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われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか
あらためての設問です。前回ご投稿くださった方には 大変申し訳なく思っております。お詫び申し上げるとともに よろしくお願い致しとう存じます。 日本人論です。 コミュニケーションの問題です。そのうち 非言語による場合です。 《言霊(ことだま)》のくにであり 《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》と表現したものです。 ・最近知ったのですが 井沢元彦の持論によると 日本は 和と言霊の国であるが 言霊は 司馬遼太郎の言葉で《念仏平和主義》に通じるゆえ あまりよくない習慣であるだろうということのようです。(非公式ファンサイト) ・そもそも《しかれども 言挙げぞ我がする》とも言って来ていますから 綜合的に捉えて どうなのでしょう。最近は 公けにも 討論が盛んですし。 ・とうぜんの如く ほかの国の人びととのコミュニケーションは どうあるのがよいかを知りたいと思います。 ・なお 生活感覚として 外国のことをわたしは知らないので 質問では 《日本人は・・・》と特定する形になっています。そのような現実的な事柄としても おしえていただければ幸いです。
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6です。 人麿ですか。。。それは凄みのあることですね、扱いは容易ではないでしょう。 まあ、特異な歌人と思います。枕詞など実景のイメージを巧みに使いますね。紋切型ではないですね。 それこそ、言挙げをとりおこなう歌人としての凄みがあります。 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ吾がする .... 葦に邪気を払われ、みずみずしい若穂の揺れる豊かな日本は、 すなわち神なので (モノやウラを、つまりあらわでない心の部分を) 口にしない国だ、 というところは、自分の行為に凄み・重みを持たせるのに好都合な、前置きなわけですが、 言幸く ま幸くいませと 言霊に守られて無事に、無事にいってらっしゃいと、 自分が言ってあげるというわけですね。 人麿の言葉によって、守られて行きなさいと。 発さなければ言は無い、また事も無い、というところに、 このように言葉で何物かを屹立させるというのが、人麿ですね。 以心伝心とは逆ではないでしょうかね。 穢れなく清く美しい島の日本は言霊に守られる国であるから、 という返歌もまた、自分がこうして歌うと効力があるでしょう、ということです。 たいしたものです。 ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。 それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。 ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。 神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。 心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。 仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。 だからといって、「無事にいってらっしゃい」を口に出さない国柄というわけではないですね、そこは歌のレトリックです。 お返事いただいた補足にありました、言葉に出さないことと、呪文祝詞魔法めいた生き生きした力の側にある語との関係ですが、 皆に言わなくても一人の人間に抱え込ませる言葉が、呪(まじな)いです。 暗い穴とせむしの象形を持ちますが、この犠牲者一人においては少なくとも言語化されたという事実が必要なのです。 暗い穴に閉じ込められた言霊もあるということです。 言祝ぎは、皆に披露する言葉であり、祭壇とせむしの象形を持ちます。 言葉に出さないことは力を持たないことであり、言葉に出すことは恩恵と力を得ることだという思想は、日本に古来からあるわけです。 分をわきまえないような力を持たないということとも繋がっているのでしょう。 最後に、外国との安易な比較は無理です。一般に、本質というものについてそうとうな観点の相違があります。 パンとはなんですか、どのようなものですか、と聞くだけで、 一般的な日本人と一般的な欧米人の答える観点が違うことに気付かれるでしょう。 言葉で示そう(示しうる)とするものについて根本的に違う部分がたしかにあるのです。
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- kigurumi
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No.21です。 >《Q:われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか》 これに対して kigurumiさんの答えは > 《A:然り。しかのみならず 外国人も然り。つまり人類みな 一人ひとりが神である》 >こういう結論になるようですね 私の説明の仕方が悪かったので、そのような誤解が生じてしまったようです。 結構 言霊とか陰の世界の存在を信じている人たちがいるってことです。 例えば、日本の天皇、この前までは神だと信じられていましたよね。 国民に言葉を発するとき、紙に書いた文字を ゆっくり 丁寧に 唱えますよね。 言霊としているからだと思います。 文字を音化し実体化させる作業として ああいう唱え方になるんじゃないかと。 言霊を唱えるものが、言い間違えて その結果 別のことが実体化しちゃうと 大変なことになる としたので、文字を音化するとき、慎重になるんじゃないか と。 ちなみに いろは は古神道の言霊だし、 ひふみも 言霊として使われていた。 一方的に国民に幸が起こるように、天皇は事挙げをするってわけです。 これは神道の儀式が元だと思えますが、天皇は神道のトップみたいなものですから、トップとしての立場を行使したわけですよね。 その立場にたってた上で発言しないとき(言霊として使わない)時は、紙を読み上げていないし スラスラ喋る。 日本が言霊文化を持つとされる理由。 挙げると、葦を@「よし」といったりする。 お祝いの席で コブやタイが出る。 忌部氏は神官職だったが、イムはよく無いとして、斎部と改めたりした。 藤原氏は日本の政治氏族でしたが、元は忌部のようですので、呪術系の氏族が、政治を牛耳っていたってわけですね。 