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われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか

 あらためての設問です。前回ご投稿くださった方には 大変申し訳なく思っております。お詫び申し上げるとともに よろしくお願い致しとう存じます。  日本人論です。  コミュニケーションの問題です。そのうち 非言語による場合です。  《言霊(ことだま)》のくにであり 《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》と表現したものです。  ・最近知ったのですが 井沢元彦の持論によると 日本は 和と言霊の国であるが 言霊は 司馬遼太郎の言葉で《念仏平和主義》に通じるゆえ あまりよくない習慣であるだろうということのようです。(非公式ファンサイト)  ・そもそも《しかれども 言挙げぞ我がする》とも言って来ていますから 綜合的に捉えて どうなのでしょう。最近は 公けにも 討論が盛んですし。  ・とうぜんの如く ほかの国の人びととのコミュニケーションは どうあるのがよいかを知りたいと思います。  ・なお 生活感覚として 外国のことをわたしは知らないので 質問では 《日本人は・・・》と特定する形になっています。そのような現実的な事柄としても おしえていただければ幸いです。 

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noname#96295
noname#96295
回答No.11

6です。 人麿ですか。。。それは凄みのあることですね、扱いは容易ではないでしょう。 まあ、特異な歌人と思います。枕詞など実景のイメージを巧みに使いますね。紋切型ではないですね。 それこそ、言挙げをとりおこなう歌人としての凄みがあります。 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ吾がする .... 葦に邪気を払われ、みずみずしい若穂の揺れる豊かな日本は、 すなわち神なので (モノやウラを、つまりあらわでない心の部分を) 口にしない国だ、 というところは、自分の行為に凄み・重みを持たせるのに好都合な、前置きなわけですが、 言幸く ま幸くいませと 言霊に守られて無事に、無事にいってらっしゃいと、 自分が言ってあげるというわけですね。 人麿の言葉によって、守られて行きなさいと。 発さなければ言は無い、また事も無い、というところに、 このように言葉で何物かを屹立させるというのが、人麿ですね。 以心伝心とは逆ではないでしょうかね。 穢れなく清く美しい島の日本は言霊に守られる国であるから、 という返歌もまた、自分がこうして歌うと効力があるでしょう、ということです。 たいしたものです。 ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。 それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。 ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。 神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。 心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。 仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。 だからといって、「無事にいってらっしゃい」を口に出さない国柄というわけではないですね、そこは歌のレトリックです。 お返事いただいた補足にありました、言葉に出さないことと、呪文祝詞魔法めいた生き生きした力の側にある語との関係ですが、 皆に言わなくても一人の人間に抱え込ませる言葉が、呪(まじな)いです。 暗い穴とせむしの象形を持ちますが、この犠牲者一人においては少なくとも言語化されたという事実が必要なのです。 暗い穴に閉じ込められた言霊もあるということです。 言祝ぎは、皆に披露する言葉であり、祭壇とせむしの象形を持ちます。 言葉に出さないことは力を持たないことであり、言葉に出すことは恩恵と力を得ることだという思想は、日本に古来からあるわけです。 分をわきまえないような力を持たないということとも繋がっているのでしょう。 最後に、外国との安易な比較は無理です。一般に、本質というものについてそうとうな観点の相違があります。 パンとはなんですか、どのようなものですか、と聞くだけで、 一般的な日本人と一般的な欧米人の答える観点が違うことに気付かれるでしょう。 言葉で示そう(示しうる)とするものについて根本的に違う部分がたしかにあるのです。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  俄然 雲行きが 良いほうにかあまり芳しくないほうにか あやしくなってまいりました。  ここでは みなさんからもお許しを乞うて 邪道ですが 謬見を作業仮説として用いつづけるというかたちを取ります。つまり 《言霊》は 《事霊》として 初めには=基本的には 言葉を口に出さない状態にあってはたらくという仮説です。怪我の巧妙になるか あるいは やはり謬見であったと明確に分かるか 探究を続けたいと考えました。  直前のご回答へのお応えを承けての内容になります。次の部分を ここにも 掲げます。      *  どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。  空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で それは単なる《事の端⇒言の葉・言葉》と捉えたかも知れない。  したがって 《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。      *   というのも 雷は つまり神鳴りは 事であり 神というからには その《事》に 《いか(厳)つ(の)ち(霊)》ということだまが宿ると捉えられた。雷光は 稲の生育に 霊の息吹きを宿させるという観想によって《いなつるび(稲と雷電との交接)》あるいは《いなづま(稲妻もしくは 稲夫〔夫も つま と読む〕)》と表現した。生育というよりは 稲が孕むということのようです。  だとすれば このような《こと(事)》とその《霊》の観想が 初めにあって そのあと《言霊》や《言挙げ》が続くと思われて来ます。    もっと言うならば――あとで掻く恥のことを忘れるとするならば―― たとえば《のりと・のろい・まじない・言祝ぎ》は 第一次の《事霊》の現象を 再現しようという・したがって 第二次的な人間の側の知恵であり努力であるとなります。  ★ ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。  ☆ というのは 以上のような事態と現実とを言い当てた見方ではないでしょうか。すなわち つづけて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。  ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。  神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、/ 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし さらに続けて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。  仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このとき 《心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず》は そのとおりだと思うのですが もし言挙げできると思って言挙げした場合 《禁忌》かどうかは これも 第二次に人間が作った取り決め事であるように思われて来ます。  あるいは 初めには ずべてが《禁忌》であったかも知れません。というよりは 禁忌と取り決めなくても 言挙げすることは出来ないという思いがあったのかも知れません。やがて 言挙げするようになって(知恵の木の実を食べて) しかも その言葉どおりに行かなかった場合 そのような場合について 禁忌と規定するようになったというように。  必ずしも整理しないまま 提出します。  * なおこうなると 以心伝心にも 第一次の交通・交流と 第二次の人間のはからいによるそれとが あると考えられて来ます。さあ 果たして このわたしたちの探求は いかがあい成るでしょう。  * 字数が多い場合には お礼も お礼欄ではなく 補足欄に書くことにしています。

