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われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか
あらためての設問です。前回ご投稿くださった方には 大変申し訳なく思っております。お詫び申し上げるとともに よろしくお願い致しとう存じます。 日本人論です。 コミュニケーションの問題です。そのうち 非言語による場合です。 《言霊(ことだま)》のくにであり 《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》と表現したものです。 ・最近知ったのですが 井沢元彦の持論によると 日本は 和と言霊の国であるが 言霊は 司馬遼太郎の言葉で《念仏平和主義》に通じるゆえ あまりよくない習慣であるだろうということのようです。(非公式ファンサイト) ・そもそも《しかれども 言挙げぞ我がする》とも言って来ていますから 綜合的に捉えて どうなのでしょう。最近は 公けにも 討論が盛んですし。 ・とうぜんの如く ほかの国の人びととのコミュニケーションは どうあるのがよいかを知りたいと思います。 ・なお 生活感覚として 外国のことをわたしは知らないので 質問では 《日本人は・・・》と特定する形になっています。そのような現実的な事柄としても おしえていただければ幸いです。
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6です。 人麿ですか。。。それは凄みのあることですね、扱いは容易ではないでしょう。 まあ、特異な歌人と思います。枕詞など実景のイメージを巧みに使いますね。紋切型ではないですね。 それこそ、言挙げをとりおこなう歌人としての凄みがあります。 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ吾がする .... 葦に邪気を払われ、みずみずしい若穂の揺れる豊かな日本は、 すなわち神なので (モノやウラを、つまりあらわでない心の部分を) 口にしない国だ、 というところは、自分の行為に凄み・重みを持たせるのに好都合な、前置きなわけですが、 言幸く ま幸くいませと 言霊に守られて無事に、無事にいってらっしゃいと、 自分が言ってあげるというわけですね。 人麿の言葉によって、守られて行きなさいと。 発さなければ言は無い、また事も無い、というところに、 このように言葉で何物かを屹立させるというのが、人麿ですね。 以心伝心とは逆ではないでしょうかね。 穢れなく清く美しい島の日本は言霊に守られる国であるから、 という返歌もまた、自分がこうして歌うと効力があるでしょう、ということです。 たいしたものです。 ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。 それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。 ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。 神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。 心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。 仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。 だからといって、「無事にいってらっしゃい」を口に出さない国柄というわけではないですね、そこは歌のレトリックです。 お返事いただいた補足にありました、言葉に出さないことと、呪文祝詞魔法めいた生き生きした力の側にある語との関係ですが、 皆に言わなくても一人の人間に抱え込ませる言葉が、呪(まじな)いです。 暗い穴とせむしの象形を持ちますが、この犠牲者一人においては少なくとも言語化されたという事実が必要なのです。 暗い穴に閉じ込められた言霊もあるということです。 言祝ぎは、皆に披露する言葉であり、祭壇とせむしの象形を持ちます。 言葉に出さないことは力を持たないことであり、言葉に出すことは恩恵と力を得ることだという思想は、日本に古来からあるわけです。 分をわきまえないような力を持たないということとも繋がっているのでしょう。 最後に、外国との安易な比較は無理です。一般に、本質というものについてそうとうな観点の相違があります。 パンとはなんですか、どのようなものですか、と聞くだけで、 一般的な日本人と一般的な欧米人の答える観点が違うことに気付かれるでしょう。 言葉で示そう(示しうる)とするものについて根本的に違う部分がたしかにあるのです。
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- taco8ch
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またもや言葉のもつ別の側面とコミュニケーションについて。 最近の海外旅行本は本当によくできていて、『指差し○○語会話』という本があるのだな。 海外旅行先で使いそうなシチュエーションや日用品のふんだんなイラストを現地語を付して載せていて、 現地語が喋れなくても、行った先でその本を現地の人に開いて、指でこれこれと指し示せば、 言いたいことが伝わるという便利なのか面倒なのか、よくわからないがとにかくそういう絵本。 (おしむらくは「事故・トラブル」のページに「コンドームをつけてください」のイラストがない) この四六版という、どう見ても海外旅行には邪魔なサイズの絵本が暴いているのは、 そもそも言葉というものが、代替物かそれに近い一側面をもっていて、 おしである話し手が、耳しいである聞き手を前にして、 あらかじめ与えられた代替物を指で指し示している行為にしかないという事実なんだろう。 シュメール人とかメソポタミアそこらへんの文明創始期の頭のいい連中が、 線文字だの楔文字だのを発明する前段階として、粘土でこねた小細工を コミュニケーションツールに用いた(って、これ本当?え~?)のもそれに通じるかもだ。 そんで行き着いた究極の粘土細工は金の子牛だったりしてね。あは。 「いろはにほへと」や「ひふみよいむなや」の時代、 日本人の言語文化は今よりもけっこうある面豊かだったんじゃないかしら? 島国にぬくぬくと育った日本人は確かに、渡来人、南蛮人、朝貢、勘合符そして侵略を通して、 波状的に大陸の言語文化の流入を受けてきたけど、 日本人が最初に中国の文字体系を知ってから、それを取り入れようという大改革に至るまでに、 はたしてどれだけの時間をかけたのだろうか。(調べる気さらさらなし) そうして取り入れた漢字の成れの果てが、万葉仮名というただの記号であり、 オコト点という註釈であり、ついには漢字と似ても似つかない仮名の発明ですわ。 俺は#5の回答を積極的に支持はしないけれど、これもうむしろ「拒否」の姿勢では? このへん朝鮮半島ではどうだったのだろう?とも。 そんなへんちくりんな文字や註釈記号まで作りまくって日本人は日本語の何を守ろうとしたのか。 先に日本語の顕著な特徴に、きわめて短いあるいは単音韻の中に、 重層的に意味を折り込んでいる性質があるのなら、と適当にも言ったけど、 伸ばしこなし可変する47粒の粘土に例えてみるのは戯ごとだろうか。 しかしその47粒が、2つ3つそして文章として連鎖的に並べられたときに、 音素音韻の塩基配列が紡ぎだすタンパク質の結合が結肉上に何をもたらすのかはどうにもねえ。 陶芸師にでもなんないと分かんないかな。「愛の波動」(#26)とかは俺なんかはちょっとダメダメ。 言霊(質問者の興味するところの一次的コトダマではなく二次的な)は やはり読み上げられてはじめて作用するというのが正装のようだ。そういう意味では、 言葉に秘められた不思議な(と言ってしまえばハイそれまでよと)機能を用いた技巧(わざ)なのだろう。 羊のドリーは遺伝子工学の人知がもたらしたおまじないと言ったところだろうか。 ――けどまあ、これらはすべて比喩でありエッセイだけどさ。
