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助動詞 ought to
oughtを参考書で調べると、ought は to 不定詞を伴う助動詞と書いてあります。 それに対して、used to は、そんなことは書いてありません。これ、2語で1つの助動詞というような感じがします。 どうして、used の used も to 不定詞を伴う助動詞と書かないのですか? 何か違いがあるのでしょうか?
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No.5・6の taked4700 です。 No.7のGさんの >しかし、私がここで何回も言っているように、助動詞とはフィーリングをあらわしているものだ、と言う事が多くの人が気がつくようになると、それじゃ、is willing toもis used toもis going toもhad toもそして、ought to も助動詞じゃんか!!と言う事になったわけです。 のお言葉、多少、勘違いがあるように思えます。「is willing toもis used toもis going toもhad toもそして、ought to 」を同列に扱うなら、be anxious toを始め、hope to, plan to, promise to, try to などをすべて同列に扱わなければならなくなります。 ここには、やはり大きな違いがあり、動作化、または外部化のようなものが出来るかどうか、という点で異なるわけです。willing はある意味、ジェスチャーとして示せますが、will はそういきません。 フィーリングと言う言葉はある意味とてもあいまいで、その意味するところも広い傾向があります。助動詞と言う言葉の定義を「フィーリングを表すもの」としてしまうことも出来ると思いますが、そうすると、afraidとかanxiousなどの形容詞表現や、hope to, want to などの一般動詞表現も一種のフィーリングとしてとることが可能になってしまいます。 ですから、助動詞としては、「話者の心の態度」のような言葉で表現することが必要になるのだと思います。 心情表現と言いますか、動作を直接表現するのではなくて、一種抽象的な表現をすることは、いろいろあります。 大きく、それらは3グループに分かれ、 1.純粋な助動詞表現:I will go there. I can play tennis.など。 主語のそのときの判断と説明されますが、反対から言うと、それまでの状況とか現実の世界からの影響を引きずっていないという意味でもあります。それだけ、直接的に、主語と動詞を結ぶ働きがあるわけです。 2.be able/willing/going/anxious to ...などの表現:to が使われているのは、主語に対応する述語が動作そのものとは違うことを示すためです。次に、be を使うことで、主語の(心や現実の動作の)状態だということを意味しています。例えば、I am able to cut the bond. は、まず第一に「可能だ、能力がある」と言うことを示していて、「切る」と言う動作を主語がすぐにやるまたは実際にやると言う意味ではありません。これらの表現は、確かに、主語の状態をbe動詞で示しているという点で、話者の心の態度なのですが、形容詞で表される分、客観的な感覚になるわけです。 3.plan to, hope to などの表現:こちらは一般動詞の表現です。基本的に、その動作を行うことが出来ます。plan なら、計画表を作るとかです。ここでも、I plan to play tennis. のように、主語がplay tennisとは直接的につながっていません。 ともかく、2と3の表現は、to do の形で動作が示され、それだけ、その動作自体と主語とが直接的につながっていない感覚があるわけです。 最後に、Gさんのいつものご主張である、学校文法は実情に合っていないという点に、自分は全面的に賛成しています。
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- Ganbatteruyo
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Gです。 #8さん、そのとおりです。 舌足らずでした。 言葉足らず?<g> >助動詞とはフィーリングをあらわしているものだ、 は >助動詞とは主語と動詞との関係へのフィーリングをあらわしているものだ、 と言う事です。 いつもそう言っているのに今回はこういう風には出てこなかったですね。 二歩後の社会文法が足りなすぎる自己文法を持っているという証拠を公表してしまいました。 <g> 申し訳ない、間違ったことを断言しながら回答するのは無責任もいいところだと反省しています。 これじゃ、試験文学者さんの文法書に書かれている変な英文と同じになってしまいました。 ごめんなさい、そして、前向きのご指摘ありがとうございました。
