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(一神教)神格の長期低落に関して

資料1 古代オリエント集、筑摩世界文学大系1  五味 亨、杉 勇訳「人間の創造」(シュメール出土の粘土板) 彼らの血でもって人間を造るのです。 (今まで)神々が(になってきた)仕事は(今や)彼ら(人間)の仕事でありますように。 (私見)これで見ると旧約聖書に影響を与えたと言われるシュメールでは、人は神に奉仕するために、言わば「人は神の家畜」、「人は神の奴隷」として創造されたと考えられていたようです。 資料2 創世記2章、3章 (私見)これで見ると、ヘビが狡猾でないか女が愚かでなければ人は楽園で暮らせたと考えられていたようです。人の苦難の源は己の罪にあるのであって、言わば自業自得としています。神の奴隷の身分からは解放されて、人と神との相対的地位が縮まりました。しかし、ノアの方舟やバベルの塔で見られるように依然として神は人の生殺与奪を握っていました。 資料3 ヨブ記 (私見)神の前に悔い改めれば、神は幸福を何倍にもして返してくれる存在だと考えられていたようです。単純な応報思想ではなく、厳しい厳しい、と言われる(?)ヨブ記ですら、神は俗世の功利に寄与すべき存在に成り下がり始めています。つまり「人は神の奴隷」から「神は人の奴隷」へと転化が始まり掛けています。 なお、ヨブ記は創世記の後に書かれたそうです。 資料4 あるメディアの質問と回答から 自由主義神学の自由度を問う質問に対して、「訊くな」と言って咎める回答が登場していました。 (私見)これは最早、悲惨というしかありません。神は語る存在ではなくなりました。神はタブーの存在です。 さて、質問です。 私見では、神格は長期に亘り一貫して低落しています。その理由を街頭で無作為に訊けば大同小異の返事に落ち着くだろうと推定します。では、同じ質問に、思索を糧とする哲学者や思想家は、どう返事をするのでしょうか。 よろしくお願いします。なお、神格は低落していないとの説の披瀝も拒否はしません。

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  • tyr134
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回答No.4

まだまだ、思索中なので参考になるかは自信ありませんが、回答を試みてみます。 宗教学的立場では、幾つかの仮説が提出されていますね。 まず、宗教は大きく分けて「一神教」と「多神教」に分けられます。 また、もう一つの分け方でも二つに分けられます。「原始的宗教」と「近現代的宗教」です。 ここで間違ってはいけないのは、「原始的宗教=劣っている」というワケではないという事です。 もちろん、嘗てはそう考えられていたこともありますが。 その事を頭に入れつつ、提出されている仮説ですが、 ・一神教優位論 VS 多神教優位論 一神教とは、やはり中心が「ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教」の三宗教となります。 特に、キリスト教社会が大航海時代を中心に世界に広がった事で、キリスト教的価値観が世界中に広がりました。 これが、「キリスト教の神=一神教」こそが真の宗教であるとする考えです。 また、ダーウィンの進化論を取り入れた「宗教進化論」的な認識も一般的になっていきましたね。 その後、科学革命が進む中で宗教的価値観が世俗化し「無神論」も生まれていきました。 それを端的に現しているのは、 ・E.B.タイラー(アニミズム→多神教→一神教) ・F.M.ミュラー(自然崇拝→単一神教→多神教→唯一神教→無神論) でしょうか。 それに対して、多神教優位論を唱える人も現れてきます。 こちらは、一神教は他の神々を排除する点で劣った思想であり、多神教の寛容の精神こそが進んだ思想であると唱える立場です。 こちらは、グローバル化を迎えた現在、「多文化主義」等とも結びつきながら、今後主流になりつつある言説であろうと思われます。 特に日本では、宗教的には一神教的価値観が根付かなかったこともあり、日本の神道や仏教に一神教に対する優位性を説く人々(例・梅原猛、養老孟司、塩野七生)なんかも台頭しつつあります。 ただ、こうした「多神教優位論」に対しても「多神教であっても、他宗教を迫害することがあり、必ずしも一神教より寛容であるとは言えない」とした反対論も存在します。 ・個人的見解 以下は、浅薄な私の個人的な見解ですが。 私は、「宗教の世俗化」が重要なキーワードであろうと考えています。 近現代において、急速に「科学革命」が進みました。 この「科学革命」をやってのけたのは、ルネサンス移行のヨーロッパ社会です。 たしかに、「科学革命」の御陰で生活は便利になりましたが、同時に「世俗化」をもたらしたと思われます。 つまり、今まで「宗教」に頼っていたモノが人の力で解決出来るようになった。 一番典型的な例は「医学」かと思います。 「病」に掛かったとき、昔は神に祈ったり呪術で治そうとしますが、現代は「医学」という名の「科学」に頼ります。 そして、「科学的に解明された病気の原因」を取り除くことで「治療」します。 そこに、「神」の存在はありません(少なくとも、背景に退いています) つまり、「科学の発展」と共に「神」の役割が相対的に少なくなっているのが現状でしょう。 では、「宗教は無くなるか?」と問われると、答えは「NO」でしょうか。 科学で、「人の病」は治せても、「社会の病」(=貧困・身分・犯罪)など、漠然とした「不安」は治せていません。 特に、「将来への不安」は何処に行ってもなくならないでしょう。 そうした、「何か分らない恐怖・不安」から逃れるのに、やはり「何か分らないモノ=神」にすがるシーンはまだまだ残されていると思われます。 事実、そうした「漠然とした不安」を持った世代である若者に、新興宗教に入信する人が増えているようです。(恐ろしい事に、偏差値の高い有名大学に多いらしい、、、) >神格は長期に亘り一貫して低落しています の、個人的な結論を述べますと、別に「低落」しているワケではなく、相対的に「神の役割」が減じたのだと思われます。 まぁ、この事を最初に指摘したのはニーチェの「ル・サンチマンとニヒリズム」哲学でしょうか。 あと、「宗教の世俗化」を指摘したモノとしてM・ウェバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』なんかも示唆に富んでると思いますね。

sono-higurashi
質問者

お礼

E.B.タイラー、F.M.ミュラーを知ったのは、とても有り難いです。何の背景もありませんが、要するに愚者の直感とでもいいますか、F.M.ミュラーの(自然崇拝→単一神教→多神教→唯一神教→無神論)に極めて近いものを感じていました。直感だけでは仕方がないので、ちょびちょび本を読み始めたところです。ニーチェ、M・ウェバーと合わせて読書の視野に入れておくことにします(本当かな。何時になるやら)。 これだけでは素っ気ないので、重要度に関係なく付け足します。 ・理に勝った人から順番に無神論に収束していくのだろうと予想しています(理に優った人間は、こういう物議を醸しそうなことは言わないものでしょう)。 ・ 「宗教の世俗化」というより、「宗教は世俗の最たるものとして出発した」との認識でいます。聖典は編纂当時の六法全書だと思います。歴史、文学、法律、保健衛生、道徳、科学等々の百科全般の指南書でもありました。 ・ 合理的に説明がついた事項から順番に、宗教の対象から外れていくのだと思います。 ・ 規範は与えてもらうより、自ら創るほうが何倍か難しいし、勇気も必要そうです。 ・ 命令文を読むよりは自問文を書く事の方が何倍か難しそうです。 終わりの2行に説教好きが言いそうなことが混じってしまいました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