そうなるとやたらに、日の行事の中に、呪術が取り込まれるんじゃないかと。 ねぎがかもしょって ってのは 禰宜が賀茂を連れて って意味だとしたら、禰宜が各地の神社に派遣され、その時賀茂氏を連れてきたってことになり、賀茂氏といえば陰陽師なので、こりゃ 日本列島に呪術が加わった政治が広がりますわ。 ヨーロッパだって政治と宗教が一体化して国を動かしていましたよね。 >わたしと陰の世界とのかかわり。 >しかもそれは 一人ひとりにとって 一方通行でしかない》 これが この世界のすべてであるとおっしゃっていると理解せざるを得ません。 >つまり 陽の世界でのコミュニケーションは 泡沫であるというお告げのようなものです。 うーん、短歌に 陽の世界を うたかた と表現したものがありませんでしたっけ? えっと、、、 <ゆくかわのみずはたえずして、しかももとのみずにあらず よどみにうかぶうたかたは、かつきえかつむすびて ひさしくとどまりたるをしらず> 私は陰も陽も無いと思っています。 が、あると思っている人は沢山いるように思えます。 私は迷信は信じない。 もし 不思議な現象があったとしても、なんらか原因が必ずある と思っています。 その原因は時には調べられば原因は超常現象ではないのに、最初から調べず、奇跡だとか祟りだ 短絡的に考える人がいる。 言葉は使いようだと思います。 <あなたのお陰です。>という言葉。 前 陰の力を信じているから と言いましたけど、そういう人もいるでしょうけど、合理的な人々はどういうことで、その言葉を使うか。 コミュニケーションの円滑をはかるため。 「俺の実力だ」と言うより「あなたのお陰です」の方が両者を美化するので、丸くなるじゃないですか。 中庸の姿勢が両方に善い効果をもたらす。 だから、そういう意味では言葉に力はある ことになりますね。 ただ、心で思っていないで使うと、言葉だけの情報で人は判断しませんので「そらぞらしい」と見抜かれて、信用なら無い相手とされ、空言を使ったため、自ら不幸を招いたりする。 もう1つ、人に触れないで投げ飛ばすことができる人いるじゃないですか。 驚愕法を使い、相手に注意を自分に向けさせ、相手が目がそらせないようにすると、相手はもう手中に入ったので、自由に操れる人形になる。 手を前に出せば、相手の人は激しく後ろの転がる。 すごい 勢いで転がります。 右に手を伸ばすと相手は抵抗しながら、結局激しく横の転ぶ。 霊力があるって人もこれ使ってます。 それによって相手に脳の中に幻を生み出し、「霊が肩に乗っている」といわれた途端 肩がずーーんと重くなる。 これ 言霊じゃないです、 催眠術 といいます。 訓練すれば使えるようになるでしょう。 ただ、欠点は 暗示にかからないの方が圧倒的に多い。 だから万人には効かないんです。 いいカウンセラーと紹介されて受けた人が「全然 効果が無い」と言うのもそう。 カウンセラーが与える暗示にかからないから。 例えば「この仕事を始めるまでは月に1千万もうかるなんて思っていませんでした」という宣伝文句は、ネットビジネスでよく見かけるでしょう。 暗示にかかりやすい人は、その文章を書いた人は今では月1千万稼いでいると思い込む。 そんなこと書いてませんよね。 「今では」なんて書いてない。読む人が勝ってい幻の世界を現実だと認識してしまっていると、本当なんだ となる。 なにがほんと? ほんとのことって「前は月一千万稼げない」とその人が思っていたことだけですよね。 それだけ。 後は何も言ってない。 で、とびついて実際やってみると稼げない。 「あなたの努力次第で楽に稼げます」という文章に目が留まる。 「そうか 自分の努力が足らないのか」とまた 新しい妄想を勝手に起こしてくれる。 あーー こういう勝手に頭の中で幻を作ってくれる人がいるから、詐欺師はいなくならない。 これがカウンセリングとなると、「もうあなたは大丈夫です。今までの努力は無駄じゃないんです。あなたが今こうやって幸福になるために必要だったわけです」と言われた人は、心が軽くなる。 でも催眠って時間とともに消える。 ですので、またかけに行ってもらうことになる。 「先生 また 駄目になりました」 先生はまた催眠が切れた頃にやってくると知っている。 催眠にかかりやすい良質の顧客を捕まえれば、ずっと催眠にかかりにきてくれるので、おいしービジネスですね。 言霊(人霊) 恐るべし 笑。
補足
kigurumiさん 前回はわたしがおおきな誤解をしてしまったようですね。 ★(A) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私は陰も陽も無いと思っています。・・・ 私は迷信は信じない。 / もし 不思議な現象があったとしても、なんらか原因が必ずある と思っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この立ち場のほうに この世界観の解明のほうに 関心が移ってしまいそうですね。まだ 釈明もお詫びのことばも述べていませんが ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。 というか、決まった時に、決まった場所で、決まった音を発しないと実体化しない(効果が無い)ってのがマントラ(真言)です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そしてその事例も出しておられるのですから てっきり この《マントラ(真言)》の意味での《言霊》論者だと思ってしまいます。しかも その陰の世界との関係は 一方交通であると明言されたならば もう手も足も出ないと思ってしまいます。 でも 舌足らずだったとおっしゃってくださったので この件は 誤解であったとして もう大丈夫でしょう。失礼をしてしまいました。おゆるしあれ。 さて そうは言っても (A)の世界観を理解するのは そうた易いことではないと思います。 たとえば 手品には 種があります。時には 手品師が種明かしをすることさえあります。占いは 占い師がめったに種明かしをすることはありませんが 種があるでしょう。そのように挙げていけば プロフェッショナルの分野では いわゆる八百長があります。つまり種があります。 つまり これらの場合は 表と裏の問題だと考えられます。そして この表と裏とを合わせて この世の《陽》の世界です。《陰》の世界は 目に見えません。 ★ もし 不思議な現象があったとしても、なんらか原因が必ずある ☆ つまり 種があり八百長があるという因果関係のことでしょう。これは ごくふつうの共同主観(常識)です。ところが ★ 私は陰も陽も無いと思っています。 ☆ とのこと。これを どう理解するかです。 推測が出来ないわけでもないと思います。