- taked4700
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No.8の taked4700 です。 肝心な used to, ought to などを忘れていました。 これらは、1の純粋な助動詞グループと2の形容詞グループの中間に位置します。 すいませんでした。
- Ganbatteruyo
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Gです。 こんにちは!! 品詞分け、あるいは品詞用語そのものが試験文法の多き間問題点となるものなのです。 用語には定義と言うものがあります。 定義なしには用語は作れないし存在するべきものではないのです。 しかし、定義そのものに「落としし穴」があるとすると、それに気づかないとか気づいても「批判」することさえ昔は許されなかったのですね。 とにかく「覚えることが教養だ」と言う洗脳行為に負けていたわけです。 しかし、その時には実際の英語に触れる人はあまりいなくまたその矛盾を覆すだけの理解力もなかったのでしょう。 勇気がなかったとも言えるでしょうが。 しかし今では海外旅行も、海外出張・海外赴任、留学、そして、海外からの人たちもそれまで以上の数で日本に来ているのです。DVDは簡単に手に入り、昔の洋画のように映画館だけで観れるものではなくレンタルに一日中何回も診たければ見れる時代になったわけですね。 実際の英語に触れようと思ったら簡単に出来るのですね。 私のような「死ななかった特攻隊隊員」でなくても使われている英語表現などの触れることが出来るようになったわけです。 そうすると、だんだん試験文法の「使えないルール解釈」「矛盾した解釈」などを必然的に感じられてしまうようになってきたわけです。 そうすると、実際にはそういう使い方があるようですが間違いです、と「注意書き」が始まり、それではあまりにも一般的に使われすぎる、と言う批判があるのに気がつき、一部でそういう言い方を「します」と言う解説方法が取られて行ったわけですね。 自分たちが作った文法解釈を「正しいもの」とし続けたわけです。 それに伴い、英語が分かる人が本を書くようになり、ネイティブさえ日本語で批判的な本を書くようになり、日本人もインターネットの普及により、自分なりの文法解釈を公開できるようにもなってきたわけです。 そして、その「解釈の違い」がすでに「威厳ある先生の知識だけを鵜呑みする」姿勢に反論し始め、日本の英語社会に現れてきたわけです。 その著しい「変化」「混乱」あるいは「試験文法の崩壊」が始まったわけです。 on Mondayと言うような時や場所を示す表現が前置詞が省かれて表現されているのを無視できないようになると、Mondayは名詞ですが「副詞『的』」に使われることがあります、と言う逃げ口上が一般的になり、過去分詞の使い方に形容詞用法などと言う用法用語さえも作り上げてきたのですね。 この40年の日本における『品詞用語歴史』を誰か研究すれば(研究するほどのこともなく明らかなので収集すれば)この品詞用語、用法用語の追加が限りないほど出来たのがわかります。 xx用法と言う新しい名前だけでなくXX動詞なんていうのも増えていますね。 そして今回の助動詞です。 昔は一語の単語だけを示していました。 しかし、私がここで何回も言っているように、助動詞とはフィーリングをあらわしているものだ、と言う事が多くの人が気がつくようになると、それじゃ、is willing toもis used toもis going toもhad toもそして、ought to も助動詞じゃんか!!と言う事になったわけです。 助動詞と言う用語の定義がはっきりしていなかったわけです。 一語であればよかったわけですからこのような不定詞を持ってくるような表現は助動詞として認めることは出来なかったわけです。 これほど、形容詞句、副詞句と言うような表現をするように逃げることが出来たのなら助動詞句とすればよかったのです。 しかし、そこまでは頭が回らなかったのでしょう。 今に不定冠詞と言う表現もなくなるでしょう。 なぜなら、冠詞と言う用語を作ってしまった後に、同じ名詞が複数になると「aが消えて」しまうと言う事実から形容詞と「ひとつの」「ある」と言う意味の形容詞、でそのフィーリングを出せないときには当然ながら使わないから今で言う不定冠詞がつかなくなるのです。 stupid boyがstupidでなければ、当然ながらstupidと言う形容詞は消えるのです。 まったく同じことなのです。 では定冠詞はどうかと言うと同じ形容詞としてもいいはずですね。 命令文は動詞で始まる、と言うような定義も矛盾が出てきましたね。 Do itではなくYou do it.