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キリスト教について。
もしも誰かがキリスト教を本気で信じているなら、その親や知り合いが死んだときに、もしその死んだ人が天国へ行けたと分かったなら、泣く必要なんて微塵もなく、拍手して喜んでもいいくらいであるべきじゃないでしょうか? なぜなら、天国へ行けたこと自体すばらしいことですし、この地球で過ごす一生というのは、永遠に生きるわれわれにとってほんの一瞬に過ぎず、もしも自分も天国へ行くなら必ず再会できるからです。どこに悲しむ必要があるのでしょうか?
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- katyan1234
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よくご存知ですよね。しかしクリスチャンすべてが理解しているとは限らない。黙示録の666やその他預言について日本の教会は教えていないからね
- bender
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質問> どこに悲しむ必要があるのでしょうか? お礼> 自分の生きている何十年間の間絶対に会えないというのと、もう お礼> 永遠に会えない、その人の存在は消滅してしまったというのでは、 お礼> 悲しみが明らかに違うと思っています。 以上の「お礼」に書かれていることと、もともとの質問とでは趣旨が ずいぶん違います。 いずれにしても、以上のお礼にあるように、実際に悲しみが違うと 思います。教会の葬儀に出席したこともありますが、やはりそのように 感じます。 ただ、すでにいくつかの回答にあるように、誰かが死んでしまうことは、 外国に行ってしまうこととは比べようもないし、そもそも聖書を読むと、 死は人間の罪がもたらした結果であるとわかるので、キリスト教では、 本来、人が死ぬことは、悲しく非常に残念なものであると思います。 また、No.11 の方も書かれているように、完全な信仰を持つキリストも ラザロの死をものすごく悲しんでいるのだから、死を悲しむことと 信者の「信仰が完全ではない」こととは本質的には別の話だと思います。 また、例えば、ルカによる福音書23章によると、キリストは、一緒に はりつけにされた人の一人に『今日、わたしと一緒にパラダイスにいる』 と言っているわけですから、その場所をなんと呼ぶかはともかく、 天国なり、パラダイスがない、というのも、どのように説明できるのか わかりません。 「ドラマや漫画などで親を亡くした子供」が泣き止むのは、もちろん、 それがドラマや漫画だからです。仮にそうして子供が泣き止むにしても、 子供は「死」を理解できていないので、大人が人の死を悼む場合とは、 この場合、同じように比べることができないと思います。 キリスト教というのは、日本では、非常になじみが薄いのですが、 どれほどなじみが薄いか自体、一般に理解されていないと感じます。 いろいろな回答があっていいのかもしれませんが、アニメ、オカルト、 ニューエイジ、その他、と、いわゆる「キリスト教」とは全く違います。
お礼
『質問> どこに悲しむ必要があるのでしょうか? お礼> 自分の生きている何十年間の間絶対に会えないというのと、もう お礼> 永遠に会えない、その人の存在は消滅してしまったというのでは、 お礼> 悲しみが明らかに違うと思っています。 以上の「お礼」に書かれていることと、もともとの質問とでは趣旨が ずいぶん違います。』 そうですね。申し訳ありません。以前の回答の『離別の悲しさ』に納得していたのでそのように書きました。 私のお礼をよく読まれているようなのでご存知だと思いますが、私がこだわっていたのは天国での『再会』についてです。永遠の別れかそうじゃないかです。その『天国で再会できるとするなら?』に対しての回答が今までに少なかったことが少し残念なのですが、キリスト教において私の質問にあるような天国での再会というような考え方はないということですよね。 キリスト教にこだわらず単純に『死んでも天国で再会できるとするなら死は悲しいですか?』と質問すべきでした。
- tokytime
