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知的好奇心や美的感覚
知的好奇心 博物館などで、その展示内容に興味を示し、じっくり考察鑑賞するようなこと、そして、自身の回りに存在する事象についての共同意識を持つ 美的感覚 あるものに対して、言葉では説明しがたい「美的」「憧れ」感覚を心中に生じてそれを大事にし追求したいと思う心 これらの言葉を、このようなものだと定義すると、そういうものがある人間とない人間との差は、どういうところからくるのでしょうか?
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美に関しては、ここでは創作者からの視点には言及せず、あくまで鑑賞者からの視点のみとさせて頂いた。 そして、「価値追求欲」を当たり前のように述べてきたが、この欲望は誰しもが持つものでありながらも、高度な欲望であることも事実である。 人間には様々な欲望がある中で、その欲望の相関関係も見逃してはならないのである。 数ある欲望の中でも、それが高度な欲望になるほど、他の欲望に支配を受けていれば、その低次元な欲望からの被支配度が大きければ大きいほど高度な欲望への道が開かれないことも事実なのである。 たとえば、肉体的本能の欲望の代表としての性欲などに虜にされてしまったような人間の場合、 その欲望からの支配が強力なため、もっとそれ以上に強烈な喜びと刺激を味わえる高度な欲望があったとしても、その段階に駒を進められず、 性欲がその人間にとっての最高欲望となってしまうのである。 だからこそ、鑑賞者が、ある芸術的対象物(作品)を鑑賞しょうとする際も、心から美を享受しようとする姿勢をもって、作品を観照(=本質を見極める)または静観しなければならないのである。 即ち、雑念を払って清い心境になって作品を見つめなければならないのである。 言い換えれば、真美善の価値の追求を第一次的に、物質的、肉体的な追求を第二次的にするということである。 次に、鑑賞者は一定の教養、趣味、思想、個性を備えていなくてはならない。何故ならば、作品を作った作者のモティーフ(目的)、主題、構想、作者の思想、時代的・社会的環境などを理解することが必要だからである。 作品を理解するとは、鑑賞者が自己自身の精神を作品の精神に合わせる作業のことをいうのである。 そうすることによって鑑賞者は作品との相似性を高めることができ、喜びを得ることができるからである。似るということが喜びの発生上の要件なのである。(動物などの中でも猿など人間に近い=似ている存在を見る時ほど喜びが大きいのである。) たとえば、ミレーの作品を深く鑑賞しようとするならば、ミレーの思想を理解することも必要である。 1847年の二月革命の当時、フランスでは社会主義運動の雰囲気が漂っていたが、ミレーはそれを嫌っていたといわれる。 そして彼は自然と共に生きる農民の醇朴な姿にいたく心を引かれて、農民の心をありのままに描こうとしたのである。 そのようなミレーの心境を知れば、彼の絵からいっそうの美が感ぜられるのである。 さらに鑑賞者は作品との相似性をより高めるために、鑑賞しながら主観作用による付加創造を並行するのである。 主観作用とは、鑑賞者が自己の主観的な要素を対象に付加し、作者が作った価値(要素)に新しい価値(要素)を主観的に加えて、その合わさった価値を享受することをいうのである。 主観作用はリップスの「感情移入」に相当するものである。 たとえば、演劇とか映画において、俳優は演技をしながら、ある場合には泣く振りをする。しかしその時、観客は俳優が本当に悲しんでいると思って一緒に泣くことがよくある。 観客が自分の感情を俳優に投影して主観的に対象を判断するのである。 これは感情移入、つまり主観作用の一例である。 主観作用によって鑑賞者は作品とより強く一体化し、一層深い喜びを得るのである。 したがって、感情移入の度合いも大きな差を生み出す要因となるのである。知にばかり偏っており、情が未熟な人間の場合、結果として感情移入の程度も弱くなり、美意識や美的感覚の鈍さにつながるのである。 最後に、鑑賞者は身体的条件として健全な視聴覚の感覚器官、神経、大脳などをもたなくてはならない。 特に美の鑑賞に際しては健全な身体的条件が必要となるのである。
