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なぜ人間にはこれほどの感性差が!
一例として、ある人間が、凄く感動し感銘したものを、ある人間は退屈で嫌悪感を感じる(これはもちろん立場が逆転する場合もある)とまでいう感性差はどうにかならないのでしょうか?同じ「種」なのに、あんまりではありませんか?こんなことだから、戦争もなくならないし格差もなくならないし相互理解も共同意識も持てない。いいことないではないでしょうか?
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一卵性双生児は別として、顔がみんな違うように、感性も違って当然じゃないでしょうか。 太古の昔、生命体は自己分裂していたんですね。 アメーバーみたいなものですが、そうなると強いウイルスによりその種は絶滅しますよね。 で、あるとき異種を作り出し、異性交配することで、どんどん異なる種類を作り出していったんですね。 一つのグループがやられても、それに打ち勝つ種が生き残ることで、全滅を避けられる。 で、人間は異種交配することで、増えていくわけですが、人間は弱いので、集団化して生きているわけです。 その集団の中でも個性があることで、ケンカになっても、「まあまあ」と仲裁する人を所有していれば、そのグループがバトルロワイヤルで絶滅することを防げる。 グロい映画は嫌悪感を多くの人が感じます。 グロいことに嫌悪を感じない社会だと、毎日が殺戮のショーを楽しむ集団になってしまい、ちっとも増えません。 グロいことを好む集団は絶滅する運命を辿ったわけで、今ある集団はグロいことを気持ち悪いと思う人たちが圧倒的に多いことになる。 確かにそうです。 でも、グロい映画は結構廃れることなく、隠れファンにより視聴されているので、販売されている。 ということはどういうことか? グロい映画を10人に視聴させたところ、5分くらいで、顔をしかめだす人がゾクゾクでてきて10分後、一人 二人 と耐え切れず席を立ちだした。 でも、中に愉快な顔をして笑みを浮かべてみている人がいる。 学者が言うには、自己防衛本能がその人を守るからだとか。 グロい映画は恐怖心を生み出しますよね。 それに順応するため、脳が快楽物質を放出するのだそうです。 すると、グロい映画を観ると、快楽物質を放出することで、精神崩壊を免れ、楽しいとして食い入るように見て快楽として楽しむようになる。 ただし、普通の人の脳はそれをやらないので、グロい映画に嘔吐しそうになり、耐えられず席を立つ人が多い。 でも、中にはそういう快楽物質を放出する脳を持っているので、その人たちは、グロい映画を好んで見るわけです。 ところが、殺戮などは、社会的に不快とされているので、裏ビデオとしてコソコソ見るようになるわけです。 で、ある日 切り刻んだ死体が見つかって、犯人が見つかって家を調べたら、沢山のスプラッター映画のビデオが出てきた。 自宅で楽しんでいたわけです。 で、その人はそういうものに対して、脳が活発に活動し、興奮するわけですが、それ以外のこととなると、関心指数の針がふれない。 だから、事情聴取をして「どう思ったか」と聞かれても「人形みたいに思った」と殺したことにたいして、平然と答えてしまうわけです。 嘘発見器でも、殺戮の場面だと針が振り切れんばりだが、ポルノ映像には針が触れない。 つまり、この人の脳はスプラッターものしか刺激として感知しないわけです。 で、この種類の人からすれば、どうして世の中の人はこういう楽しいものを公にして、国民で快楽に浸らないのか?と不思議に思うわけです。 自分の感覚だと、楽しいのだから、他人も楽しいはずだと思うが、世の中は「不快」とか「ひどい」「残酷」など意味不明のことを言う。 なんでこんなに楽しいことが、残酷だとされるのか理解できない。 が、人を殺したり傷つけたりすることはどうやらいけないらしい とわかり、ほとんどの人は、こっそり自宅でビデオを観て、快楽にふけるに留まる。 ミルグラム実験だったと思いますが、あの場合は違う。 何故家に同じ年頃の子供を持つ良きパパたちが、ユダヤ人の子供達を残忍な方法で殺せたのか? 普通は、途中で耐えられず、やめざるを得ないはずなのに、どうして出来たのか? ミルグラム実験で服従の心理について報告されています。 