お礼
ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる当の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明でもある。 《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを 合成すれば 《やま‐と》のかたちに その地を 言葉として持った。 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり やまと(山‐処)‐は うるはし。 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。 やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。 《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここに《ま / ろ / ば 》をも添えて やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現(それは 判断である)を基軸として 文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。 * * * 途中で次の箇所は この際 要らないものでした。削除しそこないました。 ~~~~~~~~~~~~~ つまり これは 中心主題相/ h / と指定相・断定相/ s /が働いたと《あとづけ》してそうなる事態ではある。ここに 自称相 / ’(=ア行子音)/で ~~~~~~~~~~~~
補足
ふむふむ。これだけのエッセーになれば 何かを言うのは不粋というものですな。前回(No.24)は ヒッシで書き込んだんだけど。 ● も=もも(百) ち=千 そのあと ろ=よろづ(万) が分かった。あと(《ら ね》)が分かんない。 ● 1.《ず/づ じ/ぢ》の書き分けは やはり必要ではないだろうか。 ・誰かが言っていたけれど 《躓き》を 《つまずき》と書くと 《妻好き》と思えるそうな。 2.《を》を使うのなら たしかに 《ゐ》も 《ゑ》も 復活させたほうがよい。 3.《ヴ( v / vu )》を使うのなら いっそのこと va =ワ゛〔ワ に ゛(点点)〕 vi =ヰ゛ ve =ヱ゛ vo =ヲ゛とやりたい。 ● ★ 音韻で語彙を成すのは、ご本家中国語でも同じ。同じではあるが、彼らは同じ「マー」でも、/ 音の抑揚による意味の区別というさらにシステマティックな使い分けを行う。/ 日本語もそうした面はないことはないけど、中国語のそれほど明快ではないのではないだろうか。 ☆ 声調は 漢語は 四声。広東語は 六声。タイ語は 歌っているみたい。文字が めちゃめちゃ〔だと こちらには映る〕。ビルマが ミャンマーだったのは いいとして ラングーンが ヤンゴン アウンサンスーチーさんは Suu Kyi なんだね。 文字どおりに 《決して》発音しないのは ケルト語のアイルランドとスコットランド。お早うございます が おぉっす となるように 略してしまうみたい。ウェールズは それほどでないよ。ブルトン語はやっていない。・・・・・・・・・・・・・・・ フィリピン(タガログ語)は 語幹に 接頭辞・接尾辞だけではなく 接中辞をもつけて それもかなり規則的に付加して 語をつくっている。けっこう論理的になるんじゃないかと思えるんだけれど。 ☆ やまとことばについては わたくしも 《Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3187871.html 》で かなり書いています。 ● どうも taco8chさんは われは 言葉なり / われは 言語の動態的な体系なりというような社会総体の立ち場で ものを言っておられる。このわざは どこから来るのか。そのへんが わたしには分からないのだが その随想に適確にお相手するすべも 身についていないようだ。いかんせん 自分の学んだところをそのまま出すしか能がない。 先ほどの《Q:ソシュール・・・》への回答で気に入っている文章を再掲載して おなぐさみに代えます(ANo.69)。言霊について参考になればと また そこから さらにご投稿が得られればと思いつつ。 * * * 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが HA..... と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きがあるはづです。あったはづです。 HA.....SI。 というふうに 続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして 発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取った。また その心の状態をも取り立てた形だと思われる。 HASI . / はし。 こうなると 心の状態が あたかも表わされたかに思える。《愛(は)し》。つまり これは 中心主題相/ h / と指定相・断定相/ s /が働いたと《あとづけ》してそうなる事態ではある。ここに 自称相 / ’(=ア行子音)/で う。 アルイハ うる(⇒裏・裡・心)。 と作って これを添えれば うる‐はし。(麗しい) とつなげて いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができたようだ。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.33です。 >この言説は 哲学にとっては 無意味です。もう断定して言っても いいでしょう。 そうですね。 哲学の特徴は、終わりなく思考することですが、ヘブライ語は、始まりと同時に終わりがあるように思います。 これはヘブライ語がものの抽象概念が存在せず、ものの本質を直接洗わず言語だが、ギリシャ語は本質を表せず、いつまでも論じることが可能な言語だからなそうな。 ですので、ギリシャが哲学の発祥の地となった。 >そこで ものごと(諸行)を相互依存関係において見る=つまり縁起として見る その見方を 空観というのだと理解します。そのときには 《色即是空 かつ 空即是色》になるのではないでしょうか。往復の切符があることになりますね。 ああ、なるほど。 人間次第ってわけですよね。 物理を専門職としている人に、わかりやすく説明してもらったことがあります。 不確定原理を思い浮かべました。 人が「白」だと思って覗けば、それは「白」という性質になり、「黒だ」と思って覗けば、「黒」の性質になる。 前、ネット辞書で「神」という語彙を検索したところ、どの辞書にも「該当のものはありませんでした」という結果を出した。 すっごいびっくりしました。 でも、考えてみれば、全ての人に共通する認識は無いってことですね。 個人個人が「これが神」と思ったら、その人にとってはそれが「神」になりうる、ということは、神は限界を持つもの ということになる。 その人次第 ということになる。 人次第であるとすれば、「あの人は私にとって神様だ」と言う人がいたら、<その人にとって> つまり一定の限界においては、神なわけです。 で、「あなはた私にとって神様です」「あなたこそ神様です」と言い合う者同士がいたら、その人たち同士は神様同士になるわけです。 逆に質問者に答えまで導いてもらちゃいました。 お互いを神様だと思っている同士に対し、部外者は口を挟めないですね ですが、哲学は一部の人が認識をするものを哲学とは言わない。 誰もが「そうだ」と思うことじゃないと駄目。 一部の人のみ可能になる分野だと、それは哲学ではなく宗教になってしまいますから。 > kigurumiさんも そろそろ ご自分の思想は これこれであると闡明なさったほうがいいと考えますが。 つまり私には限界があるとみてとられるあなたは、私の限界の外に存在するものである というわけですか。 