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noname#96295
noname#96295
回答No.6

これはコミュニケーション論ですか。 非言語コミュニケーションの。 ということはつまり、言語情報科学から見れば、言語コミュニケーションの問題でもあるところの。 で、ご質問の核心は、発話行為論ということでよろしいのですか。 言語内行為と言語外行為について、日本人のありかたは、外国人のありかたは、という。 それとも、言語を発すること(なにしろ言語を口から出さないと言霊は出ませんよ)と黙することで、 相手を何と捉えるかの違いを問うているのでしょうか。 言挙げせずとも互いに分かるということと、言霊思想とのあいだに一定の関係があるかどうかについては、すでに自問済みですか。 沈黙のなかには言霊は無いのですが。。。 万葉集から。 言霊のやそ(八十)のちまたに夕占問ふ ことだまの幸はふ国、である大和の国から考察をはじめ、社会や文化にどのような独自性があるかを考えるならば 「日本語を深い理解のもとに用いる上で、指示の対象化はどのようにして起こるか。主体-客体は、どのように形成されるか」 という問いをお持ちなのでしょうか。 ところでどの言語であっても字源を見れば古くは万象と結びついた形と音から発生したもので、 語というものは、呪文とも祝詞とも魔法とも見える生き生きとした力の側にあったものです。 今もなお、呪文も祝詞も魔法もないという言語文化は皆無です。 どの言語であっても、適切な理解のもとに言語を用いるかどうかでコミュニケーションは変わり、 また適切な理解のもとに沈黙するかどうかでコミュニケーションが変わるのです。 「精神」との表記を知る漢字圏の人々は、人間のうちに神のつくものがあると考えているはずですが、 自分には精神があるが、相手には精神がないと思っている人間はどこの国にもおります。 「spirit」の語は印欧語全般にわたると思われる「息吹」のラテン語から派生していますが、 人のうちに息吹があるかどうかもまた、天地と神につながる精という思考を含んでいます。 自分のspirit以上に人のspiritを尊重するという人間もまた、どこの国にもおります。 対人態度や振る舞いと言語の、相関関係についての比較文化論というご質問でしたのなら、 言葉に重みがあるということと言霊とは無関係に、 重い言葉を使う人と軽い言葉を使う人には、精神-息吹のちがいがあり、 国語文化によらず各言語や各国家の一枚岩でもないと述べておきます。 そしてむしろ、表現の質と沈黙の質という問題は、国家政治経済の問題として、抑圧、生産/消費形態から考えねばならないでしょう。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  重大な勘違いをしていました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  言挙げせずとも互いに分かるということと、言霊思想とのあいだに一定の関係があるかどうかについては、すでに自問済みですか。  沈黙のなかには言霊は無いのですが。。。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言は事で 言霊も 言葉を発しなくとも 事のあり方だけで 事霊が はたらくと思っていました。だから 《言挙げせず》が 日常生活のくせ(エートス)なのだとです。たとえば   葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国   しかれども 言挙げぞ我がする ・・・(十三巻・3253番)   磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ (3254)  《神ながら 言挙げせぬ国》というのが 基本であると思っていました。《神ながら》というのが 《事霊》のちからであるとです。そのような口には出さない《言霊(事霊)の助くる国ぞ》であるのだが その上に なお《しかれども 言挙げぞ我がする》のであって だから《きみよ ま幸くありこそ》と言葉を発することもおこなおうと言っているのだと。  つまりは 《言挙げせぬ 神ながら》なる・口に出しても出さなくても言霊のさき(咲き⇒幸)はふ国ゆえに 《人は 互いに相手を神と思っているのだろうか》と問うたのでした。  うぅーん。どうしましょう。  質問の趣旨は 早い話が 《以心伝心》です。これを コミュニケーションにおいて どう位置づけるかです。さらに 日本人論(したがって 外国人との比較対照)として どう捉えておくかです。  あとは この質問は 次の質問から出たものです。  《Q: 日本人は 人間ではないでしょうか=        http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3893969.html 》   (つまり コミュニケーションの問題をあつかっています)。  ★ ところでどの言語であっても字源を見れば古くは万象と結びついた形と音から発生したもので、 / 語というものは、呪文とも祝詞とも魔法とも見える生き生きとした力の側にあったものです。  ☆ このとき 言語以前と言いますか いえ 言語をすでに伴なっていていいのですが それでもそのとき 《言わない・言葉に出さないという態度》(大雑把に 事霊として)と 《呪文・祝詞・魔法とも見える生き生きとした力の側の語》(言霊)との関係は どうなんでしょうと問うても よろしいですか。それによって 問題がはっきりするように思うのですが。  あるいは   ☆ 以心伝心 というのですから 関係の側面また交通・交流そのものに焦点があたっていて  ★ 表現の質と沈黙の質という問題  ☆ とは 微妙に異なるとも思ったりします。その主題はおもしろそうですが。  あと wiki の《言霊》には 指摘していただいた《息・風( spirit / pneuma / ruah )》が 軽く 触れられていました。確認です。   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A  たぶん wikiの定義からいくと わたしの失態ですが これだけをお伝えして 《以心伝心》の問題を論じていただければさいわいですし うれしいです。もちろん それが 全体観とのかかわりを抜きにしては 論じ尽くせないという事情でしたら ことと場のゆるす範囲で おしえていただければ もうそれ以上のことはないと思います。  この質疑応答のため・つまりみなさんのためにも そもそもコミュニケーションとは何かから始めていただく形であっても それにも わたしのできる限りで ついてまいりますので あとは 自由なかたちで ご投稿いただければと存じますが。  * そうですね。いくつか指摘していただいた論点や学の分野は それとしては 質問を改めたほうがよいかも知れませんね。

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.5

>《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》 あ、そういう意味での「神」は、日本特有とみて間違いないし、悪しき習慣ですね。 この場合、自分が何もしゃべらなくても自分の意思が相手に伝わっていることを期待している、 という意味で、実際には人間にはそんなことできない、神でないとできない ということから、「相手を神と思っている」わけです。 更にひどいことに、自分も相手のことをわかってないのにわかったふりをしています。 (《言挙げせず》とも互いに分かる、といっている。) で、どうすれば「話さなくてもわかる」状態になるかというと、 皆の価値観が同じならそういう状態に多少なりとも近づくわけで、 「相手を神と思っている」イコール「自分の価値観と違う相手の排除」です。 大陸だと、民族が入り混じっているから、価値観が各自違い全員を趣旨換えできないのは自明。 ですから、自分の意見を伝えるためには自分から何らかの行動に出ないとならないわけで、 「相手を神と思っている」人がいたら、「何も発言しない。何考えているかわからない。いや、何も意見を持っていないアホだ。」 とまわりから評価されるだけです。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 「相手を神と思っている」イコール「自分の価値観と違う相手の排除」です。  ☆ 《ワーオ !!》と思わず言ってしまいました。心の中でですが ここまできびしいと 気持ちいいです。  たしかに たとえば今村仁司の《排除の構造》論などをも思い浮かべます。《第三項》の排除というそれです。価値観の共有ができない第三項です。あるいは masa2211さんの論理でいくと 《互いに 話をしなくても わかったふりをする》という価値観の共有というのもありなんですね。  わたしのように昔の人間は 《思いやり / 察し合い / あるいは 惻隠の情》などなどという言葉が にぎわっていました。人と仲良くやっていくためには 馬鹿にならなければいけないよという文句も 花盛りでした。  ★ そういう意味での「神」は、日本特有とみて間違いないし、悪しき習慣ですね。  ☆ たぶん このようなきちんとした見解が出て やがて 《思いやり》のいい面を保ちつつ また新しいわが国が 新しい社会として 作られていくのでしょうね。  ★ 大陸だと、民族が入り混じっているから、価値観が各自違い全員を趣旨換えできないのは自明。  ☆ 島国の問題なのですが この主題では こうも ふと 考えたことがあります。この極東の島々にやってきた人びとは 意外と雑多であり また 何波かに分かれ かつ いくつかの民族(言語習慣文化の違い)にも分かれていたのではないか。それが 行き止まりの土地ゆえに 雑種でありながら 一つの民族に統合されていったのかも知れない。だからこそ 進取の気風や外国のものに対して柔軟に自由に受容するという性質を持っているのだと。  おそらく 血液などの調査で 日本民族は それほど分散するような生物学な存在ではないと分かるとするなら それでも 外に開かれた気質ではあると思うのですが それにしても コミュニケーションのことでは 何かと まずい一面が 目立つようですよね。なんとかしたいですね。