その他の回答 (14)

noname#80116
noname#80116
回答No.15

 No.9です。  この回答は sono-higurashiさんの次の文章に応答するものです。  ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神話はメソポタミア発ヤマト国行きの3000年に及ぶ国際伝言ゲームでしたか。その割りには原型の雰囲気が残っているものだと感心します。現に、時空間を共有しているのに言った、言わないが日常茶飯であることを考えると、古人の情報伝達力が正確だったのでしょうか、現代人のそれが衰えたのでしょうか。(No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ また 次の文章に関しても 間接的に応答します。  ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  当面の関心は「一神教は平和時に於いて自然発生するか、深刻な抗争の産物ではないのか」、これにある (No.13お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちまとめて――先に結論づけますが―― 同じく社会の問題であっても あくまで集団としての・また組織にとっての社会力学の問題である宗教は まづ 別とします。つまりこの前提は とりもなおさず 個人の信仰であれば すべて唯一神信仰に収斂するという内容を意味します。  したがって 《平和時》であるかどうかには あまり関わらない(つまり そもそも人間存在に関わる)と論じます。そしてこれを 日本の神話に例証したいと考えます。    *   *   *  われらが日本人は 歴史知性の自覚を 《イリ(世界への入り)》と表現しました。ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコト(のち崇神天皇)という命名に見られ このおほきみ(市長)は 《初国知らししミマキのスメラミコト》と呼ばれます。(ただし神話では 第十代の天皇です。大雑把に 紀元300年ごろです)。  また そのときの市民は 代表としてのように オホタタネコと言い 《ネコ》(根子≒大地の子)が市民を表わし そのつてでは 《ヒコ》〔日子(=彦)≒精神なる光の子〕が 共同自治のために当番として任命された公僕です。〔女性は ヒメ(日女=姫)です〕。  イリ知性の以前は 《ヨリ(寄り・依り・憑り)》なる言わば《前・歴史知性》であったという推測です。おおまかに 縄文時代から弥生時代への移行というわけです。(ただし このヨリからイリへの革命を 知解したのは 弥生時代の終わり・次の古墳時代の始まりのころです。ミネルヴァのふくろうは 夕暮れの頃にやってきます)。  ちなみに 第一代とされているカムヤマトイハレヒコ神武天皇は――すでに《ヒコ》ですが――  イスケ《ヨリ》ヒメが その妃でした。ミマキイリヒコ崇神の一代前には オキナガのミヅ《ヨリ》ヒメや ミヅホのイホ《ヨリ》ヒメの名が見られます。ミマキ崇神からあとは その子らに イクメイリヒコイサチ(第十一代垂仁天皇) トヨキイリヒコ トヨスキイリヒメらのように 《イリ》が頻出します。  イリ歴史知性にもとづく公民ミマキイリヒコと市民オホタタネコとの共同自治(ヤマト・ミワ地方)では 医療が発達し 鳥獣・昆虫による被害の駆除にも進歩が見られ また植林に力を注ぎ 木材の利用も 進んだということのようです。  ところが これを嫉み恨む心も 人びとの中には 起こりました。この歴史知性を疑う歴史知性の動きも 起こります。新しい時代にも 実際としては 以前からの《ヨリ》なる知性にとどまったままの人びともいたと思われますが その人びとからの不満ではなく そうではなく すでに ミマキイリヒコやオホタタネコと同じく 《イリ》歴史知性に立った人びとから出てきました。《啓蒙》の時代などをも超えて 実践知性とその相互信頼にもとづく共同自治の精神(インタスサノヲイスム=インタムライスム)を 一たん自覚し 身につけたと思われた人たちのあいだから 出て来ました。  その知性は すべてを疑いすべてを知り尽くそうという科学的な精神のなせるわざでもあったようですが 他方では いかなるものの下にも立つまいという気概のあらわれであったように思われます。その知性は 類型的に 《ヨセ(寄せ)》と言います。ヨリ→イリ→ヨセです。  この《ヨセ》は 誰かの名前から取り出したのではなく 《オキナガタラシヒメのミコトは 当時(そのかみ)神を帰(よ)せたまひき》(《古事記》仲哀天皇のくだり)という記事にもとづき 名づけたものです。このヒメは神功皇后(じんぐうこうごう)と呼ばれる人ですが とにかく人の上をゆくウルトラ・イリヒメ あるいは スーパー歴史知性とでも言うとわかり易いでしょう。  さて これから後は 端折ります。このオキナガタラシヒメの子であるホムダワケ応神天皇のときに この新奇のヨセ歴史知性は 天下を取るのに着手し 数代あと オホハツセワカタケ雄略天皇を経て ヲホド継体天皇のときに これを《実現》させました。かんたんには 世の中が 二階建てになったということです。イリヒコとネコとが共存し共同自治する平屋建ての市民社会(ヤシロ)の上に スーパー歴史知性よろしく スーパーヤシロを築き この第二階が 統治者となりました。  とは言っても ミマキイリヒコとオホタタネコとの共同自治とその歴史知性の系譜も 死んではおらず やがて 天智天皇に弓を引いたその弟である大海人皇子(天武天皇)のとき そのネコ市民に かの柿本人麻呂を得て 昔のミワ市政の精神を取り戻しました。八色の姓でしたか 身分制の改変も行なわれました。ただし もはや 二階建ての構造は いかんともし難かったでしょうか そのまま引き継がれたいうわけでした。     *  この《イリ》歴史知性にとっての信仰とその社会を 類型的に明らかにしようと思えば 次のようになると考えます。類型的に言えば 《市民オホタタネコ》が イエス・キリストだという捉え方です。  ・崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトと市民オホタタネコらがかたちづくった《イリ歴史知性たちの社会》。  ・オホタタネコ:意富多多泥古(古事記の漢字表記)          大田田根子(日本書紀のほう)  ・意富多多泥古:     相対性の世界にあって有限だが光にも譬えられる精神とその意    志(《意》)の豊かさ(《富》)のもとに しかも 個人がそれ    ぞれ多様性(《多多》)を発揮して生きる。     ただし この意志の有限性にも注意が肝心。     あくまで神である生命の木(オホモノヌシ→後述)のもとに生    きる単なる知恵の木であるに過ぎない。ややもすると意志や考え    が固定してしまい古くなって(《古》) 悪くすると泥    (《泥》)の中に陥ってしまう。  ・大田田根子:     たしかに 大地の子(《根子》)である。しかも 野生の稲を    ではなく これを栽培する知恵を開いた。種を植えることから始    め 苗を育て やがて成るその実を収穫する(《田田》)。     これら一連の時間過程が 自分たちは時間的な有限の存在であ    ることを分からせてくれた。われらは かなしいかな 可死的な    存在である。しかも この自覚が われらを強くした    (《大》)。――      《たた》は 《たたら(鞴)》のことであるかも知れない。鉄    づくりである。  ・崇神ミマキイリヒコも むろん このネコ市民から出たのである。人間は 《ネコ‐ヒコ》連関なる存在である。《身体‐精神》の連関 あるいは 《わたくし‐おほやけ》・《市民‐公民》の連関である。  ・《ミマキ(御真木) / イリヒコ》と呼びうる《ネコ‐ヒコ》連関なる人間存在の位置するところ:   事実(歴史)――真実(人間)――――真理(神)   ↓         ↓            ↓  モノ・・・・・・・・・・・者・・・・・・・・・・・・・・・・オホモノヌシ  〔木・・・・・知恵の木(オホタタネコ)・・・・・・・生命の木〕  〔木・・・・・善悪を知る木(御真木イリヒコ)・・生命の木〕  コト・・・・・ミコト(命・尊)・・・・・・・・・・・・・・・ヒトコトヌシ    ・オホタタネコは イクタマヨリヒメが霊であるオホモノヌシによ   って身ごもって生んだ子です。  ・ヒトコトヌシ(一言主)のかみ:    雄略ワカタケが葛城山で出会ったという。かれに対して 一言主   の神は こう名乗ったとある。     《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言     言離(ことさか)の神 葛城の一言主の大神ぞ》   《言離(ことさか)》は 言い放つの意という。《とおざかる    (遠・離る)》の《さく(離く)》(他動詞形)だと言います。  以上です。モノはコトですから ヒトコトヌシ(父なる神)・オホタタネコ(子なる神)そしてオホモノヌシ(聖霊なる神)というあたかも飽くまで類型的に見た三位一体の神のことです。  ありがとうございました。       なお オホモノヌシは その当時は むろん ナガモノつまり蛇のことです。 

