なのです。 私の尊敬する方の墓碑には「驚きは創造性の源である」と言う銘が彫られています。 私の好きなモンテーニュによると、物を理解する過程は、母熊が小熊を育てている過程に良く似ている。母熊は小熊を上向きにも下向きにも抱き回し、あらゆるところをなめ回して小熊を育てる。学問も同じで、正しい抱き方で正しいところだけをなめ回しているだけでは、決して理解など出来ないと言っております。 愚問愚答の繰り返し、なめ回しでだんだんと本当のところが判ってくるのだと思います。それを厭っている限り、創造的な営みには参加することはできないと思います。
お礼
無駄に思える議論から有益なものが生じるのは賛成です。 しかし、ここでの実際論は、その無駄が完全な無駄なわけです。回答者のエゴ質問者のエゴ合戦に終わっている(ものが多い)これは、また違った問題だと感じているところです。
補足
2ちゃんねるでですが、あるスポーツの趣味分野で、自分の理論を長文展開したことがあります。それは、入門書とかネットで普通かいてあるような常識論でなくて、私が自分の中で暖めてある程度確信した独自の論だったのですが、2,3の嫌味以外に全く反響がないといってもいい常態でした。なので、人はあまり追及しないものなのかもしれません。 「それはこれこれで間違っているよ」 というのを待っているわけでですが、その論を理解しようともしない。そういうことが、ネットでも実社会でも多すぎる。「対話」の空洞化。
質問の場で質問者さんが意見をいうのはルール違反のような 気がします。 回答を誘導しているように取られるでしょ? お礼欄や補足欄に書き込むのはしょうがないにしても チャットじゃないし会話は出来ないですよね。 どうしても一方通行です。 ネット住人はひねくれてるひとが多いから誘導や私的な感想は どうにかして食い止めてやると情熱を燃やす人が多いのは確かです。 だから、あんまり賢い利用の仕方に取れないなあ。 大体質問して回答してもらうのに質問者があんたら馬鹿ばかりだ だからもう辞めるよって礼を尽くさないのにもほどがあるよね。 質問文にもっと他者が入り込めるよう礼儀を尽くさないと そりゃくだらない回答もよって来るよ。 僕みたいにね。
お礼
国語の問題と思っています。私は常に、意見より質問をしているつもりです。 >なぜ、世の中には、対話しようとしない、あるいは拒絶することに慣れてしまって、その能力を失ってしまったようなな小さな自己が多いのでしょうか? この前提が間違っているよということなら大いに結構です。一般的な感覚として関係ないことを言わないでほしいと思うのではないでしょうか。 しかし、なぜネット住民はひねくれてる人が多いのでしょうかね?そこがまた不思議です。どういういきさつでそんなになるのか? 申し訳ないですが、これだけ質問して、回答の実態を考えるに、 >大体質問して回答してもらうのに質問者があんたら馬鹿ばかりだ だからもう辞めるよって礼を尽くさないのにもほどがあるよね。 これって ほんとに「それでも回答かよ」っていうのばっかりですよ。ほんとにそういう気分になりますよ。礼を尽くさないのはどっちが先なのかです。
確かにここの回答者はひどい。 専門家だ経験者だと偽って平気でデタラメを書き込んでくる。 しかし極少数ですが素晴らしい回答者もいらっしゃるので私は利用してます。
お礼
打率が低すぎるんです。こんなのが人間社会なんでしょうかね?無駄が多すぎなんです。 でも、なかにはすばらしい回答があります。
- tagussann
- ベストアンサー率37% (3/8)
貴方がいまここでインターネーットを使って他人に質問できる、と言う時点でそれは物凄い幸せなのです。世界には字も読めない人がたくさんいるのですよ。自分で自分のことを不幸だと思い込まないで下さい。貴方よりずっと不幸な人達は何を考えているのか一度考えてみてください。
お礼
そのインターネットで質問が、じつはあまり幸せに結びついていないことを悟ったわけですよ。一人で読書の1/3位の効果しかないでしょうね。少なくとも、ここでの質問は。このさい不幸な人は関係有りません。
人間には、「性格」というものがあります。 ただの言葉の「性格」ではしっくりしないですよね。 性格の中に、自分の理性や意志ではどうにもならない「沸き起こる感情」というものがあると思います。 理性や意志ではどうにもならないからこそ、対話しようとしない、拒絶するのだと思います。 さて、これから書くことは私自身の経験上の話であり、私の話がこの世の法則に基づいて正しい解釈をしているのか、すべての人に同じ事が言えるどうかは、私には解らないことです。事実か誤りかは、問われても答えることはできないということを前持って書いておきます。 私はとある仏教系の宗教を信仰しております。 ある修行の行為を続けていくと、憎しみや怒りが弱まり、その内、勇気や元気が出て愛と感情が沸き起こってきます。 その仏教の教えは、人の心は、やさしい気持ち、怒りの気持ち、卑屈な気持ちなどの境涯を行き渡ると言われています。