文章全体を見渡して 思えることは こうです。陽の世界が 裏表から成っていること そして その陽のほかに 陰陽の対照を成すがごとく 目に見えない陰の世界もある――このように成り立っている全体世界が《無い》とは どういうことか。 おそらく ひとつは 一方で すべては 相対性の世界だということ 他方で すべては 移ろいいくものだということ このことだとは思われます。これは 単純でしょう。問題は 《陰も陽も無い》と表現されたところです。それと ★ 言霊(人霊) 恐るべし 笑。 ☆ との関係も 重要のように思われます。 こういうことでしょうか。《いっさいは 無である。ただし 現象は この世界に起こっている。人間として社会性を重んじるならば その現象を 大きく捉えて 人びとと だいたい同じように 扱っていくことにしている》。 ですが――再び三たび ですがになりますが―― そうでしたら やはり ☆☆ つまり 陽の世界でのコミュニケーションは 《陰の世界との交通をも合わせて》 泡沫であるというお告げのようなものです。 ☆ ということになりませんか。わたしの誤解か それとも/および 少なからずなおkigurumiさんの舌足らずが残っているか。どうも この点 気になるのですが? 根掘葉掘之進でした。 * けっきょく kigurumiさんのご議論は 原因究明の部分を合わせて 述べていかれると 迷信の迷信たることを しっかりと――わかりやすい言葉で――伝えることが出来ると思います。
- h1r0s13
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言霊とは、念です。それは日本人に限ってだけではないのです。全ての言語による愛の波動です。 それから、「互いを神と思っているか」は、昔はそうでした。互いに尊のりを名乗っていましたが、今は違います。 現在は唯物論者が幅を利かして、さも利口そうに、簡単な事柄を複雑に書いたり喋ったりしています。 嘆かわしいことです。貴方が聞かんとすることは、より高次な次元から降りてくる妙なる波動のことではないのでしょうか。 この世の全ての物は、無償の愛の波動から成り立っています。それが言霊です。なにも人間専用のものではないのです。
補足
h1r0s13さん ご回答をありがとうございます。 うううーん。もう一度 うううーん。あらためて 複雑になってまいりました。 No.24のtaco8chさんが 言語じたいをも問題にすべきだという趣旨で 言霊のほうに焦点をあてられたのですが これを承けて さらに深く追求されたご見解ですね。 同じく 直接かどうかを別として ★ 「互いを神と思っているか」は、昔はそうでした。 ☆ これも taco8chさんの提起にありましたね。 ★ 〔昔は 人びとが〕互いに尊のりを名乗っていましたが、今は違います。 ☆ これは 神話(《神代》)の話ではないのですか。《互いを神と思っていた》社会情況ということを言っておられるのでしょうか。 ★ 貴方が聞かんとすることは、より高次な次元から降りてくる妙なる波動のことではないのでしょうか。 ☆ 《雷=神鳴り;いかつち;稲つるび;稲妻》の例を出して 《事霊=言霊》が 世界の基礎にあると人びとは受けとめていた / それが 今でも土壌となっていると思われる。と書きましたが どうも それ以上の《より高次な次元》の何ものかを 想定されているように受け取られます。 ★ 言霊とは、念です。それは日本人に限ってだけではないのです。全ての言語による愛の波動です。 ★ この世の全ての物は、無償の愛の波動から成り立っています。それが言霊です。なにも人間専用のものではないのです。 ☆ さて おおきく――おおきく です――《なぞ》において さらに《なぞ》として そういう領域が想定されうるとは思います。第一次の(初源の)《事霊=言霊》の想定と同じものです。 はて そのあと どう受け取って どうあつかえばよいのか。 ひとつ 思いつきました。《唯物論》も その第一原因として想定する《物質》は けっして《質料(もの)》のことではなくて そうでなく 質料の究極の抽象化として想定する概念だと思います。つまり 《もののけ(物の怪)》のことだと思いますよ。つまり 《高次の次元》にあるいわば《平等神》(無神というでしょうけれど)のようなものだと思うんですが。つまり 回りまわって 究極においては おっしゃっている《無償の愛の波動》(あるいは 原子=ものが 方向の偏りを起こすその運動)のことと同じ性質のものだとさえ 思うのですが いかがでしょう。 ★ 現在は唯物論者が幅を利かして、さも利口そうに、簡単な事柄を複雑に書いたり喋ったりしています。 ☆ これは そのとおりなのですが 大雑把に言えば げんみつな意味での《唯物論》ではないからです。これを誤解し曲解した《〈ただ物〉論》――物が大事 / すべては物という説――から来ているはづです。 それが証拠に 唯物史観の描く理想社会では 《経済的な必然性によって 体を売ったりする女はいなくなり 金で買ったりする男は もう いなくなる》と言っていますから。《愛の波動》でしょう? 茶化してはいけませんが これは またまた みなさんからもお考えを出していただいて わたしも おそわりつつ 練っていかなければならないように思います。
primeapeです。 いくつかbrageloneさん自身について。 >わたしの場合 すべて受け身だからです この受け煮の姿勢が無防備を意味するのなら私もそうです。 積極的になるために必要なのは暴力で無くさらなる勇気です。 それから観想を水路に流す。といった表現がありましたが、水路に流したものは受け止め手があります。 私の場合A16なんかはいい例でしょう。 陽性のあなたを勇気づける思いが返ってきたなら、その思いには税金の申告は要らないので入国管理局を物言わず素通りします。 そして意識できないのですが、実は既にそれほどの受身ではないのではないでしょうか。 仏の現代語訳は人間、この言葉は神の子とは人間のこと、いや、むしろ、神の子とは等しく人間のこと、そのように言っても同じ意味です。 未来人の姿と言うと私のも想像できませんが、神の姿と言うとそれは子供たちに良く似ています。
お礼
