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「放てばみつる」という、ことわざ??に関して。

「放てばみつる」ということわざ?に関して、どなたか教えていただけないでしょうか?。 実はこの諺、つい最近初めて知ったのですが、とても自分に対して、いろいろと思い当たることがあります。 この語源は、いったいどんな内容だったのでしょうか?。 もし語源まで知らなくても、みなさんの経験上で、何か思い当たるような話があれば、是非聞かせていただけませんか?。 どんなことでもかまいません。どうぞよろしくお願い致します。

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  • neil_2112
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回答No.3

>この語源は、いったいどんな内容だったのでしょうか? この言葉は道元禅師の「正法眼蔵」の序章である「弁道話(べんどうわ)」の最初のほうに出てくる言葉です。弁道話は、道元禅師のいわば“立宗宣言”とも言われる独立した章で、師の考え方のエッセンスがはっきりと打ち出されています。 ご質問の句の部分を多少引用すると、 「はなてばてにみてり、一多のきはならむや。  かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。」 となっています。道元禅師が多用する対句型の文学的な表現になっているのがわかるでしょう。 (蛇足ですが漢字で書けば、“放てば手に満てり、一多の際ならむや。語れば口に満つ、縦横極まりなし”となります。) さてこの句の意味ですが、「放てば~」とあることから、よく「所有欲を離れる」こととの絡みで説かれることが多いのですが、必ずしもそういう意味ではなくて、実際には仏性(つまり仏としての本性)について述べられたものです。 この対句が出てくるすぐ前の文章では、「ひとは誰でも本来、仏性が豊かに備わった身を持つものである。ただし、その仏性は修行することによってしか体のうえに表すことはできないのだ」という意味のことが述べられています。 道元禅師の思想の核のひとつに、涅槃経の言葉である「一切衆生 悉有仏性」という考え方があります。この世の全ての存在にことごとく仏性がある、つまり本来全ての存在が絶対的存在であって、その価値は等しいのだ、ということです。 禅師の認識を進めると、世界の全ての存在はその価値においてつながっているのであって、世界それ自体がまるごとひとつの仏性だとも言えます。従って仮に自分を中心に言えば、世界は自分の延長である、とも言えることになる、というのが道元禅師の認識の根底にあります。 よく「修証一如」と称されますが、そのような認識にたったうえで、正しい修行をしてその仏性を眠らせることなく表に出していくべきだ、というのが禅師の仏性観であり修行観です。 この対句ではその意味を受けて、本来備わった仏性、世界とつながった仏性というものをわざわざ自分で勝手に理解しようとして、却って限定したものにしてしまってはならないのだ、という修行の大きな方向づけをしているのです。 このような観点にたって対句の前半を意訳してみると、 「自己を自己として限定しようとする認識の手を放ってみれば、世界とぶっ続きの自分という存在がわかるはずだ。それは少ないとか多いとかいう相対の世界にとどまるものではないのだ。」 という風な意味になると思います。

noname#4437
質問者

お礼

neil_2112さん、こんばんは。回答して頂きまして、大変ありがとうございます!。 なんとか少しでも、理解してからお礼をしようと思ったんですが、完全に理解する時は、 おそらくあの世に行ってからだと思いますので(笑)、雑文ですが、今の時点で、お礼させていただきます!。 >つまり本来全ての存在が絶対的存在であって、その価値は等しいのだ これは、まぁ勝手ですが都合の良い意味に捉えると(笑)、なんかすごい救われた感じになりますねー。 >自己を自己として限定しようとする認識の手を放ってみれば、世界とぶっ続きの自 分という存在がわかるはずだ。 この、「自己を自己として限定しようとする」という部分ですが、これは、何かにとらわれている、あるいは、何かにとらわれた、という風に解釈いたしました。 これは僕の経験上ですが、何か迷いがあったとき、悩んでいる時ほど、何かにとらわれているということが多いような感じがしたからです。 でも・・・、何かピントがズレているような感じも致しますが・・・。 今は、こういう解釈で、精一杯ですね(笑)。 この「放てば手に満ちる」とは、まさかこんなに深いものだったとは、本当にびっくりしてしまいました!。 neil_2112さん、これほどまでに詳しく回答して頂きまして、本当にありがとうございました!。

その他の回答 (2)