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家族、友人が亡くなったときに悲しむのは、信じる宗教に関わらず、実は自分自身のためだと思います。 その人と別れること、自分の人生からその人が奪われてしまったこと自体が、辛く悲しいのだと思います。 ですから、例えその後亡くなった人が天国に行って幸せになると分かっていても、やはり自分自身は別離が寂しくて悲しいのではないでしょうか。 ただ、hamaguti02様のように自分自身を「魂」として認識し、永遠の存在であり、肉体は仮の姿で、やがて死とともに元の魂に戻る・・・と理解できている方にとっては死の意味が大分違ったものになるでしょうね。 私も分かっているつもりですが、やっぱり親しい人に会えなくなるのは寂しいですね。 もし、肉親、友人が亡くなれば、自分の寂しさために涙を流すかもしれません。 でも、病気などで苦しんでいた人が亡くなったときはきっと喜んであげられると思います。
お礼
『ただ、hamaguti02様のように自分自身を「魂」として認識し、永遠の存在であり、肉体は仮の姿で、やがて死とともに元の魂に戻る・・・と理解できている方にとっては死の意味が大分違ったものになるでしょうね。』 いや、自分はそのようには考えておりません。ただ、そう思われている方がいるのなら人の死があまり悲しくないんではないかな?と思って質問させていただきました。 ただ、『キリスト教について』と質問するべきじゃありませんでしたね。どうやら天国で再会できるというような考えはキリスト教にはないようですね。
- michael-m
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たまにですが、テレビで他人の家に暫く滞在し、生活を共にする番組があります。 ほんの数日、或いは一週間でも、手を振って笑顔で送ってくれる家族・出演者もあれば、号泣する家族・出演者もいます。 まして、いつ再会できるか判らぬ死の別ちで泣いたとしても、何も不思議ではないでしょう。 これは、理屈ではなく感情の問題です。 ちなみに私は父やおばが死んだ時、残念には思っても、泣いた事がありません。 既に高齢の母が死んだ時は時はどうか判りませんが、多分、妻や子が先に死んだら泣くと思います。妻や子ではなくても、若い人や子供が死んだニュースを見ると、自然に涙が滲みます。 まだ先があっても良い、人生を楽しんでも良いはずだからです。私はこれも私の感情として自然な事だと思っています。
お礼
この番組の例では、いつ再会するかは分からない、会えない可能性も高いから余計に悲しいんではないでしょうか?私の質問の状況においては『いつ』会えるかは分かっています。自分が死んだときです。しかも必ずです。 ただ、キリスト教について尋ねたのがまずかったのでしょうか、今はもう、私の質問にあるようなことはない、死んだら再会できない、だから悲しい。で、いいような気もしてきました。 『妻や子ではなくても、若い人や子供が死んだニュースを見ると、自然に涙が滲みます。 まだ先があっても良い、人生を楽しんでも良いはずだからです。』 たしかにそう思うと悲しくなりますね。自分のことしか考えていませんでした。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.7です。 いえ、天国に行くという考えはキリスト教ですよね。 ユダヤ教には死後天国に行くという考えは無かったと思います。 (イエスはエリアかと言われたようですが、エリアが死亡した記録が無いので、死者だとエリアはされていなかったんですね。) 従って、今回のことはキリスト教で考えなければならないと思うんですね。 キリスト教会と契約を交わすとき、誓いを立てるんですね。 クーリングオフの無効な契約ですので、十分吟味され、信者になられているのだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1 これらのことを信じると誓った場合のみ、使徒に公式に認定される。 そして使徒はエヴァによって倒され。。。あれは新世紀エヴァンゲリオンでした。汗 使徒信条にある内容は、人間というか、この世の生き物では不可能なことです。 ただし、教団の意味する死刑が破門のとこであったとするなら、理屈は通ります。 2千年前にあったある教団は、破門を決定したものを、死人として扱っていたそうなんですね。 死装束を着せ、穴の中に入れて、本当に埋葬したかのようにして、3日後にその宗教団体から追放していた。 そして、永遠にその追放した人と財産を分かち合うということはしなかったそうです。 ところがイエスの時は、教団の勢力が東と西で二つに別れ、イエスは一度波紋になったが後で破門が解かれた とするのなら、話が現実的になります。 在家信者の元でしばらく過ごした後、またその宗団の本部に帰っていったとすれば、もう在家信者の人たちはイエスを見ることはできず、宗団で行われる裁判の時だけ、陪審員みたいな形で出てくるだけ。 