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人殺しと正義

昔どこかで読んだ話ですが… 世界を征服したアレキサンダー大王の軍隊が砂漠で人殺しを捕まえました。人殺しは大王の前に引き出されます。 大王が「なぜお前は人を殺したのか」と問いました。 すると人殺しは「私は隣人を殺したから卑しい人殺しだが、あなたは隣国の人間を何万人も殺したから英雄なのです。」と答えたそうです。 この人殺しの理屈はそれなりに通っています。 両者もやっていることは同じですが、一人は人殺しで他方は英雄です。殺害の距離(つまり隣人か他国か)と規模 (一人か何万人か)が異なります。 この話を聞いて思い出したのですが、旧約聖書で神はノアを除いた人間を洪水で殺しました。 またエイズが同性愛者の間の病気だと知られたとき、悲しいことに心無い西洋の宗教の聖職者が、エイズは神の背信者に対する天罰であるといいました。 つまり殺した人数が 一人→卑しい人殺し 何万人→輝かしい英雄 人類ほぼ全部や、恐ろしい病気→崇められ、畏るべき神やその代理 になるわけです。 もちろん、アレキサンダーはギリシアに対する脅威を取り除いたのだとか、神は正しい人間は救ったのだからといって正当化するのは簡単です。 しかし自分にはそのような意見は単純すぎると思います。 理由さえあれば大量虐殺は正義のなのもとに正当化されるのでしょうか。 それなら他の犠牲の上に輝く正義の栄光とは何なのでしょうか。 それとも正義は個人の置かれた立場により異なる相対的なものなのでしょうか。 夜中に思うがままに書いたつまらない質問ですが、答えを聞きたいと思います。

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回答No.3

正義は普遍的ではなくて、1つの集団的なものだと思います。 >一人→卑しい人殺し >何万人→輝かしい英雄 数の問題ではなくて、内か外か、の問題です。 立場における相対的なものでしょう。 隣人を殺すことが正義ではないのは、 集団内部における行動なので非難されて当然です。 大量殺人が正義なのは、 集団外部における行動なので正当化されます。 旧約聖書で戦争も正当化されるのは、 神の手の内にいる民族だからこそ正義になります。 神の手の外にいる民族は滅んでも構わないということになります。 どこでグループ化するかによって基準値が変化します。 これからの時代は集団の外部も内部も無いと主張する人が多いので、普遍的な正義や地球という集団の正義が求められるのでしょう。この絶対的な正義も、何かとマイノリティの問題があるので、色々と疑わなければいけないところも多いとは思いますが。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます。しかし地球という集団の正義とは何を原理にして決めるのですか。

その他の回答 (9)

  • ommani
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.10

「正義」=「正しい」や「悪い」というのはないと思います。 人殺しで例えるならば、正しい行為とも、間違った行為だとも言うことはできません。ただあるのは「人殺し」という行為があるだけです。 時代や風潮、人それぞれの頭の中で「善悪」が判断されるだけです。だから、戦争中は英雄扱いされたことも、今では犯罪者になるんです。 しかし、誰かが人殺しを「間違った行為」と判断することは、それでいいと思います。なぜならば、その判断によって、その人は「自分は何者であるか」、「何者であろうとするか」を定義しているからです。 でも、覚えておく必要があることは、物事には「善悪」などなく、ただ物事があるだけです。 「正しい」か「正しくない」かの討論は、「1+1=2」なのか「1+1=3」なのかに非常に似ていると思います。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます。でも私は自分自身を定義することが他人を巻き込むことを正当化するとは思えません。例えば自分は他者を理由なく殺していいと思っている人に、あなたは自分の家族を殺されたら「人殺しで例えるならば、正しい行為とも、間違った行為だとも言うことはできません。ただあるのは「人殺し」という行為があるだけです。」と思って納得できますか。私はできません。

回答No.9

英雄視や正当化をするのは誰なのでしょうか? この答えを考えれば、この問題は解決されると思います。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます。英雄視や正当化するのは、私たちの歴史家や宗教だと思います。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.8

私の友人が、昔、「この世に絶対的な正義はない。正義は時と場所によって決まる相対的なものだ」と主張し、私もそう考えています。 「勝てば官軍」「多数の正義」これが現在の正義ではないでしょうか。 自分の愛する人が殺されようとした時、或いはその人権を奪われようとした時、貴方はその人を守るために相手を殺さなければ救えないとしたら、貴方は殺す悪を避けるでしょうか、あえて犯すでしょうか。 私なら迷わず、あえて犯します。 でも、これは、その判断を平時に何度も繰り返し考えた上での結論です。 今の日本では、3人殺したら死刑。2人なら無期と言う納得しがたい基準があるそうです。 これらも含めて、常日頃からよくよく考える必要があると思います。 断言的な答は出せないです。すいません。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます。やはり相対的としかいえませんよね。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.7

世の中の評価は常に流動的ですよね。 仏教的な考えでは「怒」「欲」の感情を持った時点で悪行為です。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます。仏教は哲学的で現実的なところが、ユニークな宗教ですね。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.6