回答No.2

 gingakeiさん、こんばんは。お久し振りですね。(^o^)  「放てば手に満てり」・・・素敵な言葉ですね。放てば無くなってしまって手に満ちるはずもないのに、手に満ち溢れるなんて矛盾もいいところですよね(笑)。理屈で考える限り、到底承服できない言葉ではあります。  しかしこの言葉には実は途方もない真理が隠されているのです。その真理は頭で考え続ける限りは感得不可能な、謂わば途轍もない真理なのです。  極々卑近な例でお話してみましょう。  「女は弱し、されど母は強し」という言葉がありますよね。なぜ「女は弱し、されど母は強し」なのでしょうか。母に《守るべき子》がいるからではありません。「その子の為に命を投げ出しても悔いはない」との思いが母を強くさせているのです。守ろうとしているのではない、自らの命を捨てようとしている。ここに母の強さが生まれます。そして母親としての気持ちの充実に最早いかなる敵も存在しなくなってしまうのです。  小我を捨てれば大我が見えてきます。私心を捨てれば公の心が見えてきます。逆の言い方をすれば、小我にこだわればこだわるほどますます《小我の思い》に引き摺られて袋小路に追い詰められてしまうのです。飽くまで《自分》を守ろうとする人間には「放てば手に満てり」という、殆ど恩寵にも近い心境は訪れないと思います。  人間は自分勝手な生き物です。そしてそれでいいのだと思います。誰しも自分が可愛いし、自分の命も大切なのです。自分を大切にできないなら他人もまた大切にできません。命のつながりを実感できるのはやはり「自分」が出発点となるのです。その意味で人間は《自分勝手な生き物》であっていいのです。  ところが何かの拍子に自分という人間の身勝手さ、愚かしさ、つまらなさに気づく時があります。「俺はどうしてここまで分勝手な生き物なんだ?」「どうしてここまで己にこだわった生き方しかできないのだ?」・・・・・・  そういう思いに捕われても尚「小我」を捨てきれないのが人間です。それを見抜いた親鸞という、浄土真宗の開祖は「悪人正機説」という、一見逆説的とも思われる優れた説を唱えました。悪人は単に悪人のままでは正機説の中へは入れません。悪人が自分の罪を自覚し、「ああ、こんな俺なら生きる価値はない。死を以って償っても償いきれない罪を犯してきたのだ。ああ、もう何も要らない。何も要求しない。死のう。たとえ虫けらのように殺されても、いかなる文句が言える人間だと言うのだろう。そんな資格や権利など、罪深い俺になんかあるものか」・・・ここに至って初めて親鸞上人の説いた「悪人正機説」の入り口が見えてきます。そして同時に悪人は神仏の恩寵を知るのです。全てを捨てる、あらゆるものを放擲する、己れの命さえ惜しいと思わない。そこに恩寵が生じます。即ち「放てば手に満てり」の心境が訪れるのです。この心境は殆ど《奇蹟》にも近い恩寵なのです。     ただ悔いればそれで極楽浄土に行けるはずもない。自らの命を捨て、心の底から悔いて初めて恩寵が訪れるのです。しかしながらごく常識的な、罪らしい罪も犯さないで生きている普通の人間はそこまで悔いることもしない。当たり前です、悔いなきゃいけないようなことをそもそもしていないのですから。ここが「悪人正機説」のものすごいところです。最初に言いましたように「頭(理屈)だけの世界」では到底理解し得る世界ではありません。  ところでgingakeiさんはどういうところで『とても自分に対して、いろいろと思い当たることがあります』と思われたのでしょうか。ご兄弟(お姉さまですよね)との葛藤、苦悩、そうした諸々の負の感情がgingakeiさんをしてそのように思わせているのでしょうか。これらはすべて私個人の推測の域を出ず、もしも的外れな憶測であったとすれば、深くお詫びいたします。  gingakeiさん、私はあなたのいつも元気な、そして健気な姿が大好きです。妙に飾り立てたりなどしない、素朴で率直なあなたが大好きです。随分年の離れた弟を見るような目で(迷惑? ^-^;)あなたの発言を見ています。今回の書き込みも、もう寝ようとして寝室に行きかけたにも関わらず、またもやその素朴にして率直な質問に思わず答えたくなったのでした。  またどこかでお会いしましょうね~、gingakeiさん。。。

noname#4437
質問者

お礼

masatoshi-mさん、こんばんは!。お久しぶりです! >守ろうとしているのではない、自らの命を捨てようとしている。 全く仰る通りだと思います。母が我が子を思う気持ちは、とてつもなく計り知れない愛情ですからねー。 >小我にこだわればこだわるほどますます《小我の思い》に引き摺られて袋小路に追い詰められてしまうのです。 思い当たることはたくさんありますよ。もう泥沼に入ってしまうような、そんな感覚になっていくことがあります。 結局は、何かにとらわれているんでしょうね。。。 >人間は自分勝手な生き物です。そしてそれでいいのだと思います。 あは^_^; 「悪人正機説」というのは、初めて知りました。ついでに、恩寵という言葉も初めて知りました。読み方もわかんないんで辞書でも調べました、^_^;。 でもかなりの悪は、その「悪人正機説」へは入れないでしょうね~~~。 >ところでgingakeiさんはどういうところで『とても自分に対して、いろいろと思い 当たることがあります』と思われたのでしょうか。 あ、これですか!?。これは・・・、例えばなんですけど・・・、 まぁ欲しい本があったとしますよね。で、その本を探しまくっても無くて、それで店員さんにもいろいろと調べてもらって、「これは絶版になっていますよ」と言われたことが実際にあったんですよ。 「それじゃあしょうがないや~、あきらめよ~、、とほほ・・・」と、一回それを諦めたら、 なんと、その後その本屋さんに行ったら見つけたんです!!。 それと、CDなんかもそうだし・・・。欲しいものに限ってなくて、1回諦めると、結構見つかるんですよね。 とまあ、、こんなレベルなんですよ~^_^;。 それなんで、(ヒステリー)アネキのことで聞いた訳ではなかったんです~(笑)。 でも、ここだけの話。アネキとまたケンカしちゃったんですよね。それなんで、今は全然会ってもいないんですが、かえって今はとっても楽ですね!笑。 >私はあなたのいつも元気な・・・、 そうですか!?。なんかとっても嬉しいですねー。この世にはおれでも好いてくれる人がいるってわかると、 やっぱすごい支えになります!。ありがとうございます!。 masatoshi-mさん、いろいろと本当にありがとうございました!。 今後ともどうぞよろしくお願い致します! ぺこり<(_ _)>。

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.1

その元になったと思われる「放てば手に満てり」は、曹洞宗の開祖・道元禅師のことばのようです。

参考URL:
http://www.jiyusha.co.jp/mokrok/books/037-4.html
noname#4437
質問者

お礼

nyozegamonさん、こんばんは。 これって、仏教用語だったんですか~!。どおりで、諺辞典に載ってなかったんですよね~笑。 曹洞宗の開祖・道元禅師が作られた言葉ということで、なんかやっぱり重みがありますよね。 回答して頂きまして、本当にありがとうございました!。

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