イエスが復活させた人がいましたが、私の推測では、その宗教団体の規律に適用するなら、その人はその宗教団体から破門扱いになって、イエスはその人の姉妹のマリアから破門になったと聞き、だがすぐに動けず、しばし考えなければならなくなり、結果 自分が不利になっても、破門を解くべきだとかけつけたのではないかと。 その破門になった人も、金持ちとの話に出てきて、アブラハム(を襲名した人)と一緒にいるとイエスが述べたことから、幹部だったと思えます。 イエスはこの行動により、どちらにつくか意思を表明したことになり、、今度は自分の立場が不利になってしまった。 何が原因で宗教裁判にかけられたのかいまいちわかりませんが、一つ聞いたことには、ヨハネの処刑に関与したという疑いがもたれたから だとか。 (こちらの方は破門ではなく、ヘロデ家の者によって殺された。) ガブリエル(と襲名された人)によって破門を解かれたと思えます。 そして復権して幹部に戻った。 つまり天の国の住民に戻った。 そう考えると、天の国というものが何をイエスは指していたのか、わかるのではないかと。 宇宙とか異次元とかにあるのではなく、地球上のパレスチナの砂漠に天国とされるところがあった。 では、キリスト教はどうしてそのような解釈をしないのか。 イエスが再臨して、死者も蘇らせ最後の審判を下すと教えているのか。 イエスに会ったこともないパウロにより広められた彼の考えが発端かもしれません。 パウロはエルサレム教会から破門されているようです。 エルサレム教会の初代責任者はイエスの兄弟とされるヤコブ。 そのヤコブを殺そうとしたのがパウロ。 パウロの手紙にエルサレム教会が認めてくれなかったことに対し、怒りを表しにしてようです。 パウロとヤコブのイエス理解が違っていた。 そして今のキリスト教はパウロの神学が基礎部分なんです。 イエスの思想をひきつぐエルサレム教会の主だった人たちは、ユダヤ戦争の前にエルサレムを脱出している。 残ったのはローマ帝国に広めたパウロの思想。 そこから初期教父たちは、パウロの礎の上にキリスト教を建築していったわけです。 そして、教会の教えがイエスの教えと同一であるとして、ローマ帝国に食い込んでいき、やがて皇帝と利害が一致したことで、国教にまでなったわけです。 新約聖書はギリシャ語で書かれています。 マタイに関しては、元の文はヘブライ語だったと思えるようなんですね。 それでいくと、キリスト教の教義に誤りがあることになるそうです。 新約聖書を買うより、図書館で http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AF%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E8%AA%9E%E3%82%92%E8%A9%B1%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E3%83%80%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89-%E3%83%93%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4895861376/ref=sr_1_4?ie=UTF8&s=books&qid=1195663770&sr=1-4 を読んでみてはどうでしょうか。 天の国についても書かれています。 今回の質問についても、天の国が一体どういったものかを理解する上で参考になるんじゃないかと思います。 せっかっくの思想が、人間がやったのではなく、宇宙人が地球にやってきてやったかのように語ってしまっては、そのやった方にとても失礼だと思うんですね。 神とするべきじゃなかった。 魔法使いに奉るべきじゃなかった。 空しさは死ぬまで続くと思うんですね。 架空の現実不可能なことは、不可能なまま。 脳の中でのみ可能で、それは現実じゃない。 夢の終わりは現実の始まり。 新世紀エヴァンゲリオンでレイがそう言っていたと思います。 ただ、現実があまりにも辛い場合は、夢に世界に逃避するのもありだとは思います。 だけど、いつか目を覚まして自分独自の人生を歩まないと、生まれた意味すらなくなってしまいます。 そうなれば死者。 自分の人生を生きていないから死者。
お礼
む、難しいです... お奨めの本、機会があればぜひ読んでみたいと思います。
- s_coin