オウムが人を殺して焼いたわけですが、調査すると、まるで催眠にかかったかのように、罪悪感もなく、たんたんと切り刻んで死体を切断していたことがわかったそうです。 これもミルグラム実験と同じ理由により、引き起こったのではないかと思えます。 感性の差はどうにかならないのでしょうか というものは、ある意味危険をはらんでいます。 何故なら、全員が同じ感性だった場合、その集団がおかしなことをやっていても、気づきようがないからです。 例えば、ユダヤ人は生きる価値が無いという風潮になったため、殺されたわけですよね? おかしいと思う人が多ければ、こういうことにはならなかったはずだし、精神障害者は生きる価値などない という風潮に対して、それはおかしいということに気づく人がいなかったことで、殺されていったわけですよね。 逆にいうと、なにか理由をつけてあなたは生きるに値しないと誰が思った場合、全員が思うことになってしまう危険もあるわけです。 戦争は集団がA国は悪者だと全員というか多数者が思うことで、実行されるわけですよね。 他からしてみれば、宣戦布告したB国の方がおかしいと思うが、戦争をしかけた集団全員は価値の統一がされ、自分達が間違えているということを微塵も思えないわけで、それで戦争が引き起こってしまうわけです。 強いリーダーの洗脳により、国民の思考はリーダーの思考と一致するようになる。 そしてリーダーは国民から支持され、戦争を起こし、国民の協力のもと、他国の人を正義の名の下に殺していくわけです。 で、回避するには話し合いが必要なわけですが、アメリカの場合、話アがどういう結果であろうと、イラクに対し戦争を開始することはもう決まっていたそうです。 つまり、言葉が通じない鬼畜と同じ。 国連が否決をしても、アメリカはそれに従わなかったでしょう。 何故ならアメリカからすれば、自分達が地球で最高の地位を得ていると思っているから。 彼らは自分達を神だと思っており、地球をどうにでもできると思っているから。 逆らうやつは皆殺しにするぞ なわけです。 この強いウイルスに打ち勝つには、他の国じゃ駄目で、アメリカ国民が政府に対して、「やめろ!」と政府に従わない意志を表明することです。 「不正な殺しはやめろ 我々は人間だ 鬼畜じゃあない 騙されないぞ」と反戦活動を展開するしかない。 でも、宗教がからんだため、宗教=洗脳ですから、多くの人が洗脳により殺人を悦びとしたわけで、多数者が快楽殺人を好んだので、殺戮はストップできなかった。 でもジャーナリストたちは奮戦しました。 悪の政府の陰謀を暴いて、国民たちに訴えたわけですが、洗脳された国民の脳に届かなかったみたいです。 というわけで、全員の感性を統一するということは、とてもとても危険な思想なわけです。 古代ギリシャ哲学では、正義について考えています。 正義は存在するのか ということで、絶対的な権力を持っているリーダーがいたら、不正が正義の座に鎮座していても、どうにもならない。 ですので、ギリシャは民主主義を生み出した。 国民全員が間違えた価値観を持つなんてことはありえない としたわけです。 ですが、じゃあ 正義とは一体なんなんだ どうすればそれが正義だとわかるのだ と考えた。 人から正義だと認められている人から一切の正義を取り除いても、その人が正義でありつづけたら、その人は正義だったことになる と考えた。 じゃないと、正義の人だという評価が欲しくて、正義とされるものをやっているだけの人かもしれないから。 で、その人の家族、権力、服まで奪い裸にし、人の前で鞭打って笑いものにして屈辱を与え、十字架刑にして槍で刺しても、その人が屈しなければ、その人は正義だったことになる という説を出して、正義の存在の証明をしようとしたんですね。 何百年か後に、この正義の証明の理論がパクられてキリスト教の神話に作りかえられちゃいました。 ですが、これも同じで、自分達だけが正しいとして、自分達の中に悪があることを知ることはなく、この集団が自分達を正義だと思って、大量殺人・侵略・破壊活動をやってしまった。 ああ、、、 感性・価値観の統一はこのように絶滅の危機もはらむほど危険思想なんです。
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- looker1986