primeapeさん こんばんは。ありがとうございます。 ところどころ 少しづつ ちがいがあるようですね。 ★ ANo.16で 《何者でもない普遍的な人間(霊長を使いたいじれったさ)として今生で起こる自然淘汰をただ見守るだけで居てください。 / 私たち(愛の体現者は)はすっかりその気です。 // これがハルマゲドンです。》 ☆ こうだとすると 《受け身であり しかも 受け身に徹する》でいいように思うですが? しかも 《受け身 あるいは 自然体というのでしょうか》であるなら わざわざ《ハルマゲドン》とも言わないでよいと思えて来ています。たぶん そういう闘いが 迷える人知とのあいだに 繰り広げられるのが 実際だとも思うのですが その意識も じつは 要らないし そういう構えが要らないように これまで考えて来ました。 というより ほんとうに 相手へのはたらきかけ といったことは したことはないですし 考えたこともなかったのです。 また 《無防備》ということばが出ましたが たしかに 受け身で受けて立つとき 抽象的に言って けがを負うこともあります。たぶん それでも このような傷は 仕方ないのかなと思っております。そういう場合 相手が 自分を回復しないでいるときには むなしいのですが。それでも 仕方ない。つまり そういう務めを引き受けている と思っています。 わたしの場合 《 Everyone is a buddha. Everyone is a christ. 》という標語を掲げています。おそらく 同じ趣旨でしょう。
- taco8ch
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せっかく言霊の話だったので。こんな俺でも子供の時には、 あいうえお かきくけこ ・・・ といういわゆる五十音表を小学校で習ったわけですが、 このいかにも不器用な音の配列は、インドだかアラビアだか そこらへんの音韻表を参考にしただのしないだのではなかったかしら(もろ自信なし)。 この子音で揃えたシステマティックな「あいうえお」が、なにがしかの意味を成すのかどうかは分からないが、 少なくとも、今日の日本語ではおそらくこれといって意味を成さない。何つってもこれ覚えにくい。 なぜなら、五十音図の「あいうえお」は、インド人にはどうであれ、日本人には、もはや単なるアルファベットの羅列であり、 それは「記号」以上の性格がうすいからに違いない。 何よりまず「あ」の次「い」という発想が沸かない。「や」行なんて現代語では三つしかない。 「を」や「ん」をどうする。ほっとくのか?いいのかそれで。 ところで日本人はこれ以外にも他の配列をこっそり習っていて、ひとつは、ご存知 いろはにほへとちりぬるを・・・ という、もう頭坊主にしちゃうほどストイックな歌にして覚えちゃってる。この、「い」も「ろ」も「は」も、それだけでは記号にしかないが、 「いろ」と「は」はすでに意味と文法の息づかいを持っている。さらに「ゐ」とか「ゑ」の旧かなもちゃんとある。 それにしてもなぜこれら旧かなは失われたのか?だって「アルファベット」にすると「い」と「え」にかぶっちゃうしね。 だが、「ゐ」と「ゑ」を失くした和歌ははたしてどんなもんだろう? もうちょっと時代をさかのぼってみる。 ひふみよいむなやこともちろらね・・・(だっけ?さらに自信なし) もうこれ意味まったく分からない。分からないが、どこかしら怪しげな呪文っぽさをかもし出す数の和語表現は、 「ひ」、「ふ」、「み」・・・それぞれが、単に数を意味する以上に、何がしかの意味を持っているのかもしれない。 というのも、日本語にはこの1音節による単語が非常に多いように見える。 「ひ 一、日、陽、火、灯、引、退・・・」 「ふ 二、風、吹、拭・・・」 「み 三、水、見、身、実、箕、美、海・・・」 もちろん、音韻で語彙を成すのは、ご本家中国語でも同じ。同じではあるが、彼らは同じ「マー」でも、 音の抑揚による意味の区別というさらにシステマティックな使い分けを行う。 (いやはやまいったよ中国人。よその国のお寺で騒いじゃだめだよ) 日本語もそうした面はないことはないけど、中国語のそれほど明快ではないのではないだろうか。 (いや、中国語は毛沢東語録とワンタンメンくらいしか知らんけどね) アルファベットのもとをある程度たどったところのフィニキア文字では AもBもCもそもそもは象形文字で、それぞれに意味があったのだろうけど、「A」は「牛の頭」だと知ってる米国人はちょっと引く。 アルファベットは特別な用法と限られた語彙を除けば、2文字以上で語彙を形成する場合がほとんどだ。 遠回りしすぎですが、日本語の音韻はそれぞれが、それだけで重層的多義的な意味を内包していて、 話者が発したことばに、話者や聞き手の意思それとは別のところで、何か」が生きて作用するメカニズムを持っているのかもしれない。 言霊の問題ではないかもしれないが、和歌のかけことばは、忍者と焼き鳥好きの外国人から見れば駄洒落に過ぎないだろう。 しかしはたして駄洒落ほど饒舌ではないのは日本人なら分かるはずだ。 少なくとも和歌の鑑賞者は、その見え隠れする駄洒落を、言葉の地平にまで会いに出向かないといけないし、 そのためには一定の民族的なルールにのっとらなければならない。それは以心伝心と言えばそうなのかもしれないけれど。 文明人を自負する一部の白人から見れば、それは後天的な美しさと言うところだろうか。 結局、遠回りして行き着かないわけですが、 >ほかの国の人びととのコミュニケーションは >どうあるのがよいか 安直に考えれば、明治以来のこれまで通りでいいんじゃないですか。 ことのはから霊を奪って「あいうえお」に代え、「ゐ」と「ゑ」をなくして「い」と「え」に代え、 「うつくしいくに」を「美しい国」に代え、 あとは特定危険部位つきの牛肉こっそり買ってれば、あっちからも理解してくれますよ。 ただ、そうした理解を得たのちの日本と日本人の姿は、昔や今とはずいぶん違ったものになるかも。 日本人がお互いを神と思ってるかどうかは、他の方の回答を楽しく拝見したいと思いますが、 俺に言わせれば、日本人は神であることをとっととやめようとしてますなんだけどね。 あっとそれから前の質問とやらは読んでおりません。あしからず。
お礼
言霊に関係する日本語として 《わざ / わざはひ / わざをき / ことわざ / わざうた 》の意味を 次の箇所に辞典から抜き出して掲げました。 《Q: 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3965802.html 》そのNo.54のお礼欄です。 中で ▼わざうた【童謡】 《ワザは隠された意味の意》 政治上のことなどを風刺する歌。落首。児童に歌わせたので《童謡》と書く。 これは 《風刺する》という意味内容にかかわらせて 《わざ》が言われているとすれば そうだとすれば 言葉を発することによって その言葉どおりの内容が現実となれというのではなく そうではなく あたかも隠れた神意の現われと言うべきような結果(たとえば 悪政のむくいとして その為政者の退陣というような結果)を願っているのだと考えられます。ですから 《のろい》とも異なると言うべきでしょう。 そうだとすれば 第一次の《事霊=言霊》と 第二次の・けっきょく似而非言霊(つまり仮りに言って 言葉霊)とは 区別されてくると思われます。 《わざ=隠れた神意》とすると 本来の言霊では 《言葉(意味内容A)→神意→結果(意味内容A' あるいは はっきり B でもよいという祈りの中味)》のごとく つながっている。しかるに 《のろい・まじない》などの場合 《言葉(A)⇒結果(A)》というような浅薄なつながりとその内容を 念力によるかのごとく 祈念している。 こう仮説されるでしょう。