「正義は勝つ」のではなく、「勝ったものが正義と呼ばれる」のが妥当なところでしょうね。 そして、自らの正義を唱えるということ(自己正当化)は即ち戦う前から勝ち名乗りを上げることに他なりません。 正義=勝ち名乗り、だとしたら、それを唱えるのは自由ですが、本当に勝っているのか、つまり正義が本物であるかどうかは実証されないのです。 人殺しの言い分も大王の正義も、言うだけならタダですからね。言ったもん勝ちといったところだと思います。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございました。では相対的なものなのですね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

「戦争と正義、人殺しと正義」 まず絶対正義はあるかといえば、あります。 これには条件が付随しているからです。この条件は誰も死なないという条件ですね。戦争であれ殺人であれ、実は誰も死んでいないので絶対正義が存在するということですね。つまり、この3次元世界は舞台のようなもので舞台で殺されても楽屋にもどればみんなご苦労さんといってお茶を飲んでいるという世界が本当の世界ということですね。 本当の世界には地上に生きているものの何倍もの人、いや人霊が生活していて当然、その世界の大王もいるわけですね。一方この地上世界は、舞台劇ですからシナリオライターも指揮者もいるのは当然でしょう。 役柄どおりに演じればほめられるし、役を放棄したり(自殺)シナリオにないのに他の役者を殺したりするとしかられるのは当然ですね。例えば、舞台の主役を殺したりするとえらいことおこられるのは当たり前ですね。 舞台劇そのものに中止命令が出ることもあるでしょう。舞台がなっとらんといってすべて壊すこともありますね。そういう解体屋もいるわけです。アレキサンダーやナポレオンはその解体屋のボスですね。破壊の神といわれていますがそういう神もいるのですね。当然、大きな解体屋が出るときは大王の許可の下ですね。個々の問題は、数がおおいから閻魔が裁き戦争など大きな問題は大王が裁くということですね。個人的な殺人はたいてい閻魔にしかられるということですね。おおきな集合としては大王が裁くのでしょう。ただ殺されたがわにも「あのやろう」という心が残ってる場合がありますから、例えば原爆を落とした機長や乗員は国がどのように英雄化しようとも舞台裏では厳しいものがあると思いますね。また舞台の主役殺しも厳しいお裁きがあるね。これは他国の総理を暗殺して自国で英雄化しようともあの世では英雄にはならないということですね。 イエスや竜馬のように殺されたものが英雄であったり、ナポレオンのように殺したものが英雄であったり舞台裏は不思議な世界ですね。大王の絶対正義は簡単そうで難しいということですね。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます。誰も本当は死なないとありますが、あなたはでは死んで生き返った経験があるのでしょうか。死後の世界の存在は肯定も否定もできません。ここでは今の世界で起きていることを問題にしているので、その手の話を持ち出すのは止めにしましょう。

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.4

> この人殺しの理屈はそれなりに通っています。  通ってませんよ。  人数で決まる話ではないからです。  たとえば毛沢東やスターリンは何十万人も自国民を虐殺していますが、当時はともかく現代において、あれを英雄とする者は、共産主義者のごく一部にしかいません。  そもそも人を殺すことが問題になるのは、No.3 にもあるように、共同体の内部で殺し合いが生じたら共同体の秩序が保てなくなり崩壊するからです。それだけに過ぎません。  なお、共同体の外部にまでそのセンスを持ち出せば、いずれ外部からの殺戮を受けてその共同体は消滅します。自分は殺さず、相手は自分を殺す可能性を持っているわけですから、確率的に十分な時間がたてば、「自分」のサイドは皆殺しにされるからです。  他方、共同体の外部の人間を殺すことの是非は、ケースバイケースで変動します。殺すべきこともあるでしょうし、殺さないほうが得なこともあるでしょう。  ちなみに、正義が相対的なものであるのは、常識以前の前提です。  毛沢東やスターリン、最近で言えば金日成やにとっては、自分の権力を維持することが輝かしい正義でしたし、金正日にとっては今もそうでしょう。他の人からみたらどうかはさておいて。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます。やはり集団や時代による相対的なものなのですね。

回答No.2

>それとも正義は個人の置かれた立場により異なる相対的なものなのでしょうか。 私はそうだと思っています。他人の犠牲無しに私の幸福はないと思っています。悲しい事だが自分にはどうする事も出来ない現実だと思っています。 殺人では無いですが例えば私が豊かな暮らしが出来るのはどうしてでしょうか?それは世界中に貧しい人々があるからだと思います。 北米が豊かなのは貧しい南米があるから。豊かな欧州があるのは貧しいアフリカのおかげだと思います。 だからと言って私には何もできません。それが現実です。 それでも自分なりの正義を見出して生きていくしかないと思います。 その正義が他者から見れば正しいとは言えなくても…

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございました。やはり相対的なのですね。

  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.1

こんにちは。 私は理由付けは後から来るものだと思います。 大量虐殺・殺人では、結局勝った者の言い分が正義になります。 大体、思想的、宗教的背景が異なる世界において、絶対的正義を論ずるのは無理でしょう。

noname#70507
質問者

お礼

解答ありがとうございます、つまり普遍的な正義はないということですね。 宗教を信じる人間はなぜかどうしても自分の正義が永久不変だと思いたがる傾向があるようですが、それは妄想だと言い切っていいんでしょうか?

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