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羅生門とエゴイズム
学校で羅生門を読みました。いろいろ調べていると、羅生門は、「人間のエゴイズムを描いている」と書いてありました。 でも、人間のエゴイズムって何なんでしょうか? 辞書では「利己主義」と書いてあったのですが、そのまま、「人間の利己主義を描いている」と書くと、意味不明になりました。 ちなみに、僕なりの羅生門の解釈をしてみると、「大正(羅生門のかかれた時代)の民衆の文化が発達して、平安末期のような生活は少なくなっている。豊かな生活ができるようになったからこそ、自分を失わないためにも、しっかり自分を持つことが大切である。だからこそ、平安末期に老婆の言葉によって行動を起こした下人を描き、大正の今と対比して、民衆に警告している。羅生門は、現在の人々への芥川からの警鐘である。」 うーん、かっこいい言葉を並べすぎて、自分で赤面してしまいますが、この考えについてどう思われますか? 意見、または解釈の誤解があると思うので、皆さんの意見を教えてください。
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とてもとても主体的に作品を読んでいらっしゃいますね。 文学作品は読者が自由に解釈して楽しむものですから、 この方はなんてしっかりしているんだろう、と大変頼もしい印象を受けました。 さて「解釈」というのは、見たり聞いたりしたものに対する説明で、自分の心をフル稼働して言葉にしたものを、他人に「どうだ」と聞いてもらうこと。 そしてその相手とのやりとりの中で自分の(そして相手の)解釈を深めていくということ。 ・・・という考え方を私は持っておりまして、 早速質問コーナーに入らせてください。(笑 ■「平安末期」と「大正の今」の何を対比しているか分からない■ これは非常におもしろいところに気づかれたな~と思いました。 ただここには「文化」や「生活」と言葉を挙げられたのみで、具体的に何を対比しているのかが分かりません。 「平安末期の民衆の生活=質素で貧しい」「大正時代はそれに比べて物が豊か」という物的な面だけでなく、人間の心・精神面においても対比しておられるのでしょうか? ■「自分を失わない」「自分を持つ」において、「自分」とは何を意味するのか分からない■ 死人の毛を抜く老婆を目撃して、一瞬正義感のようなものを覚えた下人が、 (「悪に対する反感」「何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう」「悪を憎む心」など)、 老婆の話を聞いた後、「きっと、そうか」「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と老婆の着物をはぐという正反対とも見える行動の変化がありますね。 ここまで揺れ動いた行動を通してみて、下人の「自分」というのはいったいどういうものなのか、あなたのお考えを詳しく伺ってみたく思います。 「下人の心」を解くところから「人間のエゴイズム」という問いに対する答えが見えてくるかもしれません。 ■芥川が民衆に何を警告しているのかが述べられていない■ 警告・警鐘というのは「気をつけろよ、危ないぞ」ということですが、 大正時代の人々にとって、何が危険なのだと芥川は考えていたのでしょうか。 もしよろしければ、上の3つの点について、jm4cvpさんのお考え・解釈をお聞かせくださいな。
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- aoneko
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>下人は老婆の話によって盗人になるのを決め、その瞬間自分の意志(考え)が消えてしまったのではないか つまり下人にとって「自分の考え」というのは「盗人になるよりは餓死することを選ぶ」ということなのですね。 私たちの心には「こう生きるべきである」という自分自身への「理想」というものがあります。 下人にとって、「盗人になって生きのびるよりも、手を汚さぬまま死ぬべきなのだ」というのが「理想」であったといえます。(下人ですからそんなコムズカシイ自覚はないのですが) そしてこの下人の「悪に対する憎悪」は、老婆の話を聞く直前に最高潮に達します。 