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一度読んだ本をもう一度読むと、全く違った印象を受けたりします。同じ人でも印象が違うのだから、別の人ならさらに違う印象を受ける。逆に考えれば、違う人同士が同じ感想を持つほうが奇跡みたいなものじゃないでしょうか。その意味では人間の個性も大したことない気もします。相互理解もそこそこあって、中には違う感性もある。お互いに会話できるだけいいんじゃないでしょうか。 生物学的には、皆違うから発展(あるいは進化?)できるというのもあります。皆同じなら、そういう生物もいる以上、それなりの生き方はできるでしょう。しかし、それが至上というわけではないです。極論を言えば、一つの個性しかない生物は、適した環境では全員が生き残れますが、適さない環境では絶滅します。 皆同じ思考というのは、皆同じDNAを持ってる大腸菌みたいで個人的には好きではないですね。多様性も何もない、全部灰色で塗られた絵みたいです。違う色が無数ある中で、たまたま自分と似た色を見つけることができた瞬間を幸福に思えばいいのではないでしょうか。
お礼
後に皆様にお礼を書きます。 まさにそのとおりです。違った色合い完成があるので、生物種的には強まると言うことがあります。しかし一方では、相互理解不能、憎しみ悲しみの存在もあります。 人間の業と言うものなのかもしれません。
- 5567
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そうでしょうか? 私は人間が根本的に感動する ポイントってそう変わらない気がします。 本当にバラバラだったらあらゆる芸術やその研究って 意味をなさないと思うんです。 知識の前提の差とか文化の差はあるでしょうけど
お礼
そうですね!本当に深いレヴェルになるとそうかもしれません。しかし、実用的に効いてくる日常レヴェルで、かくもバラバラな価値観は決して利益になると思いません。必要悪かもしれませんが。もうちょっと、ばらつきを抑えるとよりよくなる気がします。
- magga
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私は上座仏教を学んでいるものです。 まず思考が捏造することが大きいですね。 まず、同じ刺激があるとします。 ここで感じた刺激を「好ましい」「好ましくない」「どっちでもない」に今までの心の経験などで振り分けられますね。 ここまではたいした問題ではないと思いますが。 このあとに「怒」「欲」のトッピングを思考が引っ張ってくるように感じます。このあとは際限なく思考による捏造が始まります。 そもそも同じ感覚を持っている人自体いないでしょうし、有る程度の際は仕方のないことだとは思います。「好ましい」「好ましくない」「どっちでもない」までは問題がないと思います。 上座仏教ではこの初期データの捏造をなくそうとします。まず、欲怒りは強く実生活で問題を引き起こしますので、慈悲喜捨の心に切り替えて落ち着きを取り入れます。その後、観察能力を高めることで、捏造の原理を見つけ消していきます。 これを皆が試みれば、争いはなくなっていくと思います。 なかなか試みないでしょうが… 私の解説だと拙いので、スマナサーラ長老の書籍や、サンガ出版から出た「仏法」などを読んでみてください。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
はじめに直覚した正直な気持ち、それを欺くものがすぐ湧いてきますね。それは全く同感です。「思考」の始まりです。仏教的実践は少し知っていますが、確かに心を素直にするということは大事ですね。生きる力でもあります。いわば、船底に付着した貝を取り除くこと。
- mystisism2
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感性差はどうしようもなく存在していて、多様化していてもいいのではないでしょうか?マスコミのイメージ戦略がだんだん効かなくなっていますし。生育、教育環境にもよるのでしょうが、生まれつきの素質も大きいと思います。 ただ、芸術などに対する感性の違いと戦争は結びつくだろうか?暴力の根源、他者に対する優越性とか集団による排除とかそういう政治的なものって感性の問題なんだろうか。欲望の方向性とか信念の問題なのでは?
