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なぜ「名づけ」るのだろうか?
命名は古来より制度にまでなる人間の慣習です。 しかし、ちょっと考えてみると、その「利便性」とか「道徳性」「尊厳性」といったものの影に、「記号化」「存在そのものの軽視」という危険が常にあると思います。 たとえば、何でもいいんですが、ニュースでアナウンサーなり芸能人なり出てきます。そのとき、名前のテロップが出るということもありますが、「~~さん」が出ているという、その「標識」を常に意識します。その音声化され後に文字化されたその「存在」を表象するものを常に介さないと「存在」を認識できなくなっていないだろうか?もちろん仮に世の中に人名がなかったとしても、その人物の姿かたちは認識され、認知されえますが、そのときかえって、新鮮な「存在感」が漂ってくるのではないでしょうか。 この考えで行くと、名前でインパクトを与える(芸名、偽名、改名)などは、もっともその「記号性」を利用した例です。それによって、存在感そのものさえ凌駕してしまうこともある。 あるいは、野生(飼いならし)動物を見ます。そのときいちいち「~~」だ「○○」だと頭の中で、表象の音声を繰り返しています。頭の中の百科事典にどうしても整理しないと気が済まず、その中毒症状から抜けられません。どうして、「おお、この形態!この動き!」だけではいけないのでしょうか。 。つまり、これほど「存在」と向き合わないでいいのか?という疑念がどうしても湧きあがってきます。 なぜ、「命名」という行為が、利便性という条件を差し引いてもなお、人類古来より行われなければならなかったのでしょうか?その心理的傾向欲求あるいは必要性はどういうものなのでしょうか?
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本来の「名づけ」は、他者への伝達欲求が発祥元ではないでしょうか。 当たり前と言えば当たり前ですが、ではなぜ伝達欲求が生じるのか、といえば、最終的には自分というものをわかって欲しいからではないか、という気がします。 自分が見たもの聞いたこと知ったことを伝えたい。 そのようにして私の伝えたいことをあなたに受けとってもらう、ということが私の欲求。 私の記憶をあなたに伝えたい。 つまり、あなたに私を知ってほしい。 これが伝達欲求の底流にあるのではないでしょうか。 伝統や文化文明なども、その系列に含まれるのかもしれません。 いわゆる、他者へのリビドーの纏綿という解釈が可能ではないかという気がします。 ご存知でしょうが、この場合のリビドーは性的よりもむしろ生的欲求と解釈するほうが自然でしょう。 人間はなぜ誕生するのか。 生まれる、すなわち、この世に存在【しようとする】エネルギーの根本は何か、ということは私にはわかりませんが、とりあえずそのエネルギーをリビドーと、敷衍してに呼ぶことは可能だと思われます。 このエネルギーの延長として、自分という者を受け入れて(愛して)欲しい欲求がわくのでしょう。 こうして、他者への伝達をより広範に、あるいは詳細に可能にするために名づけが行なわれる(た)。 結果として、それによって与えられた「名」はコミュニケーションというシーソーの基点にならざるを得ない。 つまり、[名]は「主体を表わすもの」ではあるが、それ以上に本来は「人をつなぐ基点」としての役割も持っていた(る)。 そのため、ある主体の本質よりも他者とのつながりを重視しようとする場合、その主体の本質は薄れてしまう、ということになるのかもしれません。 あるいは、私たちは本質よりもつながりのほうを重視してしまいがちな社会で生を営んでいる、ということもできるかもしれない。 本質を見極める方は、たぶん、(根本的には)つながりを求めず、語らずに悟り、語らずに知らしめる、のではないか。 そういう気がしてきました。
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- usijima
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これほど「存在」と向き合わないでいいのか?という疑念がどうしても湧きあがってきます と思う人は少ないとおもいます。 世界の仕組みを知りたいと思ことは、人としての本能だと思います。 それほど存在と向き合いたくないのであれば、名前を覚えるのも分類することも個人的にやめてみてはいかがですか? 研究結果楽しみにしています。
お礼
思う人が少ないからこそ、「名づけ」とか「名前へのこだわり」が世間的なんです。ついでに私が「存在と向き合いたくない」と言う読み違えをしてることも誤読の典型です。「存在と向き合いたい」から名前を覚え分類することもやめたらと言うことです。
- Us-Timoo
