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マックス・ウェーバーについて

今、マックス・ウェーバーについて勉強をしています。 で、あらゆる方面から彼のことを見たいと思っています。 そこで私だけの意見では偏ったものになってしまうので、みなさんの意見を聞きたいと思いました。 みなさんはウェーバーをどのように思っているんでしょうか? ウェーバーについての感想で構いません。 どんなことでも構いませんので教えてください。 宜しくお願いします。

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noname#49694
noname#49694
回答No.2

 まあ偏らないように、ウェーバー論争みたいなものを勉強しつつ、ウェーバーを読むといいのではないでしょうか?ウェーバーは初期・中期・後期に分けられると思いますが、ここで説明できるほど私は詳しくありません。  私のイメージでは社会学的な分析としての資本主義の精神や官僚制の問題、あとは彼の宗教社会学がとても大きい業績です。あと社会科学の方法としての「客観性」論文が今の社会学に大きな方法論的基礎を与えているので大切ですね。  日本のウェーバー学はもともとマルクスの補完的問題として考えられ、「マルクスとウェーバー」としてとらえられた経緯があります。平たくいえば資本主義ってどうやってできるの?ということです。 これはもちろん経済学の祖アダム・スミス『国富論』と、それを批判的に発展させたカール・マルクス『資本論』によって解明されました。  いうまでもなく厖大な理論体系。でも彼らの精錬された議論に、ある疑問が出てくるわけです。それまでヨーロッパは文明を生み出し、唯一資本主義を生み出して経済的に富裕化したといっても、もともと中国などのほうが発達していたくらいではないか、インドだって独特の高度な文明をもっていたはず。ではなぜもともと未開の地でど田舎だった西ヨーロッパ(イギリス・ドイツ・フランスなど)で、資本主義が出てきたんだろう。  まあ簡単にいうと、こういう疑問が出るのは当然でしょう。ウェーバーは宗教社会学、比較文化の視野をもっていたので、きわめて鋭い問題点を提示したわけです。  それが資本主義の精神的側面、ヨーロッパに独特なプロテスタンティズムの精神だったのです。一言でいえば、富を生み出す源泉としての貯蓄というか蓄積という観念があったということです。  以上が日本のウェーバー学の問題でした。以後大塚久雄が経済史を確立する上でいろいろ応用していくこととなりました。  1960年以降でいいますと、私個人の見方では、欧米の業績ではアンソニー・ギデンズ、日本の業績では山之内靖を注目すべきだと思います。  ギデンズはマルクスとウェーバーの両方の理論を批判的に発展させて、近代社会の構造と問題を明らかにしました。簡単にいうと、マルクスは資本主義をとらえ、ウェーバーは資本主義と産業主義の両方の問題を見ていました。でも一番大きいのは、マルクスは国家の問題を軽視したのに対して、ウェーバーは国家の問題を強調したことにあると思います。ギデンズはそこで国家の支配や構造を重視するわけなのですが、これはウェーバーが取り組んだ「官僚制」の問題にルーツがあります。  資本主義は資本主義で発達しえたか?いや無理です。人々の自由な労働と経済行為だけで、実は経済発展はありえないのですね。そこで資本主義とともに発達した官僚制があるのです。国民国家の統一は重要な意味を持ちます。かつて今のドイツは数十の自治的な地域でお互いに関税をかけまくっていた歴史があり、結果的にイギリスから遅れて後進国になります。  そこには国民国家の支配と統制のあり方が関わらざるをえない。私にとってウェーバーはそういう視点を与えてくれる気がします。  まあ他にもいろいろですが、ここらへんで。

noname#107333
質問者

お礼

ありがとうございました。 本当に助かりました。 というか、自分以外の方の意見に触れることができて、さらにウェーバーについての考えが深まりました。

その他の回答 (1)

noname#80116
noname#80116
回答No.1

 (1)存在と(2)その関係性(社会性の側面 ゆえに 倫理)とそして (3)職業の精神 これらを きちんと区別していない嫌いがあります。  考え方の上で――時間のあとさきではなく 存在のあり方から言って―― 上の順序で 先行・後行がきまっていると思われます。ところが ウェーバーの場合 極論すれば 順序が逆になっていると疑われます。  学問至上主義の精神つまり学者という職業精神 これは あたかも 普遍性を問い求め 普遍性に立脚して しかも 価値自由性を守って 尋究した成果としては 何ものにも勝る人間の判断であり思想であると あたかも言おうとしている嫌いがあります。  資本主義の精神は おおむね 勤勉志向とそしてそれの自己目的化としてのガリ勉(つまり勤勉志向主義)とに分けて 捉えるのがよいと考えます。  それの原因だというプロテスタンティズムの倫理 これは――ですが―― もしB.フランクリンの思想に例をとるなら 純粋ガリ勉志向であるように思われます。  時は金なりという命題のもとに 倫理つまり人と人との関係やつきあいが決まるというものです。この倫理には 人間の存在が 先行していると――ほとんど 根拠らしい根拠を提示しえないほどの問題ですが―― はっきり言い返してやるべきだと考えます。  すなわち いま例示したような倫理や 職業ないし経済活動の精神 これらは 存在に後行していると まづは 単純に しかも しっかりと 峻別することが 大事だと考えます。そうでなければ 金持ちでなければ 人間ではないということになります。  しかも ウェーバーは プロテスタント・キャピタリストたちの成れの果てとして その倫理や職業精神を ののしっています。魂のない脱け殻でしたか 何でしたか。もしそうだとすれば 始めから 存在が倫理に先行しているのに 逆の順序にしたのが いけなかったのだと述べるべきです。結果として 資本主義の成果を 一定の程度に達成したあと 精神のない職業人(でしたか 間違っているかも知れません)と成り下がってしまったなどと言うのは おかしい。  まんじゅう こわいと言っている人たちに まんじゅうが 出されて来た。かれらが いいほど食べたあと なおも お茶がこわいと言っているようだということを指摘しても 始まらない。最初にかかげた先行・後行の問題を あとになって初めて ウェーバーは 指摘しているのではないかというものです。という論理を なぜ 人びとは 指摘しないのか 疑われます。

noname#107333
質問者

お礼

ありがとうございました。 助かりました。

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