お礼
政治とか社会的全体的な方向付けは、ちょっと感性の問題から外れるのでしょうが、その一面性も常に持ち続けます。最後には構成員の人間性に突き当たるのではと。
- tyr134
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まさに、哲学的論争の的になってる質問だと思いますね。 色々な方向から色々な説明が試みられていますが、、、。 極論を二つ書くと。 1・経験論 ジョン・ロックの「人間は白紙で生まれてくる」という言葉が一番極論ですね。 われわれの心はいわば白紙(tabula rasa)として生得の観念(innate ideas)を有していない。よって、全て生まれた後の「経験」に起因するというワケです。 経験に起因するとなると、全ての人間が生まれてから育つのに、全く同じ「経験」をする事は稀というか、無いでしょうから、結果として「経験の相違」が「価値観の相違」となり、それが質問者様が言われる「感性差」となる、、、と考えられますね。 2.ユングの「集合的無意識」 分析心理学の父・フロイトの弟子であるユングが提唱した論理。 人間の無意識のさらに深層の部分には、「経験を超えた先天的な構造領域」が有るとし、この領域に「個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な元型の作用力動」があると考えました。 つまり、(1)の「白紙=経験による多様化」に対して、(2)「先天的=始めから多様な存在」という論理ですね。 どちらもまだまだ「証明」された論理ではありませんが、両立場共に共通しているのは、「人間は多様な価値観を持つ」という事でしょうか。 こうした「価値観」を「認め合う」事が「相互理解」という事でしょう。 その一方で「文化相互の共約不可能性」というモノも提示されています。 例えば、我々日本人は「豚肉」を美味しく食べますが、イスラム教の人は「豚」を「悪魔の生き物」として忌み嫌います。 そうしたイスラム教の人に無理矢理「豚肉」を食べさせたり、逆にイスラム教の人が「豚肉」を食べる人を「悪魔の使者だ」と言ったりしたら、対立するのは目に見えていますよね。 つまり、「価値観」や「文化」というものは、互いに独立していて相容れない場合もあるということです。 これを乗り越えるには「価値観・文化の差」を認め、その上で相手に無理強いしないという事が大切となります。 「価値観・文化が統一的でないから紛争が起こるんだ」という考えではなく、「多種多様な価値観・文化がある」という事を前提にした思考をしてみてはいかがでしょうか? 参考論文のPDFを貼っておきます http://www.ppsa.jp/pdf/journal/pdf1998/Manakano.pdf
お礼
経験論にしろ、生得論にしろ、なにかこじつけのような気がしています。もちろんそのミックスでもあるのでしょうが、もっと大きな力に突き動かされているのではないでしょうか。「本能」か?たとえば、地球は広すぎます。人間が多すぎます。地球の反対側に住んでいる人間が対局の人間に普通はかかわることはありませんし(現代も過去も)生物学的にも交配により違ったものである(白人的黒人的黄色人人種体質はやはり違う)つまり、生物の「業」か。 人間の限界なのではないでしょうか。その限界を破るには、小手先の「理解しよう」じゃなく「うぁ、入っちゃった!」という感覚、「業」を突き破る体験が必要なのではないでしょうか。
やはり個々人で興味の対象(しるし)や、 充実感や達成感を確信するハードルの高さか、存在による溝の違い。 そして安全を確認するに至る観察経路が違っているからですね。 感性は社会から歓迎され得るような理想ではなく、内実の満たしが決定するので。
お礼
そうでしょうね。社会ってなんだろうと思いますね。結局「多数派」かあるいはそれに順ずるようなものが満足する構図なのか?つねに支配的感覚が問題ですね。
同じだとつまらんでしょう。 それだとまるで整理されすぎた本棚みたいで嫌悪感が沸きます。