sono-higurashi
質問者

お礼

1 >>この回答は sono-higurashiさんの次の文章に応答するものです。 私の文章は自問自答であって誰かに問いかけたものではありません。見掛け上の疑問文に過ぎません。平均的読解力の方には、そうした雰囲気を掴んでいただけると思いましたが不十分であれば済まないことでした。 2 >>集団としての・また組織にとっての社会力学の問題である宗教は まづ 別とします。つまりこの前提は とりもなおさず 個人の信仰であれば すべて唯一神信仰に収斂するという内容を意味します。  したがって 《平和時》であるかどうかには あまり関わらない(つまり そもそも人間存在に関わる)と論じます。そしてこれを 日本の神話に例証したいと考えます。 << こういうアプローチもあるでしょう。ご自由です。しかし、私のアプローチは 「一神教は平和時に於いて自然発生するか、深刻な抗争の産物ではないのか」 これですから、 >>組織にとっての社会力学の問題である宗教は まづ 別とします<< では意味がないのです。別にしてはいけません。正に共同体対共同体、民族対民族の、即ち「組織対組織の非平和時」こそが私の考察の対象です。 私の関心は、此処にあることを平均的読解力の所有者には掴んでいただけると思いましたが、表現が不十分でしたら済まない事でした。 有り難うございました。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.14

12番です。 1番も2番も、イエスでもノーでもないと言っているのです。 >今日の圧倒的多数の(事実上全ての)イスラム教は敵を必要としている」であると理解しました。つまり、1ではイエスです。 どうしてこのように理解するのか全く理解できません。 ファナフィー派は、イスラム教スンニ派の約半数をしめるイスラム最大の法学派です。 実質的にイスラム世界の約半数の考え方をなぜ少数派とみなすのかその根拠を教えてください。 >「今日の圧倒的多数の(事実上全ての)キリスト教は敵を必要としていない」であると理解しました。つまり、2ではノーです。 現時点において、新興プロテスタント信者は、全キリスト教徒の20%ていどでしかありませんが、それ以前のキリスト教徒が信徒数を減らしているのに対し、新興プロテスタント教派は、信徒を増やしています。 つまり、キリスト教徒の流れが変わってきているというのが現状です。 よって、質問者の方の理解が誤っているのです。

sono-higurashi
質問者

補足

さてさて、やっと此処まで辿り着きました。これにて山の手線が一回りして環になりました。解決です。ご自分のおっしゃる矛盾にお気づきと存じます。 乗りかかった船ですから説明して差し上げます。 >>1番も2番も、イエスでもノーでもないと言っているのです。 >>ファナフィー派は、イスラム教スンニ派の約半数をしめるイスラム最大の法学派です。 1番、2番は 1今日現在、「イスラム教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 2 今日現在、「キリスト教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 です。 1、2を否定することは、nacamさんが 今日現在、「イスラム教においては、常に自分達と対等な敵を必要としている」。これは偽・・・($) と述べている事に他なりません。よろしいですか。しっかりして下さい。頼みますよ。 一方、ANo.2の最終行の >>イスラムにおいては、常に自分達と対等な敵を必要とする事になってしまいます。・・・・・・・(\) これも正しくnacamさんのご回答です。よございますか。しっかりして下さい。頼みますよ。 ($)と(\)は両立しないのです。どちらかを撤回しないとなりません。困りましたね。武士の情けです。これ以上は書かないことにします。 人それぞれ立場の違いは自由ですが、論証もせずに「イスラム教だけが悪、キリスト教だけが善」であるかの如き書き逃げは、お止めなさいまし。文章の最後に欠席裁判の如くAの評価を高らしめるためにBの悪口を書くのは、これも一種のサブリミナル効果狙いで禁じ手です。「捨て台詞のnacamさん」なんてニックネームがつかないか心配です。 私が、どういう回答に、どういう反応をする人間であるかは皆さんに無意識にもせよ観察されています。不公平を見逃す人間だと評価されれば良質の回答者の信用を失うのです。無知からくる誤謬は勘弁してもらえても、意図ある作為は見逃してもらえません。 教えて!gooに良質の回答者を増やすためにも、回答の怪しい部分を問いただすのは質問人の義務でもあります。 小さなことに拘りすぎたようでも有りますが、回答には公平を心がけて下さるようお願いしてお礼とします。 反論があるのに書き込めないという不公平があってはいけないので、暫く締め切らないでおきたいです。しかし、このシステムは質問者が締め切るしか方法がありません。締め切らなければ阿呆な二人の(阿呆は私だけかも知れませんが)水掛け論がいつまでも続く事になります。どの道、質問者が締め切るしか方法がないのであれば山の手線が一周した今がその時期と存じます。