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>その「利便性」とか「道徳性」「尊厳性」といったものの影に、「記号化」「存在そのものの軽視」という危険が常にあると思います。 なぜ、このような危険があるとお考えなのでしょうか? 歴史上で名前をつける・名乗ることによってそういう扱いを受けた史実でもあるのでしょうか。 今まで、わたしはそんなこと聞いたことはありませんが。 もしあるのなら、その根拠となるものを見ている誰もがわかるように提示してください。 古来より、名前というものは記号でつけられたためしはありませんし 名を名乗ることによって、存在そのものを軽視されたことも歴史上ありません。 むしろ、逆です。 名前という特別にその個々に有することが許された名前をきちんと名乗ることで 一人の人間として認められることはあります。だからこそ、 >芸名、偽名、改名 などのことが有効であるのだと、私は考えます。 また、昔から名前もわからないようなものに対しては、どのようなものでも 人間は不信感や不安感・疑念を持ちます。このことからわかるように 名前自体はその物・その人を認知するために必要なものとして考えるべきでしょう。 記号性という意味なら、ナチスドイツのユダヤ人虐殺のような、 >「道徳性」「尊厳性」 を無視した行動では、ことを行うためにいちいち個々の名前を呼ばずに 番号などの記号で処理していた事実(つまり名前の存在を軽んじる)から考えれば、 >その「利便性」とか「道徳性」「尊厳性」といったものの影に、「記号化」「存在そのものの軽視」という危険が常にあると思います。 というのは当てはまらないと思われます。
お礼
多くの人が、「名前」=「存在の尊厳」という考え方できている。それに一石を投じようと言うことがこの質問です。回答者さんのお考えは、典型的に「世間的」だと感じます。もちろん世間的でなければ世間は回っていきません。しかし、本質を考えようとすれば、どうしても矛盾と対峙する事になります。 お上げになっているようなナチスや刑務所の番号性というのは、逆に考えると「存在」をより本質的に見ることの助けになっている気がしますね。たとえば刑務官は番号で呼ばれ同じ服を着ている囚人たちの前歴を知ってたとしても、すごくイーブンな感覚で接するような気がしますね。これはむしろ、「本質化」ですよ。もちろん「尊厳化」ではありません。 名前により、その人の姿を語るありようを語ると言うことは主観的にいくらでもできるでしょうが、その張りぼてによっていかに曇った情報も一緒に発することになるのかということです。
- SAYKA
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南の島に住む人々の事かな。(そうじゃない 人間として進化した中にある「言葉」を使って「楽な方」へ適合すると 「命名」が最も簡単だっていう話で、それは適応によって証明されてるものなんじゃないのかな。 言葉が無いなら「あれ」「それ」とか意味をなさないからね。 言葉が有るから言葉を用いようとする。 言葉を用いようとするから、言葉のみで区別する方法を模索する。 区別できるのなら簡単に「呼び方」で識別する。 簡単で便利なんだから 皆がそれを使う。
お礼
やっぱり、人類史を通じて、「簡便化」「利便化」と言うものが流れているようですね。おそらく、名づけの発祥的には純粋に利便性のみだったと思います。問題はその後なんでしょうね。
- suz83238
- ベストアンサー率30% (197/656)
ものに名前を付けなければ説明もできないし、文書として記録もできない。密かに自分だけの「もの」があって、ひとりで鑑賞したければ、名前も必要ありません。でも、ものを分類するときは、ものに名前がなければ分類もできません。誰かに「あれ取って」と言われて「あれ」が何か分からなければ人間生活に支障をきたすでしょう。人間生活をしていく上で、人間の間に共通で言われれば分かるもの(すなわち名前)がなければ、生活を維持することは不可能でしょう。(この辺は「となりのトトロ」でメイが見たものを説明しようとするときに似ている) 当たり前のことですが、人間が一人しかいなければ言葉も名前も必要ありません。人と人の相対関係で言葉が生じ、必然的に「名前」が生まれるのです。
お礼
もっともだと思います。必要性はすべてに勝るのかもしれません。それはそれで立派であり、合理的で英知に富んだとこです。人類のなしえた動物との最大の違いでしょう。 だた、それが一人歩きしだして、「名前」でインパクト、売る、特別に意味を考えようとする、そういう余計なことがあまりにも付随していないかという感じがします。それは、呪術的ということと深く結びついていますね。名前ができてから呪術ができたんでしょうか。逆でしょうか。これが結構重要な気がします。なぜなら、呪術が元にあって命名が始まったのか、それとも命名単独で発祥したのか。その発生動機が純粋に利便性であったのを後に呪術的に変化させたのか、あるいは、呪術信仰の必要性から始まったのか。ここら辺で、人間の姿がある意味明らかに鳴らないでしょうか。
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お礼
そういう気がします! 見事なご回答ですね。 コミュニケーションとはすなわち何であるかと言う問題に立ち返るのかもしれません。そこには「生存」のための欲求あるいは必要性の問題と、心理的な孤立感を緩和し共同意識、共鳴同情その他もろもろの「社会的本能」を満足させようと言う動きと、同時並列的に進行していたのではないだろうかと感じます。 そうなると必然的に、コミュニケーションのほうに重点がいくのか、それとも本質論のほうに重点が行くのか、または、純粋性はどこへいくのか。利便性や金銭獲得性のほうに、本質が屈することは容易に想像でき、それが現代特に顕著になっている気がします。