補足
なるほど!! 《言霊》というからには 言語そのものをも取り上げなければ 非常に貧しい議論になるのじゃないかと。 わたしの関心は 《以心伝心》だけに集中していました。つまりはまた コミュニケーションというからには そのまじわり・交通・交流・意思疎通 つまりむしろ 関係性のほうに この質問の場合には目が向いていましたね。 taco8chさん(えらくめずらしいお名前ですね) ご回答をありがとうございます。 ★ 俺に言わせれば、日本人は神であることをとっととやめようとしてますなんだけどね。 ☆ ふうーむ。《日本人は神である》ことがあったわけですね? おもしろそうですが。 ★ ひふみよいむなやこともちろらね・・ ☆ も=もも(百) ち=千 ろ ら ね : これらが分かりません。 ちなみに 母音交替で成り立っているようですね(大野晋)。 一 hito 三 mi 四 yo 二 huta 六 mu 八 ya ★ あいうえお かきくけこ ・・ ★ いろはにほへとちりぬるを・・・ ☆ 文字としては もともと無かったのだから 仕方がない。五十音表は たしかにサンスクリットの音表に倣ったものですよね。あ から始まって ん で終わる。 あ‐ん で 阿吽だし a-um で いやな感じがつきまとうオウムですね。α と ω (あっ ギリシャ文字が入力できますね)のごとく。 ゐ は 為の草書体 ゑ は 恵のそれ なのだから 文字にかんしては 日本語は 後発国。 ところで 日本語において 事霊=言霊に則った《存在》の表わし方を ちゃんと決めたほうがよいと思うのですが。まぁ 《我れ有り / わたしはある》に落ち着くのでしょうが。 『出エジプト記』3:14の例の 神がモーセに向かって自分の名を告げる一文をめぐって うつくしくてきれいな日本文をおしえて欲しいのです。 A型:わたしはある。わたしはあるという者だ。(新共同訳1987) B型:わたしは、「わたしはある。」という者である。(新改訳) C型:わたしは、有って有る者。(口語訳1955) B型 〔ヘブル語〕 : E-hweh aser e-hweh. 逐語英訳 : I-am who I-am. 〔フランス語〕: Je suis qui je suis. A’型 〔英語〕 : I AM ; that is who I am. 〔ドイツ語〕 : Ich bin der Ich-bin-da. C型 〔ギリシャ語〕: 'Εγω ειμι ′ο ων. ( Ego eimi ho on. ) 〔ロシア語〕: Я есм' Суши. ( Ya esm' Susi. ) 逐語英訳: I am Being. C'型 〔中国語〕 : 我 是 自有永有的。 wo shi zi you yong you de. 〔韓国語〕 : (ハングル文字は 入力不可能) na - nun susuro issnun ja-nira. 逐語和訳 : 我 ハ オノヅカラ有ル者-ナリ * 補助記号は 捨象しています。
primeapeです。 A16は人知と人間性の珍妙な対立二元論の表れでして善悪に対立した双方は両方とも真実から遠のきます。 そんな偽りの正義の見本です。 イエス様はよくこの濡れ衣を着せられますから私も遠慮しながら甘えさせてもらった次第です。 冗談にしてイエス様にたとえさせてもらはないと、わたしは無理解な人に怒りをぶつけることになったでしょうね。 迷い込んだ迷いに対しては、 「長く煩悩にたとえられた貴方はそれでも立派に生きている」 そんな言葉の投げかけで帰しました。 以心伝心について語るとなによりも混線の問題を何とかしたくなるんですが、今回はそこまで考えがまとまりませんでした。 >除霊 唯識、唯脳に基づいた私の無意識はまさに無意識以外の何者でもありませんが、自分ではない死後の世界だと思っている人が多いんですよ。 そんな人たちへの働きかけです。 >呪術 そんな正体不明の大霊界状態の無意識野に届く言葉のおまじないです。 >コミュニケーション》の分類 これの中味を 充実したものにしたいと思っております。 妄想のテレパシー状態は一種の入国審査では無いでしょうか。 自分自身の本質がよく見えない(場所)港での押し問答です。 打ち解けていないの意味です。 唯脳的には脳内の保持記憶機能で行われます。 パソコンのキャッシュメモリーみたいな働きをする部位でそこに隔離された状態です。 この押し問答のひょっこりひょうたん劇場に似ていて人間の本質がそこにあるかのような勘違いを人知にたとえました。 本来保持記憶機能は言葉に限らず考えをまとめるためにある部位ですが迷いとはそこに介入する言霊霊ともいえますね。
お礼
キャッシュメモリーのことがよく分からないので まだまだ ぼやけていますが 要するに ここで言う人知とは さ迷っている心(魂と言うことにしましょうか) また その魂が 誰かの心(脳でもいいわけですが)に侵入して やは り さ迷っている。そして 面識があるなど多少とも関係を持つ場 合であるなら その侵入してきた魂と こちらは 押し問答を行な うことが しばしばである。 さらには――わたしは 上に述べたところまでしか分からないのですが――primeapeさんの場合には われわれ一人ひとりの存在は 何者でもないのだよと その押し 問答の中で その迷いこんで来た魂に おしえてやる。つまり除霊 であると。 しかし 迷える魂は そのようなおしえを与えるprimeapeさんに 対して あまりにも無意識のありさまが全き状態なので もしやそ れは 死後の世界ではないか / わたしは死後の世界に迷いこんで来 たのだろうかと さらに 迷いが生じてしまう。 まだ 理解がとどかないみたいですね。 ちなみに そのように迷いこんでくる魂は 《ことだま》だとすると それは わたしの言う第一次の《事霊=言霊》ではないですよね。あくまで 単に情念によってのように言葉を発して 第二次の言葉霊の効力のあることを思いこんでいるだけだと思うのですが。
primeapeです。 ちょっと暴走したので釈明とお詫びです。 A16は恐怖の大王を偽って挨拶したからには全文がただのはったりで笑いのエッセンスです。 閉塞感につながらないようにした技術的問題への対処に過ぎません。 存命中の無意識野の除霊の意味です。 エスパーっぽいかんじを公にすると必ず集まるんですよ。 集まった軋轢は一晩もだえただけで今は気分爽快です。 せっかくのご質問に横槍おいれて申し訳ありません。 言霊を信じているゆえに自らの言葉に責任を持った一種の呪術です