noname#82569
noname#82569
回答No.13

はじめまして。 やっと自分の立場がフリーになったので この話題に触れてみたいと思います。 実は資料1,2,3と4の間には隔たりがあります。 それはユダヤの単なる民族神が 真・善・美の特性を供え、全知全能の神になった経緯です。 一神教という質問のタイトルですが、説明の中身が聖書なんで ヤーウェですね。 このヤーウェは聖書だけを読むと明らかに神格が低落しています。 では、一体、全知全能なんて発想がどこから出てきたのか? それは、聖書ではなくティマイオスをご覧ください。 私はこの教えてgooに来て数ヶ月くらいあーだ、こーだ、 あることないこといってきたんですが、 全く、話題に上らなくて不思議だった神がいるのです。 それは、プラトンのティマイオスの中に出てくる神です。 この神こそ、イデアを規範に世界を真・善・美に創造した 善なる神です。 つまり、聖書とティマイオスの神を合体させた人間が 資料1,2,3と4の間に存在しています。 ヘブライズムとヘレニズムの習合の結果 一神教の神は完全なる神になりました。 これによって、神格はかつてないほど高められました。 なぜ、哲学カテゴリーにおいて、哲学の巨匠プラトンの名が でてこないのか不思議で仕方が無いです。 そして、そのプラトンの編み出した神についても…。

sono-higurashi
質問者

お礼

各回答者は何かと粗っぽい質問文から質問の意図を推し測って答えてくれたものと思います。 1 タイトルの「一神教」のところを「ユダヤ教およびキリスト教」としておけばよかったですか。ヤーウェとしておいた方がよかったですか。 2 日本では旧約聖書の神も新約聖書の神もヤーウェ(ヤハウェ、ヤハヴェ、エホウァ、エホバ)と呼んで、よいですか。 3 質問文作成時には、1、2、3と4の間に4世紀に確立したという「三位一体」論が挟まり、この時、理論上の神格が最高点に到達したとの認識がありました。この認識を質問文に反映しておいた方がよかったですか。 4 回答にヘレニズムとの習合の意識が薄い件ですが、プラトンなどギリシャ哲学との絡みが覗いている回答はあるので、私との質疑の次第によっては正面に登場したものと推測します。回答者から何を引き出すかは専ら質問する側のレベル次第という面があって、回答者の落ち度ではありません。 5 プラトンのティマイオスのお勧めは記憶しておきます。しかし、当面の関心は「一神教は平和時に於いて自然発生するか、深刻な抗争の産物ではないのか」、これにあるので読書の優先順位がどうなるのかは自分でも判りません。基本姿勢として宗教や哲学に関心があるのではありません。 1、2、3は、ご回答はきちんと読んだという意味で記しただけであって返事を要求するものでも拒否するものでもありません。多分イエスであろうという前提の文章になっています。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.12

8番です。 >1 今日現在、「イスラム教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 2 今日現在、「キリスト教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 3  1でイエス、2でノーのときだけ、その理由を解説して下さいませ。 過去と今日では、状況が変わっています。 イスラム系の考え方においても、敵を必要としない考え方をむする宗派もありますし、キリスト教においても敵を必要とする教派もあります。 イスラム教にしろキリスト教にしろ、過去から一貫した教義を受け継いでいるわけではなく、時代とともに、教派ごとに考え方に差がでてきます。 キリスト教においては、カトリックや伝統的プロテスタントは、敵を必要としませんが、新興プロテスタントにおいては、敵を必要とする教派もあります。 イスラムにおいても同じで、ハバハイ教(現在はイスラムから離脱している)や、ファナフィー派(トルコや中央アジアで有力)などは、敵を特に必要とはしません。 これらは、神話時代の考え方を、実際の生活といかに適応させるかにより発生してきたものです。 つまり、神話・教義よりも実生活重視の考え方でもあるわけです。 しかし実生活重視の考え方を、堕落と考える集団もおり、実生活重視派が増えると、必然的に原理主義的考え方も増える事になるのです。 キリスト教にしましてもイスラム教にしましても、有る程度のまとまりがあるのは中世までで、近世以降をまとめて考えると、完全におかしな事になってしまいます。 それゆえ、補足での質問内容は、ナンセンスな質問であり、回答できる筋合いのものではありません。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答有り難うございます。 1 今日現在、「イスラム教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 これに対するご回答が >>ハバハイ教(現在はイスラムから離脱している)や、ファナフィー派(トルコや中央アジアで有力)などは、敵を特に必要とはしません。<< ですね。これによればnacamさんのお答えは「今日の圧倒的多数の(事実上全ての)イスラム教は敵を必要としている」であると理解しました。つまり、1ではイエスです。 2 今日現在、「キリスト教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 これに対するご回答が >>キリスト教においては、カトリックや伝統的プロテスタントは、敵を必要としませんが、新興プロテスタントにおいては、敵を必要とする教派もあります。<< ですね。これによればnacamさんのお答えは「今日の圧倒的多数の(事実上全ての)キリスト教は敵を必要としていない」であると理解しました。つまり、2ではノーです。 ここまでは、とても明瞭なお答えだと思います。これだけ、ご自分で明瞭なご回答を寄せているのですから、最終行の >>補足での質問内容は、ナンセンスな質問であり、回答できる筋合いのものではありません。<< は何かの勘違いだと推測します。 さて、お願いです。1、2に明瞭で立派なお答えがあるのに、3のお答えがないのでは如何にも勿体無いし理屈にも合いません。1ではイエス、2ではノーのお答えなのですから、その理由を述べて3も完成させて下さいませ。 理由がなくて結論だけ述べたのでは、書き逃げのnacamさんだとか、色眼鏡のnacamさんだとか、事実に反した悪い噂が立たないとも限らないので、理由も述べて完成させておいた方がよいと思います。 よろしくお願いします。急ぎはしません。

回答No.11

リチャード・エリオット・フリードマンの『神の消失』(翔泳社) がズバリ、ご質問の内容を扱っています。 この本は3つの謎を取り上げていますが、 「第一の謎 聖書における神の消失」が特にこのテーマに関係が 深いので、ぜひご一読を。 ご質問は「神格の長期低落」ということですが、私はこれを 「神様はどうして人間と直接関わらなくなり、離れていったのか」 という風に置き換えて考えています。 フリードマン氏によれば「神の消失」ということになります。 フリードマン氏は哲学者でも思想家でもなく、旧約聖書の専門家です が、この謎に関わる様々な知識を駆使して、謎の解明に挑んでいます (最後は宇宙論まで登場する)ので、その結論に納得されるかどうか はともかく、思索を深めるのに役立つかと思われます。 氏の結論を無理矢理要約するならば、 「神は、人が成長して最後にどうなるのか見たいと思っている」 というのがご質問に対する回答になるでしょう。 つまり、神の消失あるいは神格の低落は、神が最初から計画していた のであり、人間も宇宙もそのように創造されたのだ、ということです。 神が人に語りかけ、罪に報い(罰を与え)ていた時代が去り、 預言者が神の代理として振る舞う時代を経て、やがて聖書のみ が神の言葉を伝える時代となります。人は神を軽視するように なり、ついには神の子を殺してしまいます。しかしこれもまた 救いの歴史の完成には必要なことなのです。 追記 「神は語る存在ではなくなりました」「神はタブーの存在です」 と書かれていますが、日本には昔から「触らぬ神に祟りなし」と いうことわざがありますよね。神がタブーなのは当然なのでは? 確かに「『訊くな』と言って咎める回答」は酷いと思いますが、 悲惨というほどではないでしょう。「まあ、可哀想な人。こんな ことしか言えないなんて。お気の毒」と同情してあげて下さいな。