キリスト教であれば、あなたは神になりますね。 そのこと自体が空である というのが般若心経では語られています。 「囚われるな 捕囚されるな こだわって動けなくなるな」 が、しかし、「ここにあるバナナは、はて 本当にバナナだろうか。幻かもしれない。 どうやったらこれが本物のバナナだとわかるのだろうか。 見るとバナナに見える 匂いもバナナに見える」という修行僧に「食ってみりゃわかる」と口につっこむ私。 哲学を専攻する生徒達が、教室で「あーでもない こーでもない。」と答えを求めて議論しているのを見て、哲学の先生は「こんなことろで くすぶっていないで、外に出ろ。そうすればわかる」と怒鳴り、ヒントを出したんですね。 ということで、世の中に出てみれば、答えはわかるんじゃないか と。 日本人はお互いを神だと思っていない と。 タイムマシンって理論上は存在しえますが、現実は存在しえませんよね? だって、タイムマシンが将来存在すれば、現在にも存在するはずですから。 机上で成り立つ(存在できる)が、現実世界では存在しないものもあるんですね。 その1つが 神。 神が限界の中にいる限り、じゃあ その神の限界の外にいるものは誰だ ということになる。 それこそ神だ。 じゃあ その神の外にいるものは誰だ? それこそ神だ、じゃあ 、、、、永遠に続きます。 これがギリシャが生み出した哲学の運命。 >楽がしたいものです。 議論をやめて、教室の外に出ることだと思います。 時が来ました。 終焉ですね。 私もレポートの作成にとりかからなければならないし。 ドスちゃんの<罪と罰>に関するレポートを提出しなければなんです。 ラスちゃんは、自分を神にするべく人を殺した。 ところが、人を殺して神になったはずなのに、、、 このシュールな世界を、机上の論ではなく、現実をもって、罪とはなにか 罰とはなにか その関連性は と論破しなけりゃならない。 ラスちゃんは神になったはずなのに、どうして苦痛は生まれたのか。 ラスちゃんの理論でいけば、実行したのだから自分は神と決定できたはずなのに。 人が相手を神だと思えば、神になるはずなのに、実際はならない。 やばいです。こんなところでおしゃべりしている場合じゃない。 期限までにあと3つ仕上げないと。 とにかく レポート提出の参考になりそうな内容 いくつか見かけたので、質問に感謝です。
お礼
Bon voyage !!! 熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(一・8) ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神が限界の中にいる限り、じゃあ その神の限界の外にいるものは誰だ ということになる。 それこそ神だ。 じゃあ その神の外にいるものは誰だ? それこそ神だ、じゃあ 、、、、永遠に続きます。 これがギリシャが生み出した哲学の運命。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 同じ無限でも 悪無限の例です。悪しき無限です。人知により 果てしなく人知を追求するという――愚かな――卜占のたぐいです。 またお会いしましょう。
補足
この場を借りて みなさんに申し上げます。 新しい質問《Q:いわゆる共同体は もう望みが薄いですか= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4016682.html 》を掲げました。 考えてみれば 日本人論にもつながりますし 《コミュニケーション》の問題としても 共通の部分があるようですので この質問は締めようと思います。よろしかったら 新しいほうに どうぞ奮ってご投稿ください。お待ちします。 2008年5月12日 bragelone
primeapeです。 ジャン・レノ主演の映画《ジャガー》 ワヌとフランソワのつながりは人知を超えた存在を暗示しています。 もし人間だけの話ならこの物語のクライマックスでクマレはジャンブルに飲み込まれるのではなくフランソワの手でとどめを刺されてなければいけない。 私の霊媒師体験についてです。 ワヌのようなシャーマンとして私は永遠に対する無理解を幅広く扱ってきました。 2番目くらいに手ひどかった悪霊に反物質お化けというのがいました。 宇宙が有限であることを証明するために反ぶしつを夢想しようとする衝動です。 このお化けは何に触れても対消滅すると思い込んで取っ掛かりが全くなわ、人様の脳を実験室にして反ぶしつを合成しようとするわで、とても手を焼きました。私の名前を知る知り合いにそのような高度な論理武装のできる学者はいませんから、明白に神様が引っ張ってきた危篤患者でした。 このように人知を超えた存在が介入するのがまっとうなテレパシーだと思います。 名前の縛りの直通携帯電話や、迷惑電話ではなくてこれこそまっとうなテレパシーだと思います。
お礼
おおっ。そうですか。 一度 映画を見て 気にかかっていました。でも 特に何も探究もせず 映画の内容をくわしく知ろうともしていなかったのですが。 たとえば ふつうに見れば もう途方もなく大袈裟ですよね。ただ 一般に伝わるのかなぁとも思いますし。・・・ わたしのいちばん現実性を感じたところは ワヌが けっきょく 瀕死の状態になっていても それは 何か外からのものを自分の中で引き受けていて それが 自己治療をするかのように推移して じっさいひと段落を打つと ワヌが けろっとして直るところです。 つまり ひとの欠陥や病気を 自分の中で 引き受けるというところです。その外からのものである欠陥の持ち主のほうが もし自己治療(また自然治癒)できなかった場合には それはそれとして こちらは その引きうけの務めが 一たん終わるというものだと思われます。これは たいへんな務めのようですね。 それと さらに ★ クライマックスで〔敵対していた〕クマレはジャングルに飲み込まれる ☆ というように 自然つまり自然現象も かかわっているとすると 中途半端の事件ではないようですね。 まぁ おそらく いまはまだ これくらいにしておくべきでしょうね。だって primeapeさんのご説明も まだまだ わたしにも 飲みこむのが むつかしいと思う部分もありますから。そうとう ていねいに説明していかなければならないと思います。 ありがとうございました。今回のわからなかった部分は留保してまいります。
そういえばゲマトリアなんてのがあったか… 最近、不毛なことばっかりやっていたから 忘れていることが多い。 こんにちは。brageloneさん。 散々紆余曲折ありましたが、無宗教者になりました。 昔、祭司は神に祭儀を行っていましたが、やがて 祭儀を行えば、神は人間に従うということに気づきました。 そこでポイントになるのは、呪文で、言語ですね。 言語によって他者を意のままにすることができる。 さて、数秘術。ものは数字に置き換えることができます。 秘密の数式を知れば、この世界を意のままにすることができる。 どこかできいたような話です。 さてさて、汎神論。 我々は全てが神に由来するものを持つ。 神=人間。 さてさて、現代の祭司は誰でしょうかね。
お礼
この場を借りて みなさんに さらにひとこと 申し上げます。 2008年5月12日(月) 追伸です。 No.36補足欄にて この質問を締めるむねを申し上げました。次の新しい質問へつなぐものと思っていたからだと思うのですが お礼のことばを失念してしまいました。すみません。 そして この質問にいろんな角度からご見解を寄せていただき 多様性をもった質疑応答になったと思います。感謝申し上げます。ありがとうございました。 言霊の思想についても 新しい問いが 含むと考えて差し支えないと思いますので 引き続き ご投稿いただくようお願い致します。
補足
