• ベストアンサー

なぜ人間にはこれほどの感性差が!

一例として、ある人間が、凄く感動し感銘したものを、ある人間は退屈で嫌悪感を感じる(これはもちろん立場が逆転する場合もある)とまでいう感性差はどうにかならないのでしょうか?同じ「種」なのに、あんまりではありませんか?こんなことだから、戦争もなくならないし格差もなくならないし相互理解も共同意識も持てない。いいことないではないでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

一卵性双生児は別として、顔がみんな違うように、感性も違って当然じゃないでしょうか。 太古の昔、生命体は自己分裂していたんですね。 アメーバーみたいなものですが、そうなると強いウイルスによりその種は絶滅しますよね。 で、あるとき異種を作り出し、異性交配することで、どんどん異なる種類を作り出していったんですね。 一つのグループがやられても、それに打ち勝つ種が生き残ることで、全滅を避けられる。 で、人間は異種交配することで、増えていくわけですが、人間は弱いので、集団化して生きているわけです。 その集団の中でも個性があることで、ケンカになっても、「まあまあ」と仲裁する人を所有していれば、そのグループがバトルロワイヤルで絶滅することを防げる。 グロい映画は嫌悪感を多くの人が感じます。 グロいことに嫌悪を感じない社会だと、毎日が殺戮のショーを楽しむ集団になってしまい、ちっとも増えません。 グロいことを好む集団は絶滅する運命を辿ったわけで、今ある集団はグロいことを気持ち悪いと思う人たちが圧倒的に多いことになる。 確かにそうです。 でも、グロい映画は結構廃れることなく、隠れファンにより視聴されているので、販売されている。 ということはどういうことか? グロい映画を10人に視聴させたところ、5分くらいで、顔をしかめだす人がゾクゾクでてきて10分後、一人 二人 と耐え切れず席を立ちだした。 でも、中に愉快な顔をして笑みを浮かべてみている人がいる。 学者が言うには、自己防衛本能がその人を守るからだとか。 グロい映画は恐怖心を生み出しますよね。 それに順応するため、脳が快楽物質を放出するのだそうです。 すると、グロい映画を観ると、快楽物質を放出することで、精神崩壊を免れ、楽しいとして食い入るように見て快楽として楽しむようになる。 ただし、普通の人の脳はそれをやらないので、グロい映画に嘔吐しそうになり、耐えられず席を立つ人が多い。 でも、中にはそういう快楽物質を放出する脳を持っているので、その人たちは、グロい映画を好んで見るわけです。 ところが、殺戮などは、社会的に不快とされているので、裏ビデオとしてコソコソ見るようになるわけです。 で、ある日 切り刻んだ死体が見つかって、犯人が見つかって家を調べたら、沢山のスプラッター映画のビデオが出てきた。 自宅で楽しんでいたわけです。 で、その人はそういうものに対して、脳が活発に活動し、興奮するわけですが、それ以外のこととなると、関心指数の針がふれない。 だから、事情聴取をして「どう思ったか」と聞かれても「人形みたいに思った」と殺したことにたいして、平然と答えてしまうわけです。 嘘発見器でも、殺戮の場面だと針が振り切れんばりだが、ポルノ映像には針が触れない。 つまり、この人の脳はスプラッターものしか刺激として感知しないわけです。 で、この種類の人からすれば、どうして世の中の人はこういう楽しいものを公にして、国民で快楽に浸らないのか?と不思議に思うわけです。 自分の感覚だと、楽しいのだから、他人も楽しいはずだと思うが、世の中は「不快」とか「ひどい」「残酷」など意味不明のことを言う。 なんでこんなに楽しいことが、残酷だとされるのか理解できない。 が、人を殺したり傷つけたりすることはどうやらいけないらしい とわかり、ほとんどの人は、こっそり自宅でビデオを観て、快楽にふけるに留まる。 ミルグラム実験だったと思いますが、あの場合は違う。 何故家に同じ年頃の子供を持つ良きパパたちが、ユダヤ人の子供達を残忍な方法で殺せたのか? 普通は、途中で耐えられず、やめざるを得ないはずなのに、どうして出来たのか? ミルグラム実験で服従の心理について報告されています。 オウムが人を殺して焼いたわけですが、調査すると、まるで催眠にかかったかのように、罪悪感もなく、たんたんと切り刻んで死体を切断していたことがわかったそうです。 これもミルグラム実験と同じ理由により、引き起こったのではないかと思えます。 感性の差はどうにかならないのでしょうか というものは、ある意味危険をはらんでいます。 何故なら、全員が同じ感性だった場合、その集団がおかしなことをやっていても、気づきようがないからです。 例えば、ユダヤ人は生きる価値が無いという風潮になったため、殺されたわけですよね? おかしいと思う人が多ければ、こういうことにはならなかったはずだし、精神障害者は生きる価値などない という風潮に対して、それはおかしいということに気づく人がいなかったことで、殺されていったわけですよね。 逆にいうと、なにか理由をつけてあなたは生きるに値しないと誰が思った場合、全員が思うことになってしまう危険もあるわけです。 戦争は集団がA国は悪者だと全員というか多数者が思うことで、実行されるわけですよね。 他からしてみれば、宣戦布告したB国の方がおかしいと思うが、戦争をしかけた集団全員は価値の統一がされ、自分達が間違えているということを微塵も思えないわけで、それで戦争が引き起こってしまうわけです。 強いリーダーの洗脳により、国民の思考はリーダーの思考と一致するようになる。 そしてリーダーは国民から支持され、戦争を起こし、国民の協力のもと、他国の人を正義の名の下に殺していくわけです。 で、回避するには話し合いが必要なわけですが、アメリカの場合、話アがどういう結果であろうと、イラクに対し戦争を開始することはもう決まっていたそうです。 つまり、言葉が通じない鬼畜と同じ。 国連が否決をしても、アメリカはそれに従わなかったでしょう。 何故ならアメリカからすれば、自分達が地球で最高の地位を得ていると思っているから。 彼らは自分達を神だと思っており、地球をどうにでもできると思っているから。 逆らうやつは皆殺しにするぞ なわけです。 この強いウイルスに打ち勝つには、他の国じゃ駄目で、アメリカ国民が政府に対して、「やめろ!」と政府に従わない意志を表明することです。 「不正な殺しはやめろ 我々は人間だ 鬼畜じゃあない 騙されないぞ」と反戦活動を展開するしかない。 でも、宗教がからんだため、宗教=洗脳ですから、多くの人が洗脳により殺人を悦びとしたわけで、多数者が快楽殺人を好んだので、殺戮はストップできなかった。 でもジャーナリストたちは奮戦しました。 悪の政府の陰謀を暴いて、国民たちに訴えたわけですが、洗脳された国民の脳に届かなかったみたいです。 というわけで、全員の感性を統一するということは、とてもとても危険な思想なわけです。 古代ギリシャ哲学では、正義について考えています。 正義は存在するのか ということで、絶対的な権力を持っているリーダーがいたら、不正が正義の座に鎮座していても、どうにもならない。 ですので、ギリシャは民主主義を生み出した。 国民全員が間違えた価値観を持つなんてことはありえない としたわけです。 ですが、じゃあ 正義とは一体なんなんだ どうすればそれが正義だとわかるのだ と考えた。 人から正義だと認められている人から一切の正義を取り除いても、その人が正義でありつづけたら、その人は正義だったことになる と考えた。 じゃないと、正義の人だという評価が欲しくて、正義とされるものをやっているだけの人かもしれないから。 で、その人の家族、権力、服まで奪い裸にし、人の前で鞭打って笑いものにして屈辱を与え、十字架刑にして槍で刺しても、その人が屈しなければ、その人は正義だったことになる という説を出して、正義の存在の証明をしようとしたんですね。 何百年か後に、この正義の証明の理論がパクられてキリスト教の神話に作りかえられちゃいました。 ですが、これも同じで、自分達だけが正しいとして、自分達の中に悪があることを知ることはなく、この集団が自分達を正義だと思って、大量殺人・侵略・破壊活動をやってしまった。 ああ、、、 感性・価値観の統一はこのように絶滅の危機もはらむほど危険思想なんです。