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前の解答では、考えがまとまってないまま応えてしまったので、前の解答は「忘れて」、今の僕の解答を読んで欲しいと思います。 ※キリスト教を本気で信じているAさん(仮)の身になって考えます。 天国の幸せというものがどのようなものか、生きている時点ではわかりえないことなので、 「天国でいくら幸せだろうが、今生きている人達にとってやっぱり重要なのは、今の記憶や思い出、関係などが、天国へいっても維持されるのかどうかだ。」 聖書を読んだとき、聖書には(そうだと確信できる形)で具体的にかかれてはいないので、 「天国へいくと、今の記憶や思い出、関係などは消えて、ただ存在するだけの0の状態になってしまうかもしれない」 という考えが起きます。 これは、具体的にかかれていない以上、在り得ないとは言いきれない可能性だし、むしろ僕は、聖書を読んでいると、 「死んだときに残るものは、「信仰・希望・愛」と書かれているので、記憶などは残らず、消えてまう可能性の方が高いような気がしてくる。」(記憶や関係などが残るか残らないかはとても重要。なぜならそれによって死の意味が大きく変わるから。残る→一時的な別れからの再開、残らない→一時的な別れから、赤の他人としての再開・・・詳しくは↓↓) もし今の記憶や思い出、関係が、天国へいったら消えて0になってしまうとしたら、 「死んでもまた天国で再開できる」 というのは、 「連絡のとれないところへ、大切な人がいってしまっても、いつかまた 会うことができますが、その時はお互いの記憶も思い出もなく、赤の 他人の状態での再開となる」 という意味になってしまわないだろうか。こうなると、死というものは十分重い気がしません? 死んだらもう、天国で会えたとしても、元の関係のままでは会えない、つまり事実上は会ってないようなものなのです。いまの自分と自分の親または知り合い等 は、この世にいるからこそありえる関係であって、天国での自分と自分の親または知り合い等との関係は、もはやこの世にいるときのようなものではないのです。天国では神の元でみんな一つの家族、という新しい0からの関係になるわけです。 だから、気持ちとしては、たいせつな人が死ぬことは、自分とその死ぬ人との永遠の離別に近い重さと意味があるのです。 もしあなたとあなたの親が、お互いの記憶や思い出をわすれ、親子という関係も消えたとしたら、もう赤の他人のようなものでしょう? ※いろいろ書きましたが、もし天国へいっても記憶が消えないとしても、たいせつな人が死ねば、それは天国であえようがあえまいが、この世の中での自分は、もう二度とそのたいせつな人には会えないわけで、それはもう大変な喪失感でしょう。いくらキリスト教信者でも人間には変りありません。あなたにとって大切な人が死ぬのがつらいのと同じように(いくらか気分は楽かもしれませんが)つらいものなのです。
お礼
『「天国でいくら幸せだろうが、今生きている人達にとってやっぱり重要なのは、今の記憶や思い出、関係などが、天国へいっても維持されるのかどうかだ。」 「連絡のとれないところへ、大切な人がいってしまっても、いつかまた 会うことができますが、その時はお互いの記憶も思い出もなく、赤の 他人の状態での再開となる」 という意味になってしまわないだろうか。こうなると、死というものは十分重い気がしません?』 その通りだと思います。再開にほとんど意味がありません。 『※いろいろ書きましたが、もし天国へいっても記憶が消えないとしても、たいせつな人が死ねば、それは天国であえようがあえまいが、この世の中での自分は、もう二度とそのたいせつな人には会えないわけで、それはもう大変な喪失感でしょう。いくらキリスト教信者でも人間には変りありません。あなたにとって大切な人が死ぬのがつらいのと同じように(いくらか気分は楽かもしれませんが)つらいものなのです。』 私の考えでは『いくらか』ではなく、だいぶ気持ちが楽になるものだと思っていました。例えばドラマや漫画などで親を亡くした子供が「お父さんは天国で○○ちゃんのことを待っているからまた必ず会えるのよ。」と言われ泣き止むように。あれは純粋な子供が『本当に』信じたからですよね。
- frisk_blue_love
