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多神教の世界観を簡単に言うと、どのようなものですか
多神教の世界観を簡単に言うと、どのようなものですか。 できれば、一神教との対比で、できるだけ簡略に教えてください。
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No.11です。 調和を以って貴しと為すqsxdrfvgyhさんに道をゆづります。 その貴さをダメなものにしないように 注意書きとして 残しておいていただければと思います。 ★ 「中空」に一神教を据えると、多神教と一体化した「多元一如」の世界観を描けると思うのです。 ☆ 《多面一如》としていただけば よろしいかと思います。 ただ こういう信仰は あまり面白くないように感じますが。そして 信仰を取り込む宗教となれば 余計に注意書きを必要とするようにも思われます。 理念としては おっしゃるとおりだと考えます。つまり どんなに崇高なものでも 理念で 人が 動くというのは あまり 観察されていないのではないでしょうか。 (ちょっと わたしは へそが曲がっております)。
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- amaguaeru
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幾多の艱難辛苦 先人達の努力の報われるとき 西田哲学の成就するとき 靖国の英霊に向かいて言うことなし こころやすかれ ていえんは たたかいがたく なしはてき
お礼
締めのお言葉をいただき、ありがとうございます。 ここで、完結といたします。 ありがとうございました。
- amaguaeru
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自然界の生物の多様性の崩壊を予測させることで 生命の木の意味を現実に起こる現象として確認することによって 大地からはなれ自然に背いた宗教の暴走を沈静化し調和へと向かわせられます。 生命の木の調和の意味は全ての思想に浸透し世界の平和は目の前といってもいいでしょう。
お礼
「環境サミット」の年ですから、日本から何か「調和志向的な」思想の発信ができればいいですね。 ありがとうございました。
- amaguaeru
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和の精神はどの宗教に属するということによって築かれるのではなく ある具体的な目的に対してお互いがなかよしで共同作業ができるということでしかないのです。 普段の生活においても。 宗教的な統一を考えるより 各国がその文化性を保ちつつ自立した国家形態を目指す方がはるかに好ましいと思われ なかよしで交流するという和の精神はそういう場面に対しても優れた有り方だと思います。
お礼
ご近所付き合いにも、国際関係にも、共通しそうな「和」を感じました。 ありがとうございました。
- kigurumi
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No。5です。 >唯一絶対の創造主(主神)に対して被造物のたくさんの神々(従神)のようなイメージでよろしいでしょうか。 一つはそうでしょう。 元の神の子孫たちの神々を信仰しているというもの。 で、信仰される地域によって名前が違ったり、例えば女神の概念は三面一体で、3つの相をもっているとされ、相によって名前がそれぞれ違うんです。 AとBとC 別々の神をどれも信仰しているから多神教かというと、同一の神なので一神教。 さらに、元は一つだったものが分裂してそれぞれ別の特徴を持つ神のようになっているが、それらは元の神の一面にすぎない。 だから同一。 そうなると多神教と言われるが、実はたった一つの神を信仰していたりするわけです。 ただ、もしかして信仰している人はそれぞれ別の神だと思って信仰しているのかもしれないです。 Aは信仰しないがBは信仰する。=BはAの一面なのでAも信仰していることになる。 ってわけですね。 というわけで、どのパターンか調べると、意外と「多神教だから多くの神々を信仰しているかと思いきや」って発見があるかもしれないですね。
お礼
なるほど、すごく分かりやすいです。 ありがとうございました。
- amaguaeru
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多神教は互いに自立した他を尊重できる意識が根ざしていると思います 互いに他を尊重する意識があれば宗教の統一はあえて必要なことではないとは思います。 普段の生活においてもある目的に対して発生する共同作業において なかよく仕事が遂行できればその人がどの宗教に属しているなんてほとんど考えもしないし関係ないですよね。 排他的であろうとすることと 取り込もうとすることは表裏一体です。 キリスト教もその精神的基盤を他の宗教に取り込まれてしまうのは嫌でしょう。 お互いが尊重しあって自立して共存することが大切だと思います。 一神教と多神教とでは一神教の方が排他性が現れやすいのではないでしょうか。
