• ベストアンサー

「正解(答え)」を提示しても、人はそこへ至れないのではないか?

連続投稿失礼します; (どうも、先の問題が事故解決(?)してしまったようなので、これを機にもう一つの質問をさせて頂きます) 私は「正解(答え)」(もしくは人生の目的とか)などが見つかれば、全てが解決するのかと考えていましたが、どうもそうではないようです。 というのは、例えばの話 ゴールに自分の求めてるもの(あるいは、金銀財宝、美女美男子100人なんでもいいです…)があったとします。 しかし、そこに至る道に針の山が敷き詰められてたらどうでしょう。 もちろん、何人か(超人?)は進むかもしれません。 しかし、大抵は踏み止まりませんか?(私もたぶん踏み止まると思います;)。 痛くないとか無理です。そんなのはラリってるとしか思えません…。 しかも、問題なのはうかうかしてると後ろから首狩族がやって来て私の首を狩ってきます。 まだ、ゴールに金銀財宝、美女美男子100人ならいいでしょう…。 これが、ゴールに居るのが死神とかだったら激しく萎えます…。 間違いなく落胆して絶望すると思います。 まだ、死神とか明確に分かっているならマシでしょう。 これがろうそく1本渡されて、暗い闇の中手探りでゴールへ進めとか言われたら、後ろから進んでくる首狩族のたいまつ見たら間違いなく私は発狂すると思います。 と、へ理屈をごねてみましたが、結局、いかなる明確な答え「正解」を持ってしても、そこへ至る道が困難であるとするならば、進むのは常人にできる事ではないのではないでしょうか? (むろん、その過程を研究(探求)するのが、哲学なのかもしれませんが)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

「つまり、【「正解」と「解決」は一見同じように思えるが、実は全く別のものである】ということですよね。」 その通りです。 諸葛孔明が泣いて馬謖を斬ったのは孫子の兵法によりますが、馬謖も優秀であったから孫子の兵法にのっとって山の上に陣を張ったのですね。諸葛孔明は動くなといい、馬謖は地形を有利と見て山に登った。どちらも孫子の兵法では「正解」なのですね。しかし馬謖は敗戦し孔明は孫子の兵法にのっとって馬謖を斬ることになるわけです。つまり「正解」はその場の「解決」にはならない場合が多いということですね。これは孫子の兵法という「正解」を知っていてもそれを自由自在に使う経験がないと役には立たないということのよい例でしょう。 「孫子の兵法」を「信じて」よく学ぶ、それを実践し経験をつむ、それではじめて「孫子の兵法」の味、正解の味がわかるということでしょう。「正解」に至る道には「師を信じる」ことは必要条件であるが実践して、いろいろなものを「解決」して見ない限り「正解」は「正解」になりえないということですね。 哲学もしかりですね。

cat_v
質問者

お礼

>つまり「正解」はその場の「解決」にはならない場合が多いということですね ああ…この世は何と過酷なものか…。 正解(答え)を知っていても(理解している、もしくは例え理解していたとしても…)、それを実行できるとは限らないとは…。 まるでハンマーで頭を叩かれたようです…;; 何と人生は過酷なのでしょう…(涙) …いえ、今はただこれが分かっただけでも感謝しましょう…。 ありがとう御座いますm(_ _)m

その他の回答 (5)

回答No.5

人生に目的はないです。 目的をもって人生を始めたわけではないので。 仏教的には、業と煩悩によって輪廻の囚人になった者に自由はない、と説きます。 人生も感情も、自分の意思によってではなく自然に発生します。 闇の中で発狂している、というのは既にその通りで、 凡夫は無明の闇に閉ざされ顛倒した知見をもっています。 輪廻は苦海に他なりません。

cat_v
質問者

お礼

>人生に目的はないです。 >目的をもって人生を始めたわけではないので そうですね。 私もそう思います。 しかし、人間は何故か目的を作らないと耐えられないんですよね。 >業・苦難・輪廻 私は仏教徒でないのですが(というか無心論者)、思わず合掌…。 やはり苦難の道ですか…; これが修行ですか…; 人生はまさに苦行ですな…; ありがとう御座います(合掌)

cat_v
質問者

補足

【補足します】 「正解」と「解決」は別である。 では、問題に対する回答が「正解」であるとするならば、それを実際に解く「解決」に至るまでのもの、「過程」といいましょうか何と言いましょうか、これ理解し実行する為には何が必要なのでしょうか? 「信じる事(信条?)」でしょうか? 「希望」でしょうか?(この場合の希望とはどういう状態を指すのでしょうか?) それとも「信仰」でしょうか?(宗教はこれかもしれませんが、では哲学は「関心」?)