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質問者さんは、無宗教との事ですからあまりキリスト教っぽくない話からスタートしましょう。 苦労して高レベルに育てたゲームのセーブデータがレア・アイテムごと吹っ飛んだと思ってみて下さい。ゲーム機本体は無事だし、ソフトもメモリーカードも無事です・・・だから、またLv1から育てればいいや、と考える人は少ないでしょう。そこには必ず喪失感があります。何故なら失われたのはデータだけではなく、それに費やした時間と苦労した思い出も決して還ってこない事を悟るからです。 ゲームのデータですら悲しいのですから、親しい人や愛する人が失われたらどれだけ辛い喪失感があるでしょう? あるいは、何かの記念日にもらったカップやお皿が割れてしまった場合、資産的価値は無くとも、やっぱり喪失感があり悲しいと感じるでしょう。何故なら、それらの品にまつわる思い出や記念がこの世から失われてしまったからです。たとえ、同じメーカーの同じ絵柄のカップやお皿をそこに飾っても空しいだけです。それは同じに見えて決して同じ物ではないからです。 物ですらそうなのですから、愛する人が死んだらどれだけ辛い喪失感があるでしょうか? 死んだ人が天国で安らかにしている、と信じていても、この世に残る者の心の喪失感は埋まらないのです。特にかけがえの無い大事な人や愛する人が死んだ時には、その喪失感は格別に強いでしょう。 愛する人と明日会えると分かっていても、夜分かれる時辛いと感じるのが本当の愛ですよ。ましてや、自分が死ぬまで会えないのであれば、その辛さは何倍にもなるでしょう。生と死の間は、簡単に行き来できるものではありません。それはどんな宗教を信じていても、辛い事には変わりは無いし、悲しい気持ちに変わりはないのです。 ただ、永遠を生きる&死後天国で会える、と信じている人は、それを心の拠り所にする事ができます。それを慰めと言ったり希望と言ったりします。 だから、キリスト教を本気で信じていてもやっぱり悲しいのですよ。 死んだ人が天国に行けるのは良い事ですが、この世に残る我々の悲しさは別のベクトルなのです。 また、地球で過ごす一生が一瞬だとすれば、その一瞬の生き方で永遠の天国が手に入るなんて図々しくありませんか?死すべき定めの我々には、生きている今日は、これからの永遠と等しい重さを持っているのですよ。だから、たとえ後の世に永遠が用意されているとしても、今は一瞬ではなく、残りの人生と同じ長さを持つのです、過ぎてみれば一瞬にしか感じられなくても。 (アガサ・クリスティの「いと高き昇進」という作品を読むと、永遠の天国と短い地上の行いについて考えさせられます) と、言う訳で、キリスト教を信じていようといまいと、人が死ねば悲しいのですよ。悲しむ必要はありません、けど悲しいのです。 P.S. キリスト教について、との質問なのにどうして誰も聖書の一節も引用しないのでしょうか?>>回答者ALL ヨハネによる福音書の11章にイエスが親しい友人のラザロの死に際して涙を流された記述があるじゃありませんか。その後で、ラザロを復活させているのにですよ?イエス=キリストすら、友の死に涙を流されるのだから、キリスト教を信じている者が身内の死を悲しんで泣いて何が悪いでしょう? むしろ、隣人を愛しているからこそ、私は泣きますよ。
お礼
回答者様の書かれている例え(データとカップやお皿)についてですが、私が仮定している失われた人に自分が死んだときまた必ず再会できるというところはどこにあるのでしょう?ゲーム機ソフトは無事、同じカップは手に入れられるというところですか?もしそうなら、自分がいずれ死んで天国へ行けば死んだ人に再会できるが、姿かたちや性格は同じでも実は生前のひととは別人だというケースに近いと思います。そうでないなら、失われたことについてのみの例えで、必ず再開できる部分については触れていないということですね。 私は友達や家族が死んだらもちろん悲しいです。私は死は永遠の別れ、その人の存在の消滅だと思っていますから。けれど、もし、そうじゃないとしたら? 自分の生きている何十年間の間絶対に会えないというのと、もう永遠に会えない、その人の存在は消滅してしまったというのでは、悲しみが明らかに違うと思っています。 だから、もしまた会えるのならそんなに悲しまなくてもいいんじゃない?という意見が少ないことが少し意外です。 『愛する人と明日会えると分かっていても、夜分かれる時辛いと感じるのが本当の愛ですよ。』 自分が死んだら必ず再開できるとわかっていても、今、これから死ぬまでは絶対に会えないということで悲しいんですね。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