sono-higurashi
質問者

お礼

『神の消失』は手近なところにあることはあります。折がくれば読んでおきたいです。 愚者の考えです。 勇気がないなと思います。季節が変われば服装も堂々と変えればいいでしょうに。神を庇うのに苦労しているのが見え見えで気の毒に思えます。 このご回答内の、と限ったことではないのですが何箇所かの神は「人類の叡智」、何箇所かの神は「自然法則」と置き換えてもよさそうなのに信徒の前でそんな事を言えば袋叩きに遭ってしまいます。神の意思を探りながら歩いても、人類の叡智を探りながら歩いても所詮同じ歩き方しか出来ません。神だのキリストだのイスラムだのとの表札さえ外せば、一つの理知の基に参集できるのに、愚かなことだと思います。こんなことを書けば救われない奴だとか、裁かれているだとか差別用語を雨霰と浴びなければなりません。ご回答を茶化すつもりはありませんが、全く触らぬ神に祟りなし、で沈黙しているのが賢そうです。と、書いてしまうところが愚者たる所以でありましょう。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10

No.6です。 >人類に共通した発想が潜んでいそうです。 それをイデアと例えると、プラトンが生まれる前の世界だといい、アリストテレスは人間の中にあると言った。 私からすれば、「人にくっついてきた。」です。 人は移動しますよね。 それでシュメール・アッカド神話に類似したものが、ヨーロッパ大陸の各地にあり、中国大陸が隣にあり、日本海渡って日本列島に来たものが、神話ももってきた。 八百万の神々も元を辿れば、他の国の神々らしいから。 最後の審判をする閻魔 もとはヤマ。 ヤマはアダムと同じようなもの。 でもアダムと同じようなものは、日本じゃ神でイザナギ。 ああ、ややこしい。 習合しちゃうと、分解するのが大変です。 >天照は男神? 天皇を神だとすれば、陰陽で、天照は女神にならなければならない。 だから、愛子様を天皇にしちゃ駄目だってもめてるわけです。 >ニーチェが精神のバランスを崩したのは資質?、 あなたが感じたように、私いろんな分野の興味を持ち、広く浅くをモットーにしています。 新世紀エヴァンゲリオンってアニメにも手、出してます。笑 ところがたかがアニメと思うでしょうけど、日本のアニメは、ただの娯楽作品じゃないから、世界で評価されていると思うんですね。 イザナミは形が崩壊しましたよね。 ニーチェも形が崩壊した と読み解くんですね。 形が崩壊するって、どういうことでしょう。 このアニメでは、人はATフィールドをそれぞれ持っており、それで、自分の世界と他者の世界を隔てている としている。 ATフィールドを簡単にいえば、他者と自分の違いを明確にするライン「心の壁」です。 ニーチェ「「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」    ↑  ↑ 心の壁が崩壊し、融合している。 エヴァゲリ(新世紀エヴァンゲリオンの略)では、シンジがレイに「僕はここにいていいの?」と聞いたとき、レイは無言だったんです。 一筋の期待を持ち聞いたら、レイは答えなかった。 「うわーーーーーーーーーーー!」とシンジはさけび、ATフィールドの崩壊が始まった。 リリスからアンチATフィールドが展開され、消えようとするシンジを形而下し取り込み救済した。 これと同じことが、ニーチェにも起こったと思えるんです。 エヴァゲリのそのシーン。  『日向「デストルドが形而下されていきます。」  冬月「これ以上はパイロットの自我がもたんか」  青葉「ソレノイドグラフ反転。自我境界が弱体化していきます。」  日向「ATフィールドもパターンレッドへ」  青葉「リリスよりのアンチATフィールド、さらに拡大、物質化されます。」  日向「アンチATフィールド、臨界点を突破」  青葉「だめです。このままでは、個体生命の形が維持できません 』 >内部崩壊を起こしていたのはユダヤ教も同様らしい はい。 同じくエヴァゲリ。   ↓ ↓ http://homepage3.nifty.com/mana/message2.htm#TOP 一神教と多神教の狭間を揺れ動くユダヤ教の歴史。 http://homepage3.nifty.com/mana/message1.htm#TOP 『(宗教的・戦闘的なレベル) (2)死すべきもの(ヒト)                  永遠に生きるもの(シト)              両者の融合であるエヴァンゲリオン   』 >エンデの<はてしない物語>とはナンジャラホイ オイデプス物語は、このエヴァゲリの監督にも影響を与えたようなんですね。 回帰 です。 で、ネバーエンディングストーリーにも、オイデプスが故郷に戻るための試練の岩を通貨する時と同じシーンが出てくる。 謎解きに答えなければ通過できない。 この通貨儀式をしたものは、源に戻る。 「わたしに還りなさい。記憶を辿り。やさしさと夢の源へ~」は、エヴァゲリのエンディングテーマ 「魂のルフラン」 でここで、結局 元の質問に対する回答はなんなのよ? と思うでしょう。   ↓ ↓ ↓ http://homepage3.nifty.com/mana/message5.htm#TOP 『この歌では、自閉してはいるけれど快適な状態(幼年時代、さらには胎内回帰願望含む)と、そこから出た、厳しくつらいけれども自由な未来が対比させられています。』 これが映画化され放映されたとき、観客たちは大ブーイング。 その時の映像が2作目に使用されている。 ニートにとって、この作品は、殻から引きずり出されるほどの恐怖。 だから 監督に死ね と言った。 人間。 漢字って意味を持ちますよね。 間をゆれうごき いったりきたりする者。 という宿命を持っている以上、信仰心の低落も宿命じゃないか と。 「16話「たのしいこと見つけたんだ。たのしいことばかりして、何が悪いんだ」 26話シンジ「僕だけの夢をみてちゃいけないのか」    レイ「それは夢じゃない。現実の埋め合わせよ」 夢の終わりは現実の始まり。 現実の埋め合わせ つまり 夢をみること(合理化)をしないと、人間は現実だけでは生きていけない。 両者を反復しながら、生命のつむいでいるわけです。 ニーチェは、あっちの世界に行ったが、ニーチェにとって それは至福なわけです。 源に還ったわけだから。

sono-higurashi
質問者

お礼

神話はメソポタミア発ヤマト国行きの3000年に及ぶ国際伝言ゲームでしたか。その割りには原型の雰囲気が残っているものだと感心します。現に、時空間を共有しているのに言った、言わないが日常茶飯であることを考えると、古人の情報伝達力が正確だったのでしょうか、現代人のそれが衰えたのでしょうか。素っ気なくて済みませんが今回の共有知識はこれだけです。 エヴァゲリとエンデは頭の隅に置いておきます。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