でも命令文だ、と言う事が広まってきているからです。 日本語は主語なくても分かるけど英語は主語がなくてはならない、と言う解説もおかしいと言うことが分かってきましたね。 そして、それらをすべて、文法的におかしな表現だ!といってきたのがなくても同士が文頭に来る表現を認めるようになってきたわけです。 >どうして、? 何か違いがあるのでしょうか? 文法と言う以前一貫した解釈(間違っていても)が崩壊し始めてしまったわけです。 よって、日本人は、と言えばこの後来る形容詞は一般的に間違ってはいない日本人評価になってきたのが今では、「一概には言えない」状況になったのと同じなのです。 つまり、文法が断言できるだけの定義がないために、used の used も to 不定詞を伴う助動詞と言う人もいるし言わない人もいるし、それを認めない人もいると言うことになってしまってきたわけです。 よって、結果として、ある表現の文法的説明なり解釈は人によって違ってきてしまうと言うことにもなるわけです。 私の文法解釈と試験文法解釈との違いがはっきりどちらが間違っているのかが分かるようになったと言うことなのです。 ですから、今までの解釈とはまったく違うI am going to take a bath のam going toはtakeと言う動詞を修飾する副詞句だといってもおかしくはないのです。 試験文法学者が認めたくないだけなのですね。 I am used to study hard.と言う文章のam used toは受動態の副詞句用法だと誰かがいってもおかしくな時代になったわけです。 英語習得しようとしてきた日本人と言う哺乳類で一番知能の高い人類を試験文法学者は「甘く見てきた」と言うことであり、とばっちりを受けているわけです、悪い言い方をすれば。 もう少しいい言い方をすれば「まねして作り上げた日本の文法の土台となる定義設定に手抜きがあった」と言う事なのです。 これも悪い言い方か。 だから品詞分けにかじりついていると大きな壁にぶつかり英語表現力とぶつかり合ってしまい向上は出来なくなるよと私は言ってきたわけです。 そして、文法説明に品詞分けしただけの「文法説明」はまったく意味と価値がないものであることが万民に伝わってきているわけですね。 と言う事で、これらの表現方法をどういう品詞分けをしようとまったく意味のないことであることを知ってもらいたいのです。 試験文法がなくなり文法の試験は文法だけを使って出来るようになるのはそれほど遠いことではなくなったのです。 その一つとして、品詞分けをさせるような試験問題はもうすでになくなってきたそうですね。 文法に対しての批判ではなくただ単に目覚まし時計になって起きる時間なのでけたたましい音を出しているだけのGの回答でした。 <g> まだ眠っていたい試験文法学者さんはいつまでも布団を頭にかぶせて仕事にでて人間らしいことをしていないだけなのです。 被害者は学生なのです。 犠牲者を作り続けてきているは??? 参考になりましたでしょうか。 理解しにくいところがあったり追加質問がありましたら締め切る前にまた書いてくださいね。
- taked4700
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No.5です。 will - be going to も同じです。
- taked4700
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結局、助動詞と言う分類そのものが、はっきり割り切れたものではないからです。 He is playing tennis. の is は、助動詞になると多くの辞書は書いています。 He is liked by everyone. の is も同様です。 助動詞と言うのは、modal と言って、話者の心の態度・物事への見方を示すといわれます。「出来る・したい・しなければいけない・でもいい・かもしれない」のように、動詞の意味そのものではないなどの理由で、進行形や受身のときのbe動詞も助動詞扱いすることになっているようです。 しかし、その代わり、いわゆるよく知られた原則、助動詞+動詞の原形 という形はここでは成り立ちません。 ought to do は、本来の意味での助動詞、つまり、話者の気持ちを純粋に表すものとは異なります。ought to は、have to に似ていて、外部からの影響の結果、そういう判断をすると言う性格があります。 used to do は、would と意味用法が似ているのですが、used が過去形であり受身を表す過去分詞の形でもあることから、やはり外部からの働きかけというか、外形的な規則性のようなものが強調されます。 整理すると can - be able to, must - have to, would - used to, should - ought to, の関係にあるわけです。それぞれ、1語で示される左側の語が、純粋に話者の心の態度を示すものであり、本来の意味での助動詞(に近いもの)です。 右側のものは、一般動詞に近く、何らかの客観性を示したりとか外部からの影響を受けていることとかを表すものです。 そして、以上の4つの中で、外部からの影響の度合いが最も少なくなってしまってい、純粋な助動詞の意味、つまり、話者の心の態度に近い意味になっているのが ought to です。 その結果、辞書などに、ought to do の形で使う助動詞と記されるようになっているわけです。