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- hyuuma8579
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あなたが質問中に挙げた知的好奇心や美的感覚など、これらの要素は、人間の中にある「価値を求めようとする欲求」に由来するものに他ならない。 人間の知情意の三機能は、価値実現のための目標であり、且つ価値追求の現実的対象としての三つの価値即ち「真、善、美」を追求しようとするのである。 真・・・人間は、自己を真なるものとしてその価値を実現したい、真理に生きたいという欲望を持っている。また、自己の対象世界から、何が真実な、偽りのない姿かを見出そうという限りない探究心、知的欲望を持っている。これが、真理追究欲である。その成果は科学、哲学などの学問となる。・・・実現社会は真実社会。 善・・・人間は自己を価値ある者として立ちたい、善なる生活をしたい、という善の実現欲を持っている。また、自己の対象世界から、善なる姿や目的、ことば、善なる行為などを見たい、知りたいという欲望を常に持っている。これが、善の追求欲である。その成果は、道徳、倫理などとなる。・・・実現社会は倫理社会。 美・・・人間は行為や生活を通じて、全体の前に自己の美を捧げ、全体を喜ばせたいという美の実現欲を持っている。また、自己の対象世界から、美なる姿、美なる行為を、見たり聞いたりして、喜びを得ようとする欲望を持っている。これが、美の追求欲である。その成果は、芸術となる。・・・実現社会は、芸術社会。 したがって、「価値とは、主体(人間)の欲望を満足させる対象の性質」とも言える。 ところで、同じ月を見ても、ある人には悲しく見え、他の人には明朗に見えることがある。また、同じ人が見ても、悲しい時に見れば月も悲しく見え、気分が良い時に見れば月も明朗に見えたりする。 主体の心の持ち方によって美に差異が生ずるからである。 これは、美に関してだけでなく、善や真の価値に関しても、商品価値に関してもいえる。 このように主観が対象に反映することによって、量的にも質的にも価値の差異が生ずるのですが、このような主体が持つ条件の、価値決定への影響を「主観作用」というのである。 つまり、ある物(対象)の価値の決定には、当然のことながら、主観作用が働いているわけです。 この主観作用がその人その人個別によって異なるため、その対象の価値(評価)も人によって異なるのが事実でありましょう。 とすれば、主体的条件に共通性が多い時には、価値評価にも一致点が多くなるのは、当然のことでありましょう。 価値が決定されるには、主体的条件と対象的条件の相互作用が成立しなければならないのです。 結論としてまとめれば、主体的条件としての人間の価値追求欲の強弱の差異、主観作用の個別的差異がそのまま、対象の価値(評価)の決定に差異を生ぜしめるのである。もちろん、対象自体が持つ性質の差異も無関係ではない。五対八の黄金比など、人の目に美しく映る調和がなされているのかやその対象の誕生に纏わる目的性などが時に重要となる。 価値追求欲・・・知か情か意かのどれかが弱いことによって、それは即ち主体的欲望の欠乏や主観作用の低度につながり、それらの要素が強い人と比較に於いて、結果的な差が生まれるのである。
- hyuuma8579
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先に質問中の後者に関する考察から始めさせて頂きます。 美を論ずる時、同時に芸術も論じなければならないでしょう。 何故なら、芸術とは、美を創造したり、鑑賞したりする活動のことを言うからです。 人間の心には知情意の三つの機能があるが、それぞれの機能に対応した文化活動の分野があります。 知的活動には哲学、科学などがあり、意的活動には道徳、倫理などがあり、情的な活動が芸術となります。 したがって芸術とは「美を創造し鑑賞する情的な活動」であるといえます。 ハーバート・リードというイギリスの美術評論家は「すべての芸術家は・・・・・人を喜ばせたいという意欲をもっているのである。したがって芸術とは心楽しい形式をつくる試みである」といっています。 要するに目的性から見た芸術は「創作と鑑賞による喜びの創造活動」ということもできるのです。 