ご回答をありがとうございます。 No.29の補足欄で 《ことだま資本主義》へと話を無理やり持っていこうとしています。《一人ひとりに それぞれ一人前の分け前を分け与える》(タマス)あるいは《多少のちょろまかしは大目に見る》(カンダラ)の要素からでした。 ここから連想がはたらきます。イエスの語った《ぶどう園の労働者》の話です。これまでほとんど考えてみなかった箇所ですが いかが反応なさるか???お聞きしてみます。みなさんにも 補足の質問です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 天の国は次のようにたとえられる。 ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 ――あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払っ てやろう。 と言った。それで、その人たちは出かけて行った。 主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、 ――なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。 と尋ねると、彼らは、 ――だれも雇ってくれないのです。 と言った。主人は彼らに、 ――あなたたちもぶどう園に行きなさい。 と言った。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、 ――労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者 まで順に賃金を払ってやりなさい。 と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。 ――最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一 日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱 いにするとは。 主人はその一人に答えた。 ――友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一 デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰り なさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払っ てやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけ ないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。 (マタイによる福音20:1-16) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《もう一つのたとえを聞きなさい》と始めて 別の《ぶどう園と農夫》の話が マタイ21:33から 始まりますが 割愛します。農夫の反逆のような話ですね。 そういえば 先の物語をめぐってだと思いますが ジョン・ラスキンとかいう人が『この最後の者にも( Unto this last )』という本を書いていましたね。明るい人 いらっしゃいますかね。 ★ ゲマトリア( gematria ) ☆ この語として聞いたことはなかった。 geometryから来ているのですね。 ★ 無宗教者 ★ さてさて、現代の祭司は誰でしょうかね。 ☆ 表現からして なぞなんですが。
- kigurumi
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No.31です。 あ、、YHWHを空の般若心経で説けば、どちらでもあり、どちらでもない でした。 ヘブライ語の男の数価は45、女は19、そしてYHWHは26。 男と女の間がYWHWですね。 >《空》は 語義としては 《ゼロ》のことですから 《無》と同じだと思います。 とすれば、生 自体存在しないことになりません? 色即是空、で終わるはずなのに、何故 空即是色をもってきているのでしょう? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29 『『般若経』の空は、このように全ての固定的観念を否定する事を主目的としている。』 で、以前ネット辞書で神を検索したら、ほとんどの辞書が「該当のものは見つかりません」 と出たのにはびっくりしました。 地域・民族によって どういうものを神としているか違う。 それぞれの宗教が神の概念を決めようとしているが、般若心経でいけば、それが迷う心を生んでいる行為だ としているのでしょうか。 ま、ともかく 決定できたようでよかったですね。 でも、そうなると 苦が生まれますよ。
補足
kigurumiさん ご回答をありがとうございます。 ですが 今回は ゴウインすぎます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あ、、YHWHを空の般若心経で説けば、どちらでもあり、どちらでもない でした。 ヘブライ語の男の数価は45、女は19、そしてYHWHは26。 男と女の間がYWHWですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この言説は 哲学にとっては 無意味です。もう断定して言っても いいでしょう。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《空》は 語義としては 《ゼロ》のことですから 《無》と同じだと思います。 とすれば、生 自体存在しないことになりません? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ となります。それが ニヒリスムです。その虚無主義でないとすれば 仏教の空観に拠ることになるでしょうと申し上げました。 ★ 色即是空、で終わるはずなのに、何故 空即是色をもってきているのでしょう? ☆ わたしの見解ということになりますが 色即是空は 往相・還相(つまり 往・復)の往相のほうで捉えた見方です。そのあと そこから再びこの世に衆生済度のために還って来て(還相) 空即是色と見る。 でも 参照サイトのwikiにも ナーガールジュナ(龍樹)の見解を載せています。 ▼ 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている事を明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。 ☆ 《これを空もしくは「空性」と呼んでいる》と表現すると その《空もしくは「空性」》が 実体としてあるように響きます。つまり 一切は空であるというのは 実体がない(無神論)と言っているのに 矛盾するように響きます。 そこで ものごと(諸行)を相互依存関係において見る=つまり縁起として見る その見方を 空観というのだと理解します。そのときには 《色即是空 かつ 空即是色》になるのではないでしょうか。往復の切符があることになりますね。 こまかいことですが ★▼ 固定的観念を否定する ☆ では まだ あいまいだと考えます。それだったら こころの自由とか頭の柔軟性という一般的な思想です。 この固定観念から自由になり ものごとを捉えたとき ことば(つまり 人間の認識つまり経験思考)を超えたところが想定されます。これを《実体》(あるいは 絶対)と仮りに呼びます。 そしてこの実体が無いとするのが 無神論で 有るとするのが 有神論です。有るも無いも 仮りの想定です。 空観=縁起=無我説は 無神論です。ブラフマン(また それとアートマンとの合一)を想定するのは 有神論です。ちなみに 同じ仏教でも 《仏性あるいは 法身のブッダ》 これを説くのは 実体のことです。あたかも ブラフマンと同じ類型であって 有神論です。《絶対者としての神》と言うのと同じで ただ名前が異なるだけのものです。(その初発の想定においてです。そのあとの神学では いろいろ多様性を持ってくるようですが)。 kigurumiさんも そろそろ ご自分の思想は これこれであると闡明なさったほうがいいと考えますが。冒頭の事例を言っておられるようでは 迫力が失われますよ。《666》がどうだこうだは 《迷信》ですから。(わたしの自己批判にもなるかたちで言いました)。 《四十》という数が 《充満・充実》を表わすなどのたとえは 《四(よ) ないし 八(や)》が 《愈愈(いよいよ)や 弥(いや)増す》の意に通じて 聖数だというのと同じように それぞれ民俗であるという限りで ふつうの事態でしょうが。 まぁ kigurumiさんに苦言を呈するのは このわたしbrageloneくらいしかいないでしょう。 ★ ま、ともかく 決定できたようでよかったですね。 / でも、そうなると 苦が生まれますよ。 ☆ 話をそらしてはいけません。いけません。だんだんと 人間でなくなっていきます。これを言って 抵抗なさるのでしたら もうわたしには責任がきわめて少なくなります。楽がしたいものです。