お礼
わかりました。たしかに 笑い話にでもしないと なかなか表現しがたい問題ではあります。ですから 了解です。 さらに説明を盛り込んだほうがよいと思われるのは 除霊 / 呪術 ではないでしょうか。わたしの場合は すべて受け身と言いましたが ほんとうに こちらからは いっさい何もはたらきかけません。そういうはからいを持つことがありません。 もしそうする場合というのは 一般に分かりよいように 説明をくどいように為すことが大事だと思います。 No.14へのお応えの中で得た《言語を介するかどうかをめぐってのコミュニケーション》の分類 これの中味を 充実したものにしたいと思っております。 今後とも よろしくお願い致します。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.10です。 >われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか 外国人に「どうも日本人は自分達を神だと思っているように思えるんだか・・・」と質問されたような気分です。 「なんでそう思うの?」と聞くと、「だって言霊とか信じているじゃないですか」と言われたら、「あなたがただって ゴッドブレスユー とか ゴッドダムイット とか言うじゃないですか。それって言霊を信じているってことでしょ?」と言いたくなります。 >マントラ・呪文つまり呪いあるいは暗示(他者へのおよび自己への)――これらと 以心伝心との関係や如何に? これは、、、人間が集団で生きれるってことは、ある程度共通認識を持っているからですよね。 脳が壊れて人の表情がわからなくなる というものがありますが、脳が壊れない限り、またはある障害を先天的に持っていない限り、人の表情、言葉のニュアンスを捉えて、言葉以外の情報を入手して判断している。 「おばかさんね」と言われて「よくも俺を馬鹿と言ったな」と怒る人は滅多にいない。 「あなたのことなんて大嫌い」と言う相手が、本当に自分を嫌っているのか、すねて甘えているのか、目の表情で判断しますよね。 日本人は「君がすきだーー」と愛情を言葉で表さない。 外国人は毎日言わなければならければ分かり合えない。 つまり、日本人は言葉以外の情報を活用している人種。 と、私は思います。 「あなた 浮気したでしょ。風呂いらないわね」 何故わかるんでしょうね。 いつになく多弁な夫、優しい夫、笑顔の夫、 怪しい! 「なにかあったの?」と聞いても「別に。ほったらかしにしていたと思ったから」と怪しい振る舞いの根拠を説明しない。 後ろを通ると石鹸の匂い! 決定! こういうのを以心伝心の弊害って言うんでしょうか。 呪いの藁人形って実際、昭和一桁に起こって、呪った人が逮捕されたんですね。 呪った人と呪われた人に全く接触はない。 でも、日々 呪われた側が衰弱していったんです。 種を明かすと、結婚間近い人が噂を聞いた。 どういう噂かというと、神社に呪いの藁人形が打ち付けられていたと。 その名前が自分の名前と同じだった。 例えば幸子さんでもいいでしょう。 幸子さんって沢山いますが、結婚が近く精神が不安定だったので、自分が誰かに呪われていると思い込んだ。 実際、婚約者は呪った人の元恋人で、結婚を知り、元恋人は彼に「あなたの奥さんになる人を呪い殺してやる」と言って、実際呪いの丑の刻参りをやったのだそうです。 そんなこと迷信だと思っていたら、実際婚約者が日々衰弱していくので、呪いが実現していつと思い、警察に届け、呪った側が逮捕された。 犯人が逮捕されたと聞いて、もう呪えないと思った彼女は、回復していった。 プラシーボ効果。 つまり直接接触はないが、自分が呪われていると思ったため、自己暗示にかかり、衰弱してしまったってわけです。 ビタミン剤を頭痛薬だと思って飲むと頭痛が治る人。 暗示により自己治癒力が増して、頭痛が消える。 昔は呪術が盛んで巫女さんが敵に対して呪いをかけていたそうです。 呪ったことが敵に伝われば、自己暗示が強いボスは信じていれば、「もうだめだぁ」となる。 でも、敵が自分の真の名前を知らないとなると「そんなことやっても無駄よのぉ」となる。 で、日本はアニミズム的な概念を結構信じていて、それで国の方向性を決めていたようです。 伊勢神宮だったと思いますが、何度も移転している。 国で災いが起こり、移転を繰り返し、災いが無くなった場所が今の場所。 京都も風水とか、そんなので町ができたらしいです。 陰陽の陰 この力を恐れていたわけです。 出雲神社では、よく知っている人は、大社に参拝せず、その後ろの祠にお参りをするそうです。 陰の方を拝んで祟られないようにするってわけです。 家を建築するときも、お祓いしますよね? 道路を作っていて事故が多発したら、一時中断して、お祓いを頼み、それでも事故が起こるのなら、抜いた木を元に戻して、そこを迂回して道路を作りますよね。 陰の力を現代でも信じているわけです。 >けっきょく 一方交通であるように思われます。《対話ないし コミュニケーション》ではないと感じられます。意思疎通の問題から どうも 外れているように思われます。 だって陰の世界に言った人とは対話で解決できません。 太宰府天満宮。 誰が祭られているかというと、菅原道真。 彼を飛ばした集団につぎつぎ不幸が怒り、道真の祟りだと信じられ、彼の名前をどんどん位が高いものにあげていって、とうとう天神にしたところ、災いが止んだ。 陽の世界に住む人にとって、陰の世界に行った人に対しの謝罪は、名前というその人の位を上げることしかできないんですね。 んなバカな。 ですが、現実 戒名とかあるじゃないですかぁ。 で、クリスチャンネームってあるじゃないですか。 ジョンとかジョナサンとか。 ジョンって沢山の人がいるので「ジョン ちなす」って呪ったとしても、無数のジョンって名前の人がいて、該当の人を呪い殺せないので、多数の人がいるクリスチャンネームをつけたがるわけです。 (って井沢さんの本に書いてありました。) 陰の世界から陽の世界、陽の世界から陰の世界。 確かに一方通行ですが、、、、一応 陰の世界の怒りは、名前の位をあげることで、鎮火できると信じるしかないし、移転しまくって鎮火したら「これで怒りは収まった」とするしかないです。 「なに怒っているんですか? どうして欲しいんですか?」って聞けないから。 >《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。 というか、決まった時に、決まった場所で、決まった音を発しないと実体化しない(効果が無い)ってのがマントラ(真言)です。 前やらかしたことがあるんですが、相手に「あなた馬鹿じゃないの」と言ったことがあります。 ものすごーく嫌われ、二度とノコリともされなくなりました。 