他の方も言っている通り、しばしの別れを惜しんでいるというのが、表向きの解釈だと思います。 と書いて終わってもなんか 説得力ないので、、、 アメリカ国民の90%は神の存在を信じているそうです。 2000年ほど前、エギゼル書から、2000年後に起こったノストラダムスの大予言と同じブームが起こったようです。 AD何年に起こると信じられたかは忘れましたが、それで悔い改めろというブームになりました。 しかし、元言いだしっぺの人たちは計算の年になっても異変が起こらなかったことから、その最終の年の数え方を間違えたと思い、再度計算しなおして、別の年に起こるとしました。 でも、やっぱり起こりませんでした・・・・・。 日本でも2000年7月が過ぎても変化が無かったので、そう主張した人は、別の月に起こると言い直し、やはりそれが過ぎても起こらず、テレビ会から消えてしまいました。 2000年前は、テレビの普及がなかったので、伝達が遅く、伝達内容も口から口ですので、歪んでいったんじゃないかと思うんですね。 いつのまにか、イエスがまたやってきて、今度は死んだ人を蘇らせ、生きた人も一緒に、裁判を下すという話になった。 それがキリスト教になったわけです。 本当に神の存在を信じていたら、2000年のときにもしかしたら、イエスと会えるかもしれないと、信者はお祭り騒ぎになったハズですが、実際は「イエスに会える」という歓迎ムードにはならず、コンピュータ問題で、下手したら核ミサイルが飛び交い、地球は崩壊するかもしれない ということをマジに考え、イエス歓迎など誰もやっていなかった。 微塵でも思っていたら、2000年にイエスと会えるかもしれないと期待したはずですよね? では、何故アメリカ国民の90%は神が存在すると信じるか というアンケートに イエス と答えたのか。 正義というものを信じている という意味だと思うんですね。 それは、イラクが石油を持っており、それを力ずくで奪っても勝てば、それは神の正義が自分達に力を貸してくれたから という考え。 自分達が勝つ=神の正義が勝利した。 自分達が負ける=今回は神は手助けしてくれなかった。 くらいの感覚だと思うんです。 で、天国、地獄ということについてイエスは言っていない。 天の国 というのは、読む限り、作家が属していた教団の幹部クラスのことだと思えるんです。 カトリックで例えるならバチカン。 ここが天の国。 このバチカンの正義の価値観が、世の中の価値観になる というのが、天の国が地上に降りてくる というもの。 カトリック教徒が天の国に入るというのは、カトリック教会はヒエラルキーがあり、そのバチカンの幹部たちの中に入るってこと。 こういうことを聖書作家はイエスに言わせていたのだと思います。 でも、イエスはまた来るって言ったじゃないか? はい、確かステファノの時、また姿を現し、ステファノの裁判を見ていたとことが、聖書にしるされています。 幹部になると、ひょいひょい 出てこないんですね。 教会の歴史資料に、イエスは70歳超えるまで生きていたという記録があったそうです。 その後、ユダヤ戦争が起こり、その後イエスはどうなったのか、それどころじゃあなくなった。 イエスを看取った人はいたのか???? その関係の資料は見つからないので、イエスはまだ生きていることになっている。 何千歳でしょうか。 イエスは創造主 神だとは原始キリスト教では思われていなかった。 ユダヤ戦争が起こらなければ、キリスト教は違う形だったかもしれないですね。 最後の審判は、エジプトの宗教に同じものがある。 日本の弁護士のバッチにもなっているあのマークが審判。 天秤にマアトの羽が置かれ、ジャッジが決まるという思想だった。 マアトはティアマートとなりシュメール・バビロンで崇拝されたようです。 ファイナルファンタジーのリバイアサンみたいな感じでしょうか。 マートはマルドゥクのブレスにより倒され、バラバラに切り裂かれ、その肉体で地上ができ、彼女の涙が川になった という伝説がある。 創造主は前の創造主を倒し、そこから母権社会から父権社会になっていったようです。 ティアマートの涙、マリアの涙。 マリアを倒してどうするの?って感じですね。 しかし、原初の母への信仰は今もいきつづけている。 頭がすりかえられているようですが、信仰において残っている。 それは死んでから行く というものではなく、帰還するという考え。 死ぬことは帰還すること と考えると怖くなくなるんですね。 帰還するところは天国でも地獄でもない。
お礼
自分には知らないことが多く大変難しいです。ここまでいろんな方の回答を読ませていただいて、キリスト教に限定せず、ただ天国があると仮定して質問するべきだったかなと思っています。 キリスト教にもいろいろとあって、神を信じれば神の国へと行けるものとすでに神の国へ行けるものは神によって選ばれているもの、マリアは特別な人間だとする教えと普通の人間と変わらないとする教えがあると聞きます。教えによって、天国と地獄が存在するものと帰還するところが天国でも地獄でもないというのがあるのかなと思いました。 近いうちに聖書を手に入れて自分で読んでみたいと思っています。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