noname#80116
noname#80116
回答No.9

 ★ 資料1:・・・人は神に奉仕するために・・・  ☆ これは 《人は 同じ人だが〈神〉と呼ばれる人に奉仕するために》と読むべきでしょう。  ★ 資料2:・・・人の苦難の源は己の罪にあるのであって、言わば自業自得としています。  ☆ 《罪》というところを 《自由意志つまり おのれの意志による自由な選択》というふうに読みます。そしてこの洞察が 《神》というおとぎ話をもたらしたのでしょう。《人》ではないという意味です。ありもしない作り話という意味です。シュメールのは 人間世界における現実経験をただ言い替えただけのものです。  ★ 資料3:・・・神の前に悔い改めれば、神は幸福を何倍にもして返してくれる・・・  ☆ 《悔い改める》必要のない人として ヨブが 神の物語になぞらえて 語られているだけの話です。そういう人は 人びとから ねたまれることが多いので 《神は幸福を何倍にもして返してくれる》という夢物語に加工しただけです。     ★ 資料4:・・・自由主義神学・・・  ★ に関しては 経験領域については思考や解釈がまったく自由ですが その自由主義なる思考をさらに 虚構としての《神》についても 虚構を経験現実だと勘違いして 及ぼそうとした。そういう勇み足があるだけです。  結論:聖書の《神》にかんしては 初めから 虚構の物語なのですから その神格の低落も上昇も ないわけです。  ・そのほかのもろもろの《神》にかんしては 人にとって 相対的な存在として描かれていると見るべきでしょう。結局は 人と同じ地面の上にあると見なければならないでしょう。アッラーフは ヤフウェフと同じ神であるという想定です。  ・イエスについては 人間(イエス)と神(キリスト)とが 同時に存在するというドグマに仕立て上げられています。完全に人間であり 同時に 完全に神であるという想定です。ですからいやしくも哲学の徒としては 《神は死んだ》もへちまも ないと言わなければなりません。

sono-higurashi
質問者

お礼

有り難うございました。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.8

3番です。 >・イエスが処刑されてもキリスト教が存在し得た実例があること。 ・ 優秀な弟子に恵まれれば言行録が後世に残ることがあること(釈迦、イエス、ムハンマドのいずれにも自らの著作物なし?)。 こういうことを考えると、ムハンマドの挫折があったとしてもイスラム教が存在しなかったとまでは、私には言い切れません これは、時期によるでしょう。 ヘジラの前にムハンマドの死があれば(ヘジラが無ければ)、現在のようなイスラムは成立していませんでした。 イスラムを世界的な宗教にのし上げたのは、2代目カリフのウマルです。 ウマルがいなければ、イスラムは単に一地方の民族宗教でしかありませんでした。 初代カリフのアブーの時代は、ムハンマドの死後分裂招待になったアラブの各部族の統一に追われ、2代目ウマルの時代にペルシャを滅ぼし、シリアやエジプトを占領し、イスラム世界を一挙に広げるとともに、コーランやハーディスの編纂などを行い、イスラムの基本的システムを整えています。 ウマルは、イスラムにとって非常に重要な弟子ですが、それは、ムハンマドを神格化する事によりイスラムの基礎を築き上げています。 そのため、ムハンマドの早すぎる死があった場合、今日のようなイスラムはありえなかったと思われます。 キリスト教においては、パウロの功績が大きいでしょう。 現在のキリスト教は、開祖はキリストであっても、実質敵にキリスト教の方向付けを行ったのは、パウロであったと考えられます。 >ムハンマドの危機も切迫していたのかもしれませんが、イエスの苦難ほどとは思いません。 これは、キリスト教とイスラム教という宗教としてみるか、イエスとムハンマドという個人としてみるかの違いでしょう。 >過去と現在に「敵がいた、いる」ということと「敵を必要とする」が何故結びつくのですか。 敵がいなくなった絶対神は没落するためです。 神(光り)が輝くのは、闇の中にあってこそなのです。 明るいところでは、どんな光りであっても輝きを失ってしまいます。 夜間の月は、明るく輝いて見えますが、昼間の月は、その存在を主張できないほどにしか感じられません。 神は、敵対者がいなくなると、相対的に輝きを失い、その地位の低下がおこるのです。 >キリスト教はイスラム教と異なり敵がいなかったし、敵を必要ともしないという意味ですか。 ローマ帝国の国教としての地位を確立したキリスト教は、権力側に取り込まれました。 当時のローマ帝国にとって、対等ともいえる敵は、ペルシャのみであり、その脅威や影響も東部地域だけにすぎず、帝国の中心地においては、脅威というものもありませんでした。 そのため、キリスト教は、皇帝権力の強化という性格を与えられて形成されてゆくのです。 キリスト教が現在のような形になったのは、テオドシウス帝の時代です。 それ以前のキリスト教と、今日のキリスト教とは全く別の物とお考えください。

sono-higurashi
質問者

補足

話の焦点をはっきりさせるため初めに確認します。 ANo.3の補足欄で述べたように、ANo.3の補足の欄の1、2は、これ以上の歩み寄りは期待できないので、お互いに自分の考えをもてばよいのであって解決済みです。最早共通の話題ではありません。未解決はANo.3の補足欄の3、4だけです。従ってANo.8の前半部分、即ち 「>・イエスが処刑されてもキリスト教が存在し得た実例があること。」から始まって ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「これは、キリスト教とイスラム教という宗教としてみるか、イエスとムハンマドという個人としてみるかの違いでしょう。」 の部分は、あってもなくても最早何の効果もありません。ここまで同意して頂けますか。 さて、そうなるとANo.3の補足の欄の3、4のために頂いた回答は後半の 「>過去と現在に「敵がいた、いる」ということと「敵を必要とする」が何故結びつくのですか。」から始まって ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「それ以前のキリスト教と、今日のキリスト教とは全く別の物とお考えください。」の部分です。 nacamさんのお気持ちは、この部分は新たな情報とのご認識でしょうが、私の認識ではこの部分からANo.2、ANo.3で頂いた情報に追加されるべきものは何も見出せません。つまりnacamさんのご苦労にも拘らず、このワカランチンを納得させる材料は最早、手詰まりだということです。 そこで補助的な質問を挟みます。当初の質問が変わってしまったのではないし、当初の質問の枠を超えて膨らんだわけでもない事を、お断りしておきます。 1 今日現在、「イスラム教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 2 今日現在、「キリスト教においては、常に自分達と対等な敵を必要」としていますか。 3  1でイエス、2でノーのときだけ、その理由を解説して下さいませ。それ以外のときの解説の有無はお任せします。 多分1、2、3に答えていただければANo.3の補足の3、4は自動的に解けると予想します。 よろしくお願いします。急ぎはしません。