ところが、老婆の話を聞いたとたん、下人の「理想」は簡単に捨て去られ、盗人として生きるという「現実」がすべてを占めてしまいます。 「仕方ない」という理由で、「理想」は簡単に崩れてしまったわけです。 jm4cvpさんがおっしゃった「自分をしっかり持つ」ということは、周囲に流され自分の抱く「理想」を「仕方ないから」と捨ててしまってはいけないのだ、ということなのだと理解しました。 少しエピソードを紹介します。 芥川は若い頃、とある女性と恋に落ち、結婚をしようと二人で決めたことがありました。 ところが芥川は、養父母や叔母たちから強く反対されたのです。 理由は「家柄」。 芥川の母の実家は江戸時代から続く旧家、対して相手の女性は一般家庭で生まれ育ちました。 またその女性が婚外子として生まれたことなども反対の理由とされました。 女性への愛と、家に対する義理とに挟まれ、芥川は泣く泣く彼女との結婚を諦めたといいます。 このとき、家の名誉を守ることに必死な大人たちの自分勝手さ(エゴイズム)と、 結局大人たちの決定を飲み、彼女への愛を貫けなかった自分自身の勝手さ(エゴイズム)を思い知った芥川は、理想を屈して現実に迎合する人間の醜さについて、強い問題意識をもって執筆に取り組むようになりました。 「いかに生きるか」という「理想」を捨て、「生きるために手段を選ばない」という「現実」をとった「下人」も「老婆」も、芥川自身の「自分勝手さ(エゴイズム)」と充分に通じるものがあります。 芥川は人間のエゴについて是非を下すのではなく、自分自身のエゴイズムと向き合いながら作品を執筆しました。 「是」という立場なら、下人(にきびを触る等)や老婆(猿のような等)を醜く描写しないだろうし、 「非」という立場なら、「勇気」という言葉やラストシーンの「黒洞々たる夜~誰も知らない」という描写は暗黒ヒーローみたいで格好よすぎます。 ですから、この下人に自分自身を重ねて読む人もいれば、jm4cvpさんのように否定する読者もいらして当然なのです。 >この下人を肯定する、もしくは否定することが ひいては「エゴイズム」の肯定/否定につながり 作品の解釈として抽出されるのではないでしょうか。 とaspyonさんが書かれていることに私も強く同意します。 「人間のエゴイズムを描いている」・・・それがどうした?君の考えるエゴイズムって何なんだ?君自身はどう思うんだ? 本当の解釈はここから始まるのです。 ですから、jm4cvpさんがこの作品を「警鐘」ととらえられたことが、非常に刺激的でした。 jm4cvpさん自身がこの下人の心や行動について何を感じどう考えたのか、そこを詳しくお聞きしたくなりました。 >豊かになって、何も努力しなくてもいい生活ができる時代だからこそ、自分の意志をしっかり持って行動しなければ他人につられ、いつしか他人に使われ放題の自分になってしまうのではないか これを下人に照らしあわせて考えてみて、強く納得させられました。 4,5日前までは主人の言うとおりに働いていれば食っていけた下人が初めて、 「生きるか死ぬか自分で決めろ」という岐路に立たされたわけなのですね。 昔と比べ、個人の自由が広く認められるようになった近代以降の日本。 自由であることにうろたえる人間がここに鋭く描かれていることを感じました。 これはまだ現代にも充分通じるテーマでもありますよね。 うわぁ。かなり長文になってしまいました。ごめんなさい。^^;
お礼
またまたご意見を有り難うございます。 なるほど、芥川がこの小説を書いたのはそういう背景があったのですね。なんだかaonekoさんの意見を聞いてみて、羅生門の世界が以前よりももっと広くなった気がしました。 私はこの羅生門を初めて読んだとき、読み終わった後に何も考えることができませんでした。最後のシーンが衝撃的で、最後の下人の行動が頭の中で回り続けていました。 しばらくして、学校の国語の先生の授業を受けてみて、下人の心情はちょっとは理解できてきました。 その国語の先生がこうおっしゃったのです。「この下人は、最初に六部の恐怖心と四部の好奇心が詰まっていた。しかし恐怖心が憎しみに変わり、憎しみが安らかな満足に変わり、それがまた憎しみに変わった。つまり、この下人の心は可変せずに、入っては抜け、抜けては入っているのだ。君たちはそんな心の固まった人間にはなるなよ。」 私はその言葉にすごく感激し、刺激されました。私の下人のイメージはそこからできたのです。 下人の心はまだ小さく、自分の意志が一瞬心の内部から飛び出した、この瞬間が引剥ぎの瞬間だったのではないか。というところから私の羅生門の考えが生まれたのです。 ご意見有り難うございました。