primeapeです。 >けっきょく primeapeさんやわたくしが 《無神だとか 神だとか》言う場合と 一般に 《かみ》と言う場合とは 中身が違うということになるのではないでしょうか。 その通りともいえますが、本音ではなんとなく納得としかいえません。 というのも、人間信仰を貫いて(意識できる限りにおいては)何者にもすがりつかずにあたま真っ白け(だからあえて空も無も使わない)までたどり着いたので、私は無神論者の究極の成功事例と人様には見えなくも無いです。 実際にわたしは神の存在について知識不足です。 そんなわたしの回答は前回と今回のこのご質問に影響を与えていると思うのですが、どのように閃いたかを質問者様が自問するだけでも答えになるのではないでしょうか。
お礼
primeapeさん こんばんは。いつもお世話さまです。 いちばんの収穫(という言葉をつかってもいいとすればですが)は 前回の次の部分です。 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしが 終始 受け身でいるというのは 独立主観として その外に出ないということです。何かを外から受容したなら それに応じて 動きます。primeapeさんが 《原因を外に求めることになる》とおっしゃるのは 網の目のつながりのほうを しっかり見つめておられるからです。 ★ 実際に自分ではない誰かの心の断片を体感しています。 ☆ なるほどと思いました。確かにわたしの場合でも このような《誰かの心の断片を 〔けっこう 普段でも〕 体感しています》。ちがいは その《体感》にしても あくまで 《外にあるもの / わたくしの問題ではないもの》と認識していることです。 そうしていながら もし或るとき 誰かではなく特定の人から 実際にはたらきかけがあれば その時点で《わたくしの問題にもなる》わけです。 なるほど こういう違いのようですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 或る種の言い方では 鬼に金棒です。二つの場合がよくわかりました。 つまりこのことの裏返しとしては 有神論と無神論とが けっきょく よく似ているなどというだけではなく 類型として(大きく信仰の枠組として) まったく同じだという事態だと理解したのでしたが どうでしょう。 さらに言いかえると 人びと一般の場合には 大きく信仰のあり方が 有神論にしても無神論にしても きわめてあいまいであり ほとんど自覚していないということではないでしょうか。唯物史観――古いですが――のマルクシストも 無神論のあり方を知らない場合が多いでしょうし 宗教を信じている(――これは 矛盾した言い方なのですが――)という人も じっさいには その有神論のあり方が まったくおかしな・ただの道徳論のようであると見てとっています。 まだ 少し 焦点が合っていないかも知れません。さらに 突っ込んでみてください。
補足
primeapeさん ジャン・レノ主演の映画《ジャガー》(1996)の中に出てくるテレパシーについては どう捉えますか。 →http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD30196/story.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ *(註) 結末まで述べてあります。 あらすじ パリ。アマゾンで育った男ジャン(ジャン・レノ)は、熱帯雨林破壊反対キャンペーンのため、呪術師ワヌ(ハリソン・ロウ)と当地を来訪。 ところが、ワヌはホテルのエレヴェーターで乗り合わせた男フランソワ(パトリック・ブリュエル)に異様な興味を示して彼につきまとい、ジャンを困惑させるが、それはどうやら自分の魂が失われる不吉な夢を見たことが原因らしい。 ほどなくワヌは突然倒れ、瀕死の状態に。ワヌはジャンに、フランソワとアマゾンへ赴き、自分の魂を救ってくれと頼む。フランソワこそ選ばれた者なのだという。 借金まみれで怠惰な生活を送るフランソワにワヌが救えるのか、ジャンは疑念を持ちながら、彼をつかまえる。ジャンはワヌが渡したお守りをフランソワの首にかけて、絶対外すなと厳命した。 アマゾンへ到着した彼らを、アマゾンのジャングルを開発しようとする悪漢クマレ(ダニー・トレジョ)が待ち受ける。実はクマレこそがジャングルを滅ぼして、ワヌの魂を奪おうとする元凶だったのだ。 アマゾンまで連れてこられて不機嫌なフランソワだが、クマレが連れた美女マヤ(パトリシア・ヴェラスケス)にひと目惚れ。 酒場でクマレの一味は彼がワヌのお守りをしているのを見つけて襲撃してくる。だが、その時お守りを通じて、ワヌが強大なパワーをパリの病床から送り、フランソワはトランス状態で敵を撃退。 マヤに連れられて逃げた彼は、探しに来たジャンと共にさらにジャングルの奥地へ。クマレは執拗に追撃してきて、ジャンは負傷。ついにクマレは黒魔術師をかつぎだして勝負を挑んでくる。 悪の力の前に苦戦するジャンとフランソワだが、そこでまたあのお守りがパワーを発揮。ワヌが最後の力をふりしぼって戦ったのだ。クマレはフランソワに敗れてジャングルに逃げ込むが、猛獣ジャガーの餌食となった。かくして、ワヌと再会を果たしたフランソワは、マヤと共にアマゾンで暮らすことになった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- kigurumi
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No.27です。 >>こういうことでしょうか。 >《いっさいは 無である。ただし 現象は この世界に起こっている。 無とは違うと思います。 空だと思います。 手品師を例えておられますが、そういう側面もあると思います。 手品師は仕掛けをしていますよね。 その仕掛けのせいで、死角ができ、視聴者は全てを見れず、手品師が人為的に作った世界を見せられる。 >表と裏の問題だと考えられます。そして この表と裏とを合わせて >この世の《陽》の世界です。《陰》の世界は 目に見えません。 つまり 視聴者からすれば、手品師に隠された部分を陰の世界と捉え、手品師の視点からすれば、タネも知っているので、陰は存在せず、全てが陽。 まあ そういうことだと思います。 ただし、視聴者はタネがあると知っている。 陰は無じゃなく存在しているが、手品師によって隠されていて見えないだけと知っている。 アニミズム文化は日本に限りませんよね。 例えば病が起こったとする。 だいたいはウイルスのせいです。 ウイルスは顕微鏡ができるまで、それを捉えることができなかった。 無いのにつぎつぎ人が倒れるので、自然界に住むなにかの祟りだ と捉えていたんじゃないか と。 自然界に何かある がわからない。 わからないので、どうにもできない。 畏怖する。 例えば、キューリ夫妻は自然界に存在するラジウムを発見しました。 ラジウムは目に見えません。が確かに存在していたので、やがてその力によりキューリ夫人は白血病になってしまいました。 人間は今まで捉えることができないものを、自然の中にある 何か と思い、日本だと 言霊 と表現していたのかもしれません。 人の心は見えません。 