補足
キリスト教でもマリヤ信仰や聖人信仰が見られ、混然一体とした印象があります。おっしゃるように、あえて統一しなければならない必然性はなりません。 宗教団体になると、多神教であっても排他的というか、独自性護持というか、自己完結的・閉鎖的というか、完全無欠で変更の余地なしというか、保守的な精神性が、発揮されるのでしょう。 均質化、同一化も危険だし、閉鎖的、保守的なのもどうなのかなと思います。開放的で、対話的な共存くらいが、理想なのかなと思います。
多神教→神(と名のつくもの)がたくさんいる 一神教 唯一神教→いわゆる一神教。本当に神は一つ。それ以外はなし。 拝一神教→神はたくさんいるけれども、拝む神は一つ。 単一神教→神はたくさんいるけれども、実は一つ。 で、どうも質問者様の意識されるところは、 単一神教の問題ではないでしょうか。 様々な宗教観を一つに統合するわけですから。
お礼
そうですね。そういう方向に傾いていってます。 鋭いご指摘、ありがとうございます。
★ 同一人において、両者(多神教と一神教)の世界観に差異は無く、同一で有り得るというご意見ですね。 ☆ そうですね。そして厳密にいえば 差異があれば 右利きか左利きか 箸で食べるかフォークでか手でか 握手をするかお辞儀をするか等々のたぐいの差異であって それらは 互いに 認め合っていけるはづだと考えます。 ★ 「神々」は、一元たる「世界の根源」とは違っているという主旨でしょうか。 ☆ 大目に見て 《「神々」は、一元たる「世界の根源」》の具象的な現われと捉えるのでしょうね。美しい自然法則であるとか あるいは逆に 不条理な自然の力の威力であるとか これらを 神のこころの現われと見る場合もあるかも知れません。そこまでは――特に 個人の内面の問題であるとして―― 大目に見ることができるのではないでしょうか。 ただし 現代にいるかどうか分かりませんが もし《狐憑き》であれば 一元であるかどうかに関係のない心的な現象だと思われます。 ★ 〔組織的にしろ社会一般のゆるやかなまとまりにしろ 宗教的な集団にあっては〕 調和的な一元論には、なれないのでしょうか。 ☆ 経験科学の成果を活用する作業でもなければ 個人の自由な心の伸びとしての信仰そのものでもなく いづれをも 自己の集団の利益(したがって 現世利益)のために用いるというのであれば そもそも 話しが ちがって来ていると思います。ただし この世の秩序を それなりに 保つという意味での《調和的な一元論》にはなれるかも知れません。あまり面白いものではないはづです。面子のために励んでいるようなものですから。 ★ 〔宗教としての一神教と多神教とでは その付随的な世界観において その特徴が出勝ちで たとえば〕「抑圧・排他的世界観」と「許容・共存的世界観」という感じでしょうか。 ☆ 宗教としては――大目に見たくないのですが つまり ここは 悪い側面を挙げたいわけですが―― いづれも《抑圧的にして排他的な》傾向を帯びると考えます。 一方では 相手に有無を言わせない力を 恥づかしげもなく 出してくるでしょうし 他方では 《許容し包容する態度で 共存をうたいつつ 上下関係や権限関係を じつは 守れと言っているでしょうし これが全体として 団結すれば 排他的にもなる》と思われます。 ★ 主体的な個人の信仰とか信条は、科学の外の「不可知の領域」をどう捉えたり、想定したりするのか、空想力、想像力、直観力の問題のように思うのですが、いかかがでしょうか。 ☆ そのとおりだと考えます。そういうふうに捉える人は 日本人では 稀れですが。 厳密になっておくべきだとすれば 想像力や経験思考を超えたその果ての果ての わづかに むしろどこからか 与えられる《直観》において みづからの心の内面を確かめるというところでしょうか。 それでも そこに《考える》というおこないが 入っていたら それは 《わがはからい》であると思われて来て さらに心の触手をあたかも伸ばすかのようにして 戸をたたくのだと思います。 そうすると いつしか 科学の中に あるいは この世に 還って来ているわたしを見つけるという具合いなのだと思います。 * ちなみに 《中空均衡構造》というのは ずるいやり方だと思います。《均衡なり中庸なり調和なり》と言えば どんな世界の根源にでも当てはまるそういう表現であるように思います。《中空》は 《隠れたる神》のことだろうと理解します。経験科学を超えた領域にかんして 《無・空・秘密・沈黙》というふうに言えば そのまま 表現としては 成立するそういうものだという嫌いがあるのではないでしょうか。
補足