garcon2000
質問者

お礼

たいへんよくわかりました! 民主主義の「必要悪」性ですね。マシな制度は何か。それは、意見が重層的になる民主主義しかない!このことが改めて分かりました。 たいへんご丁寧な回答を頂、ありがとうございます。 お礼文ではなかなか答えることはできないのですが、分のはじめから納得して読んでおりました。たいへんいいお話ですね。 ホラーを認める、その趣向を認める、このことは一種逆説的ですが、たいへん意義深いことなんですね。表面的な動議道徳の怪しさ、それに逸し報いたものが、裏の正しさというような意味で存在する。しかしなぜ「裏」なのか?それは人間の業というものなんでしょうかね。結局は「民主主義」は必要悪的裁量の形態だとしても、そこに伴う「数の理論」が果たして妥当かどうか。衆愚というものは常に存在する。それを支配的にしていいのか。 これからこの難しい課題(数の論理)をどう考えるかが世界の課題でしょうかね。それをいじらないで改良するには、個々人の改良しかないわけですが、それは非常に困難か? 考えつくすと、本当に「愚」というものがいかなるものか、寒気がしてまいりますね。

その他の回答 (12)

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.2

多分どうにもならないと思います。 なぜならば、人それぞれ経験と嗜好と精神の発達程度が違うからです。 例えば、あなたと弘法大師は感じるところが違いますし、 あなたと岡本太郎も感激するところが異なるでしょう。 人類に多様性があるからこそ、自分と全く違った人が居るからこそ、自分自身を理解できるのです。 自分と同じような人ばかりならば、自分が果たして良い人なのか悪い人なのか、自分にどんな傾向があるのか・・・全く分からなくなってしまいます。 戦争が無くならず、相互理解も共同意識も持てないのは、感性の差が原因ではなく、自分と異なった人を認めない心の狭さが原因だと思います。

garcon2000
質問者

お礼

まったくそのとおりだと思います。 感性の差を認めるということの難しさ!すごいものですね。つまり、感情を越えたものを身に着けなくてはならないですから。これができないから世の中良くならないのでしょうね。

  • dulatour
  • ベストアンサー率20% (327/1580)
回答No.1

感性と言うより、根本的に、あなたが見ている現実社会が、同じように誰もが見ていないからです。 例えば、カラーチャート上で「赤 red」と呼ばれるものを万人が同じような色として認識している保証はありません。 感性は、民族や人種による文化、またその上に成り立つ個人の生活しからの価値観が異なるので、万人が同じようではありません。

garcon2000
質問者

お礼

簡潔にして明瞭な真実のようですね。 それをドライに受け入れると言うことは、感情の上で難しいものです。

関連するQ&A