その人の自尊心を傷つけたわけで、相手の人は「それだけは 私から 言われたくなかった」のだと思います・・・・。 でも、相手の人が私の言葉を信じていなければ、相手は傷つかなかったと思います。 相手の人は私の能力(人ができないことを簡単にやってしまえる など)を信じており、できないことがあると、すぐやってー とおんぶにだっこでいたわけです。 その私から強い音が発せられた。 時と場所と音が一致したので、すごい力になって相手の自尊心をめった切りにしちゃったようです。 相手の人が私を見下していれば、時と音が一致しても、場所が一致せず、音が実体化しなかったと思えます。 >空で放電現象という《事》があって ああ、デウスですよね。 人は自由意志があるのか? ということで、脳科学の分野の人が実験で「これをつかもう」と決断する前に、筋肉が活動するよう指令を出す部分が動いていたそうです。 「光あれ」と思って筋肉を動かして物をつかむより前に、本体の思考とは無関係に筋肉が別の指令により動こうとしていた。 なんでしょうねぇ 本能? なんでしょうね。 もし 本能だとしたら本能が陰かもしれないですね。 で、人は理性を使って「今つかむとヤバイ」と陰の欲望により起こる運動を阻止して、手を動かさなかったりする。 面白い実験がありました。 エイリアンズハンド症候群ってものがあります。 自分の意思とは無関係に勝手に腕が動くというもの。 例を上げると、夜中寝ているとき、腕が自分の首を絞めて殺そうとする。 「助けてくれー」と自分の腕と戦う。 障害をもっていない人に疑似体験をしてもらう。 催眠術(暗示)をかけて、桃のカンズメをカゴに入れたくなる という暗示。 暗示をかけられた人は、商品を見て歩き、桃のカンズメのところで、カンズメを一個とってカゴに入れて、次に移動しようとして、後ろ向きにカンズメをもう一個取る。まだ欲しい、元に戻ってもっとカンズメを入れる。 「一体自分はどうしてしまったのだろう。こんなにカンズメはいらないのに」と棚に戻した手がまたカンズメをつかみカゴに入れる。 レジで買い物カゴいっぱいの桃のカンズメをもって並ぶ被験者。 これ、なんでしょうね。 陰というか 本能が「もういらない」と言ってくれないので、理性では「もういらない」なのに、本能の方が力が強いので、理性を押し倒して暴走した状態? 昔は精神障害者とか子供が神に近いと思われていたそうです。 理性や倫理の外に住む人々が神に近い存在だとしたら、神の正体とは。。。 暴風を起こすデウスに「こらー やりすぎー」と言っても無駄ですよね。 一方通行同士。 でもデウスは神として敬われている。 どうしてかというと、嵐とか洪水で多数死者が出るが、それによって土地が耕され、土地が肥えて、豊作になるから。 悪をもたらすが、その悪は人のため って考えたので、恐ろしい神だが、崇拝したい ってなったんじゃないかと。 日本の場合、神は崇拝対象じゃなく 畏怖する対象。 「日本人はお互いを畏怖しているのか?」 まあ、お中元とかお歳暮とか、「これ畑で取れたから」とか貢物合戦していますので、この行動の根拠が畏怖だとしたら、お互いを畏怖しており、災いを起こされないように拝んでいるってわけですね。 で、「お陰様で」って言葉も、陰の世界を信じているからじゃないかと
お礼
kigurumiさん 再度のご回答ありがとうございます。 そうですねぇ。 《Q:われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか》 これに対して kigurumiさんの答えは 《A:然り。しかのみならず 外国人も然り。つまり人類みな 一人ひとりが神である》 こういう結論になるようですね。つまり そのように数千年の歴史を含めて現在の状態としては 人間は そうであると分析するだけではなく kigurumiさんご自身も そのとおり(つまり神)であるとおっしゃっているのですね。 この質問は 《Q:日本人は 人間ではないでしょうか= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3893969.html 》 から出たものですが そして そこでは 《ひょっとして われわれ日本人は 互いに互いを神として扱っているのではないか。だから コミュニケーションが成立しない》と試みに一つの結論を得たのですが これを今度は ひるがえして 言霊というように非言語によるコミュニケーションも 部分的には成り立つのではないかと考え直したところ そこに対応したものです。 これを綜合して捉えたいというのが 基本ですが kigurumiさんのご見解ですと その余地はないと受け取らざるを得ないようですね。 ひとこと説明すれば 《わたしと陰の世界とのかかわり。しかもそれは 一人ひとりにとって 一方通行でしかない》 これが この世界のすべてであるとおっしゃっていると理解せざるを得ません。つまり 陽の世界でのコミュニケーションは 泡沫であるというお告げのようなものです。 これでは 話が成り立ちません。遊びとしてなら いいかも知れませんが。 * 伊勢神宮は もともとは このやまとのものではありません。外宮は もともとその地のやしろですが(つまり 外の宮へと追いやられたわけですが) 内宮は おっしゃっているように アマテラス族がそこへ移転させたものです。 その前身も 災いが起きたからではなく(災いが伴なっていたかも知れませんが その問題ではなく) もともと やまと三輪の大神(おほみわ)神社に アマテラス族が ごり押しして 自分たちの宮をまつれと言ったのを オホミワ側が 少しの譲歩をしつつ 拒んだのが きっかけです。
補足
(お礼欄と補足欄の順序をまちがえてしまいました。先にお礼欄を読んでください)。 このように たとえ言霊と言っていても 基本は いやしくも人間にかんしてなら 一人ひとりの自由意志の問題です。われわれスサノヲ市民は 国譲りというように おおきな譲歩をしましたが そのアマテラス側の宮によって 乗っ取られることだけは 拒みました。陰の世界の問題ではありません。陽の世界における・あなたも主張しておられた《民主主義》の問題なのです。話し合いが すべてです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。 というか、決まった時に、決まった場所で、決まった音を発しないと実体化しない(効果が無い)ってのがマントラ(真言)です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 人間の放った言葉が 《効果がある》のなら それも 単なる《言葉霊》であるに過ぎません。もう意志の自由など 要りません。ただし それは(つまり 人間の知恵も知識も また自由意志と言っていても それは)有限だよとおしえているのが 目に見えない《事霊=言霊》の世界なのではないですか。だから 《畏怖》が起きるのでしょう。その畏怖から 互いにお歳暮を贈りあっているのなら 互いの人生を貴び合っているでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.12ですが。brageloneはまた、律儀にご対応くださっておられますが、いつもの通り、思索と分析を透徹されておららるからか、とても難しくそして、穿ったようなお話でして、一読しまして、あぁとても違う意味なのだなと、存じました。 私はそれなりに全部を申しあげていて、ANo.12の内容の範囲ではもうことばはありませんので、お手上げです。 お書き込みいただいたお礼のご論文はまたあとで、よく読解に努力してみます。ありがとうございました。再信が当面できませんでもうしわけありません。
