- ベストアンサー
われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか
あらためての設問です。前回ご投稿くださった方には 大変申し訳なく思っております。お詫び申し上げるとともに よろしくお願い致しとう存じます。 日本人論です。 コミュニケーションの問題です。そのうち 非言語による場合です。 《言霊(ことだま)》のくにであり 《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》と表現したものです。 ・最近知ったのですが 井沢元彦の持論によると 日本は 和と言霊の国であるが 言霊は 司馬遼太郎の言葉で《念仏平和主義》に通じるゆえ あまりよくない習慣であるだろうということのようです。(非公式ファンサイト) ・そもそも《しかれども 言挙げぞ我がする》とも言って来ていますから 綜合的に捉えて どうなのでしょう。最近は 公けにも 討論が盛んですし。 ・とうぜんの如く ほかの国の人びととのコミュニケーションは どうあるのがよいかを知りたいと思います。 ・なお 生活感覚として 外国のことをわたしは知らないので 質問では 《日本人は・・・》と特定する形になっています。そのような現実的な事柄としても おしえていただければ幸いです。
- みんなの回答 (37)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
noname#96295
回答No.11
その他の回答 (36)
noname#117439
回答No.17
noname#117439
回答No.16
noname#117439
回答No.15
noname#117439
回答No.14
noname#117439
回答No.13
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答No.12
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10
noname#117439
回答No.9
noname#117439
回答No.8
noname#117439
回答No.7
補足
ご回答をありがとうございます。 俄然 雲行きが 良いほうにかあまり芳しくないほうにか あやしくなってまいりました。 ここでは みなさんからもお許しを乞うて 邪道ですが 謬見を作業仮説として用いつづけるというかたちを取ります。つまり 《言霊》は 《事霊》として 初めには=基本的には 言葉を口に出さない状態にあってはたらくという仮説です。怪我の巧妙になるか あるいは やはり謬見であったと明確に分かるか 探究を続けたいと考えました。 直前のご回答へのお応えを承けての内容になります。次の部分を ここにも 掲げます。 * どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。 空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で それは単なる《事の端⇒言の葉・言葉》と捉えたかも知れない。 したがって 《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。 * というのも 雷は つまり神鳴りは 事であり 神というからには その《事》に 《いか(厳)つ(の)ち(霊)》ということだまが宿ると捉えられた。雷光は 稲の生育に 霊の息吹きを宿させるという観想によって《いなつるび(稲と雷電との交接)》あるいは《いなづま(稲妻もしくは 稲夫〔夫も つま と読む〕)》と表現した。生育というよりは 稲が孕むということのようです。 だとすれば このような《こと(事)》とその《霊》の観想が 初めにあって そのあと《言霊》や《言挙げ》が続くと思われて来ます。 もっと言うならば――あとで掻く恥のことを忘れるとするならば―― たとえば《のりと・のろい・まじない・言祝ぎ》は 第一次の《事霊》の現象を 再現しようという・したがって 第二次的な人間の側の知恵であり努力であるとなります。 ★ ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。 ☆ というのは 以上のような事態と現実とを言い当てた見方ではないでしょうか。すなわち つづけて ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。 ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。 神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、/ 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし さらに続けて ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。 仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき 《心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず》は そのとおりだと思うのですが もし言挙げできると思って言挙げした場合 《禁忌》かどうかは これも 第二次に人間が作った取り決め事であるように思われて来ます。 あるいは 初めには ずべてが《禁忌》であったかも知れません。というよりは 禁忌と取り決めなくても 言挙げすることは出来ないという思いがあったのかも知れません。やがて 言挙げするようになって(知恵の木の実を食べて) しかも その言葉どおりに行かなかった場合 そのような場合について 禁忌と規定するようになったというように。 必ずしも整理しないまま 提出します。 * なおこうなると 以心伝心にも 第一次の交通・交流と 第二次の人間のはからいによるそれとが あると考えられて来ます。さあ 果たして このわたしたちの探求は いかがあい成るでしょう。 * 字数が多い場合には お礼も お礼欄ではなく 補足欄に書くことにしています。