回答No.4

問題とは、現実と理想のギャップそのものをさして問題と言います。 問題の正解は、理想への正しい到達であって、正解への手段や方法を知っていることではありません。 現実が理想と一致し、ギャップが無くなると、問題が解けた、解消した、解決した・・となります。 一方、絶望、諦めも理想を放棄することで現実とのギャップを排除し、もって、問題の解消とする方法なのです。それでもなおその理想を胸に抱いているのなら、絶望、諦めとは言えません。現実の変化によりギャップが広がったにすぎないのです。 なお、ここでの現実とは、自己が認識している主観的現実であり、客観的なそれではありません。

cat_v
質問者

お礼

何と言うか、「哲学者」だけではダメなのですね。 それを人々に説き、そして相手の苦しみを理解し、実際にやってみせる…。 山本五十六の有名な言葉を思い出します。 >一方、絶望、諦めも理想を放棄することで現実とのギャップを排除し、もって、問題の解消とする方法 なるほど。 絶望も実は一手段という事ですね。 大変参考になりました。 ありがとう御座います。

cat_v
質問者

補足

つまり、【「正解」と「解決」は一見同じように思えるが、実は全く別のものである】ということですよね。 私は今まで「正解」さえ手に入れば、おのずと問題は解決すると思っていました。 全然逆でした…。 「過程」も理解しなければ(実際に解かなければならない)のです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

「いかなる明確な答え「正解」を持ってしても、そこへ至る道が困難であるとするならば、進むのは常人にできる事ではないのではないでしょうか?」 そうですね。「正解」は簡単なものの中にあると言われていますがそれに気づくものがいかに少ないかということを見・知るにつけ、難しいことなのでしょうね。仏教では「正解=悟り」に至るためには「信解脱」の法門をくぐらないと「正解=悟り」に至ることはありません。「信解脱」というのは「私は仏陀の教えを信じます。」ということなのですね。理解できようができまいがまず仏の教えはすべて正しいと信じないと先に進むことはできないということなのですね。しかしほとんどが理解できないだから信じられないということだけで脱落してしまいます。 つまり人は、何かを信じそれを心情、あるいは目標、知識としているわけですがそれが正しいかどうかを疑わずに、それを基礎として「正解」を求めるわけです。その目でもって正解を得ることは難しいということですね。各人の目で得た正解は無数にあるが質問者の正解にはなりえないということですね。過去も現在も哲学者(あるいは宗教家)はたくさんおります、いつの時代でも「正解」は提示されています。あまりにも「誤正解」が多いので「正解」は宝くじに当たるようなものですが、良き人にめぐり合えばそれを縁として「正解」に至ることは可能ですね。

cat_v
質問者

お礼

>「正解」は簡単なものの中にあると言われていますがそれに気づくものがいかに少ないか >仏教では「正解=悟り」に至るためには「信解脱」の法門をくぐらないと「正解=悟り」に至ることはありません なるほど。 「悟り」「信じる」。 確かに仰るとおりかもしません…。 結局は「気持ちの」の問題…これを何と呼べばいいのでしょう…信条というものなのでしょうか。 ありがとう御座います。 大変参考になりました。

cat_v
質問者

補足

何と言いますか、私もうまく説明できないのですが、「解決策を発見する事」と「実際に解決する事」はまた別問題ではないか? つまり、問題を提示された時、答え(「法則」)を先に知ってる・気がついてしまうという事と、問題を解く事・過程を理解している事は、そもそも別のものではないか?といような気がするのです。

noname#80116
noname#80116
回答No.2

《「正解(答え)」(もしくは人生の目的とか)などが見つかれば、全てが解決するのかと》言えば そうとは限らないと思います。  と同時に これを妨げるのが 《針の山》であるか《首狩族》なのかあるいは《死神》かを見分けようとするでしょうし おそらく見届けるまでは進むでしょう。  《針の山》であれば しかるべき手段を考案し 解決へと進むでしょう。  《首狩族》であったら やはりそれ相応に対処します。自衛ということも然ることながら 相手は人間ですから 百年あるいは千年かかっても 相手が ふつうの人間になるまで 説得をつづけます。  《死神》である場合 これは 人それぞれだと考えます。これが自分の一生の仕事だと思ったなら おそらく 突き進むと思います。もう少し時を俟つというのであれば そうするでしょう。  金銀財宝が待っているというくらいでは 死神との対決をしないと思います。意中の美女(一人でいいですが)であれば ジェームズ・ボンドになります。 

cat_v
質問者

お礼

職場からの乱文、しつれい致します…; 「例え如何なる困難が来よううとも、私は前へ進む(現実を受け入れ、認識し、そして対抗策を練る)」という事で御座いましょうか? brageloneさんはとても勇敢な方のようですね。 ひょっとしたら超人になれるのかもしれません…。 人間(俗人)の私には賢人でさ無理かも知れません。 ありがとう御座います。 貴方に幸あることを祈っています。

  • takeao6
  • ベストアンサー率17% (35/203)
回答No.1

あなたのおっしゃっているのは正解ではなくて目標ではないですか? もしある人が野球選手になりたいとして、その人が運動神経が抜群に良ければ、正解。その人があまり良くなければ正解ではなく、至る道が困難である場合は単なる目標に過ぎないのではないのですか? 正解の定義が曖昧なような気がします。

cat_v
質問者

補足

>あなたのおっしゃっているのは正解ではなくて目標ではないですか? >正解の定義が曖昧なような気がします 目標というわけではなく、いえ、目標がその人にとって信ずるもの・正しいもの・あるいは行わなければならないもの…etc こういう場合、なんと表現していいのか分かりませんが、とにかく「正解」としか言えないのですが、そういう自分にとって絶対の確固たる存在・思想・概念を見つけた時、それで終わりなのか? いえ、過程あっての答え、答えが先に見つかるなどと思いきや、実際には「答え」が先に来る事はあると思います。 「理解してないのでは、それを体得してないのではその人にとって答えではいない」と、仰られるかもしれませんが、果たしてだそうなのか?

関連するQ&A