  • h1r0s13
  • ベストアンサー率12% (61/497)
回答No.7

あのね、どうしてそう難しく書くの。 真理というものは、もっと易しく簡潔に書き、言えるものなのだと思います。 十一次元の太陽意識は、一神教と言われても構いません。(厳密には異なりますが) 八次元、九次元では、多神教と言われるでしょう。以上です。 質問者さまは唯物論者ですか。まだ、霊的覚醒はお済になっていらっしゃらないのですか。

sono-higurashi
質問者

補足

1 >>あのね、どうしてそう難しく書くの。 真理というものは、もっと易しく簡潔に書き、言えるものなのだと思います。<< やや、これには困りました。私の質問文の何処かに真理の主張がありましたか。真理を主張するだけの能があれば、こんなところで己の無知を天下に晒して羞恥に耐えながら、うろちょろしていません。質問文の再読をお願いします。 2 難しく書いてあるか易しく書いてあるかを読み手のh1r0s13さんが決めてよいという考え方に異存ありません。同感です。賛成です。質問文に真理が述べられていると受け取る読解力の方には難しく感じるのでしょうか。しかし、現実論として、質問文は日本文の平均的読解力の所有者を対象に作成するしか方法がありませんでしょう。読解力が平均的でない回答者のための質問文の作り方について、よりよい、ご提案があれば拝見します。 3 >>十一次元の太陽意識は、一神教と言われても構いません。(厳密には異なりますが) 八次元、九次元では、多神教と言われるでしょう。以上です。<< 質問文の再読を、お願いします。 ・十一次元の太陽意識は、一神教であるかないかを質問しているのではありません。 ・八次元、九次元では、多神教と言われるか否かを質問しているのでもありません。 4 >>質問者さまは唯物論者ですか。まだ、霊的覚醒はお済になっていらっしゃらないのですか。 私が唯物論者であるか否かは自由に決めて下さって結構です。「唯物論とは何ジャラホイ」といっている人間に自己評価は不可能です。私が唯物論者であるか否かはh1r0s13さんの評価に従います。一切、異存ありません。このことがこの質問の回答に影響するというのであれば私が唯物論者だとするときと、非唯物論者であるするときの、どちらなりと回答しやすいほうに仮定して答えて下さって結構です。 私が霊的覚醒が済んでいるか否かも自由に決めて下さって結構です。「霊的覚醒とは何ジャラホイ」といっている人間に自己評価は不可能です。このことがこの質問の回答に影響するというのであれば覚醒が済んでいるとするときと、済んでいないとするときの、どちらなりと回答しやすいほうに仮定して答えて下さって結構です。 さて、お願いです。今度は二度目ですから読み間違いのないようにしっかり読んで下さいませ。 ア) 質問文の何処に真理の主張がありましたか。後学のために、ご指摘願います。 イ) 質問文の何処が難しく書いてありましたか。後学のために、ご指摘願います。 ウ) 質問文を再読の上、質問文と噛み合ったご回答を下さいませ。 エ) ウ)のご回答は私が唯物論者の場合としてですか、非唯物論者としての場合ですか。明示をお願いします。 オ) ウ)のご回答は私が霊的覚醒を済ませているとした場合ですか、済ませていないとした場合ですか。明示をお願いします。 以上、ア)からオ)の5点、よろしくお願いします。短い脚と短い頸を無理に長くして、一日千秋の思いでお待ちしています。お忙しくて直ぐには返事が書けないことも当然ありましょう。取り敢えず何日頃には返事ができるとの一言だけでも戴けると落ち着いて待てるので有り難いです。勝手を言って済みません。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