お礼
散らばりすぎも、度が過ぎると詰まらんものです。本棚に、文学書学術書理工系専門書と、エロ本、低レヴェル児童文学ならまだしも、「本」でもないなにかガラクタが同居しているような気がします。あるいは「ガラクタ」とは行かなくても食器とか。
- bananasand
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人間は、他の動物と比較して相当に未熟児(未完成)のままで生まれます。で、1~2歳で完成するまでに外部からの学習により初めて人間になります。生まれて直ぐに動物に育てられた人間は、人間生活出来る人間になれません。 >感性差はどうにかならないのでしょうか? おそらく、生まれたばかりの赤ちゃんから、画一的な多様性を許さない教育を施せば、感性差は、他の動物と同じレベルまでは画一的になるように思います。 >同じ「種」なのに、あんまりではありませんか? 全段の通りなので、人間の多様性は仕方がありません。 逆に他の動物は生まれて直ぐに立ち上がり、危険から逃げ、群れますが、それ以上の高度な学習をすることは絶望的です。 >こんなことだから、戦争もなくならないし格差もなくならないし相互理解も共同意識も持てない。いいことないではないでしょうか? 確かにそうかもしれません。ネアンデルタール人は、言語が少ない分現代人よりも画一的だったと言われています。気持ちの上で共同意識も強かったかもしれません。でも生き残ったのは、言語能力が発達した現代人の方でした。 確かに、人ごとではなく、ものすごい転換点に来ているのだと思います。本当に気づいたときには、時既に遅し、という危機を乗り越える奇跡も現代人の多様性がなせる技ではないでしょうか。
お礼
そのとおりだと思います。 人間の英知というものが常に「悪知恵」を伴っているから。仕方ないでしょうけどね。本能と知性が一体化すると、どうしてもサバイバル化する。 それは、画一的にいくら教育しても、そこそこのレヴェルでは落ち着くでしょうが(ちょうどいい散らばり範囲になる?) 動物は画一的、ネアンデルタールがいいところだったのかもしれません。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
いろいろな価値観の人がいるという現実を考えてみましょうか。 戦争がなくならない方がいいと思う人もいれば格差もなくならなくていいと思う人もいるし相互理解など必要ないと思う人もいれば共同意識など大事だと思わない人もいる。そしてそれでもいいのだと思っている人もいる。あんまりだなどと現状に不満を持ったりはしない人もいる。 つまりここまで立場が逆転しうるのですよ。 それにしても、相互理解というのは差異があるからこそ生まれるもんだと思いますけれどもね。 もしみんな同じなら、理解しあおうと努力することなどないですし、共同しようと意識したりもしないでしょう。
お礼
そのとおりですね!ちょっと大きく考える必要がありました。 その「相互理解」がもっと大きく一般的になれば(回答者さんのように)もっといい世の中になるかもしれませんが。頭いっぱいになりそうですね。
>戦争もなくならないし格差もなくならないし相互理解も共同意識も持てない。 とおっしゃっていますが、相互理解とはなんでしょうか? たとえば、私が誰かに「ばななって美味しいよね」と言い、その相手が「ばなななんて不味いよ!」と言ったとしても、私はべつにその相手をいきなり嫌いになったりしないし、「あなたは私のことを理解していない!」なんて言いません。 でも、社会や政治というのは、こういうケースでは、何故かいきなり嫌いになったりしてしまうものです。 そもそも、私たちは目の前の人が何を考えているか本当にわかることはできません。だから、完璧な理解なんてできません。 問題は、完璧な理解なんてできるはずがないのに、理解できていると思いこんでものごとが動いているということです。貿易センタービルに飛行機がつっこんだとき、「テロだ!」