これらの境涯で最高なのが仏の境涯と言われて、修行をすることによって仏の境涯に至ることを目標としています。 私自身、この宗教を信仰した時は、このことが実感として感じられませんでした。いくつも苦しい時があり、悩み、今のところ行き着いたのが上記書いたことです。つまり、自分の沸き起こる感情は、自分ではどうしようもないと思ったということです。優しい気持ちが起さなければならないのに、怒りばかり沸き起こってくる。これでは良い方向にならないのに、どうしようもない。どうすることもできない。だから、今の宗教の修行に頼ることにしたのです。 話は変わって、私は、人生はセンスだと思っています。自分が進む道にセンスがある人は、結果的に良い方向に行くと思います。ですが、センスがなければ失敗や悲惨な方向に行くと思います。 生まれ持ったセンス、運命というもので身につくセンス、 センス、それは、その場でどう判断し行動し、行動が上手くいく力があるかどうか? 人によってセンスは違います。センスの違いが、対話しようしない、拒絶する人間もいるということではないでしょうか? 今、生きている世界が良い世界だと思うなら、対話しようとしない、拒絶する人間は少ないということでしょう。 ですが、人間は、獣に毛が生えたぐらいものだと私は思います。それが社会を作り、存在しても、獣としての社会に毛が生えた程度、 つまり、力があるものが規律を作り、力あるものが良い思いをしようとする社会です。 自他を大事するということは、「自他を愛する」ということですが、「愛する」気持ち、さらに言えば「慈愛」を起せる人間はそう多くないです。人間は、獣から毛が生えた程度ですから。 犬は、「無償の愛」をくれるものですが、人を許し、癒し、認め、人を向上させるための道を示すことができる「慈愛」は持っていません。 「慈愛」の気持ちを起こし、「慈愛」に生きれる人間は少ないのです。平和になっても、「自分の見栄」と「他よりも優れていることによる存在感」、「無力と悪の抹殺」が起こる気持ちはそうなくなりはしないのです。 そして、それは意識して、改善できるものではないと思います。改善できる人もいると思いますが、できない人もいると思います。 以上、参考になれば
お礼
わかりますね。私も拒絶するものはあります。怒りが収まらないものがあります。表現は悪いですが、どうしても好みの異性とそうでもない人がいて、それは理性ではどうにもなりません。 しかし、センスでもって、そのセンスが拒絶するときに、なぜわざわざ答えになっていない答えを書くのか。そういう細かい実際上の疑問が湧きますね。もちろん、そういう姿勢で回答することがやめれない、という「性格」もあると思います。 しかし、おっしゃること分かります。拒絶したい、なにか心のそこからわきあがる気持ち。ありますよ。 「獣」の問題ですね。人間は獣に毛が生えたもの(ちょっと洒落れば、獣の毛を剥いだ出来損ないの生物ですが)でしかないと思います。どんなに偉ぶっていようと、一皮向けば、野生生物の生存本能に支配されているに過ぎません。その「生きる」競争者である存在が、どうして他人に理解など示す必要があるか?もっともです。 しかし、その野生をここで出すのか、あるいはここは社交辞令と教養の場所なのか、どちらでもないのか?そんな疑問なのかとも思います。
お礼
非常に分かりやすいです。 甘えた広義のコミュニケーションができるので、ここは色々解答がつく、回答がつかなきゃ質問もないわけで、形の上で、質問すりゃか伊藤がつきそうだなと思って質問すると・・・!という状況で成り立っているようですね。いずれにしても、質問回答バランスよくやっていないと、だんだんと相手の気持ちがわからなくなってきます。私もここ最近回答するようになってから、あらためて「なってない質問者もいるよなぁ(もちろん私の感覚でです)、回答するのもむなしいもんだなぁ」という気持ちにもなり、「たいした回答でもないのに、紳士に受けてもらっちゃって申し訳ないなぁ」とかいうのもあり、回答する分にも色々と迷いがあるわけです。 が、基本を崩したくないというエゴがあって。 例に挙げられたようなファミレスの話なども、質問者が礼儀知らず粗野でお礼文を書かないのか、あるいはなにか回答者に不当な嫌悪感を矮小なエゴで感じたのか、あるいは精神疾患か何かで正常なコミュニケーション能力を失って、冗談を冗談と処理できないのか、いろいろ憶測を生む。ですが、数うちゃの方法が適用できて、それしか満足を得る方法はないですね。5個くらい回答しないと、気分悪くてしょうがない。そういうマナーに関する限界性、粗野な部分が匿名のネットにはつき物で、これはしょうがないかもしれない。その中には、いろいろと不快なエゴも混入せざるを得ないのかもしれない。そう諦念するのが一番自然なのだということになります。 いずれにしても、統治というのは難しいものだなぁと、古来よりの政治家の腐心をちょっと感じられる気がします。