他の記述は、全くそのとおりだなあと思いました。ただ、以下の2点には、違う意見を持ってしまいました。最後の1点は、同意の上での補足です。 ★ 〔組織的にしろ社会一般のゆるやかなまとまりにしろ 宗教的な集団にあっては〕 調和的な一元論には、なれないのでしょうか。 ☆ 経験科学の成果を活用する作業でもなければ 個人の自由な心の伸びとしての信仰そのものでもなく いづれをも 自己の集団の利益(したがって 現世利益)のために用いるというのであれば そもそも 話しが ちがって来ていると思います。ただし この世の秩序を それなりに 保つという意味での《調和的な一元論》にはなれるかも知れません。あまり面白いものではないはづです。面子のために励んでいるようなものですから。 「調和的な一元論」というのは、表層的には、自他・正負・強弱・真偽のような対立があっても、均衡している、相互依存的な関係の中で経験していく、矛盾を孕みながら日々の暮らしを生きるというような感じです。現実には、そんなイメージだと思っています。 ★ 〔宗教としての一神教と多神教とでは その付随的な世界観において その特徴が出勝ちで たとえば〕「抑圧・排他的世界観」と「許容・共存的世界観」という感じでしょうか。 ☆ 宗教としては――大目に見たくないのですが つまり ここは 悪い側面を挙げたいわけですが―― いづれも《抑圧的にして排他的な》傾向を帯びると考えます。 一方では 相手に有無を言わせない力を 恥づかしげもなく 出してくるでしょうし 他方では 《許容し包容する態度で 共存をうたいつつ 上下関係や権限関係を じつは 守れと言っているでしょうし これが全体として 団結すれば 排他的にもなる》と思われます。 自他一如とでもいいますか、大筋で「両者(多神教と一神教)の世界観に差異は無く、同一で有り得るというご意見」だったと思いますので、排他と共存も調和・均衡の中に矛盾しながら融合するようなイメージを持ちたいと思うのですが。 * ちなみに 《中空均衡構造》というのは ずるいやり方だと思います。《均衡なり中庸なり調和なり》と言えば どんな世界の根源にでも当てはまるそういう表現であるように思います。《中空》は 《隠れたる神》のことだろうと理解します。経験科学を超えた領域にかんして 《無・空・秘密・沈黙》というふうに言えば そのまま 表現としては 成立するそういうものだという嫌いがあるのではないでしょうか。 「中空」に一神教を据えると、多神教と一体化した「多元一如」の世界観を描けると思うのです。
- taco8ch
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>もしかして、No.4の「中空均衡構造」との関係で、「許容」と「共存」の趣旨で言っているという解釈でいいでしょうか。 「許容」と「共存」かどうかは分からないけど、 「中空均衡構造」という字面だけを捉えてみる限り。 俺の中では、いい。 いったい、中空は本当にただの中空に過ぎないのか? ということは俺の個人的な興味でもあるけど。 あ、それから言うまでもないことだけど、 あくまで日本の多神教という現象において。 追伸:なんかいろいろ難しいことがんばってますね。 うらやましいよほんと。
補足
「古事記」の神話において、中心の神が、たいして記述されず、「無為」の存在になっていることを「中空」構造だと考えられたようです。実体が無いという暗示でもあるようです。そして、前後に書かれた二神を均衡・調和させているという世界観らしいです。
もし アニミスムなどの ものごとに憑り付く心性としての原始的な心理状態を 別にしていいとすれば いわゆる信仰であるなら すべては 一元論です。 唯一神を抱くなら そのまま 一元論としての信仰ですが 仮りに多神を心に抱く形態を取っていても 信じる主体は ひとりの人間です。その個人に発するという意味では これら多神をまとめて 一元論に納まります。一元が その人の中で このときは 神な霊山 あのときは 神木というように 分かれていても 表現の多様性という問題で済ませられるものです。 信仰であるなら つまり 信じるという態度において 一元論であるなら その世界観が 多神教と一神教とで ちがうということは ないと考えるべきでしょう。信仰内容が 人によってちがってくるというのは――たとえ同じ名前の神を掲げていても やはり違いが出てくるように―― 個人差の問題としてとらえるほうがよいと考えます。 (いわゆる一神教としてのいわゆるキリスト教の信徒なら 自然に対する畏敬の念が 薄いというふうに捉えるのは おそらく まちがいでしょう。 多神教徒は 狐の神や蛇の神をほんとうに 世界の根源としての一元だと抱いているでしょうか。原始心性の段階では そうであった(?)かも知れませんが 信仰として・というよりは 自由意志を持ち 自他に対する答責性を持った近代・現代のひとりの人間としてなら もう そうではないでしょう)。 あとは 個人にとっての信仰と ムラやあるいは民族といった集団としての信仰共同(これを 宗教というのだと思いますが)とは 区別したほうがよいはづです。宗教においては 個人の場合とちがって 権威・権限そして権力といった社会力学の問題がからみます。しばしば 排他的な一元論になります。 また そうでなくとも 教義が一たん決まると 固定されてくるでしょうし 何よりも その心の開け(また伸び)としての信仰が 縮こまって来ます。 