お礼
あっ そうじゃないですよ。 あくまで《覚え書き》をつづったものです。 この質問の主題に関連する事項に触れていただいたと思って 自分のための そして この質疑応答にとっての 案件などとして 整理しました。 ゆったりとした一編の音楽を聞かせていただきましたし もうそれは 完成作品として受け取っております。 もっとも ひとこと多いというくせは 認めなければなりません。そういうくせだと思って お気になさらないようにお願いしたいのですが。
>ということは この《人知》に 何か隠し味が すでに ほどこされているのかも分かりません。というのは 読みすぎでしょうかねぇ。 これは見当が付きます。 死ぬわけでもないのに体罰を食らわしてるだけですから気にしないでください。 ポンポコ魔道大戦は2001年からやってます。 当面の貧乏くじが人知です。
お礼
ということは その人知は 歯をむき出して敵対して来ているということでしょうか。 いつぞや 受けて立っている / 相手が こちらのふところに入って来ればしめたものというような大きな構えを示しておられたのですが それとは 少し姿勢がちがうのでしょうか。 あくまで こちら側は《愛の体現》として その人知の偏りというのでしょうか そのような《貧乏くじ》の人知に向かって ポンポコ魔道大戦が始まっているというのですね。 まぁ ジャブの応酬は 必然でしょうかねぇ。分かりませんが。
またまた書き損じ。 笑いをこらえていまして、、、 >自分自身が何者でもない感覚は人知に走るよしも無いでしょう。 人知には知るよしも無いでしょう。
お礼
ただし primeapeさん 《先の者が後になり あとの者が先になる》とも言いますから。 そのときは あぁ そうだったと 思うことになりますかね。 ということは この《人知》に 何か隠し味が すでに ほどこされているのかも分かりません。というのは 読みすぎでしょうかねぇ。
補足
ご回答をありがとうございます。 俄然 雲行きが 良いほうにかあまり芳しくないほうにか あやしくなってまいりました。 ここでは みなさんからもお許しを乞うて 邪道ですが 謬見を作業仮説として用いつづけるというかたちを取ります。つまり 《言霊》は 《事霊》として 初めには=基本的には 言葉を口に出さない状態にあってはたらくという仮説です。怪我の巧妙になるか あるいは やはり謬見であったと明確に分かるか 探究を続けたいと考えました。 直前のご回答へのお応えを承けての内容になります。次の部分を ここにも 掲げます。 * どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。 空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で それは単なる《事の端⇒言の葉・言葉》と捉えたかも知れない。 したがって 《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。 * というのも 雷は つまり神鳴りは 事であり 神というからには その《事》に 《いか(厳)つ(の)ち(霊)》ということだまが宿ると捉えられた。雷光は 稲の生育に 霊の息吹きを宿させるという観想によって《いなつるび(稲と雷電との交接)》あるいは《いなづま(稲妻もしくは 稲夫〔夫も つま と読む〕)》と表現した。生育というよりは 稲が孕むということのようです。 だとすれば このような《こと(事)》とその《霊》の観想が 初めにあって そのあと《言霊》や《言挙げ》が続くと思われて来ます。 もっと言うならば――あとで掻く恥のことを忘れるとするならば―― たとえば《のりと・のろい・まじない・言祝ぎ》は 第一次の《事霊》の現象を 再現しようという・したがって 第二次的な人間の側の知恵であり努力であるとなります。 ★ ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。 ☆ というのは 以上のような事態と現実とを言い当てた見方ではないでしょうか。すなわち つづけて ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。 ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。 神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、/ 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし さらに続けて ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。 仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき 《心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず》は そのとおりだと思うのですが もし言挙げできると思って言挙げした場合 《禁忌》かどうかは これも 第二次に人間が作った取り決め事であるように思われて来ます。 あるいは 初めには ずべてが《禁忌》であったかも知れません。というよりは 禁忌と取り決めなくても 言挙げすることは出来ないという思いがあったのかも知れません。やがて 言挙げするようになって(知恵の木の実を食べて) しかも その言葉どおりに行かなかった場合 そのような場合について 禁忌と規定するようになったというように。 必ずしも整理しないまま 提出します。 * なおこうなると 以心伝心にも 第一次の交通・交流と 第二次の人間のはからいによるそれとが あると考えられて来ます。さあ 果たして このわたしたちの探求は いかがあい成るでしょう。 * 字数が多い場合には お礼も お礼欄ではなく 補足欄に書くことにしています。