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.4

いつもお世話になってます これは回答では有りませんが、他の方もおしゃってますがbragelone様の場合、何を言いたいのかが判りにくいですね、誤解されての回答が有るように思います。 私などは哲学、宗教の知識レベル一定まで達してないのも有りますが それ以前に文章自体が判りにくいでね(私自身の学力の無さかもしれませんが) もう少し判りやすく書き込まれた方がbragelone様にとっても良いのではないでしょうか 私自体の文章も判りにくいでしょうが、学力がないものですからお許しください。 お気を悪くなされたなら申し訳ありません。

noname#80116
質問者

お礼

 お世話さまです。ありがとうございます。  前回通じたものですから うっかりしていたかも知れません。でも それは もう一つ前の質問と関連していたので 通じたということかも知れません。  補足説明ができないのは情けないのですが この趣旨説明のままで ご回答を待ちたいと思います。  司馬遼太郎の《念仏平和主義》のばあいは 《平和を希求する》と言挙げするのですが その言葉にした場合にも 平和なら平和という言霊が やはり はたらいて その希求が現実になるというような意味あいがあるようです。  それではいけないと言っているのですが もし言霊が生きているとすれば それは 非言語的なコミュニケーションをとおして 意思疎通が出来たということになる。もちろん仮りにの話ですが つまりは 人びとの心理的なつながりの側面で 幻想としてなりに なんらかの働きがあるのではないかという理論です。  そして そのことを つまりそのような情況を 《互いに相手を神と思っている》と表現しています。実際に思っていなくても あたかも そのような表現があてはまる人間関係が 日本人のあいだには 一般的にですが あるのでしょうか。ないでしょうか。と問うています。  神ということばの定義もしていないのですが そのまま  《一般にわれわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか》 と問います。まづは 感覚的にでもどう受けとめていらっしゃるのか 知りたいです。おそらく その受け止めのあと みなさんも この情況について お考えに思い当たって その内容を披露していただけるのではないかと考えます。    言霊の国だというが そうではない / いや そうである。  言霊の国であるが それを《互いに相手を神と思っている》という表現に替えるのは おかしい / いや 部分的には 考えられるかも知れん。などなどです。  つけたしですが ときに われわれ日本人は 日本に来ている外国人のことを 或る種の仕方で 神だと思っているというような心理現象はないですか。なかったですか。

  • kana14
  • ベストアンサー率9% (13/140)
回答No.3

「われわれ」とはどういうグループですか? 日本人全員というなら回答不能です。 ちなみに私はつゆほども思いません。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答のとおりに受け取りました。ありがとうございました。

  • ferretlove
  • ベストアンサー率26% (331/1267)
回答No.2

何を聞きたいのかがさっぱりわかりません。 議論目的でしたらアンケートカテゴリーでどうぞ。 http://oshiete1.goo.ne.jp/c713.html

noname#80116
質問者

お礼

 残念です。  ありがとうございました。

noname#77348
noname#77348
回答No.1

>われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか そんな人がいたら、会ってみたいものです。 「人」が「神」を騙るなど・・

noname#80116
質問者

お礼

 趣旨説明でも 通じませんか。  アドヴァイスをありがとうございました。