No.5です。 考古学者と民俗学者が共同作業する必要がありそうですね。 >シュメールでは海水やユーフラテスの治水に、よほど悪戦苦闘したのだろうと推理しました。 その推理は的を得ていると思えます。 ここらあたりの時代では、自然を擬人化し物語にして、天災に対して、合理性をつけようとしたと私も思います。 川の氾濫で多数の死者が出る。 が、川が氾濫したことで、養分を蓄えた土が、陸地に流れ込み、洪水の後は豊作になる。 神話ではデウス(ギリシャ神話のゼウス)、は暴風雨を起こすが、豊穣をもたらす神でもある となった理由、なんとなくわかりますね。 このシュメール・アッカド神話は、各地に広まり、詳細になると内容が違ってくるし、神の名前も違ってくる。 例えばティアマートはレビアタンみたいになったり、蛇になったり、バビロンの大淫婦になったり、YHWHやマリアになったりしている。 かたやマルドゥクはゼウスやユピテルになったりしている。 場所と時間で変容を遂げている。 YHWHという文字は、「私は生命である」ということをあらわす記号だと私は思えます。 つまり ティアマート。 エジプトだと人間が死んだ時審判をするとされる女神マアト。 MAATのMAのMは水を表す記号で、Aは最初 誕生 という意味がある。 最後のTは女性形の場合 Tがつく。 確かに命あって何事もできます。 信仰だって命があるからこそです。 聖書を読むと、神が祝福をしたというとき、必ず祝福の証として対象に子孫繁栄をもたらしている。 つまり神の祝福とは新しい生命をもたらすということ。 そう古代の人は考えたようです。 そういった古代の人の言い表した意味を探し出せないと、あらぬ方向に神を探して彷徨うことになる。 例えばニーチェ。 彼はこう指摘した。 「貧しいものは幸いである は、貧乏人が裕福なものに対する妬みが込められている としている。」 自分が貧しいことがよいことだとする(合理化)には、「金持ちは天国にいけないんだぞ、俺は貧しいから天国にいける へへん」がこめられているというわけです。 「貧しいものは幸いである」という言葉は、キリスト教会にとって大きな熊手となった。 キリスト教会は、各地の地主をキリスト教徒にする戦略をとった。 地主がキリスト教徒になれば、農奴もそうなる。 地主に特権を与えたことで、地主は農奴をら「貧しいものは幸いだ」と押さえつけ搾取できる。 このままでは地主が大金持ちになるだけ。 地主は救われない。 そこで、地主に貴族という特権を与え、長子を神に捧げよとして、息子を聖職者にするように命令した。 神の奴隷として長子を差し出すことで、地主も神に貢献しているという図式になる。 聖職者は神の僕なので私有財産をもってはならない。 全て神に捧げる つまり キリスト教会に捧げる。 例えば貴族の父親が死に莫大な財産が長男に相続された場合、自動的に教会の財産になる。 ヒエラルキーでどんどん下から吸い取って上は生茂るってわけです。 教皇は神の代理人で、神と直接対話できるものとして崇拝対象になり、ピラミッドの底辺の人は、教皇を神の代理人として崇めさせられる。 それに反発したのがルター。 「信者1人1人が直接神と対話してもいいんじゃないか」 とんでもないことです。 キリスト教会を弱体化する発言に、キリスト教会はルターを破門。 他は認めない。キリスト教会が言うことが神の言うことと同じことだ として、地位(利得)を守るために他の思想が芽生えるのをおさえつけようとした。 ルターは破れ、北の方に移動し、キリスト教会の力がまだ強く影響していない地域に自分の考えを布教。 ルターが始めたキリスト教会に対する抵抗運動が広まり、カトリックの考え以外もしていいとなり、どんどんそれぞれの思想により、キリスト教派閥ができていった。 ルターのやったことは、石版を砕いて、バラバラにして俗世の人にばら撒いたようなもの。 俗人は石版のかけらを持ちつつ、つまりティアマートがキングーに石版を与えたが、そのかけらを持ったとして、自分の思想を布教。 俗化がさらに推進された。 でもですね、ユダヤ教の段階で、既に俗化していたんです。 元はレビ族のみが、宗教専門職だったんです。 でもレビ族も増えていって、分業するようになった。 クジビキで「今回の儀式では あなたの家のものが笛を吹き、そっちの家のものがシンバルをたたきます」と決めていってた。 この時までは、平等にクジビキで役割を神の手にゆだねており、それらの分家を統率していたのが、アロン家だったが、アロン家も結婚により分家が出てきた。 そのうち、レビ族以外のものに女性が嫁ぐと、そのレビ族以外のものが、聖職者になれた。 そのうち、レビ族以外のものが大祭司になったりした。 ユダ族は政治家を輩出している。 その一族が聖職に関わると、どうしても政治に都合のいい解釈をするようになる。 神の考えの俗化が起こったわけです。 で、ダビデは神殿のパンを食べたというエピソードが加わり、ユダ族の中から聖者が現れたことは神の意図だとすることとなった。 戦いに勝利して裸踊りするダビデを冷笑する妻。 ダビデじゃバト・シェバに恋をし、バト・シャバの夫を殺して奪って妻にした。 自分の手柄だと浮かれたダビデを、バト・シェバは「何もわかっていない」と冷笑。 だから、バト・シェバは彼に祝福を与えなかった。 と、このように聖なる領域に俗人が踏み込み荒らし、俗化していったわけです。 ヘロデ大王の祖先は双子で、一方はイスラエル人になり、一方は異邦人になった。 ヘロデはその異邦人になった方の末裔。 ヘロデの祖先がレンズ豆とひきかえに長子権を譲ったから。 その子孫がローマ帝国の窮地を救ったので、ローマ帝国はヘロデに王位を与えた。 ヘロデは政略結婚により、神殿の祭司達や議員たちに自分の血を混ぜて親戚関係を築き、宗教と政治の両方を手中に収めた。 それに同意しない祭司は殺されていた。 殺されず逃げた聖職者もいた。 砂漠に逃げ、そこにもう1つのエルサレム神殿を作った。 その集団は自分達を「貧しいもの」と言い表していた。 貧乏という意味じゃない。 彼らは出家信者の財産を共同金庫に一時預かった。 2年くらい修行をしてもらい、清められたと認定したものの財産は、共同体の財産として、やっと手をつけた。 隠遁生活をしており、在家信者から物資は供給されており、生活には困らない。 彼ら貧しいものは、熱心に宗教を信仰していた。 エルサレムの俗化され腐敗した宗教から離れ、神の前に立つということを実践していた彼らは、自分達を貧しいもの と呼び表していた。 キリスト教ができるよりずっと前からこの集団はありました。 原始キリスト教は、自分達を「貧しいもの」と呼んでいた。 貧乏という意味で使ってはいないことはもう明白。 さて、、、貧しいものは幸いだから、貧乏でいることを喜びましょう って誰が解釈したんでしょうねえ。。。。 押さえつけて下から搾取することを正当化する者に都合にいいこの解釈。 神は死んだ、神を殺したのは我々だ。 ニーチェは熱心なキリスト教徒だったんでしょうね。 それで、教会に「あなたがたが殺したんです」と言ったわけです。 低落させたのは誰か、もうおわかりですよね? 人々じゃあない。 神の忠実な僕のキリスト教会がこともあろうことか神を俗化させ、低落させ、殺していたわけです。 ニーチェのするどい指摘でしょ? <はてしない物語>が映画化されたようで、子供の頃テレビで見たときの音楽を先日偶然にyou tubeで聞いたんですね。 映画と原作は違うようですが、、、、 http://www.limahl.com/about/discography/lyrics/neverending_story.htm 「In her face, the mirror of your dreams Make believe I'm everywhere I'm hidden in the lines And written on the pages Is the answer to a never ending story 」 というわけで、ティアマートはおさなごころの君で、人々が彼女に新たな名前をつけることで、彼女は永遠に存在し続ける。 そして、自分の想像力が物語の世界を創造し続ける。 自分が創造をやめてしまうと、おさなごろころ君も死ぬ。 善い創造をすることで、おさな心の君の世界は虚無に飲み込まれない。 古代の人が神に名前をつけ続けた。 世界を崩壊しないように、バトンを渡していった。 アリストテレスはイデアは人間に内在していると言った。 はてしない物語の原作者も、そういうことを言っているのかなと思います。 モモなどにも思想が現れていて、エンデは哲学者でもあったのかな と思います。 ということは、あながちプロテスタント系は間違えじゃないと思えます。 ただし、人々を奇跡だなんだと縛り盲目にしてしまうと、それは以前のカトリックがやったことと同じことになってしまう。 人々を捕囚し 閉じ込めてしまってはそれは奴隷化。 支配者が奴隷が支配者に牙を向かないように去勢するようなもの。 善いイマジネーションを創造しなきゃ 駄目なんですね。

sono-higurashi
質問者

お礼

毎度、応答して頂いていますが基礎知識の総量が異なるので分からない事も多いです。しかし、共有知識が生じ次第、その部分については、よく納得できるので今回も着包み説は正しいのだと思います。だからといって、尻馬に乗って、そうだそうだ、分かった分かった、と雷同する訳にも参りません。そこで今回は独り言を呟いてお礼とします。独り言なのでご返事を期待(も拒否も)している訳ではありません。 [1 七岐大蛇に対して八岐大蛇、石版に対して鏡の他、そこはかとなくアッカドの神話には日本の神話の香りがします。人類に共通した発想が潜んでいそうです。 2 豊穣願望は女神(ティアマート、マアト、天照大神)と直結するのが自然な感覚のようだ(当たり前か。天照は男神?)。 3 プロテスタントはルター教らしいぞ。 4 コペルニクス、ガリレオ、ダーウィンなどの科学者や正直な哲学者の反抗がキリスト教には打撃だったのだと思っていたが、実は内部崩壊でもあるらしい。 5 ニーチェが精神のバランスを崩したのは資質?、神の罰?。神の罰だと診断する人が一杯居そうだ。百年以上も前では村八分に遭ったのかも。 6 内部崩壊を起こしていたのはユダヤ教も同様らしい。 7 エンデの<はてしない物語>とはナンジャラホイ。読む人は何でも読んどるなあ。] 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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