- trgovec
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・否定、疑問に do, does, did を用いない。 ・三人称現在の s を伴わない。 ・原形動詞を伴う。 この条件に合うものを助動詞と定義するようです。 will とか can とかは Do you can とか I do not will とか言いませんよね。しかし used to はどちらがよく使われるかとかはありますが I did not use to / I used not to Did he use to / Used he to (さらに I did not used to / Did he used to もあるそうです) to 不定詞を伴い一般動詞的な使い方と助動詞的な使い方が混在しているのではっきり助動詞と決めかねているのではないでしょうか。また、現在形は使われないもの did not use のように原形が存在していることも助動詞にできない理由です。助動詞に不定詞や ing が存在しないのは原形がないからです。 一方 ought は不定詞を伴う点は条件に合いませんが I ought not to Ought he to のようにするので一般動詞には入れられず、助動詞に分類しているのでしょう(否定文では You ought not go. のような言い方もあるようです。学校文法では認められていませんが)。 実用上は一般動詞でも助動詞でもどっちでもいいのですが、無理に分類しようとしたら本当に無理が出たとしか言いようがありません。 didn't ought to は確かに使われてはいますがまだ正用法とは認められていないようです。 ついでに use は (1)使う (2)慣らす (3)習慣的に行う の3つの意味を持っていたものが(2)は受身(形容詞化した過去分詞)、(3)は過去形だけが生き残ったものです。
- wind-sky-wind
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ought はもともと owe の過去形でした。-t という発音や,thought などの過去形と比べてみてもわかるでしょう。 そのせいか,didn't ought to(didn't ough to ではありません),hadn't ought to do のような否定形もありますが,非標準的です。 一般的には,ought not to であり,くだけた場面では ought not do となることもあります。 一方,used to の方は,use の過去形から来ており,そのままの形で残っています。 didn't used to または didn't use to が一般的な否定形です。 このように,今では,ought は一般動詞 owe とは無関係に感じられ,疑問文・否定文の形からも助動詞として,例外的に to 不定詞をとり, used は一般動詞 use と関係が残っており,疑問文・否定文の形からも 一般動詞+ to 不定詞と扱われているのだと思います。 ただ,コウビルド英英辞典では ought to,used to ともに phrasal modal verb(句助動詞)と扱われており,区別する意味はないのかもしれません。
- memalulun
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be used to~ ~することに慣れている、です。 そういった受動態として、意味の違う熟語になるからでしょう。
- tjhiroko
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used to は否定文や疑問文では普通はYou didn't use to... / Did you use to...? となりますので、助動詞とは言えませんね。 なお、イギリスではYou usedn't to... / Used you to...? という言い方もあるそうですが、まれか古風だそうです。
お礼
回答、ありがとうございます。 しかし、didn't ough to もかなりある、というような説明がありました。