ある意味陰の世界ですね。 アメリカ人は、裁判で言い負かした方が正義としているが、日本の場合、すぐ裁判にもっていって決着をつけようとしない。 和の精神があるからだと思います。 和の精神 見えませんが、日本人の行動に現れていますよね。 どちらも損をすることで、和を保つ など典型的なものがあるし、二つの勢力が激突して、どっちかが全滅するまで戦うのではなく、大国主命が引退をして国ゆずりをしたことで、どっちの集団も生き残った。 一説には、負けたから引退したとかいう話もありますし、しめ縄で結界を張って、大国主命を封じ込めて陽の世界に出てこれないようにしているという説もありますが・・・。 (出雲大社はいずれの説も否定しているらしいです。) >いっさいは 無である。 いえ 一切は空である じゃないかと。 >ただし 現象は この世界に起こっている。 はい、見えていないだけで、存在はしている。 水素と酸素が存在していたとする。 結合する前は水自体は存在しないが、水素と酸素は存在しており、水になったり水素と酸素になったり。 ブラフマーとアートマンって結局そういうことかなぁ・・とぼんやり思えます。 だから散らばったアートマンを全部組み立てるとブラフマーになるんじゃないかと。 アートマンをいくつか組み立てると、何かできますが、あっちこっちのできたブロックを全部組み立終わるとブラフマーになる。 ブラフマーがぼっかーんと爆発してバラバラになると、アートマンだけ存在するかのように見える。 ってことを昔の人は考えていたのでしょうか。 >人間として社会性を重んじるならば その現象を 大きく捉えて 人びとと だいたい同じように 扱っていくことにしている》。 これ よく意味わかりません。 >ですが――再び三たび ですがになりますが―― そうでしたら やはり > ☆☆ つまり 陽の世界でのコミュニケーションは 《陰の世界との交通をも合わせて》 泡沫であるというお告げのようなものです。 > ☆ ということになりませんか。 えっと、、、こういうことですか? 人間のコミュニケーションは、うたかたの夢である ってことでしょうか? ある意味 そうだと思います。 例えば「相手とは運命の糸で結ばれていて必然的に出会い愛し合うようになった。 この人以外 考えられない」と思っていた人が、10年後、「あの時の気持ちはなんだったのだろうか 錯覚だったのか」と思った場合、時間を無視していますよね。 世の中は常に移り変わり、人の心も移ろう ということを失念している。 般若心経で、色即是空 空即是色 ってありますよね。 すごく難しいですが、要するに 移ろうってことかなぁ と私は思います。 永遠に留まって停止しているものは何も無いってことじゃないかと。 色 というのは、「ある」のことだと思うんですね。 ダンテの神曲だったと思いますが、「それがなんになろう 一切無にひっさらわれるのに」と悪魔が言いますよね。 「残念ながら悪魔さん、一切がひっさらわれ無になるわけじゃあない。」とニヒリストの悪魔さんに反論したくなりません?。笑 他の回答者と出エジプト記の3:14について話していますよね。 その箇所だったか忘れましたが、「私はあるである」という訳と「私はYHWHである」という訳とあったような・・・・ yah、yahu、jahveh、jhvh、jahi、jehovah、yahweh、jesus,jaho、iao、leuw、lupiter いろいろ地域によって違いますね。 yhwhは yod he vau heの頭文字らしいんですね。 「ありてあるものは」という解説になる場合、アブ・ブラハム神(父なるブラフマー)が自らを明かした際に用いたサンスクリット語 Tat Sat(ありてあるもの)を借用したものらしい。 で、YHWHの語根はHWH、he vau heで、「存在」「生命」または「女」を意味し、それをラテン語にすると E、V、E(eve)になるらしい。 で、YHWHは二つに分けられる名前と呼ばれ、これは自然界のあらゆる力を含んでいると考えられていたらしい。 HWH(母なるイヴ)とI(すなわちjehovahを表すyod)。 ってことは YHWHは「私はある」「私は生命である」ってことでしょうか? うーん すなわち 「私はあんたがたのかーちゃんです」って言っているようなものじゃないかと。 美しい訳し方じゃないですけど。 要するに「私はブラフマーである」ってことですね。 ぼっかーんと分裂し、あるものは野の草になり、あるものは結合して空気になり、あるものは結合して人間になった。 そうなると、この世のありとあらゆるものはブラフマーの断片ってことになりますね。 その断片の私達はブラフマーの一部とすれば、ブラフマーを初源 全ての元だとしたら、それぞれ元は神ってことにもなりえますね。 おお 繋がった! 力技ですけど。。。 ただし、お互いを神だとは思っていないが、、、、
補足
kigurumiさん ご回答をありがとうございます。 (1) まづは それとして答えの出ることばの問題のほうからです。 残念ながら いまのところ kigurumiさんの仮説を確認しえずでした。あしからず。 ▼ (三語根子音)HWH / HYH =《ある。 be; become 》 ・e-HWeH = 《わたしはある。 I am. 》 ・ya-HWeH = 《かれは あらしめる。 He makes be. 》(定説にあらず)。 → http://www.bartleby.com/61/roots/S119.html ▼ KhWH = 《生きる。 live 》 ・KhaWWaa = 《生きること。いのち。living; life 》=エワ( Eve ) → http://www.bartleby.com/61/89/E0248900.html ▼ Tat Sat ・ tat =《あれ・あの。 that 》 ・ sat = 《f.あること。まこと。ただしさ 《m. 貴い人。賢人 《n. 実体。存在。ブラフマンのこと》 * 欧語 essentia=essenceと語源も意味も同じ。 ・ brahman ← brh = 《膨らむ。育つ。大きくなる》 → http://en.wikipedia.org/wiki/Om_Tat_Sat ▼ Abraham (《もろもろの民の父》の意をもたせようとした)←Abram ( Abiram )=《わが父は高められたり》 → http://en.wikipedia.org/wiki/Abraham (2) ★ ダンテの神曲 ☆ 残念ながら くわしくないです。 (3)《空》は 語義としては 《ゼロ》のことですから 《無》と同じだと思います。そのように 虚無主義でないとすれば 仏教の《空観》に拠らなければならないでしょう。 つまり 類型として 無神論です。経験世界についてのみ あつかうという立ち場です。色受想行識みな 実体のないものと見るのが 空観だと思います。その空観をもって しかも この無常なる世界に還って来て 空即是色 空即是受 空即是想・・・とすべて この世の肯定に入るのだと思います。 言いかえると すべては 縁起であるというのと同じで 自然現象として 因果関係を明らかにし 社会現象としては もろもろの表現行為の相互に依存し関係しあう世界と見てゆくのでしょう。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >人間として社会性を重んじるならば その現象を 大きく捉えて 人びとと だいたい同じように 扱っていくことにしている》。 これ よく意味わかりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 世の中の習慣に従うというような意味でしたが もし上の仏教思想でしたら もうこの必要はないはづです。 ちなみに ★ ブラフマンとアートマン つまり 梵我一如 ☆ でしたら 類型としては 有神論ですよ。ブラフマンは 実体と呼ぶべき原理です。先の空観とは 相容れませんよ。 (4)★ 大国主命 ☆ の国ゆづりは その子が けっきょく 腕相撲のようなことをして決めました。そこに至るまでには 何人か何回も タカマノハラから 服従を促す使者が 何年にもわたって やってきていました。 すでに タカマノハラは オホクニヌシの祖先のスサノヲを みづからの国から追放したというのに スサノヲらの出雲八重垣なる共同体が あまりにも 活気にあふれ 繁栄しているのを聞いて その秘密をおしえてくれというのが 実情だったと解釈します。 主戦論も非戦論も 人間の弱さから来ています。オホクニヌシは 後者をえらびました。誇るなら 弱さを誇ろうと。(恰好をつけました)。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelone様。先の私の答案についてはかけ離れたご理解のご様子でした。どうも致し方御座いませんね。 類似のというより、伝え合いといわれていることばのことで、ご質問があるのをご存じのことと存じ上げます。 一応ここに関連としてご紹介申しあげます。 http://kikitai.teacup.com/qa3999095.html なおこの質問に、ANo.3で私も拙い回答を書き込んでおります。 どうかご参照下さい。