[もしその死んだ人が天国へ行けたと分かったなら、泣く必要なんて微塵もなく、拍手して喜んでもいいくらいであるべきじゃないでしょうか?] ご指摘の通りです。 「どこに悲しむ必要があるのでしょうか?」 これは別離の悲しみですね。母親が上京する子供に流す涙と同じでしょう。人間の感情の複雑さですね。その方が人間らしいですね。 キリスト教じゃないですけど仏教にはそのような風習が残っていますね。葬式で3日3晩飲めや歌えやというところもあるのですね。あの世に帰るのだからはなむけの祝いをするということですね。諸七日が過ぎて坊さんに立派に天国に帰ったよといわれると嬉しいんですね。 残されたものは別離の悲しみはありますが、そのうち会えるので悲しみは一時ですね。キリスト教はあの世のことが良くわからないので、大騒ぎすることはないようですね。
お礼
なるほど。どの宗教も信じていない私にとって、しばらく誰かと会えなくなるときの悲しさと、誰かが死んだときの悲しさは、会えなくなる時間の長さに関わらず明らかに違いますが、本気でキリスト教を信じているひとにとっては、同じ種類の(しばらくの間離れ離れになることに対する)悲しさということですね。
- s_coin
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中学3年で人生まだながいですが、応えてみたいと思います。 まず、哲学には神はいなくて、この問題は神学、教会などの分野だと思うのですがそれは無視して。神がいて、キリスト教が真理で、天国という概念が実在するものとなりえることを前提として応えさせていただきます。ゆえに、キリスト教自体、または天国自体の有無云々は考えないものとします。そして、その人も親戚も天国へ入れるものとします。 揺るがない、完璧な信仰は、不完全な人間には、持ちえないものです。人間と(全知全能の)神様の間には隙間はありません。それでも、人間は時折、信仰がゆらいだり、世に目がいってしまったり、世の中の、または人としての考え方でものごとをはかろうとします。神から目をそむけた状態で死ぬか神に目を向けた状態で死ぬかが、天国へ行くかいかないかだと思います。そして、自分、人間としての考え方、気持ちが、キリスト教信者としての意識を一時的に上回ってしまった例がこれだと思います。いずれ天国へ行くと信じていても、やはり今目に見えるのはこの世の中です。物理的に触れ合ったり、ことばや感情で接触できなくなるという、自分が死んで、同じ天国で出会うまで、その人との人間的な関係は断ち切られるという悲しみは、あっておかしくないものです。あなたは、下の解答のお礼で、留学、または何年か海外へ出かけても、また帰ってきたらあえるとわかってるから、そこまで悲しくない、といっていましたが、それは確かにそうかもしれませんが、それはそのスケールの話だからこそありえる事柄だと思います。死をはさんだ別れは、一時的だとしても、海を挟んだ一時的な別れとは比べ物にならないほど、スケールが大きい話です。今、目の前の人間が、人間的に自分とはもうコミュニケーションを完全にできなくなってしまったという考えが、天国へいったらまた会えるさ、という、死という事実に比べたら抽象的すぎる考えを超えてしまうのです。自分の今から続く長い人生を終えた先にあるすばらしい世界まで視野に入れることは、今をとても強くみつめてしまったら、できなくなるのです。それは当然で、おかしくもなんともないです。二度目ですが、人間の信仰は完全ではないのです。一時的に信仰を忘れてしまうなんてあってもおかしくないのです。
お礼
つまり人が死んだときに悲しむのは、一時的に信仰を忘れてしまったがためということでよろしいですか? 一応、誰かがもし本気でキリスト教を信じているならと仮定させていただいています、一瞬でも信仰を忘れないひとは私の質問にあるとおりでよいということですか?
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お礼
よくご存知...じゃありません。聖書も読んだことないですし。 黙示録の666なども初めて聞く言葉です。 『しかしクリスチャンすべてが理解しているとは限らない。』という言葉が気になりましたが...つまりすべて理解している人はどうなのだろう?と。 と、ここで回答を締め切ろうと思います。今まで回答してくださった皆様大変ありがとうございました。一つ一つのお礼の欄に『ありがとうございます』と書くべきだったのでしょうけど最初から書きそびれてしまい途中から書き始めると先に回答された方たちになんだかもうしわけないなと思って今まで書いていませんでした。失礼ですがここでまとめてお礼を言わせていただきます。ありがとうございました!!