話しは変わり、愛とは「ある主体がある対象に向かって授ける情的な力」であるのに対し、美とは「その対象がその主体に返す情的な力」であるとする時、 対象が鉱物や植物の場合、対象から来るのは物質的な刺激であるが、主体(人間)はそれを情的な刺激として受け止めることができるのです。 ところが【たとえ対象が主体に刺激を与えたとしても、主体が情的に受け止めない場合がある】のです。【その場合は情的な刺激とは成り得ない。】 問題は、【主体が対象からくる要素を情的なものとして受け取るかどうか】という点にあるのです。 対象からくる要素を主体が情的に受け取れば、その刺激は情的な刺激となるのです。 したがって美とは「対象が主体に与える情的な刺激」であるということになります。 さて、美は客観的に「ある」ものではなく、「感じられる」ものです。 対象の中にある要素が主体に情的な刺激を与えて、それが【美として感じられる】ものだからです。 では、主体を情的に刺激する要因=美の要素は何か? それは対象を創造した目的と物理的諸要素の調和です。 すなわち、線、形、音、色彩、空間などの物理的諸要素が、創造の目的を中心としてよく調和している時に、それが主体に情的な刺激を与え、美として感じられることになります。 調和には空間的調和と時間的調和があります。前者の芸術には絵画、建築、彫刻、工芸などがあり、後者には文芸や音楽などがあります。 その他、演劇や舞踊などは時空間的芸術というのもあります。 いずれにせよ、「調和」が美の感情を起こす要因になっているのです。 アリストテレスは「形而上学」にて、美とは秩序と比例と被限定性(限定された大きさを持つこと)の中にあると述べています。 リードもまた「芸術作品には重力の中心にたとえられるような、想像上のある照合点があって、この点をめぐって線、面、量塊が完全な均衡をもって安定するように分配されている。すべてこうした方式の構成上の目的は調和ということであり、【調和はすなわち我々の美観の満足】である」としているのです。 いずれも、【美の要素が調和にある】という立場において一致しているのです。 ところで、芸術活動には創作と鑑賞の二つの側面があるわけですが、それは何故なのでしょうか?創作は何のために、鑑賞は何のために必要であるのか? それは、二つの欲望に基づいてなされる活動なのです。 すなわち、創作は価値実現欲に、鑑賞は価値追求欲に基づいて行われるのです。平たく言えば、価値を表わそうとする行為と【価値を見つけようとする行為】ということです。 すみません、一時、休憩させて下さい。 あなたの質問の答えのヒントになるであろうキーワードを【 】で括っておきました。
人は、未熟児で生まれ、成人になるまで、20年が必要です。動物は、1年で成人になります。この違いは、なんでしょう?脳を発達させるために、長い期間が必要です。だから知的好奇心も美的感覚も、この期間が旺盛です。脳が発達して、自我が完成すると、鈍くなるようです。だから感覚の個人差は、大人でも、子供のように、無我の心のある人が、知的好奇心も、美的感覚も、旺盛と思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 無自我な時代は吸収がいいのですね。いいかえると、好奇心が旺盛で他との交流能力が高いのかもしれません。子供のような心というのが、キーワードなのかもしれません。
- izayoi814
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基本的には生まれもった性質だと思います。 ただ、その後の成長過程の環境によってもかなり変わると思います。 そういった才能を認められずに、自分の欲求を殺して育ってしまえば、自分でもその才能に気付かずに生涯を過ごすのではないでしょうか。 何か違和感を感じながらでも。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なかなか、感性を殺して生きるって言うのは辛い気がしますね。
お礼
ありがとうございます。 とても参考になりました。 低次の欲求に屈していては「美」の追求も感性もありえませんね。もちろん断念するわけではないが、常にもっと上のものはないかという精神的な強靭さ、集中性が要求される。そして、そのような価値を自覚することの出来る人間でありたいと強く思います。