そういう意味で(つまり 二次的な領域においての付随的な意味で) いわゆる宗教においては その世界観の性格づけが 一神教と多神教とで いくらか 違ってくることもあるのではないでしょうか。 特に一神教の側で たとえばキリスト教は 世界のすべてを 自分の色で塗り尽くさなければ 気がすまないといったところが出て来ます。 ただし ヒンドゥー教なり中華思想なり日本教などは その一神教の攻撃を さらりと交わして それぞれの力を保っているようにも見受けられます。(交わし方にも 課題があると考えますが)。 でも これは 基本的な世界観の違いの問題とは 別であるように思います。どういう社会をよしとするか 社会思想や社会科学の問題として扱ったほうがよいのではないでしょうか。もしくは 誰も内政干渉すべからざる個人の信仰の問題だと考えます。(つまり 集団としての宗教は 結社の自由をふみにじろうというわけではありませんが 世界観の問題としては きわめて中途半端な過去の遺物だと思われます)。
補足
>信仰であるなら つまり 信じるという態度において 一元論であるなら その世界観が 多神教と一神教とで ちがうということは ないと考えるべきでしょう。 同一人において、両者の世界観に差異は無く、同一で有り得るというご意見ですね。 >多神教徒は 狐の神や蛇の神をほんとうに 世界の根源としての一元だと抱いているでしょうか。・・・そうではないでしょう。 「神々」は、一元たる「世界の根源」とは違っているという主旨でしょうか。 >ムラやあるいは民族といった集団としての信仰共同(これを 宗教というのだと思いますが)とは 区別したほうがよいはづです。宗教においては 個人の場合とちがって 権威・権限そして権力といった社会力学の問題がからみます。しばしば 排他的な一元論になります。 調和的な一元論には、なれないのでしょうか。 >いわゆる宗教においては その世界観の性格づけが 一神教と多神教とで いくらか 違ってくることもあるのではないでしょうか。 特に一神教の側で・・・世界のすべてを 自分の色で塗り尽くさなければ 気がすまない・・・日本教などは その一神教の攻撃を さらりと交わして それぞれの力を保っているようにも見受けられます。(交わし方にも 課題があると考えますが)。 ほかにも、前に記載いただきましたが、「抑圧・排他的世界観」と「許容・共存的世界観」という感じでしょうか。 >どういう社会をよしとするか 社会思想や社会科学の問題として扱ったほうがよいのではないでしょうか。もしくは 誰も内政干渉すべからざる個人の信仰の問題だと考えます。(つまり 集団としての宗教は 結社の自由をふみにじろうというわけではありませんが 世界観の問題としては きわめて中途半端な過去の遺物だと思われます)。 主体的な個人の信仰とか信条は、科学の外の「不可知の領域」をどう捉えたり、想定したりするのか、空想力、想像力、直観力の問題のように思うのですが、いかかがでしょうか。
- nacam
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一神教と多神教は、対立する概念ではなく、単に見解の相違にしかありません。 宗教は、一神教と多神教の間を行き来するものが多くあります。 また、両者の中間に位置する二神教、三神教も存在しています。 一神教も多神教も、宗派、教派ごとに世界観は異なりますし、一神教と多神教という区分が無意味ですので、ご質問の回答は不可能であるといえます。 一神教においても、多神教を含んだ一神教とか、一神教的多神教、一神教的二神教があります。 多神教においても、多神教的一神教、多神教的二神教、多神教的三神教があります。 多神教世界において、本来多神教であったものが、ある神が強くなり、他の神々を制圧してゆく事により多神教が一神教に近いものになったり、絶対的な力を持つがゆえに、敵対者が存在しなくなり、人々から忘れられてゆく神も一方にはいるのです。 また、政治的な理由から、特定の神だけを絶対視することにより、多神教が一神教化されたり、それが否定される事により、多神教へもどったりしています。
お礼
様々な多神教に共通した部分のようなもの、「多」であるがゆえに「唯一」に見られない特筆すべき差異のようなものを期待したのですが、簡単には言えないということですね。 ありがとうございました。
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お礼
「完成するとそのときから崩壊が始まる」という考え方があるようです。ただし、本当に完成するということがあるのか懐疑的です。 常に、未完なのではないか、続きがあるのではないかと思ってしまいます。スタローンの「ロッキー」みたいなものです。 世界観も、他民族との出会いの中で変容してきたと思っています。「排他」で対立し、失敗し、「寛容」で共存し、尊重し、緊張を伴いながら調和・均衡を志向する関係の中で成長していくような感じを想定しています。表面的な差異は重要ではなく、深層では共通の何かを見つけられるようにも感じています。 色々考えるきっかけにできました。ありがとうございました。