- aspyon
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こんばんは。 もう、私が、まさにその通りだと思ったのが >辞書では「利己主義」と書いてあったのですが、そのまま、「人間の利己主義を描いている」と書くと、意味不明になりました。 !!!!!!その通り!!!!!! そんな解答じゃ意味不明!なんです。 それなのに、十中八九、参考書には「人間のエゴイズムを描いている」とあるようですね。 なぜ意味不明になるのかを考えた時、 「だから、芥川はそのエゴイズムを肯定しているのか否定しているのか、 そこが問題なんじゃないの?」 と私は思うのです。 この作品はエゴイズムを描いている、とするのは 解釈としてあまりにも中途半端なのです。 「この女は生前悪いことをしていたんだから」と 生き延びるために、死んだ女の髪の毛を抜く老婆の悪(老婆の「悪」=死者への冒涜?)が許せない。 しかし、老婆の自己弁明の論理を聞くうちに 下人自身、生のための悪は悪ではないという理屈を立ち上げ 老婆の着物を引剥ぎ(=下人の「悪」)して夜の闇に消えていった。 芥川はこの下人の行為を認めているのか、否定しているのか。 そこが、この作品の解釈をするに当たって大きなポイントではないでしょうか。 下人の行為…「自分が生きるためにと悪を犯す」→エゴイズム 人間のエゴイズムを描くって…ただこれを描くことが目的か? 私は声を大にして「否!」と言いたい(笑) この下人を肯定する、もしくは否定することが ひいては「エゴイズム」の肯定/否定につながり 作品の解釈として抽出されるのではないでしょうか。 (とりあえず、肯定・否定はおいといて) ということで、 少しは何か、役に立てますでしょうか?
お礼
ご意見を有り難うございます! やっぱりエゴイズムについて考えを持っていたのは私だけではなかったのですね。それにしても羅生門の世界は奥が深く、いろいろな考えを聞くことができました。 下人を肯定・否定かどうかがエゴイズムと重なってくるというのはなんだかすごいですね。 すばらしいご意見を有り難うございました。
お礼
ご意見を有り難うございました!鋭い質問をされて私もどきっとしましたが、自分なりの考えを書いてみます。 ■「平安末期」と「大正の今」の何を対比しているか分からない■ 羅生門の世界で、下人は、今まで揺れ動き、「盗人になる」ということを肯定できずにいたが、老婆のやっていること、その話を聞いて、盗人になるという勇気がでました。逆に言えば、下人は老婆の話によって盗人になるのを決め、その瞬間自分の意志(考え)が消えてしまったのではないかと思いました。 ■「自分を失わない」「自分を持つ」において、「自分」とは何を意味するのか分からない■ 「自分を持つ」とは、「自分の考えをしっかり持つ」ということだと思います。たとえば、話し合いなどで、多数派の意見につられずに、自分の意見を持ち続けて、納得いくまで主張し続ける。「頑固」ではなくて、「自分の意見をしっかり持っている」のだと私は考えます。 下人は、今まで他人に使われる身で、自分の考えを持たずにも生きていけたと思いますが、突然放り出されて、自分の考え(盗人になるか餓死するか)を持たずまま老婆に出会い、老婆につられてしまった。と思います。 ■芥川が民衆に何を警告しているのかが述べられていない■ 私の考え過ぎかもしれませんが、私はいつも「豊かになって、何も努力しなくてもいい生活ができる時代だからこそ、自分の意志をしっかり持って行動しなければ他人につられ、いつしか他人に使われ放題の自分になってしまうのではないか。」と考えるようになりました。そういうと貧しいとつられにくいということになってしまいますが、確かに周りも貧しいと、自分を助けてくれる相手も限られてくるかと思います。そうすると自分の意志が大切になる。と思います。 平安時代、洛中で自分を支えてくれる主人を持ち、自分を持たずにも働けた下人が突然放り出され、自分の意志を見失ってしまう情景を描き、大正時代の人々に、「おまえもこうなってはいないか?」と呼びかけている。これが羅生門、いや芥川のメッセージに聞こえるのです。 これが私の羅生門の考え方です。