補足
krya1998さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。 《コミュニケーション》の訳語として ★ 伝え合い ☆ なるほど これが よいかも分かりません。そしてなお率直に申しますならば ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言語外のコミュニケーションはたいへん多いと存じます。錯覚や思い込みもありますが、生活を機能させているのは、発している言語ではないような、自分の内側の言語のような気がしております。(ANo.12) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とおっしゃるごとく 《内側の言語》の意味あいを保ったまま それと《話し合い》とのひとまとまりを表わすことのできるような・・・とは思うところも残っているのではありますが。 それにしても ★ 先の私の答案についてはかけ離れたご理解のご様子でした。 ☆ これほどだったのでしょうか。でも それでしたら たとえば ★ sympathy ☆ の言葉をめぐって もっと 補足の説明をしてくださればよかったとも思ったりしますが。誰もが そのために 説明をやり取りしていくのだと思いますし。つまり《コミュニケーション》として。 これの語義は 《助け合い・仕え合い》といったことのようですね。 ★ 言葉の意味性について ☆ についてですが まづ ★☆ かんがえ←かむかへ=か(処)むかへ(迎へ・向かへ・向き合へ)(大野晋) ☆ が 妥当な語源だと承知しております。か(処)は 在り処・住み処の か だそうです。あたかも その思惟の対象と対面しているような感じではないでしょうか。 としますと ことばは 原義と派生義とあるいは むしろ でたらめな変化発展の義と さまざまに移り行くもののようです。という意味は ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神が言葉を発した。それからもう俗化は始まります。 人間に言葉を与えた、それはコミュニケーションをさせるとともに、お互いの離反(同じことばで異なる観念意味内容による)させるためでもありあました。これが創造のプロセスを一面から画いたものです。 観念と意味は生活と歴史で異ならざるを得ない。いい意味では社会化でしょう。これは多面俗化ということでもありましょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このご見解に賛同しつつ 《原義の保持》の側面にも 光を当てたいというささやかな思いを 無理にでも 述べました。 このあと 《コミュニケーション》について 一つの民俗学的な挿話を No.29の補足欄に書きこむ予定です。よろしかったら そちらも参照いただけると光栄です。 なおANo.12にいただいたご回答は みなさんにとっても 賛同していただける内容のものと心得ております。もし玉に瑕を無理にでも探すとしますならば それは 基礎の基礎であり 一般論であり そこから 少々の勇み足としてでも 議論の錯綜する密林の中へ分け入って お話を広げていただくならば・・・とも存ずるのが わたしの赤きこころです。 お言葉を返してばかりいるようですが おそらくみなさんにも そういう思いが希望としてあるのではないかと わたしなりに推し測っての物言いでございます。なにとぞ そこのところは お汲み取りいただければさいわいと思って 筆を擱くことと致します。 なお いつものことですが お礼欄と補足欄とは わたしの場合 字数の短い長いによって 使い分けしております。あしからずご了承くださいませ。
>『出エジプト記』3:14の例の 神がモーセに向かって自分の名を告げる一文をめぐって うつくしくてきれいな日本文をおしえて欲しいのです。< と24の方の返答に書いていらっしゃいますが、 わ・れ という語だけで、すでにそういう構造となっておりますね、 空間範囲と、充満の実質とでもいいましょうか。 が、この方面にはあまり凝らないほうがよろしいです。現代詩人か狂人の専売分野ですのでね。
お礼
amaguappaさん ご回答をありがとうございます。 うーん。うなりますね。 《わ‐》 = 存在ないし自己の 受けとめ。 《‐れ》 = 肯定。その確認。 《われ》全体として = 自己の自乗(一の無限の連乗積も 一)。 自己の同一性(アイデンティティ)。 ★ という語だけで、すでにそういう構造となっておりますね。 ☆ かくて われらが表現行為のすべては この時空間における《われ》の冪としての展開なるか!? ただし ★ この方面にはあまり凝らないほうがよろしいです。 ☆ とか。 やや 禅問答に近いという要素を持っているようですので 哲学ないし文学として ちょこっとは ほかにも解を求めるかも知れません。 多謝。
補足
覚え書きです。 《ことだま資本主義》についてです。 このような連想を抱かせるような社会経験の歴史を 民俗学者の谷川健一が 今朝の新聞に書いています。 《タマス / カンダラ》が 鍵語です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 狩猟や漁撈の獲物の配分を南九州から奄美・沖縄にかけてタマスと呼んでいる。ひとタマスといえば 一人分の分け前のことである。 ここで興味があるのは タマスは当事者だけに与えられるものではないということである。狩や漁の現場にたまたま居合わせた者もタマスにあずかることができる。それを《見ダマス》という。見る者に与えられるタマスのことである。 小学生の私が貰った小魚や雑魚も見ダマスにほかならなかった。それどころか 昔の南島では 家の赤ん坊にもまた峠を超えているゆきずりの旅人にも 一人分のタマスが与えられた。山村の猪狩に参加した猟犬も一人前のタマスを受ける資格があった。 柳田国男はタマスという語は《賜う》《賜う物》に由来し 霊魂(タマシヒ)とも根本は一つだと云っている。海の神 山の神の前で祈願し 獲物がとれたときは 真先に神に捧げて感謝するという 古来の風習を前提とした平等な分配であった。 ・・・ これについて興味深いエピソードがある。大正時代 武者小路実篤の提唱した《新しき村》が日向の山村に作られたとき 美術評論家であった中村亮平も参加した一人であった。その未亡人から聞いた話であるが 《新しき村》の住民たちは お互いに平等な生活を目指す理想に燃えながら《あの家はコーヒーに砂糖を多く入れすぎる》と些末なことにも陰口をたたいて牽制しあったという。 《神》を抜きにした平等が 天国を目指して地獄に落ちたというのはソビエト社会をはじめ よくあることだが 新しき村はその教訓の小さな実例であった。 狩人や漁師が獲物を 惜しみなく 平等に分配するのは それが神から授かったものであり 独り占めする訳にはゆかない という考えが根底にある。そこで 漁の現場で獲物をくすねることも大目に見られた。瀬戸内や九州に多く これをカンダラと呼んだ。 カンダラという意味は不明であるが 要するに盗み魚のことである。これが漁場の親方から大目に見られたということは 神の与えた賜物は万人に平等に分配すべきもので これもタマスの一種と認めない訳にはいかなかったのである。 (谷川健一:私の履歴書(7) 日本経済新聞5月8日朝刊) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《言霊》やそのコミュニケーションのあり方につながっていないでしょうか。