と私たちは言いました。そして、テロと定義して理解しているつもりになっているから、問題は解決しないのだと思います。 必要なのは、「テロだ!」と叫ぶより、「私たちは彼らが何を考えているのかちっともわからない」と叫ぶことだと私は思います。 感性差をなくすということは、完璧な全体主義をつくるということでしょうか。私はそんな世界はいやです。 必要なのは、相手を理解してやることではなく、相手を受けいれるということです。たとえるならば、泣いている相手に向かって「きみの気持ちはよくわかるよ」と言うことではなく、「きみの気持ちはまったくわからないけれど、とりあえずそばにいるよ」と言うことだと思います。 でも、残念なのは、個人的にも、社会的にも、政治的にも、こういうことが言えないことです。だから、戦争はなくならないし、格差もなくならないのだと私は思います。 感性差がなくなるのはわるいことだと私は思います。質問者様がここで質問できるのも、私もそれに答えることができるのも、感性が違うからです。 感性差がなくなれば、楽しいことなんてひとつもなくなると思います。たとえば本でも映画でもコントでも、おもしろい作品というのは感性のずれから生じるからです。 今現在の日本という国で「おもしろさ」が減少しているとすれば、それはみんなが同じように考えて動いているからです。感性のずれが少なくなっているからです。そして、感性のずれをみんなが許容しようとしないからです。
お礼
バナナが嫌いか好きかは気にならないレヴェルの話なんですね。しかし、このドラマが好きか嫌いかとなるとちょっと話が違ってくる。なにか、自分の人生がちょっとかかってくるようなことか?それが、政治的社会的文脈で起こるのだと思います。 テロの例で言えば、「テロだテロだ」と記号論的な単語をわけもわからず(それこそイメージ商戦のように)叫ぶのは言語道断だとして、「私には彼らの考えがわからない」というのは、思考放棄なのではないかと感じられます。それは、謙虚に考えればわかりません。でも、尊大かもしれませんが、人間の誇りとか弱さとか業とかそういうなんとなくわかるものを拡大して、あの地域では精神性はすごく重要なんだなと言う創造くらいはできるものだと思います。そして、そういうものを強要する社会でもある。「わかる気がする!」のほうがいいのではないでしょうか? 感性差という言葉を使ってしまいましたが、私が言いたかったのは、「これは私にはいいとは思えないけど、たぶんあなたはこういう感じ方考え方をする人だからこれがいいっていうのはなんとなく想像つく」というレヴェルにいかないから問題なのではと。そして、おっしゃるように「わからないけど、受け入れるよ」というところとも遠いところが現実社会だと言うところで、ひどい世の中なんでしょうね?
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お礼
たいへんよくわかりました! 民主主義の「必要悪」性ですね。マシな制度は何か。それは、意見が重層的になる民主主義しかない!このことが改めて分かりました。 たいへんご丁寧な回答を頂、ありがとうございます。 お礼文ではなかなか答えることはできないのですが、分のはじめから納得して読んでおりました。たいへんいいお話ですね。 ホラーを認める、その趣向を認める、このことは一種逆説的ですが、たいへん意義深いことなんですね。表面的な動議道徳の怪しさ、それに逸し報いたものが、裏の正しさというような意味で存在する。しかしなぜ「裏」なのか?それは人間の業というものなんでしょうかね。結局は「民主主義」は必要悪的裁量の形態だとしても、そこに伴う「数の理論」が果たして妥当かどうか。衆愚というものは常に存在する。それを支配的にしていいのか。 これからこの難しい課題(数の論理)をどう考えるかが世界の課題でしょうかね。それをいじらないで改良するには、個々人の改良しかないわけですが、それは非常に困難か? 考えつくすと、本当に「愚」というものがいかなるものか、寒気がしてまいりますね。