primeapeです。 今までの回答内容が質問者様にしか理解しがたいたとえ話だったので、ここで少し整理します。 人知と人間性の対立とは、一般に広くある理性と本能の対立と同じような意味です。 私の場合自分自身の存在への確信があり、この対立構造が「白紙」の状態のため、原因を外に求めることになる。 実際に自分ではない誰かの心の断片を体感しています。 そのような論議を理解可能な質問者様とだけの会話で行いました。 今回のテーマである「われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか」 についてですが。 日本人が本当に無信教であるかどうかと関係があります。 私の信じるものは人間自身です。 この思いは子供の頃から内在していて、何かにすがりたくなるとき「何よりも信じるものは人間である」そのような心の声を聞きました。 その結果信仰心は安定して、まるで無心教のように振舞ってきました。 私にとってうってつけの言葉が「仏の現代語訳は人間」です。 現在では神からの恩恵も体感できます。 たどり着いてみれば、やはり実際にいらっしゃるんですね。 以上のような前提の下にお話をしてきました。 A25の質問者様からのお礼で気が付いたのですが、どこか条件反射的に、意識しない奸知が働いて、罠みたいな言葉をいっぱいばら撒いたようです。 その点はご了承ください。
お礼
primeapeさん 今回 わかりやすいです。ありがとうございます。 少しスピード違反であったかも知れないですね。 なるほど。関係主義という考え方ですね。網の目の相互関係から 社会は成っていると思いますが この関係性を 世界の基軸として それだけを想定する立ち場では おっしゃっているように 無神論つまり人間主義になると思います。 そうして 結局のところでは 有神論と――世界観の全体としては―― まったく同じ境涯なのだと捉えています。 ちなみに 有神論の場合には 網の目のつながりのその線・つまり関係性だけを捉えるのではなく 結び目つまり結節点つまり われわれ人間主体をも 一つの基軸として 想定します。 (従って 人間は 社会的な独立主観なる存在だという側面をも押し出します。〔これに対する《確信》はむしろ持ちません。自然体でいるということにもなっていますが〕。この独立主観であると同時に 社会的な関係性を有する存在であると規定します)。 わたしが 終始 受け身でいるというのは 独立主観として その外に出ないということです。何かを外から受容したなら それに応じて 動きます。primeapeさんが 《原因を外に求めることになる》とおっしゃるのは 網の目のつながりのほうを しっかり見つめておられるからです。 ★ 実際に自分ではない誰かの心の断片を体感しています。 ☆ なるほどと思いました。確かにわたしの場合でも このような《誰かの心の断片を 〔けっこう 普段でも〕 体感しています》。ちがいは その《体感》にしても あくまで 《外にあるもの / わたくしの問題ではないもの》と認識していることです。そうして 誰かではなく特定の人から 実際にはたらきかけがあれば その時点で《わたくしの問題にもなる》わけです。 なるほど こういう違いのようですね。 この質問への直接の答えとしては けっきょく primeapeさんやわたくしが 《無神だとか 神だとか》言う場合と 一般に 《かみ》と言う場合とは 中身が違うということになるのではないでしょうか。 もっとも 初源の(第一次の)事霊=言霊については わたしたちの《神》につうじるものも あると思います。それで あつかっているのですが。
補足
ご回答をありがとうございます。 俄然 雲行きが 良いほうにかあまり芳しくないほうにか あやしくなってまいりました。 ここでは みなさんからもお許しを乞うて 邪道ですが 謬見を作業仮説として用いつづけるというかたちを取ります。つまり 《言霊》は 《事霊》として 初めには=基本的には 言葉を口に出さない状態にあってはたらくという仮説です。怪我の巧妙になるか あるいは やはり謬見であったと明確に分かるか 探究を続けたいと考えました。 直前のご回答へのお応えを承けての内容になります。次の部分を ここにも 掲げます。 * どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。 空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で それは単なる《事の端⇒言の葉・言葉》と捉えたかも知れない。 したがって 《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。 * というのも 雷は つまり神鳴りは 事であり 神というからには その《事》に 《いか(厳)つ(の)ち(霊)》ということだまが宿ると捉えられた。雷光は 稲の生育に 霊の息吹きを宿させるという観想によって《いなつるび(稲と雷電との交接)》あるいは《いなづま(稲妻もしくは 稲夫〔夫も つま と読む〕)》と表現した。生育というよりは 稲が孕むということのようです。 だとすれば このような《こと(事)》とその《霊》の観想が 初めにあって そのあと《言霊》や《言挙げ》が続くと思われて来ます。 もっと言うならば――あとで掻く恥のことを忘れるとするならば―― たとえば《のりと・のろい・まじない・言祝ぎ》は 第一次の《事霊》の現象を 再現しようという・したがって 第二次的な人間の側の知恵であり努力であるとなります。 ★ ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。 ☆ というのは 以上のような事態と現実とを言い当てた見方ではないでしょうか。すなわち つづけて ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。 ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。 神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、/ 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし さらに続けて ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。 仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき 《心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず》は そのとおりだと思うのですが もし言挙げできると思って言挙げした場合 《禁忌》かどうかは これも 第二次に人間が作った取り決め事であるように思われて来ます。 あるいは 初めには ずべてが《禁忌》であったかも知れません。というよりは 禁忌と取り決めなくても 言挙げすることは出来ないという思いがあったのかも知れません。やがて 言挙げするようになって(知恵の木の実を食べて) しかも その言葉どおりに行かなかった場合 そのような場合について 禁忌と規定するようになったというように。 必ずしも整理しないまま 提出します。 * なおこうなると 以心伝心にも 第一次の交通・交流と 第二次の人間のはからいによるそれとが あると考えられて来ます。さあ 果たして このわたしたちの探求は いかがあい成るでしょう。 * 字数が多い場合には お礼も お礼欄ではなく 補足欄に書くことにしています。